対女悪魔 後編
「……っ?! 悲鳴…?」
誰の声だ? 誰の声だ? 思い出せ!
「天ぁ、どうしたの?」
姉の声に視線を落とした時、はやる心を抑えつけようとする何かの存在を確かに感じ取った。
自分たちの周りでは、にぎやかで穏やかな街のざわめきが続いている。
「今、誰かの悲鳴が」
「悲鳴? そんなの聞こえなかったよ?」
「いや、僕には聞こえた。聞こえたんだ、姉さん」
少し困った顔をする姉。
その後ろには変わらない街の日常。
「疲れているのよ、天。ご飯食べたらゆっくり休もう。悲鳴なんてそんな物騒なもの、聞こえなかったよ?」
手を引く姉の変わらない笑顔に、天は柔らかく笑い返した。
「そう、……聞こえなかったんだ、姉さん」
笑いながら、天は大剣をその手に握った。
「天?」
こんな街中で剣を抜く、天に人々の視線が集中する。
「覚えてるでしょう? 姉さん。僕たちの故郷、この街」
少しうつむいた自分の顔を覗き込もうとする姉の、自分と同じ色をした髪が視界に入り、ゆっくりと顔を上げて、天はとても寂しげに微笑んだ。
「え? 何、変なこと言って」
「覚えているでしょう? この街は、あの時の、北東の大破壊で地図から消えた」
確信を持ってそう口にする天の言葉に、途端に、姉の背にある街の風景に霞がかかる。
「そう、……姉さんと離れ離れになった、あの大破壊で」
「天…!」
「姉さんは、僕よりもお節介で正義感が強くて世話焼きで、止めても一人で危ないところに飛び込んでいく。……僕の言葉を頭ごなしに否定したこともない。まして、誰かの悲鳴を聞いたなんて言ったら、真っ先に突っ走るでしょ?」
握り締めた大剣がギシリと音を立てた。
「僕は行くよ……。夢でも嘘でも、姉さんの顔をもう一度よく、思い出せて嬉しかった」
音もなく、大剣が一閃する。
龍の刃は、真っ二つに姉を切り裂いた。
……その姿が、もやのように揺らめいて消える。
込み上げてきそうだった涙を堪え、強く強く、歯を食いしばった。
――――戦わなきゃ。
都合のいい夢なんて、見ていてはいけない。
行かなきゃ、早く。
早く。
*
「……っ悲鳴?」
今のは誰の声? 思い出せないのは何故?
頭の奥がひどくぼんやりとしている。
カルミラは辺りを見回して、頭を振って、再び朔に視線を落とした。
「朔、悲鳴が……」
「……そんなの、どうだっていい」
傷ついたままの朔は小さくそう呟いて、自分に唇を寄せた。
目の前には、最愛の人がいる。
そう、そんなのどうだっていい、どうだっていい。
他の何もいらない。
他の何も知らない。
このまま朔さえいれば、それでいい、それでいい……。
カルミラは静かに、朔の口付けを手のひらでかわした。
……そんな台詞を、愛したこの男が言うわけがない。
そう在ればいいと、何度望んだだろう。
英雄の名を捨てて、自分が背負う色々な肩書をすべて捨てて、何も知らないと投げ出して、二人だけで生きていけたらどれだけ幸せかと。
そう語り合ったこともある。
だけど、結局、朔だけでなく、自分もまた、それを選べなかった。
うつむいたカルミラの口元には、自分を嘲う笑みが浮かんでいる。
何も知らない?
どうだっていい?
そんなこと言って、……朔に顔向けできるわけがない。
「ごめん、…ごめんね?」
「カルミラ?」
「だってとっても似てるんですもの。とっても気が引けるけど」
きりきりきりきり、人差し指で回転させながら、カルミラは双銃をホルダーから抜いた。
「私、本物の朔しか、欲しくないのよ」
そう言ってカルミラは、とても情けない笑顔を浮かべた。
双銃の銃口は朔の眉間と咽喉にヒタリとあてがわれ、間髪入れず、容赦なく、弾丸は朔を貫いた。
霞のように、朔の幻が消えていく。
カルミラは、勝手に流れてきた一筋の涙を乱暴に手の甲で拭った。
――――さぁ、行こう。
こんなぬるま湯のような夢の中にはいられない。
*
悲鳴が聞こえた。
空耳じゃなく、確かに。
だが、腕の中の女は変わらず、微笑んだまま、そこにいた。
「海」
「…うん?」
腕の中から見上げてくる、その柔らかい眼差しに目を閉じて微笑む。
そして思った。
あぁ、夢を、都合のいい夢を見ているんだ、と。
ぐっと力任せに掴んだ首は、やはり細かった。
「ハ、デス…ッ」
「俺もどうかしている。一目で、……分かるはずだ」
愛した人間の女は、己の幸福よりも先に他人の心配をしていた。
こんな風に、彼女が自分だけしか見ないようになればいいとどれだけ考えただろう。
そうであったらあの時、……失いはしなかったのに。
だが、きっと彼女が、自分しか見ないような女だったのなら、……愛しはしなかっただろう。
「消え失せろ、愚かな幻よ」
力を込めた手は簡単に、ぐしゃりと、女の咽喉を潰した。
愛した女の幻は、何の悲鳴も上げずに、ただ霞のように消えていく。
――――行かなくては。
本物の彼女に会うために。
そのためには誰一人、欠かしてはいけないのだろう?
