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Holy&Evil  作者:
4/20

魔女

/樹管理所前/

[A.M. 0:51]


「じゃあ、行きましょうか」


 各々、戦闘装備を整えた格好で、夜の闇の中に進み出る。

 重く圧し掛かるような夜の空気。それを肌で感じ取って、自然と、緊張感が生まれる。

 カルミラを先頭に、天とルカが並んで続く。

 ハデスの姿はここにはない。

 目指している、落ち合う先は、街の北門。

 ここから街の外に出るには、一番近い門、既にそこにいるはずだ。

 夕食を終え、室内に戻った後、長旅の疲れが出たのだろう、睡魔に負けていたルカはつい先ほど叩き起こされたばかり。まだ眠気が残っているのか、コソコソと目を擦っているのに気づいて、天は少し微笑んだ。

 それに気づいたのか、笑顔の天と目が合ってルカは少しむくれる。


「まだ眠い?」


「……普段はこんなことにはなりません。でも樹管理所は、あそこは……、反則です」


 管理所は、建物全体が、樹朔が妻であるカルミラのために施した絶対防御結界によって守られている。

 それはたとえ、街全てが消し飛ぶほどの攻撃を受けても、あの一角だけは何ら影響も受けずに残ると確信を持って言えるほどの強力さだ。


「うん、あそこは反則だな。僕もそう思う」


 笑顔で賛同してくれる天に、ルカはほんの少しホッとしたような表情を浮かべながら、照れを隠しきれていない様子で口を開く。


「……共に戦っていた時、他の戦士を眠らせるために朔様が起きていてくださる時がありました。その時のようです。一片の疑いもなく眠っていられる、……それはもう、あり得ないはずなのですが」


「馬鹿ね、寝られる時に寝ないでどうするのよ。あそこで貴女が安心できるなら、それでいいじゃない」


 カルミラは振り向きもせずに、どこか冷たさを含んだ冷静な声でそう言い放つ。

 ルカは何故か、とても申し訳なさそうな目でカルミラの後姿を見つめてから、視線を落とした。

 それきり、三人は口を閉ざす。

 天はただ、この夜の闇に浸った瞬間に、カルミラの雰囲気が変わったことを不思議に思っていた。

はじめて見る、カルミラの完全戦闘装備、それのせいなのか。

ピシリと隙間もないほど上半身を包む軽ボディアーマー。両肩から胸元に予備の銃弾を綴り、その上にジャケットを羽織る。膝の上までくる魔物退治者(バスター)たちが愛用するブーツの改造版と、ショートパンツとの境にわずかに見える白い肌、その両太腿に愛用の二丁拳銃を吊るす。

腰の革ベルトには同じく革でできた数十個の小物入れがあり、その全てが膨らんでいる。何が入っているのかとは思ったが、そんなことを聞ける雰囲気ではなかった。


「……何処へ、向かわれるのですか?」


 ルカの問いに、カルミラは少しだけ振り返って答える。


「あぁ、ルカは寝ていたものね」


 辿り着いた北門は、もちろんしっかりと閉ざされている。

 カルミラは前もって話をつけてあったのか、簡単に門番と言葉を交わし、彼らが開けてくれた、人一人がようやく通れる大きさの通用門から外へと出て行く。

 素早く、二人もそれに続いて街の外へ出る。

 後ろで、硬く門が閉ざされた音が聞こえた。


 途端に、より一層、深く、濃く、闇の重さが変わる。

 眩暈と狂気さえ覚える漆黒の闇。

 瘴気とでも言える密度の大気。

 一歩足を進めるだけで命が絶たれてもおかしくはない、死と隣り合わせの夜の重圧。

 それを和らげるのは、自分が装備する法衣や、法具、対魔アクセサリー(アミュレット)の力による守りのみ。己が命を守る為、頼れるのは、今まで培ってきた力と、仲間しかいない。

