龍の籠手 十二英雄
「じゃあ、先に帰ってるから」
「はい、すぐ追いかけます」
再び金法衣服店の前にまで戻ってくると、天は一度二人と別れた。
先に帰路に着く二人の女性の背を見送る。
カルミラの美しい金色の髪が揺れる後ろ姿と、青緑の槍を手に、黒いローブに身を包んだルカの後ろ姿は、まだ喧騒の治まりきらぬ人波の中でも特に目立っていた。
片や英雄の妻で、片や十二英雄と呼ばれた者。
「……凄いなぁ」
ぼそりと呟いて、天は店のドアに手をかけた。
まさかそんな人たちと共に戦うことになるなんて、ほんの数日前には想像もしていなかった。
果たして、僕に、彼女たちと同じ場所で戦うほどの力量があるのか。
ふと頭の端によぎる不安がある。
だが、そんな考えを一瞬で吹っ飛ばしてしまうほど、勢いよく開いたドアの先には不満そうな表情で腕を組み、天を睨みつける金大師の姿があった。
「私の知る限りで、法衣をないがしろに戦いに赴く魔物退治者はおらん!」
「す、すみませんでした」
ドアを閉めるより先に、深々と頭を下げて謝った。
さすがの天も、反省の色は濃い。
装備、防具、法衣服をないがしろに戦闘に挑むなど、ただの無謀だと分かっている様子だった。
「まあ、とりあえず奥に入りなさい」
「はい…」
天を促して、金大師は颯爽と店の奥に姿を消す。
ハンガーにかけて壁に吊るしてあった自分の服と朔のジャケットを見つけると、天はそれを手に金大師の後を追った。
「こっちだ、君に見せたいものがある」
店の奥は思っていたよりも更に暗く、天は何度か何かに足を取られつつも声のする方に向かう。
そして辿り着いた、天窓のある小さな部屋で、金大師は少年のような笑みを浮かべながら細工の入った見事な箱を取り出して見せてくれた。
「これは私がセントラルで働いていた頃、ある方から譲り受けたものでね」
金大師は大事そうに箱の蓋をなぞると、静かにそれを開いた。
中には、薄っすらと輝く緑の籠手が納まっていた。
それを一目目にしただけで、わずかな既視感を覚える。
そんな天の表情を読み取ってか、金は口元を緩めると、大事そうに籠手を箱から取り出し、こちらに差し出した。
「これもまた、君の剣と同じ龍骨でできている。さあ、はめてみせてくれ」
金大師はにこやかな笑顔を零し、期待に胸を膨らませながらもう一度、籠手を天に差し出した。
天は、金大師は知っているのだ、と理解しながら、素直に籠手を受け取った。
龍骨で出来た武具は全て、誰にでも装備できるというわけではない。
龍骨の成分は人間には到底製造不可能な物質であり、十二英雄の持つ神器並みに解析不可能な物体である。
龍の名を頂く武具の全ては、悪魔や魔物のものとも違い、人間が作り出す退魔武器ともまた違う属性を持っているらしく、一言に言うと、使い手の気性に添う。
それは言葉を持つ、命あるものとして存在していた時の記憶でも残しているかのように、形を変えてなお意思があるかのように、自らの使い手を選ぶのだ。
天は少し息を整えると、籠手を左手に通す。
……不意に、この背に負った大剣を、父から与えられた日の事を思い出した気がした。
――――バチンッ!
「うわっ!」
天は驚き、思わず声を上げてしまったていた。
まだ止め具に触れてもいないのに、籠手はぴったりと左腕を覆っている。
そしてゆっくりと、腕にはめる前とは、微妙に細工を変えていく。
うっすらと浮かび上がるように、鱗にも、皮膚にも似た革が、籠手の骨組みの間を繋いだ。
「どうやら気に入られたようだな。……よかった。きっと君の役に立つだろう」
金大師は天の左腕を、まるで彼の腕にあるのが当たり前のように装備された籠手を、目を細めて眺めた。
「っそんな、受け取れません! 大事なものなんでしょう?」
天は思わず籠手の止め具に手をかけたが、嫌がらせかと思うほど、まるで外されるのを嫌がっているかのように、止め具は動かない。
えぇっ?! と驚きの声を上げながら、腕にぴったりと装着された籠手を改めて見やる。
金はそんな天の慌てぶりに、思わず声を上げて笑った。
「そう、大事だった。私だってそれをはめてみたさ、でも駄目だった。……以来、私はこの籠手が気に入る相手をずっと探していた」
空になった箱を閉じると、それも天に差し出した。
「その籠手をこんな老いぼれの元で眠らせておくのは惜しい。辛くも、時代は命を懸けた戦いと隣り合わせだ。君がそれに気に入られたのなら遠慮はいらん。持っていきなさい」
片目をつむり、満足げに頷いて見せた金は、天の肩にぽんと、しわと傷で覆われた大きな手を乗せる。
……その瞬間に、何かを理解した気がした。