「やれやれ」
一つ小さなため息を吐いてから、ハデスは真っ白になった世界を睨みつけた。
*
一斉に蛇たちが口を離す。
どさりと力なく、ルカは地に伏した。
そして、未だ深くこの神槍の戦士の肩を貫いていた己の爪を、アスタロテは一気に、容赦なく、無慈悲に引き抜いた。
「…………っ!!!!」
激痛に、意識を手放してしまいそうになる。
叫びを上げることすら、もうできない様子のルカを、アスタロテは満足気に見下ろした。
何千もの蛇の噛み口から、肩の傷から、見る間に毒がルカの細身を蝕んでいく。
「ふふふふっ、いい様ね」
アスタロテはルカの背にある、束ねられた黒髪を鷲掴み、乱暴に引き上げた。
突っ伏していた地面から、顎が浮く。
呻くこともなく、唇が動くこともない。
だが、まだ確かに、ルカには意識がある。
「よくも散々、私の髪を千切ってくれたわね!」
アスタロテはルカの背に足を置くと、ゆっくりと踏みつけた。
ぎりぎりと背骨を折られそうな圧迫。
実際、骨が軋むような痛みを味わう。
「お返しをしてあげる。貴女の髪は私が千切ってあげるわ」
アスタロテは、ルカの瑞々しく美しい黒髪を強く握り締め、にやりと笑った。
ザクン…ッ
鋭い爪が、襟足から束ねられたルカの髪を切り取る。反動でまた、ルカの顔は地面に逆戻りし、顎と頬を強く地面に打ち付けた。
「あははははははははははははっ!」
ルカの髪の束を片手に、大笑いしながらアスタロテは上機嫌に夜空を振り仰いだ。
「…………………ょ」
……今にも消え入りそうな声が、アスタロテの耳に届いた。
「なぁに? 命乞いかしら?」
勝ち誇った笑みを浮かべ、ルカの短くなった髪を引き抜かんとするような強さで掴み、小さな頭を持ち上げる。
もう完全に力の入っていない声で、ルカは微かに、確かに何かを呟き続けていた。
「……………ぃ、……ず……る」
「聞こえないわ? もっと大きな声で言いなさい?」
負け犬の遠吠えでも聞いてあげなくはないわ、とアスタロテは寛大な笑顔を浮かべた。
毒はほぼ全身に回り、四肢に感覚はない。
反撃の力がなくとも、決してルカの手から神槍ロンギヌスは手放されていなかった。
……自分がやれることは、後一つでいい。
最後の力で手首を返すと、ロンギヌスの柄の先、石づきが確かに、地面を打った。
「あら? まだ反撃する気?」
そう問いかけておいて、ルカの身体がもうそれ以上動かないことを分かっていると言わんばかりにアスタロテは掴み持っていたルカの頭を離した。
ドシャリと、屍にも似た小さな身体が地に落ちる。
ふふふ、と笑い声を零しながら、アスタロテは先ほど切り取ったルカの瑞々しい髪の束を持ったまま、立ち上がった。
だが、再度地に伏したルカの口元には、……笑みがあった。
「……解放せよ」
ただそれだけ、いやにはっきりとしたルカの一言に、アスタロテはただ驚愕した。
音を立てて、四方に、青い炎が立つ。
「な、に…っ?!」
それが彼女の起こした浄化の炎だと気づいた瞬間、アスタロテの顔から笑みは消え去っていた。
「貴様……っ!!」
再び、凶悪なまでの憎しみに表情を変えて、アスタロテはルカの首にその爪を振り下ろそうとした。
だが、その手には、……まだルカの髪の束が握られている。
そこでやっと、アスタロテは気づいた。
何故、まだこれを持っているのか、ということに。
ただ見せしめに切り落とした髪など、さっさと投げ捨ててしまうつもりだった。
――――それなのに。
爪が首に届く前に、ルカの髪は、正しくはそこに巻かれた護符が、燃え上がった。
「ぎゃああああああああっ!!!!」
真っ青な炎が吹き上がる。
炎は見る間にアスタロテの腕を、蛇の髪を燃え上がらせた。
「我が、な、の、下に、浄、化す……っ!!」
五つの炎は渦を巻き、部屋を造るように、天井を形成するように、正方形に周辺を覆い包み込み、完全なる清浄の場に作り変えた。
ありとあらゆる負の力が無効化される。
夜の瘴気も。
アスタロテの爪から零れ出す毒も。
三人を捕らえていた幻を作り出していた魔気までも。
彼らの意志が悪夢に打ち勝ったのと、魔気が祓われたのは同時だったかもしれない。
――――ルカァッ!!!」
意識を取り戻し、動きを取り戻したばかりの身体に鞭打って立ち上がる、カルミラと天の叫びが重なる。
清めの炎にほぼ半身を焼かれたアスタロテは、完全に夢の中に取り込まれたはずの人間が、瀕死の仲間の名を叫んで正気を取り戻した様を、憎々しげに睨みつけた。
そして、その原因を作り出したであろう、足元に倒れた神槍の戦士に、燃えるような怒りの眼差しを向ける。
琥珀色の蛇の瞳を見上げた、黒曜石の瞳。
ルカは女悪魔を嘲るように、クッと口元を歪めると、完全に頭を垂れた。
「天くん!! ルカをお願い!!」
弾丸は再び、雨のようにアスタロテに注がれる。
標的を、背後に倒れるルカに定め、鬼の形相で突撃してくるアスタロテを睨みつけ、カルミラは強く唇を噛み締めた。
「大丈夫か?! ルカ!!」
天が地に突っ伏したルカをその腕に抱くと、カルミラは双銃を乱射したまま、真っ直ぐに女悪魔へと向かっていった。
抱き起したルカの体はぐったりとして、一片の力さえ入っていない。
貫かれた左肩。そこからく溢れる血は完全に毒に犯されており、あっという間に、ルカを抱いた天の服を染めるほど、止めどなく流れ出している。
ルカにはもう、返事を返す余力など有りはしなかった。
白かった肌は既に土気色を帯びている。どう見ても、毒が回り過ぎていた。
「くそ! 間に合ってくれ」
ハデスがカルミラの援護に入ってくれているのが分かる。
だから集中できる。
……祈るような気持ちで、両手に力を集めた。
金大師に貰った龍の籠手。
それは、ただの防具だけとしてではなく、ある能力をプラスしてくれた。
その一つ目が、元からある、自らの能力の強化。
「浄化せよ、昇華せよ」
空中で大きく円を描く。
その天の手には、治療とは違う、体内浄化の青い光。
