対戦・女悪魔(前編)
/樹管理所/
[A.M. 03:09]
「とりあえず、当初の目的は果たせたわね」
夜なので全開というわけにはいかないが、開けた窓の向こうにいるハデスを振り返りつつ、カルミラは椅子に座る。
その動作が、少し緩慢なのは否めない。
各々ソファに腰掛け、握り締めていた武器を傍らに置いた。
「どうだった、ハデス、ちゃんといい情報は聞けた?」
むすっとした表情のまま、ハデスはあぁ、と呟く。
「それならよかった」
満足気に微笑んで、カルミラはうなだれていた天に声を投げた。
「天くん、貴方もしばらくここに寝泊りしなさい。部屋なら十分あるから」
「はい?」
どうやら、カルミラの言ったことが半分聞こえていなかった様子だ。
聞き返してきた天の顔に、確かな疲労が見える。
「魔女の夢に屈して死なれちゃ困るのよ。ここなら、うなされていたら私かルカが叩き起してあげられるでしょう?」
「あ、はい、それは助かります…」
「どんな悪夢を見るのか、心構えが必要だと思います。それがどれほど恐ろしいものでも」
「うん、そうだね。……まあ大体、予想はつくんだ」
心配そうなルカに対して天は笑顔を浮かべて見せたが、思うほど体に力が入らず、気分も浮上してこない。
内心、舌打ちを返す。噛み締めた唇を、噛み切ってしまいたいほどの気分だ。
……思い出したくないことが多いのに。
大陸崩壊のこと。
死んだ父さんのこと。
生き別れた姉さんのこと。
イースシティのこと。
全てが全て、……決して忘れてはいけないけれど。
「……天殿」
ルカが、心配そうな顔をして名前を呼んでくれる。
それで我に返った天は顔を上げて、今度こそ、作り笑いではない笑顔を浮かべた。
そんな中、ピロリン、とやけにのん気な音を立ててカルミラのパソコンが鳴った。
「あら、メールだわ? ……セントラルから、緊急速達……?」
マウスを掴むカルミラの眉間に、訝しげにしわが寄る。
「……おい、伏せろ」
投げかけられた声に、「え?」と、三人が同時に、窓の外のハデスを見た。
――――ドゴォンッ!!!!!
バリバリバリバリ……ッ!
窓という窓全てが震えて音を立てる。
座っていることさえできずに床に転がる。
分かり得なかったが、管理所の建物全体が激しく揺れていた。
本棚の中身が、机のパソコンが、重力をなくしたように落ちていく。
机が跳ね上がって踊り、先ほどまで座っていた椅子が、ソファが引っ繰り返る。
部屋の中にある物の何もかもが、激しい揺れと振動を受けている。
そのひどい音さえ、自分たちの耳にすら届かない。
揺れる床をのたうちながらも、窓越しに、管理所の外の空気が圧縮されていくのが目に映る。
管理所に降り落ちた赤い光。
それをゆっくりと吸い込むように収縮して、次の瞬間、遠くへと『跳ね返した』。
本来、管理所が受けるはずだった衝撃の全てが、その途端、掻き消える。
倒れたまま、窓から外を眺める。
遠く、飛んでいった赤い光は、街の数十キロ先の大地へと落ち、闇を切り裂くような火柱を上げた。
これでまた、セントラルの地学者や大陸測量士たちが忙しくなるだろう。今の一撃で確実に、サウスシティ北方面の地形が変わった。
一体今、何が起こったのか。
事態が飲み込めず、顔面蒼白になりながら、それでも真っ先に立ち上がったのはやはりカルミラだった。
「外へ! 管理所を直で狙ったんなら、敵の目的は私たちよ!」
床に転がった大剣を、槍を掴むと同時にスタートダッシュを切る。
向かうのはまた、北門から外へ、だ。
「街の対魔防御簡単に通り抜けてた! 何なのあの攻撃!!」
カルミラが悪態を吐きながら先頭を切っていく。
幸か不幸か。だが、この場合は間違いなく幸だろう。
たまたま、敵が自分たちだけを狙ったのが良かった。
朔が管理所に張った結界に直撃しなければ、今頃、街ごとみんなで仲良く蒸発していただろう。
警報音が鳴り出す。
先ほどまで静寂に包まれていた街中が、目を覚ました人々が上げる悲鳴で満ちる。
『何か』の襲撃に気づいた街は、急速に混乱に落ちていく。
敵がどんなものであれ、狙いが自分達であるなら、街中で戦闘に陥ることだけは避けなければいけない。
三人はひたすらに北門へと走った。
「……何だ…」
「天殿! 駄目です、走って!」
思わず駆ける速度を緩めた天の背を、ルカが押す。
――――…ヒィィイアァアアァ……――――
天は思わず耳を覆った。
聞こえてくる、それはまるで唄のよう。
残酷な残酷な、悲痛すぎる、女の叫びそのものの唄。
「何だっ、これ」
激しい頭痛さえ襲ってくる。
歯を食いしばりながらどうにか走っていた天だったが、ついには足を止めてしまった。
「天くん!」
北門までもう数百メートル、それでも立ち止まった天の名を叫びながら、振り返る。
だが、カルミラも気が付いた。
続いて振り返ったルカも、二人の姿を見て、顔を上げる。
……空が赤い。
いや、ただ赤いのではない。
ゆっくりと、深い群青の空に描かれていく赤。それは見紛うことも出来ないほど、鮮やかな血の色をしている。
空いっぱいに広がる円形の文字列、抽象的な形、ただ一つ言えることは、確実に人間が読める文字ではないということ。それが、先ほど魔女のテントで見た魔法陣とよく似ていることに気付かないはずがない。
「魔法陣…?」
「召喚陣…っ?! 一体、誰が!」
「違う、あれは降臨陣だ。さっさと走れ。俺はこの街を消す気はない」
頭上を飛び越えたハデスの声に、我に返った三人がその後に続く。
門はすぐそこなのに、その距離がやけに遠く思えた。
まだ街の中だというのに、自分たちを包む空気は街外の瘴気のような重さ。必死で走っているはずなのに、本来の力も出せないくらいに、手足が重い。
……ピタリと、目の前でハデスが止まった。
音もなく地面に足を着け、もう目前に見えている門を背にするように、街の中へと振り返る。
三人は咄嗟に空を見上げた。