 外に出る瞬間から、天はその背の大剣を手にし、カルミラは双銃を両手に握っていた。ルカだけは普段からロンギヌスをどこかに納めることはせず、手に持っているのだが、やはり彼女がまとう緊張感も、戦闘に挑むそれに変わっていた。

 街から一歩、夜の大地に踏み込めば、戦闘は必ずあるものだ。

 もう一度、行く場所を知りたそうに視線を送ってくるルカの顔をチラリと一瞥してから、カルミラは口を開いた。


「最近知ったんだけど、街を少し離れた場所、でも案外近くに魔女がいるのよね。だからちょっと、情報収集のために」


 ふと、カルミラが空色の瞳を上空に向ける。

 二人がそれを目で追う前に、街を守る高い防壁の上から、音もなく、闇よりも深い影が銀色の輝きを連れて舞い降りてきた。

 一瞬身構えたが、それが見知ったものであると、すぐさま気付く。

 まるで重さなど感じさせない身軽さで音もなく不毛な大地に降り立つ、しなやかな闇。


「遅い」


「す、すみません」


 ハデスのぼやきに、天だけが律儀に謝った。

 ルカは完全に無視。カルミラは少し笑って、先導するためにすぐ身を反転させた。


「行くわよ」


 有無を言わさず、カルミラは濃い闇の中に駆け出す。

 その背中を見失わないように、続いて闇の中へ駆け込んでいった。





                       *

 カルミラが近いと言ったのは本当だった。

 目を凝らせば、街の防壁の破邪の光がうっすらと見えるほどの距離。

 もうすぐ満ちる月がある分、荒野と化した大地が薄青く照らされている様が良く見えた。ただ、来た道の半分は蹴散らした魔物の、腐臭を撒き散らす血液で黒く染まっていたが。


「この辺のはずだわ。ハデス、何か見えない?」


 ようやく立ち止まり、カルミラは自分たちの背よりも少し上空を飛ぶハデスに声をかけた。

 途中、遭遇した敵の量から策を変えて、道を切り開く役を買って出た天も、さすがに息を切らせながら、額を伝い落ちてくる汗を拭っている。

 全力疾走プラス敵の薙ぎ払い。ここに来るまでの道に出来ている魔物の死骸は、ほとんどが天作だ。

 今は息を整えようとする天を、ルカが守ってくれている。


「今のうちに回復を」


「あり、がと」


 律儀に礼を言ってくる天の笑顔に、ルカは無表情のまま短く「いえ」と呟いた。

 カルミラに問われ、辺りに視線を走らせているハデスを見上げる。

 どれだけ深い闇であろうと、それは視界を阻むものには成りえない。夜に君臨するものの瞳は、まるでこの夜をどこまでも見通しているかのようだ。


「……すぐそこに、僅かだが空間の(たわ)みが見える」


 ハデスが指差す先を見ても、全く持って何かがあるようには見えない。だが、確信を持って、カルミラは頷く。


「そこだわ、行くわよ」


「はい…っ」


 剣に寄りかかるようにして息を整えていた天が顔を上げ切る、それより速く、カルミラの銃口が天に向けられた。


「っ?!」


 ズダン、と乾いた銃声が響き、天の耳元を飛んでいった銃弾が、その背後の闇で爪を振り上げていた魔物を一つ、地に堕とした。


「油断は駄目よ、ルカ」


 カルミラは、もう前を向いて走り出していた。

 その背中が、「守る役目を負ったのなら、一分の隙もなくそれを全うしなくてはいけない」と、ルカを静かに叱咤している。

 ほんの微かな油断だった。

 あと一瞬あれば、ルカも敵の攻撃に気付いていただろう。

 だがその一瞬の時間が足りないだけで、簡単に命の危機が迫ることを、魔物退治者(バスター)たちは身に染みて知っている。


「すみません、天殿」


「大丈夫だよ」


 謝ってくるルカに、片目を瞑って笑顔を浮かべてみせる。

 そして、揃ってカルミラの後に続こうと走り出す。

 が、すぐに、とっくに立ち止まっていたカルミラの背中に二人揃って突撃してしまうことになった。


「うわっ!」


「きゃっ!」


「きゃあっ、何すんのよ!」


 倒れかける勢いで前に進む。