いつもとは比べ物にならないほど強い力を宿す淡い光、それを灯す手をルカの心臓の真上に置いた。
「ごふ……っ」
体内が清浄に還ると、ルカの口から血と一緒に呼吸らしい喘ぎが零れ落ちた。
強張っていた天の顔に、安堵の色が灯る。
そこでようやく、天はルカを地面に横たわらせた。
体内にあった毒は、まるで白い煙に変わったかのように肌から立ち上ってくる。
体内浄化を止めないまま、天は右手に治療を作り出した。
いくら回復術の初歩中の初歩である治療といえど、二つの違う術を同時に行う、などという高等技術がそうそう簡単にできるわけがない。
それを可能にしてしまうほどの力を、今はこの籠手が補ってくれる。
今は心底、この籠手をくれた金に礼を言うだけだ。
どうやらルカの肩の傷は貫かれただけだった。
抉られていたら回復不可能だったかもしれないが、これなら。
血に染まった細い肩に手を添える。
じわじわと傷が塞がり、回復を始めていく。
「そ、ら、殿」
幾分顔色もまともになってきたルカが、ゆっくりと目を開けた。
「ルカ! よかった……、まだ、動いちゃ駄目だ」
どうにか開いた目に、心底ほっとしたといわんばかりの、天の明るい表情が飛び込んでくる。
体内に感じていた熱さや、吐き気、苦しみなんかが急激に引いていくのが分かる。痛みしかなかった左肩、全く動かなかった指先、失ったはずの感覚が徐々に戻ってくる。
「よし、解毒は終わった! 後は傷を」
体内浄化を終えた左手もまた治療へ回そうとした、その時、
「天くん!!」
「天っ、殿!」
カルミラの声に、ルカの視線に、背後の敵意に、天はルカを庇いながら振り返った。
銃撃を、猛攻を、掻い潜ってここまで来たアスタロテの執念とも呼べる行動。
アスタロテは、あの赤い光弾を手に、けたたましい怒声を上げながら二人に襲い掛かった。
……今の精神力じゃ、一度しか持たない!
赤い光が、ルカの前に立ちふさがる天に向かって、振り落とされる。
「ぐぅ…っ!!」
天はそれを左腕一本で受け止めた。
ヂリヂリヂリヂリッ
籠手と光弾の間に、細かな火花が散る。
「っ?!」
薄い幕のような光を一枚挟んですぐそこに、怒り狂って吠えるアスタロテの顔があった。
二つ目の籠手の能力。
自分の術力を盾とする、敵攻撃の完全無効化。
「ぐぅあああああっ!!」
バチィンッ!!!
赤い光は籠手と手の間でせめぎあった後、千切れ飛んだ。そこに間髪入れず、真横からハデスの回し蹴りが炸裂する。
容赦なく、アスタロテは二人の目の前から吹き飛んで、削るように乾いた地面を滑って倒れる。
アスタロテと二人との間には、再び距離が出来た。
「さっさとその女を治せ」
振り向きもせずにその言葉だけを残して、ハデスはアスタロテの追撃に入る。
「はい!」
素直に、ハデスに応える力強い声を、ルカは再び抱き締められた、天のたくましい腕の中で聞いていた。
銃撃が女悪魔にとって針で刺したほどのダメージしか与えられなくとも、カルミラは引き金を引き続けた。
アスタロテは既に、片腕と片足を無くしている。
天の大剣でも貫けなかった皮膚。
ハデスの拳でも決定的な一撃は与えられない。
それをやってのけたのはルカのロンギヌス、そうとしか考えられない。
ルカが決死で張った浄化結界によって、アスタロテはもうここから逃げることさえできない。
そう、ルカさえ回復すれば、倒せる!
カルミラが口元に作っていた笑みを見て、アスタロテは怒りを抑えもせず口の端を引いた。
「笑うのかい? 人間よ」
「ええ、笑うわよ。最初の余裕は一体何処へ行ったのかしら、淑女悪魔さん?」
女悪魔のまねをして、口元に手を当てて笑顔を見せてやる。
アスタロテのこめかみが、ぶち切れそうに痙攣したのが見えた。
「愚か者め、分かっているのか? この中で一番、殺しやすいのはお前だということを」
カルミラは浮かべた笑みを消さずに、地面を蹴った。
それを見逃さず、アスタロテは一気に距離を詰めてくる。
右腕一本の攻撃。長い爪からはもう毒は流れていない、が、その鋭さはいまだ鉄をも簡単に切り裂くだろう。
カルミラは紙一重でその攻撃をかわしていく。
アスタロテの拳が大気を切り裂く。
その風圧でカルミラの金色の髪が踊る。
真正面で、残る蛇が牙を向き、威嚇の声を上げる。
それに容赦ない銃撃を浴びせた後、大きく後方へ跳んだ。
飛び道具(銃機器)を握るカルミラには、接近戦は向かない。
距離を置いたほうが有利に事を運べるのは、目に見えている。
だが、アスタロテはこの時を待っていた。
その足が確実に地面を踏むより早く、体勢を整えることもせずにアスタロテは全身でカルミラへと体当たりした。
同時に、吹き飛ばされるはずだったカルミラの身体に、無数の蛇が絡みつく。
「ぐ…っ!!」
普通なら跳ね飛ばされて当たり前な衝撃を、その場に留められて食らう。
本来なら、肋骨が何本か持っていかれたことだろう。
代わりに、胸を庇った左手から、白い銃が跳ね飛ばされていった。
すかさず、蛇が残った右手を、銃ごと拘束する。
カルミラの足は、爪先さえ地面についておらず、間髪入れずに、首に、腕に、胸に、足に、腰に、絡みついてくる蛇の感触に顔を歪めた。
「ほら、死んだ」
少し視線を下げた場所、至近距離から、アスタロテのぎらぎらとした蛇の目が見上げていた。
残る蛇がのたうつ半身。アスタロテは遠慮なく、カルミラの身体を締め上げ始めた。
「勘違いしているようだけど」
ギリギリと、蛇は細い身体を折らんばかりの重圧をかけてくる。
その中で平然と、まるで痛みさえ感じていない、平静とした余裕を見せながら、カルミラはアスタロテを見下ろした。
「私の武器は銃だけじゃないわよ?」
唯一、自由だった左手が、優雅なまでに閃いた。
この夜の中でも一瞬の光線のような輝きを残しながら、カルミラを捕らえていた蛇の首が次々と飛ぶ。
白い手に握られた『もの』が、何なのか。
視認する前に、アスタロテの前で、拘束から解き放たれたカルミラの身体が舞う。
ドカアッ!!!!