しかし、そこに在ったはずの赤い降臨陣は無く、聞こえていた叫びの唄も消えている。
空はもう、静かなものだった。あの血文字は何処へ消えたのかと思ってしまうほど、何の変哲もない、いつもの夜がそこにあるだけ。
そして自分たちを通り越して、ハデスが銀色の瞳で睨みつける背後。そこに感じる存在に、ゆっくりと振り返る。
……道の真ん中に女が一人立っていた。
ハデスと向かい合うように、静かに立っていた。
それが『おかしい』と思えたこと自体、優秀であった。
「静かすぎるわ」
自分にも聞こえるかどうか分からないほど小さく呟いたはずが、その声はこの場所の何よりも大きく辺りに響いた。
……そう、あれだけ騒がしくなっていた街に、まるで音がない。
警報音も、人の声も、風の音も、外から聞こえる魔物の声も、何一つ聞こえなかった。
その静けさの中、
「御久しゅうございます、ハデス様。お逢いしとうございました」
それは、妖艶なんてものでは済ませられない声。
女はふくらはぎまである長い闇色の髪を揺らし、紅を引いた口元を緩めた。
「このアスタロテ、この日をどれだけ待ち望んでいたことか……」
切なげに語りかけてくる声に反応し、背中を逆撫でていったものは一体なんだったのか。
首筋を冷たいものが滑り落ちて、わずかに身体が震えた。
月明かりに、アスタロテと名乗った女の顔が照らされる。
透けるような白い肌、細められた蟲惑的な明るい琥珀の瞳、人間のものとは思いもできない整いに整った顔立ち、唇の紅だけが、やけに鮮やかに目を焼く。
だが、畏怖を受けるのは女の容姿にだけではない。
そこに在るものに対して、『人間』である限り、到底、抑え切ることのできない恐怖が込み上げてくる。
今までどれほどの『魔物』と戦ったか。
『悪魔』と対峙したか。
数え切れないはずなのに、膝が震えている。
それを堪えて、今ここで、目の前の女悪魔から一瞬でも目を逸らさないでいることが精一杯だった。
ただし、……ハデスを除いて。
「俺は会いたくなどなかったがな」
さらりと、ため息交じりに本心を吐く。
そのハデスのいつもと全く変わらぬ態度に、三人はただただ目をむいた。
「ほほほ、つれないことを」
優雅に、白くて長い指を口元に運びながら笑ってみせるアスタロテの、目だけは笑っていなかった。
「ちょっと! これ以上怒らせてどうすんのよ!」
真後ろからカルミラが怒りの形相でハデスに叱責を飛ばす。
その声は大変、小さなものだったが。
「どうしてそんな脆弱な生き物をお守りになられますの、ハデス様? 人間など(そんなもの)、ただの使い捨ての玩具と変わらないでしょうに」
アスタロテの台詞に、天が奥歯を噛みしめた。バリッという音がアスタロテの耳にも届いたようだった。
「あら怒って? でも本当でしょう? 少し捻っただけですぐに壊れるんですもの、それなら『中級魔物』を拷問具にかけるほうが長く持つわ?」
ほほほほ、と高笑いして、アスタロテは笑んだままこちらを見やった。
『中級魔物』は、天がサウスに来て、ハデスと共に最初に倒した敵がそうだ。
『低級魔物』に比べると、ずいぶんと大きさが違う。
低級が人間並みの大きさなら、中級は三メートルを裕に超える大きさだ。それに、なかなかの強さを持ち、見目も恐ろしいものが多い。
そんなものと一緒にされ、いや、それ以下の存在とされて、カチンときたのだろう、カルミラの表情が変わった。
「でもそう、たった一つ人間が優れているといえば、……いい声で悲鳴くわね。それは私も好きよ」
微笑むアスタロテのぬらりと青い、蛇のような舌が赤い唇を舐める。
ルカは静かに、ロンギヌスを握る両手に、更に力を込めた。
「で、ハデス様? どれがハデス様のお気に入りなのですか? 悪魔であることを忘れてまで、貴方様が愛した人間は」
ハデスは何も変わらずに、いつもの完全に相手を見下した冷酷な態度で突っ立っているだけ。
三人は一斉に、もう既に人間のものとは似ても似つかない、蛇の瞳をしたアスタロテの顔を見た後、ハデスの後頭部に視線を注いだ。
ギラギラと目を光らせて静かな怒りを露わにしている、この女は知らないのだ。
ハデスが愛した女性はここにはいない。
アスタロテが罵った『人間』であるカルミラや天でさえ知っていることを、このハデスにご執着な悪魔(女)は、知らないのだ。
「やれやれ」
ハデスは呆れ、ため息を吐き出しながら優雅に身をひるがえした。
全くいつもと変わらないハデスの無表情を、三人は黙って見つめる。
ハデスはどこか軽やかな足取りで天に歩み寄ると、その肩に手を乗せた。
次の瞬間には、天の視界一杯にハデスの端正な顔があった。
至近距離にきた美しい面に反射的に頬が染まり、誰が見ても、訳の分からないという表情をした天の目の前で、ハデスは珍しく柔らかく微笑んだ。
口の端が、ジュッ、と、肌の焼けた音がした。
「んなっ?!」
斜め後方から、カルミラの、驚愕に思わず零れた声が聞こえた。
ルカは絶句し、思わず取り落としそうになったロンギヌスを必死で手の中に留めた。
本当に口付けたわけではない。
触れたのは口の端だけ。
それでも周りからは十分に、ハデスと天がキスをしたかのように見えた。
――――…殺されたくなければ走るんだな。無事に街を出れば手を貸してやる……。
それは決して、声に出されたものではなかった。
触れた部分から聞こえた、そんな声だった。
「……そう、やはりその人間でしたの。お兄様も言っておられましたものね、必要以上にその人間をお守りになったとか」
ハデスの顔が離れていくと同時に聞こえてきたアスタロテの低い呟きに、ゾッとする。
そんな天の恐怖など分かっているのか、いないのか。天の肩に手を置いたまま、ハデスは優雅な動きでゆっくりと振り返り、思い沈み込む女悪魔に向かってニヤリと冷たく笑って見せた。
「そう、そうね、そう……、――――よくもぉおおぉおっ!!!!」
その瞬間、静かだった空気が帯電したように震えた。
――――行け!
言われなくとも!!