 その瞬間に、三人は何か不思議な壁を通り抜けたことを肌で感じ取った。

 ぶわん、とした柔らかな感触が一度全身を包んだ後、何事もなかったかのように放り出される。

 三人は、もみくちゃになりながらも倒れることは無かったが、怒りを露わにしたカルミラは声を荒げて叫んだ。


「中が猛毒だったらどうする気よ! 前を見なさい前を!」


「すみません!」


「申し訳ありません」


 カルミラの叱責を受けつつ体勢を直し、三人は眼前に視線を戻す。

 そう広くはない範囲を円状に、ここだけ完全に空間が違っていた。

 確かに、闇の気配や大気の重さは変わらない。だが決定的に違うのは、ここには魔物の存在がないということ。

 この場所、この空間だけ、魔物の存在が排除されているのだ。

 人間がこの空間に入ることを拒まれてはいないところを見ると、どうやら、ここがカルミラの言っていた目的地、魔女の居る場所なのだろう。


「ハデス、入ってこられる?」


 振り返り、まだ自分たちよりもずっと後方にいたハデスに声をかける。


「……たぶんな」


 内側から見れば、紫色の、まるで薄いヴェールの壁のようなものがどこまでも上へとそびえ立っているのが分かる。

 ハデスはゆっくりと手を伸ばす。

 拒絶され、跳ね返されるかとも思ったが、紫色の壁はそれ自体、何も存在していないかのようにハデスの美しい手を通した。

 カルミラがほっとした表情を浮かべる。

 紫色の壁を通り抜け、ハデスは三人の隣に降り立った。

 壁の向こうをよく見れば、魔物の色とりどりの目が恨めしげにこちらを睨みつけているのが見えた。


「ここには入って来られないんですね」


「みたいね」


 気を取り直して辺りを窺い見るが、この空間の中心部に、まるで昔の移動民族が使っていたような白いテントがぽつんとあるだけだった。


「……魔女、ですか」


 ボソリと呟く天の声に、カルミラは、ん? と声を上げて振り返った。


「あぁ、魔女は魔女だけど、彼女は人間よ? 切りかかっちゃだめよ、ルカ」


 昼間の前科を口にして、カルミラは明るく笑った。

 さすがにカルミラにチクチク釘を刺されるのは堪えるのか、ルカは黙って唇を引き結ぶ。


「取りあえず、お邪魔しましょう。話はそれからね」


 勢い勇み、連れ立ってテントへ向かう。


――――…神槍の乙女よ、立ち止まってください…――――


 ルカは一人、ピタリと足を止めた。


「ルカ?」


「どうし……」


――――…申し訳ありませんが、あなたはご遠慮ください」


 テントの入り口をすぐ前にして、ようやくその声が皆にも聞こえた。

 静かな、透明な、そしてよく通る声。

 そして誰もが、どこかで聞いたことがある声だと思いさえした。


「あなたの力に、私は耐えかねます…――――


 声が止んで、再び辺りは静寂に返る。

 それが魔女の言葉であるということなど、確かめなくても分かってしまう。

 カルミラと天は、同時にルカを見やった。

 ルカは十二英雄の一人だ。

 彼女の揮う神槍ロンギヌスは、伝説的逸話を持つ神具。それ単独ででも、物凄い聖の気を放っている。

 ルカはそれを揮える、ただ一人の人物。彼女がまとう聖なる気もまた、闇に住む者には羨望の、気高く尊い、自分たちの命を奪う光。

 そして魔物退治者(バスター)として装備している対魔アクセサリー(アミュレット)。

 極めつけは、英雄の誰もが持っている、『賢者』から授かった『光の祝福』によってその身を強力な破邪の力で覆われていること。

 魔女は人間だとカルミラは先ほど言っていたが、闇の眷属であることには変わりない。彼女が自ら、ルカの力に耐えられないと言ってきたのだ。疑う余地もないだろう。

 カルミラは腕を組むと、少し呻って考えてから、ため息を吐き出した。


「仕方ないわね、ルカ。ここで待っててくれる?」


「分かりました」


 特に渋る様子もなく、ルカは潔いほど待機を受け入れた。