強固なブーツの踵が落ちて、見事にアスタロテの脳天に炸裂した。
致命傷にならなくとも、それは確実にアスタロテの視界を歪ませた。
地に下りたカルミラの手には、一振りの銀の短剣。
魔者にとっては凄まじいほどの、対魔気を放っていた。
「天くん!! 今よ!」
「何っ?!」
体勢を崩したままのアスタロテが、振り返る。
真後ろには既に、下段から帯剣を構え、駆けた、天の姿。
回避できない速さで、大剣を振り上げる。
「馬鹿め! お前の剣はきかぬと分からぬか!!」
そう叫びながらもアスタロテは、天の剣戟を渾身の力で対し、受け止めた。
アスタロテの首を狙った一撃は、そこで均衡する。
「知ってますよ」
天はとびきりの笑顔を、嘲笑を浮かべたアスタロテに向けてやった。
「何だと…?!」
あまりに清々しい、天の笑顔。
疑問と驚愕が、同時にアスタロテを襲った。
天の背後から、風がついて来る。
それが自然のものでないことも、天が起こしたものでもないことも、知る。
そして気が付いた。
視界に、一人、足りないことを。
ズド……ッ、
容易く、女悪魔の腹に青緑の槍が吸い込まれた。
「……あ?」
愕然とするアスタロテの背中に、美しい槍の切っ先がある。
風が止む。
ひるがえっていた天の法衣の裾。その外套の向こうに、ルカはいた。
天は攻撃を仕掛けたのではない。
ただ、ルカをここまで運んできただけ。
「――――――…っっ!!!!!」
この世のものではない絶叫が上がる。
間髪入れず、ロンギヌスの青緑の刃は腹から肺へとアスタロテの体内を抉り上げた。
血は流れない。
切り裂いた場所から砂に変化していく。
「おのれ、……おのれよくも、よくもぉお……!!!」
震える女悪魔の手が、体を抉るロンギヌスの柄を掴む。
その瞬間、自ら持ち主を選ぶ神槍は、魔者の手を神炎で包んだ。
浄化の炎と見紛う、鮮やかな青い神炎。
その痛みは、悪魔にとっては獄炎のそれさながらに違いない。
それなのにアスタロテは、その炎さえ見えていないかのように槍を抜こうとする。
アスタロテの力は、今までのものを遥かに超えていた。
回復を遂げたばかりのルカ一人の力では、均衡を取ることすらかなわない。
神炎を上げるロンギヌスが、アスタロテの体内からゆっくりと引きずり出されていく。
「くっ!」
大剣を片手に持つと、天もロンギヌスの柄を握った。
それでようやく、アスタロテの力と拮抗することが出来る。
だが、ルカは目の前の敵を炎に包み続けることよりも、躊躇いなくロンギヌスを握った天を案じて、声を張り上げた。
神槍ロンギヌスは、使い手を選ぶ。
だがらその意にそぐわない者が槍を握る時、たとえどんな者でも、平等に、この炎に焼かれることになるのだ。
「駄目です! 天殿、あなたも燃えてしま……?!」
しかし、その言葉を、ルカは途中で飲み込んでしまった。
―――――……何故だ、何故答えぬ、我が友よ……――――
ルカは思わず耳を疑った。
それは、あまりに聞き覚えのある、懐かしい声。
「……ロンギヌス?」
「ぬああああああっ!!」
アスタロテの叫びに、ルカはバッと顔を上げた。
「死ね! 全て消し飛べ! 死に絶えろ!!」
もう既に死に体の、アスタロテのどこにそんな力があるのか。
バチバチバチと空気が帯電する。
アスタロテを中心に、嵐のような風が吹く。
あの赤い光が体中から発せられ、輝く赤い光に浮かび上がるようなアスタロテの背に、闇のような翼が現れた。
天だけが、その翼に見覚えがあった。
数日前、ハデスと共に対峙した悪魔がその背に翼を現した途端、大気が震え、溢れだした魔力が稲妻となって視覚出来、恐ろしいほどに力が膨れ上がったことを覚えている。
それがどんな力を現すものなのか、分からなくとも、理解できる。
危険、と。
アスタロテの瞳にもう理性はない。
既にその思考は、ここにいる生命体全てを消し尽くすことしか考えていないだろう。
急激な勢いで、赤い光は強さを帯びていく。
その眩い光に絶望を見出すかのような人間たちの表情を見て、アスタロテはゆっくりと、愉悦に歪んだ笑みを見せ……、
「そう来るだろうと思っていた」
ハデスの冷めた一言によって、絶望の底に叩き落された。
背後から、しなやかに伸ばされた両手がアスタロテの背の翼を掴む。
後はもう、容赦はない。
ぶちびちびちぶちびきびち……っ、
背骨の真上を足蹴に、その両の翼を背中からむしり取る。
翼を失った痛みに、闇をつんざくような絶叫が辺りに響き渡り、アスタロテのまとっていた赤い光が消え失せる。
完全に、その背から翼を千切り取られた女悪魔は、無造作に深い傷を負った背を蹴りつけられ、勢いでロンギヌスの切っ先から解放されると、今にも地に倒れ込みそうになりながらよろよろと身を揺らした。
ハデスの手の中で、今引き千切られたばかりの翼が紅い炎に包み込まれる。
その一瞬の炎が、絶望に満ちたアスタロテの、元は美しかった顔を照らした。
そんな、灰すら残さず燃えた己の翼を絶望的な眼差しで見上げたアスタロテのこめかみに、ヒタリと黒い銃口があてがわれた。
「終わりよ。これで消滅なさい」
その声は今までになく静かに、女悪魔の耳に届いた。
カルミラの持つ黒い銃に、急激に力が集まるのが見て取れる。
「告死天使!!」
真名を解放された銃は、その銃口からまばゆいばかりの力を発射した。
――――一瞬の光。
それが、ただの銃では決して放たれることのないほどの澄み切った轟音だということに、気付けないほどの威力。
白濁した視界が戻っていく。
開けた視界の先には全てが幻であったかのごとく、静まり返った夜の風景。
そして目の前には、何もいなくなっていた。
……倒せた……?