天は一目散に、この上ないほどの全力疾走で北門通用口を目指して駆け出していた。
後ろなんて振り返らない天には見ることは出来なかったが、ルカとカルミラは確かに見た。
とてつもない怒りの形相で叫ぶ、アスタロテの変貌を。
長く、美しかった髪は一本残らず大量の蛇に変わり、白かった肌は緑に、そしてウロコさえまとい、琥珀の瞳は蛇のそれに、青く長い舌が口から出ている。
走り出すには、一速遅かった。
ルカにも、カルミラにも目もくれず、天目指して目の前を蛇女が駆け抜ける。
「ちぃっ!!」
大きく舌打ちを返し、二人も全速力で地面を蹴った。
振り向いたらその場で殺られる。
ものすごい殺気と怒りを背中に感じながら、呼吸さえ忘れて走った。
どうやら状況を把握してくれていたらしい門守が、駆けてくる天のタイミングとぴったりに合わせて通用門を開いてくれる。
「ありがとうございます!!」
駆け抜けながら礼を告げ、街の外に躍り出た。
濃い夜の空気がドッと圧し掛かってくる。それでもその中を無我夢中で突っ走った。
他の魔物の気配がないわけじゃない。奴らが襲ってこないのは、ここにいるあの女悪魔の存在に怯えているからだ。
真後ろから、高速で空気の裂ける音が迫ってくる。
咄嗟に振り向き、大剣を胸の前にかざした。
ド……ッ、ギャリンッ!!!!
「ぐふ……っ!!」
それは管理所を襲った赤い光弾を小さくしたようなものだった。
刀身で防いだはいいものの、その威力は想像を超えていた。
衝撃が肺を圧迫する。
踏ん張っていたはずの足が、軽々と地面を離れた。
大剣を胸に抱いたまま、背中で地面に着地した上、数メートル滑り進んだ。
「がは…っ」
戻ってきた息に大きく喘いで、空を仰ぐ。
だが、既に自分の上には、……『それ』がいた。
「あら、もう鬼ごっこは終わりなのね?」
あの美しかった容姿は何処へやら。
何千という大小の蛇が自分を睨みつけ、まとわりついて威嚇の声を上げている。チロリと青い蛇の舌が鼻先を舐めるほど近く、迫る。
「泥棒猫には相応しい断罪を。……やはりあっけなかったわね」
微笑を浮かべると、アスタロテの口は耳までさけるようだった。その中に、鋭すぎる牙が光り、牙から滴る毒が刀身にしたたり落ちた。
顔面蒼白した天に、容赦なく蛇の牙が落ち……、
「俺は節操なしが嫌いでな」
アスタロテの向かい、倒れた天の頭上に現れたハデスが、瞬く間に女悪魔の下から天を引きずり出す。
「人前で男性の上に乗るなんて、淑女のすることかしら」
女悪魔の背中を足蹴に、その後頭部至近距離でカルミラは双銃を構えた。
ドガンドカンドガンドカンドガンドカンドガンドカンドガンッ!!!!
双銃が火を噴く。
地面に薬莢の雨が降る。
一切の迷いも、容赦もいらない。
双銃は、カルミラの細い身体でよく耐えていられるものだと驚愕するほどの威力で女悪魔の後頭部を撃ち続ける。
ぶちぶちと千切れ飛んだ髪の蛇が地面に落ちて、のた打ち回った。
「ルカァッ!」
カルミラの声に、ルカが門守たちに合図を送る。
「やって下さい!」
一瞬にして、街は真っ白い光の防壁に包まれた。
一時的な特殊強化防壁。
『上級魔物』の群れに襲われても数時間なら持ちこたえられる、街が持つの最高レベルの防壁。発動と同時に、セントラルに異常を知らせられるおまけつきだ。
これで市民に戦闘が飛び火することはないはずだ。
街に防壁が張られたことを確認すると同時に、こちらへ参戦に走るルカ。
彼女が攻撃範囲に入ったことを確認すると、アスタロテの背中を蹴りつけて、カルミラは大きく後方へと跳んだ。
空中で一回転し、スタリと地面に着地する。その銃口は常に、女悪魔へと向いたままであった。
アスタロテの頭の部分だけを集中的に、もうもうと硝煙が上がっていた。
その頭が無事なのか、消し飛んだのか、それさえ煙に覆われていてわからない。
だが、いくらカルミラの双銃に威力があったからといって、それだけで終わるはずがないと誰もが分かっていた。
「ほほほ……、可愛い攻撃だこと」
わずかな風が吹いて、硝煙が晴れていく。
落ち着き払い、余裕の声を零すアスタロテの顔がゆっくりと現れ始める。
後頭部の傷から、ビュウビュウと青い血が吹き上がっていた。
こめかみに血管が浮き出て、びきびきと、いつブチ切れてもおかしくないほど痙攣している。
余裕があるのは声だけ。
既に頂点にまで達している怒りに、アスタロテの形相は見るも恐ろしいものになっている。
新しく生えてきた髪の蛇が後頭部の傷を覆う。全ての蛇が怒り狂い、けたたましく吠えるように牙をむいていた。
「もういいわ……。もう……、そんな、脆弱な『人間』など潰してしまえば、ハデス様の目も覚めると思っておりましたが」
今もなお、ハデスの背に庇われている天を見て、アスタロテは更に表情を崩す。
「もう、あの残虐非道で、冷徹で、全てを見下す邪眼のような冷たい瞳をされたあの時のハデス様は消えてしまわれたのですね」
よよと泣いてみせるアスタロテに、ハデスは冷たい視線を注ぐのみ。
『……今よりもっと、素晴らしい性格をしてたわけね』
ルカは、隣で何やら楽しそうに笑みを噛み殺したカルミラの考えていることがなんとなく分かってしまって、思わず眉根を寄せた。
「私の愛したハデス様は消えてしまわれたのですね!」
必死に訴える、アスタロテの悲痛な叫び。
ハデスはただ、
「俺はもともと、お前など好かん」
ため息と同時にそう吐き捨てた。
「おのれぇええええ!!!」
そして猛攻が始まった。
毒を滴り放つ、長く鋭く伸びた爪が振り上がる。予測していた最初の攻撃は、全く予想通り自分に来た。
緑の大剣と鋭い爪が交差し、甲高い音が辺りに響き渡る。
天が渾身の力で振るった大剣を、アスタロテはその爪で受け止めたのだ。
なんという怪力。
防御に回ろうとなどと思えば、その瞬間にグサリだ。
気を抜こうものなら、あっという間に勝敗の着きそうなせめぎ合いが、天と女悪魔の間にあった。
だが、力を拮抗させる天に向かって、髪の蛇が鎌首を上げて襲い掛かってくる。
ドガガガガガガッ!