 ごめんね、と呟いて、カルミラは布の入り口をくぐる。

 天はルカの肩を軽く叩いてから、中に入る。

 ハデスはさっさと中に入っていた。



                     *

 ……ロウソクの灯りで、テントの中は明るく照らされていた。

 天が想像していたよりも、そこは至って普通だった。

 もっと、髑髏が飾ってあったり、何かがボコボコ音を立てて煮えていたり、奇々怪々な物体がひしめき合っていたりする、暗く湿った実験室のような魔女の部屋を想像していたが、そこは清潔感のある、普通の生活ができそうな場所だった。

 ただ、テント内部、中央にある椅子に、静かに女性らしき人物が座っているだけ。

 それ以外の何も、このテントの中にはありはしなかった。

 濃い群青色に金糸の模様、それに紫の縁取りのローブ。体系の稜線から見て女性と断定できるが、目深に被ったフードは、彼女の口元だけを露出させているのみ。

 手も、足も、何もかも蒼いローブの中だった。


「お待ちしておりました。お掛け下さい」


 布ずれの音もなく、彼女の袖が動く。

 三人の背後には、先ほどまでありもしなかった椅子が用意されていた。

 カルミラとハデスは何の迷いもなく、それに座り、一人驚いていた天は、彼らを見習っておずおずと腰掛ける。


「お待ちして、と言われたわね。私たちが来ること、分かっていたのね?」


「はい、もちろんその目的も」


 形のいい唇、赤い花のようなそれが言葉を続ける。


「私の能力がお望みなら叶えましょう。ですが、見返りはいただきます」


 何の感情も表さない声。言葉を紡ぐ以外の動きをしない口が告げる。


「どんな、……見返りですか?」


 怯え、警戒した口調で、天が問いかけた。


「あなた方に触れた瞬間より私はあなた方の悪夢を共有します。あなた方はそれに、二日ほど、うなされることでしょう」


 天は少し胸を撫で下ろした。

 カルミラは渋い顔をして、小さく舌打ちを返している。


「それなら……」


「もちろんその夢は普通のものではありません。あなた方の精神に直接触れるものです。夢とはいえ、その意思が屈した瞬間に死にます」


 天の顔色が、さっと青く変わる。


「あなた方が実際に、一番恐ろしいと思うこと、また思ったことが続きます。それも絶え間なく、数倍の恐怖と共に。私はそこに生まれるあなた方のエネルギーを頂きます。夢に取り込まれて命を落とされようが、私にはどうすることも出来ないことだけは先にお伝えしておきます」


 カルミラは唇を噛み締める。だがその目は、真っすぐに彼女を見つめていた。


「どうなされますか、今なら引き返せます」


「引き返すわけがないでしょう? 何のためにこんなところへ来たと思ってるのよ」


 カルミラは立ち上がって、自分から彼女の側へ近づいた。


「さぁ、やって頂戴。そして私の求める者の居場所を、答えて」


 怒りにも似た感情に染まった、美しい青空色の瞳。それを目の当たりにして、天は目を見開いた。

 あんな目をするカルミラを、以前にも見たことがある。


『そう、朔さんの話をしていた時だ…』


 分かっていたけれど、改めて深く、理解する。

……カルミラは、ただひたすらに、今も行方の知れない朔を探しているのだ。


「では、目を閉じて。気を確かに持ってください。触れているときに気を失えば、取り込んでしまいますよ」


 音もなく魔女は立ち上がる。

 言われるままに目を閉じ、唇を強く引き結んだカルミラの額に手をかざす。

 袖の奥から現れた魔女の小さな白い手が、金色の前髪を掻き上げ、カルミラの形のいい額に触れた。


「ぐっ?! …うっ、く……っ!」


 彼女に触れられた瞬間に、カルミラが感じたのは痛みだけだった。

 それも、内側から溢れてくるような、外側から包み込まれるような痛みに、全身を苛まれる。肉体が切り刻まれているのか、精神を切り刻まれているのか区別すら付かない。それを堪えるために、きつく噛み合わせた奥歯が音を立てる。