それは、慢心から来た一秒にも満たない錯覚。
誰もが武器を強く握り直して、何も居なくなったはずの闇を睨み付ける。
確かに、一時は終着を見た戦闘であったにもかかわらず、鼓動は戦いの始まりを予期して早鐘を打っていた。
アスタロテは消滅などしていない。
それどころか……、
「ほう、人間にしてはなかなかやるな」
第三者が、闇の中に立っていた。
瀕死の女悪魔を足元の大地に転がせたまま、穏やかな笑みを口元に湛える。
その姿形は、少年のもの。
浅黒い肌に天上の星の輝きにも似た金色の瞳。
幼いながらに美しい整いすぎた顔立ちは、逆に恐ろしくもある。
小さな身体を覆う黒衣に金糸の、大きく豪奢なマント。
そして身にまとう全てのものが、己の力を抑制する術具だった。
にもかかわらず、今、自分たちにかかっている圧迫は、アスタロテと対峙した時とは比べ物にならないほど強い。
ルカはロンギヌスを握り直して、唇を噛み締めた。
アスタロテが『高位悪魔』に位置づけされるなら、あの少年は格が違う。
あれは、『生み出す者』だ。
無数の『魔物』を伝説上の『怪物』を作り出すことも可能な、『高位悪魔』の中でも更に高位な悪魔。
自分たちなど、一瞬にして捻り殺せるほどの力量があるはずだ。
「折角の『材料』が壊されるところだった。おい、いい加減起きろ」
少年は鈴の鳴るような美しく無邪気な声で、地面に横たわるアスタロテを蹴った。
じじじじじ……、
死に体に小さな雷が走る。
その途端、ぼこぼこと音を立てて、失われたはずの手足が再生を始めた。
「っ?!」
そこにいた人間たちは、一様に愕然とした。
千切れてなくなっていたはずの腕を支えに身体を起こしていく悪魔は、力強い両足で大地を踏みしめる。
そして、まるで何もなかったかのように立ち上がった悪魔は、天がハデスと共に見た、あの時の悪魔。
容姿は男性。
長い黒髪は一本一本にまで妖しい生気がみなぎり、宝石のごとく輝く琥珀の瞳。
顔の作りが確かに、今戦ったアスタロテとよく似ていた。
「アスタロテが死んだ」
鋭い怒りの湛えられた視線が、今、一つの激戦を終えたばかりの人間たちに向く。
「どうでもいい、用があるのはお前だけだ」
そんな悪魔の殺意を、少年は飄々と流して、静かに、小さな手で空を掻いた。
女悪魔アスタロテの兄、アスタロトは、少年の作り出した闇の中に堕ちるように消えていった。
アスタロテとアスタロトがその場から消え、辺りには一瞬、緊迫感を伴った深い沈黙が落ちる。
それを揚々と破ったのは、少年の楽しげな声だった。
「それにしても、珍しい顔がある」
ハデスの顔を見て、にやりと笑った少年は思わず身構えた天とルカにも柔らかな笑みを浮かべて見せる。
「……っ」
噛み締められた歯が、ギリリと鳴る音に気付く。
わなわなと震えていたかと思ったカルミラは、問答無用で、両手に握った双銃の銃口を少年へと向けていた。
「ロキィィイイ!!!!!!!!!!」
少年の姿をした悪魔の名を、燃えるような憎しみのこもった声で、叫ぶ。
先ほど見せた銃捌きとは比べ物にならぬ速さ、量、威力。
自動小銃で打ち込んでいるような弾雨が、悪魔、ロキに集中した。
尽きる気配の全くない弾、薬莢が雨のようにカルミラの足元を埋め尽くす。
どれだけの間、滝のような銃弾が降り注いでいたのか。
やがてカルミラは息を切らせながら、自らの意志で銃撃を止めた。
薄暗い空に、もうもうと硝煙だけが残る。
「……気は済んだか?」
たった一声で巻き起こった風が煙を払い、そこには全くもって無傷のロキが、笑顔のまま立っていた。
今にも殴りかからんという体勢で、怒りを露わにした、燃える瞳でロキを睨み上げるカルミラ。
「カルミラさ……?」
「朔は何処?! 朔を返しなさい!!!!」
仲間の声など聞こえていない。
怒りに震える声で、カルミラはそう叫んだ。
「ん? あぁ、あれか」
ロキは、忘れていた玩具を思い出した子供のように無邪気な笑みを浮かべ、ゆっくりと腕を組んだ。
「さて、何処へ放っておいたか……」
とぼけた口調で吐き出される、カルミラを逆上させるためのその一言。
噛み締めたまま戦慄くカルミラの唇が、ぶちりと音を立てて切れた。
ルカと天は身構えたまま、怒りに震え続けるカルミラの背にも視線を送っていた。
あの状態で、ロキに飛び掛りでもしたなら、確実に殺られる。
それだけはどうしても避けなければ。
「どうする? お前たちが望むのなら相手をしてやってもいいが」
ロキはさも楽しげに、片手を天空に向け、少し首を傾けてみせる。
新たに現れた敵を目の前にして、戦士たちは唇を噛み締めた。
回復したといっても、ルカはほぼ満身創痍。
カルミラは冷静さを欠いている。
天も無傷とは言えない上に、術力、精神力はほぼ空に近い。
ハデスだけは唯一、連戦が可能な状態ではあるが……、
「己の能力を封印した愚かな悪魔を中心にでも、戦うか?」
こちらの戦力状況をよく理解しているのだろう、ロキは幼い顔を愉悦に歪め、そう吐き捨てた。
ハデスへと真っ向に、嘲りの視線を投げながら。
「能力を……、封印?」
天はゆっくりと、ハデスに振り返る。
ちっ、と舌打ちを返しながら、ハデスは紅い、冷酷な瞳でロキを睨み返していた。