右手の黒い銃で天に迫る蛇の首を一匹残らず刈り取りながら、左の白い銃でアスタロテの側頭部を打つ。
「天くん! 飛んで!!」
側面へと回り込み、走り続けながらカルミラが叫ぶ。
着弾する時の衝撃と火花で、大剣と渡り合うアスタロテとの力の均衡が崩れる。
天はその爪を薙ぎ払うと、大きく後ろへと跳んだ。
天の姿を追ってアスタロテが地を蹴る、その背後にルカが迫っていた。
「何っ?!」
気づかれるのが一瞬早かった。
青い軌跡を残して、ロンギヌスの突きがかわされる。
「おのれ、人間ごときが…っ」
咄嗟に空中へと逃げ延びたアスタロテの悪態が、地上の三人に降り注ぐ。
敵から視線は外さない。アスタロテを追って空を見上げた途端、女悪魔の首がおかしな方向へ、へし曲がる様を見た。
ドガァッ! ズザザザザ……、
空中から地面に叩きつけられ、砂埃を立てながら地面に沈む。
アスタロテの頭部を蹴りつけたハデスの長い足がゆっくりと下ろされ、再び、舞うように天の隣へと降りてきた。
追撃には出られなかった。
地面にまだ突っ伏したまま、ぎりぎりと立ち上がろうとしているアスタロテの静けさがやけに不気味だったからだ。
「おのれ、おのれ…、ハデス様、貴方まで、……人間ごときに付いても、何の得も、まして我らに勝ち目などないことがお分かりになられない訳がありませんでしょうに!」
怒りに任せて立ち上がる女悪魔の目は血走り、髪の蛇がまたわらわらと数を増していく。
「……そうだな、悪魔には『可能』か『不可能』しかあり得んからな」
冷めた口調で、冷静に、ハデスはそう口にした。
人間に味方しながらも、ハデスは『人間』に『不可能』なことを悟っている。
「そう、『不可能』です。人間ごときが我々悪魔と戦おうとすること自体、間違いであり、まして勝とうとするなど」
アスタロテは細く笑み、ハデスに対して再び、微かな希望を胸に灯したかもしれない。
「だが」
それを覆す言葉に、アスタロテはすぐさま顔色を変えた。
「人間には『可能性』というものが存在する。『不可能』を『可能』に変える力だ。……どうやら俺は、それを見るのが好きらしい」
ハデスはどこか穏やかに、にやりと笑った。
カルミラはそんなハデスの横顔をしばし驚いた目で眺めてから、嬉しそうに口元を引く。
ルカは真顔で黙したまま、そんなハデスの言葉を聞いていたが、天は嬉しさを隠すつもりなど微塵もないほどにこやかに笑った。
ここにいる人間たちと銀の悪魔の間にある絆のようなものを、アスタロテは理解することは出来なかっただろうし、理解する気もないだろう。
それでも、女悪魔は全てを諦めた。
わなわなと震わせていた、握りしめていた手の強さを解き、止めどなく沸き上がっていた感情を押し殺した頃、琥珀色の蛇の瞳を細めて妖艶に笑った。
「ではせめて、私が消して差し上げます。貴方の愛した人間諸共」
アスタロテがふわりと両手を広げる。
それを合図に、頭に生えている大小全ての蛇の口から、あの赤い光が生み出された。
それは、この辺り一帯を赤く照らし出すほどの数。
その全てが、空に浮き上がった。
「避けろ」
ハデスの助言を合図に、三人は跳ねるように地を蹴る。
その途端、光弾は雨のように降り注いだ。
着弾と同時に上がる爆音に耳を塞ぎたくなる。
一番小さなものであっても、それは恐ろしい威力を持っていた。
一つ地面に落ちるたびに、直径一メートルを最小に小さなクレーターのような穴ができる。避けるに徹しなければ、大ダメージを食らってしまうのは必至だ。
「あはは、何処まで避けられるかしら?」
必死で光弾の雨から逃げる三人が、まるで踊っているようだとアスタロテは高笑いをしていた。
避けた光弾が、こちらにちょっかいを出そうとうかがい見ていた魔物の中へ突っ込んでいく。容赦なく、そこにいた魔物が吹っ飛ぶ様を見て、思わず青ざめた。
「そうね。そろそろ、もっといいものをあげましょう」
「っ?!」
まだ空に光弾は残っているというのに、天は一度足を止めてアスタロテを睨み付ける。
高笑いしながら、アスタロテは両手を空高くかざした。
「There is live,(ここには生が)…and give death(そして死を). There is hope,(ここには希望が)…and give desperate(そして絶望を). Kill,(潰えよ) every silly wish(すべての希望よ)」
アスタロテを中心に、闇が広がるよう。
いいや、闇が集まってくるよう。
もちろんそれがただの闇だとは思えない。もっと禍々しく、もっと暗く淀んだものだった。
その闇に、アスタロテが紡ぐ言葉に含まれた意味に、いち早く気づいたのはルカだった。
「駄目っ、駄目です! あれを、止めて下さい!」
叫びながらも、ルカはアスタロテに向かって地面を蹴っていた。そこを狙い澄ましていたかのように赤い光弾が降り落ちてくる。
「ルカァ!!」
自分に襲い掛かってきた光弾を避けながら叫んだ天の声が、空しく響き渡る。
それぞれが遠く、離されすぎていた。
庇うことさえできない。
ルカは息を呑んで、降り落ちてくる光弾を見上げる。
赤い光がくっきりと、夜の大地に自分の影を照らし出した。
バチンッ!!