「終わりました」


 彼女が手を離すと、カルミラは自分で自分の身体をぎゅっと抱いた。


「…っで? 朔は…?!」


 切れ切れの声で問いかける。震え始める膝に手を当てて押さえ、彼女を睨むように見上げた。


「残念ですが、樹朔の姿は見えませんでした。私に見えぬということは、地上にはなく、魔界にあり、私の入れぬ場所となります」


「……魔界?」


「はい。魔界には生身の人間は入れません」


「そんなの…っ、そんなことが知りたいんじゃないわ!」


「はい。ですがあなたの望むものは、ごく近い時間に迫っています。このまま、龍の子と銀の悪魔の近くに在り、共に戦いなさい。そうすることで、そう遠くない未来に貴女は救われます」


 魔女の言葉を一字一句聞き逃さず飲み込んだカルミラは、ゆっくりと、だが噛み切るほど強く、唇を噛み締めた。


「……救われたいわけじゃないわ」


 とても小さな声で呟いた、カルミラの声は天には聞こえなかった。


「はい。ですが、希望はあるのです。今は止まっていますが、既に貴女の中に。……貴女の中に見えたのはこれだけです」


 カルミラは、ひたすらに痛切な顔をして、彼女の前から一歩下がった。


「ありがとう。……天くん、次は貴方よ」


 天は反射的に立ち上がって彼女の前までやってきたが、少しためらい、隣にいるカルミラに向き直った。


「カルミラさん、でも、僕、知りたいことはないと思うんですけど」


 首を傾げる天に、カルミラは弱々しく苦笑する。


「……ここに入ってこられるのは、知りたいことがあるからよ。それ以外はきっとあの壁に跳ね返されるはずだわ」


 蒼いローブのフードに隠れた魔女の頭が、その通り、と頷くのが見えた。


「でも…」


「構わないわ、止めておいても……っ?!」


 急に、カルミラは膝から崩れ、細い身体が目の前でガクンと落ちた。


「危な…っ!」


 天は咄嗟に、崩れた落ちたカルミラを抱き止める。

 だがその瞬間に、真後ろで、天の背に納められた大剣の先端が魔女の足を払っていた。

 椅子に向かって、まるでスローモーションのように倒れていく魔女に、天は何も考えずに手を伸ばしていた。

 ガシリと腰らしき場所に腕を回す。

 両腕に女を抱え、天は床に座り込んだ。

 力なく、天井を仰いだ魔女の顔を覆っていたフードがずるりと外れて落ちる。

 そこに現れた女の顔に、天は息を呑んだ。

 首筋から上って、白い面の左半分と埋める、緑の蔦の、刺青のようにも見える何か。光を湛えていないうつろな瞳。それは絶世とも言える美女であるのに、魂のない人形のよう。

 その顔立ちはとてもよく、誰かに似ていた。

 ……決して、思い出せはしないけれど。


―――…見てはなりません。触れてはなりません。この身体は我が主のもの…―――


 静かな威圧を含んだ声が、どうやら天にだけ聞こえたようだった。キロリ、と機械のように、光のない瞳が天に向けられる。

 その虚無に対する、恐怖。

 天は慌てて、魔女の顔に目深にフードを被せ、立たせた。

 そしてカルミラの体を支えてやりながら、自分も立ち上がる。


「すみません。……でも、不可抗力です」


 深く頭を垂れながら詫びる。天は頭の中ではこの魔女の怒れる声を反芻していた。


「不可抗力ですか。……分かりました。ですがあなたは彼女よりも長く夢を見るでしょう」


 ひぃっ、と小さく叫んだ天の額に、魔女は手を添える。

 カルミラも感じた凄まじい痛みを、天は何の身構えもなしで感じ取った。


「ぐ、ぁ…っ!!」


 全身を、無数の針で苛まれているような痛みが襲いかかってくる。

 そして彼女の手が離れる頃、天は崩れるように地面に膝をついていた。


「貴方が心の奥底で求めるものは、消えてはいません。ですが、それを取り戻すのは容易ではありません。世界の中心で手がかりを得るでしょう。そして貴方はやがて、世界の果てに立つでしょう」