「確かに、ハデス、お前なら私と互角に戦えるだろう。ただし、それは『以前のお前』であればの、話だが」
それを聞いて、愕然とし、同時に三人は理解した。
ハデスが力を抑えている理由。
……それは自分たちのせい。
そしてハデスが、人間の女性を愛した結果。
今ここでハデスとロキが本気で戦ったのなら、夜が明ける前にこの一帯は消し飛ぶだろう。
もちろん、人も街も魔物も、……大地も全て。
「どうせ」
ゆっくりと口を開いたハデスは、冷たく、それでも見惚れるような笑みを端正な顔に浮かべながら、拳を握った。
「何もせずに帰るつもりはないのだろう? ロキよ」
真紅に染まるハデスの瞳に、ロキはまた無邪気に笑った。
「ふふ、そういうことだ」
ロキは静かに胸の前に手を合わせた。
まるで祈るようなその仕草。
だが小さな両の手の平の中には、美しく妖しく輝く紅の宝玉が持たれていた。
「一瞬で決着が着いては面白くもない。お前に免じて我が拘束具は解かずにおいてやろう」
紅い宝玉を中心に、闇が広がってくる。
いや、それ自体が闇を吸収していくかのよう。
どちらにせよ、並みの者が持てるような生半可な力を秘めた宝具ではないことだけは、確か。
ハデスは前に歩み出て、三人を背に庇い、ロキと対峙する。
「ほう、やはり庇うか。我がドラゴンオーブの威力、よもや忘れたわけではあるまい? その力を抑えた身体で何処まで持つか、それともお前自身が助かるためにここを更地に変えるか、確かめてみるか……?」
宝玉の中から沸き立つ、炎のようにも見える紅い力は極小化された龍のように見えなくもない。
ロキはただ、笑う。
ここら一帯が消し飛びハデスが嘆こうと、背に在る人間たちを守るためにハデスが行動不能に陥ろうとも、どちらでも構わない。
どちらを選択しようとも、その次にくる結果は同じなのだから。
ロキが笑う。
ハデスはこの戦いにおいて初めて、身構えた。
「……お願いです、ハデスさん」
静かな、静かな、……天の声。
ハデスの肩に置いた、天の手が、帯電したように力を帯びているのを感じた。
ゆっくりと振り返る。
目を合わせた天は、自分でも何かを信じられないと言わんばかりの表情をしていた。
「お願いです、ハデスさん。下がっていてください」
天はハデスを追い越して、前に立ち、ロキと向かい合った。
そこにいた誰もが、天のその行動に驚いた。
……当の天さえも。
「お前……っ」
「何でか、解りません! 解らないけど、僕、……この悪魔に負ける気が、しないんです」
その言葉を聞いただけならば、何を狂ったか、と思っただろう。
だがハデスは思わず、素直に天の後ろに下がっていた。
……先ほどまで感じていた、術力、精神力が空に近いせいで起こる虚脱感が既にない。身体中のダメージなど、一切なかった。
自分自身で、理解できない。
何故、ハデスでさえ対等にやりあえるかどうかも分からない悪魔に、一人で立ち向かおうと思うのか。
「ふ…、殺していいのだな?」
笑うロキに、何時になく真剣な表情のハデスは返した。
「出来るものならな」
その答えに、ロキの顔から笑みは消えた。
冷めた表情をしたロキの指先が、街へ向く。
「愚かなお前等に冷静さをやろう」
その指先がチカリと光ったかと思った瞬間、爆音と共に街の北東の壁が消し飛んだ。
強化防壁によって守られていたはずの街。
ロキのただ一指しの魔力は、それを簡単に上回っていた。
ガラガラと崩れ落ちる壁の瓦礫、街の人たちの悲鳴がここまで届く。
天は唇を噛み締めて、また一歩、ロキへと距離を詰めた。
「カルミラ殿、ハデス、もっと……、下がりましょう」
ルカは、自分の手が震えていることに気付いていた。
それでも、いつ駆け出すか分からないカルミラの腕を掴んだまま、じりじりと『天から』距離を取る。
あのロキはきっと、感じていないのだろう。
一歩進むごとに、一秒が過ぎるごとに、天の力が膨れ上がっていくことに。
明確にそれに気付いていたのは、能力読解の力を持ったルカだけだったかもしれない。
だが、いつもの天とは全く違う様子を、まとう空気の異様さを、カルミラとハデスも理解していた。
「帰って下さい。ここで貴方を倒せば、きっと朔さんの居場所が分からなくなる……!」
ざり、と大地を踏みしめる、天の足取りは緩やかだが、大岩のように確かだった。
「はっ、世迷言を」
「いえ、本気です」
もう一歩、踏み出す。
そこで天は大剣を構え直した。
睨み上げてくる天のヘイゼルの瞳と、見下してくるロキの金色の瞳。
お互いの距離は、駆け出せば一秒ほどで詰め寄れる間合い。
余裕を見せていたロキは既に、怒りと殺気に満ちた攻撃の意志を天にぶつけていた。
「己の愚かさにも気づかぬまま、死ね!」
ぐわりと、夜の瘴気が全て、その力につられて渦巻いた。
「ドラゴンオーブ!!!!!」
紅い宝玉から放たれた光は、闇。
それは一瞬にして、闇という名の強大な龍に変わり、天に向かって咆哮を上げながら突進してきた。
大空さえ食い破るほど大きな口が開き、天に迫る。
……いつもなら動けないほど強烈な圧迫。
普通なら反撃も思いつかない絶望。
それさえ凌ぐ力が、何故今の僕にある……?
剣を構えたままの状態で、籠手の力が解放される。
一度しか使えないと『理解した』絶対防御が、何故再び使える?