「きゃあっ!」
赤い光弾ははじけ散り、そこに巻き起こった衝撃にルカの小さな身体は簡単に後ろへと吹っ飛ばされた。
だが、ルカ自身は無傷で、地面を滑りながらもすぐに立ち上がる。
まさに光弾がルカを撃とうとしたその瞬間に、横から当てられた、同じような力によって惨事は回避された。
そんな芸当ができるのは、……ハデスしかいない。
「……バカが」
それはルカに言った言葉だったのか。
咄嗟に相殺を狙って放った力。
手を伸ばせば、軌道からして、自分の腕に落ちてくる光弾を食らうことを知っていたのに。
舌打ちを返しながら腕を下すハデスの闇の衣の袖は燃え尽き、肌は無残なまでに焼け焦げていた。
「Darkness(闇よ), bless them(祝福せよ). They’ve gave up from their Gods(神に見捨てられし者たちを)」
ハデスの行動を見ていたアスタロテは、新たな怒りに身を震わせながら、怪しげな言葉を続ける。
ぼんやりとした影が、アスタロテの周りに浮かんだことに気づいたのはその時だった。
「あれは呪いです! 呪言を終わらせては駄目!」
天も、カルミラも、その闇が尋常なことじゃないことは分かっていた。
だが、落ちてくる光弾は一向に止まず、前に進むことすらできない。
「ちぃいっ!」
カルミラがようやく放った弾丸すら、光弾を口に食んだままの蛇に飲み込まれた。
「諦めなさい。もう終わりよ」
アスタロテはこの上なく楽しげに笑って、最後の一言を告げた。
「Curse,(呪え) all living things(生きとし生けるものを)」
アスタロテの周りから溢れ出したものは、闇そのものだった。
絶対的な闇。
逃れ切れない永遠の苦痛の監獄。
あれが一度蔓延し、広がれば、大地は腐り、命あるものはもう生まれない。
人も動物も草木も何もかも。
「くそぉっ!!」
吹き上がる闇に、ひたすら歯を食いしばるしかできない。
それでも絶望などしたくなくて、闇を睨みつける。
「……ふぅ、全く『甘い』な、俺も」
そんなハデスのため息が混ざった呟きを聞いたのは、一番近くにいたルカだけだった。
「sgniht gnivil lla ,esruC .sdoG rieht morf pu evag ev‘yehT」
ハデスの口から零れる、音。
今まさに膨れ上がり、大地に降り注ごうとする闇が一瞬動きを止め、そしてハデスに向かって一直線に雪崩れ込んできた。
「逆詠唱……、まさか!」
愕然と声を零すルカに、一瞬、視線を向けるハデス。
その目が、「邪魔だ」と語っていた。
ハデスの意を汲み取り、こちらに向かってくる闇の塊を目で捉えたルカは、素早くその場から駆け去った。
「.meht sselb ,ssenkraD .hsiw yllis yreve ,lliK .etarepsed evig dna…,epoh si erehT .htaed evig dna…,evil is erehT」
ハデスの口から零れる音だけが、この夜の中に木霊する。
まるで導かれるように、そして獲物を獲たかのように、アスタロテが放った一面の闇がハデスの全身に覆い被さった。
「ハデスさん!!」
「ハデス!!」
カルミラと天の叫びが空しく、ハデスだけを包み込んだ、蠢く闇に吸い込まれる。
「あぁ、ハデス様。なんということを……」
女悪魔はうつむいて、わなわなと唇を震わせて拳を作る。
その嘆きに、天は逆上した。
「貴様ぁっ!!」
大剣を構え、今にも飛び掛っていきそうな天を、ルカは渾身の力を込めて引き止めた。
「まだ、駄目です!」
「ルカ?! ……まだ、だって?」
天はゆっくりと、ハデスを覆った闇を振り返った。
蠢く闇がそこに留まっている。
ハデスがいた、地上より少しだけ浮いた、その場所に。
「……Farewell」
急激な速さで、闇は何かに引き込まれた。
音もなく、宙に浮くハデスの足元に出来上がった暗闇。
どこまでも堕ちていけそうな深い深い暗黒の穴に、呪の闇は吸い込まれて消えていった。
後には、そこには元々何も存在しなかったような静けさが残り、ハデスはただ先ほどと全く変わらない様子で、この戦場に立っていた。
「たかがこんな呪いに呪言を唱えねばならんとは、力量が知れるな」
「ハデスウゥウッ! おのれぇええ!!」
アスタロテは地面を蹴って、ハデスに突っかかっていった。
怒り狂ったアスタロテの攻撃を、ハデスは易々とかわしていく。
二人の悪魔の戦いは上空にまで及んだ。
「ルカ! お願いがあるの!」
全速力でこちらに駆け寄ってきたカルミラは、そのまま息もつかずに捲し立てる。
「どうにか、この辺り一帯だけ浄化できないかしら? 朝まで持てばいい、あのアスタロテが周りにいる魔物を引き寄せようと思う前に、あいつらがここに入れないような結界か、防壁か、浄化か」
作戦を立てるなら、今しかないだろう。
ハデスは上手くアスタロテを煽りながら、こちらと距離を置こうとしている。
ハデスなりに、時間を作ってくれているのだ。それを無駄にしてはいけない。
「悪いけど、私はそういう防御系のことはできないわ。天くんも無理よ。だから今は貴女に頼るわ。貴女の能力、信用してるから」
カルミラは明るい笑顔を浮かべて、ルカの肩を叩いた。
「あいつは、僕が引きつけます。カルミラさんはルカのサポートと援護をお願いします」
天もまたルカの肩を叩いて、敵の元へと駆けていった。
「分かりました。ですが、少し時間がかかります」
ルカは髪を縛っていた護符を半分のところで切り取り、それをロンギヌスの刃で四つに裂いた。
「オッケイ、私もあっちに行くけど、貴女にちょっかい出す魔物なんて気にしないで。責任を持って撃ち抜くわ」
頷くルカを見てから、カルミラも戦場へ戻っていく。
……不思議だった。
ルカが樹管理所に来て、実質一日も経っていない。
それなのに、この信頼はなんなのか、と。
だがそれを考えるのは後だ。
今は、この戦闘を終わらせるために走るだけ。
……胸の奥にあるはずの闇は、今この時、ひどく軽く感じられた。
「くぅあああああっ!」