 頭ごなしに降ってくる言葉。

 少なからず、魔女が怒っているんだと理解して、天は何の質問も返さなかった。

 ただ、彼女のその言葉を、心に深く刻んだだけ。


「……次は、ハデスよ」


 ずっと黙ったまま、椅子に座って二人の様子を眺めていたハデスは静かに立ち上がり、魔女を見下ろした。


「先に外に出ていろ。こいつだけに話がある」


 何の反論も許さない声。

 カルミラは天の腕を引いて、お互いでお互いの身体を支え合った。


「分かったわ。外で、少し休んでいるから、終わったら出てきて」


 ふらふらと、二人はテントを出て行く。

 それを見送ってから、ハデスは一歩、魔女へと歩み寄った。




                    /ハデス/


 ハデスが更に一歩魔女に近づくと、彼女は深々とハデスに頭を垂れた。


「お久しぶりにございます。我が主に成り代わり、ご挨拶申し上げます」


 彼女が顔を上げると同時に、ハデスはそのフードを乱暴に取り去った。

 その美しい顔には、ハデスにはとても見覚えのある緑の蔦。


「全くだ。こんな近くに『奴』の囲い者がいるとはな」


 ハデスの言葉は変わらずに冷酷なものだったが、声に微かな愉悦が含まれていた。


「俺にばかり散々『人間に甘い』だのぬかしやがって。……お前、名は」


「今の私に名はありません。我が主が、この名も記憶も感情も全てお持ちになられています。もちろん、この身体も我が主のものです」


 鼻で笑って、ハデスはそうかと吐き捨てた。


「御手をどうぞお貸しくださいませ。貴方様のお探しになるものの手助けになれればと思います」


 ハデスが手を差し出すと、魔女は厳かに一礼してその手を取った。

 天やカルミラが感じていた痛みなど、ハデスには感じない。だが強いて言うなら、そこから感じ取れるのは快楽だ。

 久方味わっていない、何物にも勝る快楽そのもの。


「終わりました」


 再び一礼して、彼女は手を離した。


「貴方様のお探しになられている方はご無事です。ですが私にはその場所は知れません」


「……ちっ、やはり魔界か」


「はい、どなたかの結界の内におられるようです」


 舌打ちを返すハデスに、魔女は言葉を続ける。


「考えられぬことですが、貴方様お一人では決してお助けすることは出来ません。あの人間たちを殺さぬように。そうすれば可能性があります」


「……ふん、悪魔に対して『可能性』か」


 彼女はガラス玉の瞳で、真っすぐにこちらを見つめたまま、静かに頷く。


「帰りは裏にある魔方陣をどうぞお使いください。あの街まで続いています」


 ハデスはわずかに目を伏せて、口元を引いた。

 それはただただ、ここにはいない『奴』の、この囲いものに対する『甘さ』に対してだ。

 ハデスはおもむろに手を伸ばして、魔女の身体を引き寄せる。そして全くの無抵抗な彼女に、深く口付けた。


「……お止め下さい、この身体は我が主だけのもの」


「知っている、だからこそだ」


 口付けだけで、この女がどれほど『慣らしてある』のか、手に取るように分かる。


「お叱りを受けるのは、私です」


 息を継ぐために放した唇から、まるで無感情なまま、魔女はそう抗議してくる。


「そうだろう。些細な嫌がらせだと言っておけ」