バチバチバチバチッ!!!!
薄い光の幕は何処までも伸びて、闇の龍そのものの大きささえ、超えた。
「な……にっ?!」
オーブを構えたままのロキが、驚愕する。
いくら拘束具をつけたままの発動とはいえ、この辺り一帯を四度は更地にできよう力を持つ龍の力を、たった一人の人間の「精神の盾」によって防がれることなど、在り得ないはずであった。
静かに、天が前に出る。
その足が大地を蹴った瞬間、盾に圧された暗黒の龍の力は、瞬く間に霧散した。
「何故だっ?!」
目の前にある光景が信じられず叫ぶ、ロキの頭上に、天の大剣が落ちた。
「うああああああああっ!!!!!」
ジャキィンッ!!!!
ロキの灰の髪に飾られていた術具が、千切れ飛ぶ。
間一髪、直撃を免れたロキの額を、赤い血が伝い落ちた。
「お前、……一体何者だ…?」
怒りを噛み殺した、だがそれ以上、興味に近い疑問が投げかけられる。
ヘイゼルの瞳をした戦士から、答えなど返ってこない。
天が追撃の構えを取る前に、ロキは大きく空へと跳んだ。
天は追ってこない。
ただ地上からロキを睨み上げるだけだ。
二人が睨み合っていた時間は、そう長くはない。
無言の攻防が、そこには確かに在った。
……東の空が、急激に明るくなっていく。
はるか上空に浮いたロキからは、太陽が昇ってくる様が見て取れた。
「ちっ、朝か。……今日はこのまま去ってやろう。だが自惚れるな、人間よ」
朝日が大地を照らす前に、ロキの姿は星すら見えなくなった白い空に溶けるように消えていった。
……そして、ようやく攻撃態勢を解いた天に、カルミラとルカは駆け寄った。
「あ……、ハデスさん」
どうやらいつもの様子に戻れた天が、東の空を見てからハデスに振り返った。
「俺は戻る。……夜までにその力に関して、答えを出しておくんだな」
瞬きをする一瞬に、ハデスの姿はそこから消えていた。
強い朝日が大地を照らす。
不毛な大地はそれでも、金色に輝いて見えた。
「何でか、僕にも、分からないんですけど……?」
ロキが消えた今、天の力はもう、いつもと変わらぬものに戻っていた。
ただ、戦闘をした形跡がないほど、回復していることを除いて。
黙って、ロキが消えた空を睨みつけていたカルミラは、切れた唇をもう一度噛み締めてから、静かに肩を落とした。
「帰りましょう。とりあえず、街の様子が心配だわ」
まだ悔しげだが、カルミラの切り替えの早さに安心して、二人は安堵の息を吐き出す。
足取りは遅いが、三人は朝日に包まれた街へと歩き出した。
「……ルカ、肩貸すわ。掴まって」
ロンギヌスを杖のように使って、それでも自らの足で街へ戻ろうとしていたルカの背にカルミラが手を回す。
「いえ、大丈夫です。構わないでください」
どう見ても大丈夫じゃない足取りで、ルカはカルミラの手を逃れた。
いくら天が傷を治し、毒もキレイさっぱり抜けているといっても、あれだけの血を流して平気でいられるはずがない。
見るからによたよたと、今にも倒れそうな足取りで進む。
「大丈夫じゃないでしょう!」
「いいんです!」
それでも頑なに、カルミラの助力を拒むルカ。
思わず足を止めたカルミラは頭を垂れてため息を吐き、落胆して首を振った。
「ルカ……」
天が大剣を背に直しながら、必死で歩いていくルカに追いつき、その顔を覗き込む。
天は思わず、かけようとしていた言葉を飲み込んだ。
……ルカの顔は、茹でたように真っ赤だったのだ。
数回まばたきをした後、思考を回した天は、急にひらめいてしまった。
そしてその考えを、素直に口にする。
「あぁ、なんだ! ルカもしかして、カルミラさんのことすっごく好きなの?」
「はぁ?」
少し小首を傾げ、さらっとそう言った天。
がばっと、ルカは顔を上げて、天を見上げた。
「なっ、ななな、何を……っ」
図星を突かれたからか、珍しく、赤面した顔をそのままに、言葉に詰まるルカ。
「なぁんだ、そっか、よかったよかった!」
一人納得して頷きながら、天は有無を言わさず、ルカを抱き上げた。
少し離れていた後ろでそれを聞いたカルミラが、何だそれはと叫びながらやってくる。
「……っちょ、天殿…っ、お、下ろしてください!!」
歩き出した天の腕の中で、ルカが更に頬を赤く染めながら叫びを上げる。
だがもちろん、ルカがどれだけもがいても抵抗に値するほどの力は無く、天の方も今更、彼女を下ろして歩かせるつもりはなかった。
足早にやって来て天の隣に並んだカルミラは、これまた頬を染め、とても不満げに、訝しげに目を細めてルカの顔を眺め見た。
「今の天くんの言葉の意味を、ルカの口から聞かせていただけると嬉しいんですけど?」
カルミラの『嬉しい』と言う言葉に、どうやらルカは負けたようだ。
聞いたことには流暢に話をしてくれるルカにはあるまじき、何一つまともな言葉が返ってこないほどの赤面のしよう。
しばらく、ごにょごにょと口を動かしてから、ついに諦めたように口を開いた。
「昔、……朔様と共に戦っていた時、貴女の話をよく聞きました。……会って、想像通りの方だと、見ていたのですが……」
そこでカルミラは思い出した。
事務所でやけに目が合うのに、話もなく、話しかけても話が続かなかったあの空気を。
「朔様に貴女の性格もよく、聞いていて、……私には家族がいませんから、……姉がいたら、こんな感じなのかと……」
ごにょごにょと語尾を濁して、ルカは更に真っ赤になりながら、横目でカルミラを見た。
驚きに見開かれた青空色の瞳と視線が交わると、ルカはパッと顔を伏せる。
その態度が全て、好意によるものだと、今、ようやく理解出来た。
「はあぁ…」