片手で押さえられた大剣を、その腕ごと振り上げる。
確かな手ごたえがあり、ぼたぼたぼたと、胴を半分に切り落とされた蛇が落ちてくる。
「図に乗るな、人間め!!」
振り下ろされる爪を避ける。
間髪入れず、そこに出来る天の隙を庇うようにカルミラの銃撃が入る。
あの爪に刺されでもしたら、あっという間に毒の餌食だ。
アスタロテは銃撃に押されもせず、天との間合いを詰めてくる。その間に、突如間合い内に現れたハデスが、アスタロテの身体を蹴り飛ばした。
そして出来た距離に、天は再び体勢を整える。
この攻防が、既に二度繰り返されていた。
しかし、アスタロテに致命傷を与えることはできていない。
カルミラの銃撃では、決定的一撃を与えるのは無理だろう。
ハデスが本気を出してくれれば、戦闘は簡単に終わるかもしれない。
だが、天もカルミラもそれを望んではいなかった。
悪魔の力で、悪魔を葬り去る。それは、自分たちのためには決してならない。
彼が協力してくれているのは、気まぐれに過ぎず、ハデスの力は、あくまでもサポートと思わなければいけない。
もし、ハデスの力に頼りすぎるなどという愚考に走ると、折角築いたこの奇妙な信頼関係すら壊すだろう。
……だから、僕がやらないと。
アスタロテが、自分が剣を振るうたびに回避行動を取るということは、剣戟を受けても全くダメージを食らわないわけではないはずだ。
現に、髪の蛇はどんどん切り落とされて数を減らしている。
そう、僕がやらないと。
女悪魔を追って疾走する、天の動きに無駄も、迷いもなかった。
「三つ目」
護符を地面に埋めると、ルカは再び走り出した。
時々、カルミラが言っていた通り、自分を狙ってくる外巻きの『低級魔物』を撃ち抜く弾丸が飛んでくる。
今築こうとしている正方形の陣の中心では、天がアスタロテへと疾走するところだった。自らの背ほどもある大剣を振るう天の姿を横目に、ルカはただ懸命に走り続けた。
剣戟が火花を散らす。
絶え間ない銃撃が響く。
自分の出来ることを、早く、早く終わらせて、あそこに。
「これで、四つ目!」
最後の護符を地に埋めて、ルカは顔を上げた。
これで完成ではない。
早く、あそこへ。
ルカが駆け出す前に、大きな金属音が響いた。
ギャリギャリギャリ…ン!!!!
「な……っに?!」
獲った、と、思った。
見ていたカルミラでさえ思った、会心の一撃だった。
――――…カルミラの銃弾がアスタロテの片目を潰した。
怒り狂い、カルミラに襲い掛かりに来たアスタロテ自身を蹴りつけ上空へ跳ね上がった天は、そのまま重力と、自らの意思で剣を構えた姿で落下していく。
安易に回避行動を取ることの出来なくなる上空からの攻撃。嘲笑ったアスタロテに、ハデスが何もしなかったわけがない。
そのハデスの拳と、踵蹴りは正に鉄槌だった。
女悪魔の頬を打ち、目を眩ませ、その肩に振り落ちた踵蹴りの衝撃でアスタロテの片足が地面にめり込む。
回避を取れなくなったのは、アスタロテの方だった。
全体重、落下速度、全てを大剣にかけて、天はその一撃を振り下ろした…――――
――――……それなのに、アスタロテはほぼ、無傷。
肩口から腹にかけて、刃を弾いた蛇の皮膚は擦れて赤い線を残しただけだった。
「あら、残念」
口元を愉悦に歪ませ、嘲ったアスタロテは目下にいる天を激しく蹴上げた。
意識が遠退きそうな一撃が、腹から全身を突き上げた。
「ぐふ……っ!」
スローモーションで、宙に放り投げだされていくような感覚。
いや、事実、飛んでいるのだろう。
重い大剣を持ったままの天の体は、簡単に宙を舞っていた。
口の中が鉄の味で一杯になる。
胃から逆流して、込み上げてきたのは血だ。
たった一撃で、内臓がイカれた。
消え入りそうな意識を総動員して、治療を作り出す。
回復の力を集めた手を、どうにか腹に当てた
救いだったのは、地面に激突する、落下の衝撃がなかったこと。
それは、ハデスが咄嗟に自分を受け止めてくれたからだということすら、すぐには理解できなかった。
「はあっ、はあっ! ぐ…っ」
体内であろうと、傷が塞がっていくのが感じられる。
痛みが薄れる。
身体機能が正常に返る。
その間、倒れた天に近付けないよう、息継ぎも出来ぬほどの銃弾の嵐がアスタロテに注がれていた。
「天くん! 意識はあるわね!!」
「はい…っ! あ、れ? ハデスさん…、ありがと、ございます」
口から零れた血を無造作に拭い、無事立ち上がれるまで回復すると、ハデスは天を離して立ち上がった。
カルミラが銃攻を止める。ただし、すぐにでも次弾は発射されるよう構えて。
「まあぁ、しぶといのね」
アスタロテはほとほと辟易した様子で、天を眺め見た。
もちろんハデスに受け止められたことも、その腕の中に大事そうに納まっていたことも、じっと。
先ほどカルミラが潰したアスタロテの目は、ぐちゅぐちゅと音を立てながら再生していく。カルミラはその様子に、隠しもせずに舌打ちを返した。
「もうこんなやり取りには飽いたわ。そろそろ、死んでくださる?」
アスタロテの余裕の笑みが、いやに不敵だった。
その笑みに霞がかかる。
「なっ?!」
「……っ?!」
「霧?! 何だ、これ?!」
白い霧は濛々とアスタロテの身体を包んで吹き上がり、視界はあっという間に白く変わった。
伸ばした手の先さえ見えないほど、真白。毒かと思い、手で鼻と口を塞ぐが、どうやら毒ではない。
だが、頭の奥にまで霞がかかるような錯覚を覚えた。
「目暗まし、なのか?!」
天は大剣を正眼に構えた。
視覚に頼れないとなれば、いつ敵が襲い掛かってくるか、空気の流れだけで感じ取らなければならない。
「カルミラさん! ハデスさん!」
叫んでみたが、返事は返ってこない。
心の中で、大きく舌打ちを返した。
真っ白な霧の中に、うっすら人影が揺れる。
ぎり、と歯を食いしばると、天はいつでも地を蹴れるように大剣を握りしめた。
「……天? そんなところで何してるの?」
――――……懐かしい、声。
「あ……? あ、姉、さん?」
違う、こんなところに、姉さんがいるわけがない。
だって、今は、戦って……?