 上等な口付けに唇を舐めて、ハデスは魔女を放した。


「『奴』に、甘いのはお前だと伝えておけ」


「承りました」


 魔女は深く頭を下げ、身をひるがえし、テントを出て行くハデスの背を見送った。




                      *

「お、待た、せ、ルカ」


 よろよろと、ほぼ顔面蒼白になった二人がテントから出てきて、ルカは絶句した。

 あえて何があったのかとは聞かないで、駆け寄った二人に肩を貸し、地面に座らせる。


「痛ー…っ、引くでしょうか、この痛み……。帰りに同じ道は正直自信ありません」


「悪いけど私もよ。こんなの想像もしなかったわ……」


 はぁあ……、と二人は同時に大きなため息を吐いて、頭を垂れた。


「ごめんなさいね、ルカ。あなたも知りたいことがあったでしょうに」


 うつむいたままの状態から口を開いた、カルミラの申し訳なさそうな声がルカの耳に届く。


「いえ、気にしないでください。私の知りたいことは些細なものです。それに、私の中で既に答えが出ています」


 それが嘘か本当かは分からない。

 だが、そう告げたルカの目は静かなものだった。


「帰りは私が先頭を走りましょう。ここで使うとは思いませんでしたが、護符を使えば街までは軽く持つはずです」


 ルカの背の長い黒髪を細く毛先まで束ねているものも、よく見れば、全身を包んでいるらしい、腕や手にも巻かれている護符と同じものだった。


「その護符、見たところ、破邪効果ではないようですけど、どんなものなの?」


 息も切れ切れに、時々顔をしかめながらも天が問いかけてくる。


「これですか?」


 ゆっくりと頷く。

 カルミラも重い頭を上げて、興味深げに視線をよこしてくる。


「私とロンギヌスの相性が良過ぎるのだそうです。本来なら意志を疎通させ、お互いの能力を引き出しあって戦うものなのですが、今のロンギヌスに、私の声は届きません」


「意志? 意志って、じゃあ会話ができたりするってこと?」


「はい、本来なら。ですが今のロンギヌスは必死に何かを探していて、私の声に答えてはくれません。それが何であるかも教えてくれません。……そうですね、私が魔女にうかがってみたかったのはそのことかもしれません」


 ルカの傍らに、当たり前のように在る神槍ロンギヌスの青緑銀の輝きを見上げ、天は感嘆の声だけを漏らした。


「十二英雄の持つ武器は本当に桁違いだものねぇ。そういえばあんまり気にしたこと無かったけど、朔も時々ブツブツと、影でコソコソ何かと喋ってたわね……」


 思い出した光景が少し異様だったのか、視線を地面に落としながら、カルミラは引きつった笑みを浮かべている。


「ロンギヌスは今、自身の力を制御することをしません。それを揮えば、私が望まなくとも街一つくらい簡単に消えるでしょう。もちろん、私の身体も耐えられませんので、この護符で制御を行っています。それにこれなら微量ではありますが、力を蓄えておくことができます。溜まった力は術力の増強や、破邪の守り代わりに使えます」


 ルカの丁寧な解説に、二人はふむふむと頷いて納得はしたが、彼女の身体に巻かれている護符のとんでもない量を、つい先ほど、食事の席で見た分、乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。