カルミラはあからさまに大きなため息を吐いた。
ルカはそれを聞いて、申し訳なさげに首を竦めてしまう。
にゅっと、カルミラの手が伸びてくる。
そして驚いて目を閉じたルカの、短くなった黒髪の頭をわしゃわしゃと乱れに乱れるほど撫でた。
「そういうことはもっと早く言って頂戴。まったく、嫌われてるかと思ったじゃない!!」
口調は怒って聞こえたが、ひどく照れたカルミラはどこか嬉しげだ。
よかった、よかったと呟いた天は一人満足げに微笑んで、三人仲良く、開かれた街の北門をくぐった。
うわっと歓声が上がる。
三人は本気で、飛び上がらんばかりに驚いた。
街中から割れんばかりの歓声と賞賛、拍手と笑顔。
「すげぇぜあんた!!」
バチンと背中を叩かれた天は、その痛みに思わず短い悲鳴を上げた。
「さすがカルミラさん!!」
「お嬢さん、小さいのに強いねぇ」
「なぁ兄ちゃん! どうしてそんな大きな剣振れるの?!」
わらわらと、口々に称賛を告げる人々に取り囲まれる。
こういう賞賛には全く慣れていない天は、ルカを抱いたまま、アワアワと挙動不審になっていた。
「ありがと、通してくれる? ありがとう、シュテファン管理所の人、いる?」
さすがにカルミラは慣れているのか、見事な笑顔で取り囲む人々に対応する。
「おーい、カルミラさん、こっちだ!」
人々の中から手が挙がる。
それを見つけて進むカルミラの後に、どうにか続いた。
「カルミラさん、あんなもんよく倒したな。さすが樹管理所、違うねえ」
軽口のような賛辞を口にして、陽気な笑顔を浮かべる男性。
サウスシティにはもう一つ、管理所がある。
それがシュテファン管理所。
管理人のシュテファンは屈強そうに見えるが、戦いよりもサポートや防護系のことに秀でた人物である。樹管理所に比べて十倍近い魔物退治者がいるが、皆、戦いよりもサポートに向いたものばかりだ。
「ありがとう、シュテフ、でも悪いんだけど、貴方のところが中心になって防壁の修理と修復と警備、お願いできるかしら?」
「あぁ、任せておけ。夜までに修復できるよう、できる限りのことをしよう」
「ありがとう。さぁ二人とも、戻るわよ」
賛辞を浴びせかけてくれる人たちの波を掻い潜って、三人は管理所へと辿り着いた。
管理所に入り、人達の声が遠退いて、三人はようやく大きな息を吐いた。
激戦の夜を一つ掻い潜り、生き残った。
いくら悪夢を見ると言われても、これだけの戦闘をした後、睡眠、休養を取らないのは馬鹿としか言いようがない。
重症のルカはもちろん、目立った外傷の見えないカルミラも、そして理由の分からない謎の回復を遂げた天でさえ、今はただ素直に眠りを欲していた。
残り少ない体力を振り絞り、重い体を引きずって階段を上がり切り、事務所の扉を開け、……カルミラはがっくりとうな垂れた。
何も言えないまま、ルカを下ろした天はそんなカルミラの後ろ姿に同情する。
「忘れてたわ……、あの女悪魔、もし生きていたら次こそ粉微塵にしてやるのに」
事務所だけではない。
管理所のどの場所も、どの部屋も、上から下まで、あの赤い光弾に受けた衝撃で散らかり、ごった返し、足の踏み場もないほどになっていた。
休息を取る前に、休息を取れる場所を確保しなければいけないという、体に鞭打つ所業に、ため息しか零れなかった。
「……そうだ、取りあえずメールが来ていたわよね。……セントラルの緊急速達」
速達だったはずなのに、あれから何時間経ったのか。
舌打ちを返しながら、カルミラは足の踏み場の無い床を器用に歩き、ぶつくさと文句を垂れながら床に転がったパソコンを発掘すると、横向けに転がっている机を横目に、電源を入れた。
「壊れてないわー。よかった」
そう笑顔さえ浮かべたカルミラがメールを開いて、その内容に目を通すと、明るかった表情は嘘のように消えた。
その内容が尋常なものでないことを、その瞬間に知る。
「二人とも、読んで」
カルミラはパソコンから離れ、窓の桟に手を置くと、静かにうな垂れた。
『緊急速達、樹管理所殿。
昨夕、十二英雄の内一人、アルトリア・B・ルイスがサウスシティより
南三百六十キロメートルの最後の海を臨む岬にて、消息を絶った。
早急に岬に向かい、調査報告を行って欲しい。
こちらに情報が入れば、いち早く知らせる。
検討を祈る 中央塔上層部 K・W』
内容を読み終えたルカの顔が蒼白する。
「……アルトリア殿が?! ……何かの、間違いでは?」
「それを調査して来いってことよ」
歯を食いしばったカルミラが、振り返って顔を上げた。
「悪いけど、ルカはここで待機してもらうわ。その状態でついてこられても足手まといよ。岬に向かうのは私と天くんだけになるわね」
悔しげにうつむくルカは、自分の今の戦力を理解しているのだろう、素直に頷いた。
「とにかく、昼まで眠りましょう。天くんの回復の仕方もおかしいし、取りあえず眠って様子を……っ?! 天くん?!」
「はい?」
カルミラに続いて、ルカも天の顔を見るなり、驚いて声を上げた。
「天殿!」
「え…?」
何故、二人が驚いているのか分からない。
「え?」
自分でも、何が起こっているのか分からない。
ただ、ぼたぼたぼたと床に水滴が落ちた音を聞いて、それを目で追った。
……血?
まるで吐血するかのような量の鼻血が、止めどなく溢れてくる。
「あ…、れ……?」
それでもまだ数秒かかって、ようやく口に入り込んできた液体が血だということに気付く。
その途端、ブレーカーを落としたように意識が落ちた。
「天くん!!」
「天殿!!」
最後に二人の声を聞いたような気がしたけれど、その時にはもう、天の意識は完全に掻き消えていた……。