……今、この手に握っていたはずの愛用の大剣がない。
必死で辺りを見回すが、気がつくと大剣はいつものように背に負っていた。
奇妙な違和感が込み上げる。
でも、いつもの、上機嫌な姉の笑顔が目の前にある。
「天ぁ、ご飯作ろー。お腹空いたでしょー?」
昼前のにぎやかな市場の風景。
今日は何にしよう、と聞いてくる姉の姿。
見知った人たちが笑顔で声をかけてくれる。
この風景、どこかで見た。
見た。
……見た、はず。
「天、早くぅー!」
「あ、あ…、うん」
頭の奥が、ただ真っ白に変わった。
*
どちらを向いても真っ白だった。
とりあえず、自分の腕は信じている。
最初に構え、狙いを付けた場所にあの女悪魔はいるはずだ。
だから、この構えを解くわけにはいかない。
「天くん! ハデス!」
呼びかけても返事どころか、物音一つ耳に届かない。
「く…っ、一体、何なのよ、これ!」
ただひたすら、いるはずのアスタロテに向かって悪態を吐く。
ドサリ、真横に何かが落ちた。
咄嗟にそちらへ銃口を向ける。
「……っ物騒だな、おい」
あちこち血を伴った、傷だらけの姿。一際重症そうな腹を抱える手や服には、べったりと血の跡。
「……朔」
そこに、いるはずのない人が、そこにいた。
嘘よ、だって今、戦って……!
気づいた時にはもう、双銃をホルダーに仕舞い、朔の隣に膝を着いていた。
ひどい違和感が全身を襲う。
「うぐっ!!」
「朔!」
目の前で痛みを堪えながらも呻いた朔の手を、思わず握った。
「悪い、帰ってくるの、遅くなって」
見間違えるはずのない、どんな時でも太陽のような、朔らしい、朔の笑顔。
間違いない、と思った瞬間に、感じていたはずの違和感は嘘のように消え失せた。
込み上げてくるものを、必死で堪える。
「遅すぎるのよ! どれだけ心配したと……」
「悪い、……ほんと、ごめんな、カル」
血だらけの手が頬に触れる。
涙を拭ってくれたのだと、その時、知った。
*
全てが白く染め上げられていた。
自分の目をもってしても、隣にいた天の姿を見出すことさえ出来ない。
「ちっ」
どうやら、多少なりとも力のある魔気を含んでいるらしいこの霧。
頭がゆっくりと重くなって、判断が鈍ってくるのが分かる。
――――…ハデス?」
目の前に現れた、ぼんやりとした人影を打ち砕くことなど容易かった。
それが幻影であれ、魔術であれ、罠であろうと。
だが、その声は、現れた人は、自分の中からそんな考えだけを削ぎ落とした。
「ハデスなの? どうしてそんなところにいるのー」
少しむくれて、笑う、無邪気な笑顔。
そんなところと彼女が言った、そこは彼女の家のドアの前だった。
おかしいと、思わなかったわけではない。
買い物を終えてきたばかりの両手の荷物を足元に置き、彼女は笑顔のまま有無を言わさず抱きついてくる。
髪の匂い、肌の合わさる感覚、細い腕が自分を抱く強さ、見上げてくる瞳の柔らかさ。
「あぁ、……海」
抱きしめ返した身体、それは確かに、彼女のものだった。
*
戦場に駆けつけたと思った瞬間に、目の前が真っ白に変わった。
「何、これ」
霧のようなものの中をひた走る。
手を伸ばした先さえ見えなくても、大体の場所の見当はついている。
ぼんやりとした影が見えてくる。
ルカは迷わず、ロンギヌスの柄を支えに、両足でそれに蹴りつけた…――――
どかっ!!
「何ぃ?!」
飛んできた女悪魔の声に、ルカは颯爽と地面に着地し、態勢を整えた。
白い霧がゆっくりと晴れてくる。
最初に姿を現したアスタロテが、この上ない怒りの形相で、まだ白い霧の中に隠れている、自分を蹴りつけた者の姿を探そうとしている。
残っていた霧も、やがて晴れてくる。
その中から現れた、薄い青と緑に光るロンギヌスを構えたルカの姿に、アスタロテは愕然とした。
「何故だ、お前!!」
その言葉と驚きの意味を、全ての霧が晴れた瞬間に理解した。
天、カルミラ、ハデスは、各々地に膝を屈した姿のまま、光のない目で焦点の定まらない場所を見ていた。
その身に、完全に生気はない。
「何をした!!」
逆上するルカの手の中で、ロンギヌスが光を放つ。
「あら、いい夢を見せてあげているだけよ。極上の幻想を」
神槍の放つ光に多少、物怖じしながらも、アスタロテは口元に手を当て高らかに笑った。
「天殿! カルミラ殿!! ……ッハデス!!」
笑うアスタロテから目を反らせば、攻撃を受けてしまうだろう。
ルカは三人に振り返りもしないまま、その名を叫んだ。
「ふふふっ、呼んでも無駄よ。……それより貴女、何故夢に堕ちないのかしら?」
それがとても不服なのか、アスタロテの満足げだった瞳が、突然鋭いものに変わった。
「……あはっ、貴女、愛する人がいないのね? 今も、今までも」
ルカがぎりり、と歯を噛み締める。
そんなルカの表情に、アスタロテは心から、高らかに声を上げて笑った。
「あはははっ、寂しいわね、人間。貴女、己の家族さえ愛していなかったのね! 人間はそういうものを一番に大事にするとは聞いていたけれど、貴女は違うのね! 何故? 貴女もしかして欠陥品? 生まれたときから愛を知っていることだけが人間の取り柄じゃないのかしら?」
心の底から嘲り笑う。
けたたましく高笑いするアスタロテの姿を、ルカは涼やかな、冷静すぎるほど冷静な面持ちで一瞥した。
少なからず、ハデスに愛を語ったアスタロテにとって愛は重要なものであるのだろう。女悪魔にとって、人間でありながら、それを持ち得ないと思われるルカがおかしくてならなかったのだ。
「そうですね、私は誰も愛していない」
「あら、開き直るの?」
「いいえ、事実ですから」
静かに、ルカはロンギヌスを構えた。
一番この身についた、一番戦い易い、一番、敵を殺してきた構え。