「武器との意志の疎通は、カルミラ殿や天殿ほどの使い手であればできるはずです。どうやらお二人とも、私と変わらぬほどに各々の武器を愛用されておられるようですし」


 天は寄りかかっていた大剣を、カルミラは双銃を見つめてなんとなく頷く。


「確かに僕も、もう十年くらいの付き合いになりますね」


「そうね、私はもうちょっと長いかな」


 ガンホルダーの上から、今はそこに仕舞われている双銃を軽く撫でて、カルミラは柔らかい笑みを浮かべた。

 サラリと、布の入り口が開閉して、ハデスが出てくる。


「あら、もう話終わったの?」


 まだ痛みに疼く身体に鞭打って立ち上がると、服についた砂を払う。天ものろのろと立ち上がり、龍の大剣を地面から引き抜いた。


「……帰りは魔法陣を使えと言っていたが、また無闇に戦う気か?」


 どうも呆れ口調なハデスの態度に、後方でルカが怒りの空気をまとう。

 それを振り返って天が抑え、カルミラはハデスと話を続ける。


「魔法陣ですって? そんなの街の側にあるっていうの?」


「一方通行らしいがな。全く、誰が『人間に甘い』のか」


 くっ、と喉を鳴らして、小さく笑う。

 そのハデスの言葉にどんな意味があったとしても、それは『人間』の聞くものではないと直感が言う。


「そうね、楽に安全に帰る手があるなら、使わせてもらわない理由はないわ」


「魔法陣ですか! どうやって動かすんですか?! ハデスさん!」


 目をキラキラさせた天が詰め寄ってきて、ハデスは思わず後退りした。


「裏だ」


 そんな天から逃げるかのように、ぽーんとテントを飛び越えたハデスを目で追う。

 カルミラもどこか楽しげに、全身を襲う痛みにもう慣れたのか、足早に駆け出していった。


「ルカ、早く行こう」


 無邪気な笑顔を浮かべた天は、渋い顔をしていたルカに手を伸ばした。


「…分かっています。行きますから、その手は……」


 満面の笑顔で自分を促す天の、さも当たり前と言わんばかりに差し出された手。

 さすがに、手を引っ込めてくださいとは言えず、ルカは天の隣まで歩いた。

早く来なさい、とカルミラの声が飛んでくる。

天は隣に並んだルカの頭をポンポンと撫でて、物言いたげに見上げてきた黒曜石の瞳と目が合うと、にこやかに笑った。


 

                       *


 ……確かに、街まで一瞬だった。

 衝撃と共に、辺りに響いた鈍い音で聴覚がマヒして、しこたま打ち付けた体に鈍痛が走っている。

 もうもうと上がった砂埃が治まりを見せ出す頃にようやく、我に返ったかのように声を上げた。


「ぃ……いったぁ!」


「つぅ……、何処ですか…っ、ここ…」


 仰向けに倒れこんだルカとカルミラは、三人の上を飄々と涼しい顔で飛んでいるハデスを見てなんとなく殺意が沸いた気がした。

 見覚えのある強化レンガの小道。眼下に街が見えるということは、どうやら街を囲む防壁の上らしい。


「確かに無駄に戦わずに済んだけど、一歩間違えば落下じゃない!」


「全くその通りです」


 狭い小道にぎゅうぎゅうと詰め込まれ、簡単に身動きが取れず、カルミラとルカはその場でため息を吐いた。


「っす…っ、すみませ…っ、できれば、っ早く、退いて、クダサ……っ!」


 二人の下敷きになった天が、のし板のようにレンガの道にうつぶせになって潰れている。


「あら、天くん、そんなところにいたの? ごめんなさい」


 体の下から聞こえた天の呻き声に、ルカは泡を食って立ち上がろうとしてくれたが、カルミラはいつも通り、いやそれ以上にマイペースだった。

 その端正な顔に浮かんでいるにこやかな笑顔は、絶対に分かってやっている。

 僕で遊んで何が楽しいんだ、カルミラさん!

 そう心の中で叫びながらも、天は短く呻いた。

 たかが女性二人とはいえ、フル戦闘装備していればそれなりに重いに決まっている。

 天を残して二人が立ち上がると、すぐに立ち上がることは出来ず、倒れたまま、ぐはぁっと息を吐いた。


「さあ立って、帰りましょうか」


 立ち上がるのに、ルカが手を貸してくれる。

 それを見て楽しげに笑うカルミラをじっとりと睨みながら、天は「はい」と素直な返事をするのだった。



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