「私は誰も愛せなかった。家族さえ。それは事実。……私も、愛されなかったとは思わない、だけど、決して愛されていたとは思えない」
だから私は、人を愛する術なんて知らない。
地を蹴ったルカに風がついて走る。
その突きはまさに、一陣の風だった。
咄嗟に頭を庇ったアスタロテの手が、爪ごと吹っ飛ぶ。
手首から先が消し飛ばされ、痛みにアスタロテが悲鳴を上げる前に、ルカは再び元の位置に戻っていた。
「ぎゃああああっ!!」
叫んだアスタロテの頭から根こそぎ、いくつもの蛇が落ち、砂に還った。
「彼らを元に戻しなさい。……いや、お前を倒すほうが早いか」
ルカのまとう空気は、静かなものだった。
だが、そこから発せられる敵意と殺意、静かに燃える青い炎のような怒りに、アスタロテは初めて、敗北の恐怖を知ったかもしれない。
「私を倒せば、彼らは二度と元には戻らないわよ」
怯えながらも、どこか勝ち誇ったようにアスタロテが引きつった笑みを浮かべる。
ルカは『そんなもの』を、平然と聞いただけだった。
「心配はない。お前が思うよりも彼らは弱くない。決して幻などには屈しはしない」
たん、とルカは地を蹴った。
その瞬間しか、アスタロテには見えなかった。
ぐらりと地面が傾く。いや、傾いていたのはアスタロテの方だった。
既に背後にいたルカの持つロンギヌスの切っ先に、アスタロテの蛇の肌をした、膝から下の足が刺さっている。それもまた、見る間にザラリと砂に還った。
「く、ぐぐぐっ」
足を失ったことで、地面に立ち続けることが出来ず、アスタロテは少し宙に浮いて平衡を保っている。
蛇の目がルカを強く睨みつけながら、忌々しげに唇を噛み締める。
「お前など、お前のような欠陥品に、こんな、こんな屈辱…っ」
怒りに伴って、切り落とされた分の髪の蛇が増殖していく。
ひゅるり、と槍を構え直した、空を切る音が聞こえる。
「欠陥品? そうかもしれません。私も自分をそうだと思って、この世で一番信用できる方に聞きました。『正しい愛し方を教えてください』と。『貴方の愛し方を見習わせてください』と」
足がない分、宙に浮いている分、スピードを増して襲い掛かってきたアスタロテの攻撃をかわし、迎撃に揮った刃で、手がついていない方の腕を切り落とし、またそれを砂に還した。
「ちくしょう! 人間めぇ!!」
どうやら頭の蛇はどんどん生まれてくるようだが、肝心のロンギヌスに切られた場所は再生しない。
激しく威嚇の声を上げる髪の蛇と、アスタロテの琥珀の蛇の目を見つめ返しながら、ルカは平静とした気持ちで口を開いた。
「私はその方に、大いに笑われました。『きっとこの世の誰だって正しい愛し方なんて知らないよ』と」
まだ小さな少女と呼べるルカの頭に手を置いて、英雄、樹朔は満面に笑った。
『何も心配はいらない。きっと君を救ってくれる人が現れる。永遠だとさえ思わせる孤独からも、独りだと思わせる夜からも。だから何を悩むことはない。……強くなろう。君を救ってくれる人は、君が救わなければいけない人だ』
あの時の言葉を理解できる日が来ることはあるのだろうか、と今でも思う。
だけど、朔様の、あの太陽のような暖かい笑みを、あの言葉を告げてくれた時の顔を、忘れられる訳がない。
……今日、出会って分かった。
朔様、貴方はカルミラ殿に救われたのですね。
そして、貴方は、カルミラ殿を救ったのですね。
……ならば帰ってこないと。
貴方の奥方は、お寂しそうです。
私は、カルミラ殿を助けます。
貴方の無事を信じ、貴方を探し続けるカルミラ殿に、協力を惜しみません。
樹管理所で、ずっと。
アスタロテの視界から再びルカの姿が消え失せ、同時に揮われたロンギヌスの切っ先が女悪魔の肩を奪い去った。
「ぎぃいいいいぃっ!! よくも、よくも、よくも!! 見ておれぇ!!」
自分に向かってくると思ったが、甘かった。
アスタロテはルカの予想に反して、目の前にいる己の肉体を切り刻んだ敵に目もくれず、幻覚の虜となりった三人の元へと向かっていった。
「しま……っ!!」
すぐさま、その後を追って地を蹴る。
「こんなもの、殺してくれるわ!!」
長く鋭い爪が猛然と振り上がり、その毒が飛び散る。
一番手前にいるのは、……カルミラだ。
名を叫ぶ声さえ、幻の虜となった彼女の耳には届かない。
呆然と空虚な瞳をしたカルミラの頭上で、毒の雫により艶かしく光るアスタロテの爪が輝いた。
――――…地面に血が飛ぶ。
カルミラの前に身を挺し、庇うしかできなかったルカの肩を、アスタロテの爪は見事に貫いていた。
「ぐぅ……っ!」
異物が突き立てられた肩はあっという間に熱を持つ。その熱が広がるのと同時に、毒と混ざった鮮血が傷口から噴き出した。
「ふ…っ、ふふふふ、だから人間など、馬鹿だと言うのよ」
苦痛に歯を食いしばり、顔を歪めたルカを見て、アスタロテは楽しげに笑った。
その歓喜を聞きつけて、ざわざわと髪の蛇が増殖を始める。
唯一、自分に死の恐怖を与えた戦士が、動きもしない仲間を助けた。
それも、死と引き換えに。
「食い殺せ!」
アスタロテの声を合図に、幾千の蛇が一斉にルカの細い体に牙を立てた。
「うわぁあああああああっ!!!!!」
その叫びが、まるで最高の音楽であるかのように、アスタロテは嬉々として目を細め、愉悦に口元を歪める。
「ほぉら、あなたが必死に庇った仲間を見てごらん。助けでも求めてみる? 無駄でしょうけど」
蛇に食まれた場所から肌が変色していく。体内に容赦なく大量の異物が侵入してくるのが分かる。
熱と痛み、痺れ、そしてそれを感じ取る感覚さえ食われていくよう。
……まだ、……まだだ。
こんなところで、やられる訳には……っ!
力の入らない震える手を、カルミラへと伸ばす。
「ふふっ、食っておしまい」
そんなルカの最後の抗いさえ楽しげに、無数の蛇がその手に喰らいついた。