金がこれに託した思いを。
過去にあった、彼の青春と戦いの日々の片鱗を。
天はただただ、そんな金から大きく一歩後退し、深く深く頭を垂れたのだった。
/樹管理所/
[P.M.17:08]
「天くん、遅いわねえ」
仕事机を前に、椅子に深く背を預け、夕日に照らされた窓の外を見る。
見えるものは、夕方を迎えたことで足早に家路につく人々の姿だけ。そろそろ帰って来てもいい頃だ、と待っている人物の姿を見つけることも出来ない。
事務所の中に視線を戻しても、黙ってソファに座るルカがぬるくなったカフェオレをすすっているだけだ。
ルカもルカで、時々、無言のままカルミラを窺い見てくる。
視線が何度もぶつかるので、カルミラのほうから優しく「なあに?」と問いかけても、ルカは一言、「なんでもありません」と答えるだけ。
何度かそのやりとりを繰り返した後、カルミラの方が諦めて、ルカを放っておくことで落ち着いている。
管理所移動書類、管理者変更書類、ルカ個人の実践データ類、おまけに斑目からのラブレターまがいの推薦状に目を通し、それを処理した後では、全く会話が続かなかった。
住む場所や職場が一変して緊張しているのかと推測してみたが、コーヒーを入れてよこしたカルミラに、ルカは真っ直ぐ、なんの遠慮もなく、
「申し訳ありませんが私、コーヒーは大量にミルクと砂糖をいただかなくては飲めませんので、次回から私にコーヒーを出そうなどと、気を使わないでくださって結構です」
と、淡々と告げてきた。
それにはさすがに、笑顔を作ったまま絶句するしかなかった。
おまけに猫舌だ。
『朔と一緒に戦った英雄の一人でも、この子はまだまだお子ちゃまね』
カルミラは聞こえないようにため息を吐いて、もう一度窓の外を見やった。だが、天が帰ってくるような気配すらない。
「どこで油売ってるんだか」
ふー、と一息入れる。その呟きに、思いがけずルカが声を発した。
「待っておられる方は、先ほどの戦士殿ですか?」
「え? ええ、天くんよ、伊吹天。案外いい腕してるわよ? まぁ、少し天然だけど」
クスッと、やけに無邪気にカルミラは笑顔を浮かべる。
「彼は現役で戦いに臨まれているのですか?」
「おかしなことを聞くのね? そうよ。貴方を除いて彼ともう一人しか、今ここに戦力はいないもの」
ここに来て初めて、ルカの顔に明確な表情が現れた。
それは、とても信じられないと言いたげな、ひどく訝しげに驚愕したものだった。
「なんて無茶を。彼は大丈夫なのですか?」
「……一体、何のこと?」
まるで何も分かっていないと言わんばかりのカルミラの反応に、ルカは苦々しげに難しい顔をする。
だがそれも一瞬のことで、またすぐに元の無愛想な無表情に戻ってしまった。
カルミラは引き続きルカに問いたかったのだが、その、まるで何者のどんな言葉も受け付けようとしない無表情の潔さが、言葉を飲み込ませた。
窓から差し込んで部屋の中を照らしていた、西日の光が消え去る。
「あら?」
灯りを点けようと席を立ったカルミラは、丁度窓の外を、まだ薄ら紅い空を見上げて目を輝かせた。
「いいわ。その話は天くんが帰って来てからにしましょう」
カルミラがドアに向かって歩き出すのと同時に、ルカは神経を張りつめ、目を見開き、ロンギヌスを握る手に力を込めて、勢いよく立ち上がっていた。
「貴重な我が管理所の戦力を紹介しておかなきゃね。屋上へ行くわよ」
揚々と目の前を歩いていくカルミラを、ルカは信じられないと言わんばかりの目で見る。
「貴女は、何も感じてらっしゃらないのですか?!」
「え? 何のこと?」
三階へ移動し、更にはしごを使って屋上へ出ようとしているカルミラの背を、険しい瞳で、まるで睨みつけるように、ルカは問いかけた。
はしごに足をかけたまま、一度こちらに振り返ったカルミラは、この気配に警戒を持たないどころか笑みさえ浮かべている。
見下ろした、まるで臨戦態勢を取っているルカの気迫にカルミラは少し苦笑すると、彼女をはしごの下に残して屋上に上がった。
屋上からは、今ようやく地平に沈もうとする太陽がかろうじて見えていた。
そんな西日の紅に、カルミラの白い肌が、金色の髪が、緋色に染められている。
「成果はどうだったの? 今日もまたいい情報があるわ」
遠く投げかける声は、まるで友人に対するもののような明るさ。
はしごの下から見上げるカルミラの顔には、屈託のない笑顔だけがある。
なんと能天気なことか、とルカは内心、舌打ちを返した。
彼女の言葉に答える、言葉としてはここまで聞こえてこないが、まるで宝石の煌めきのような声が耳に届く。
……知っている、それは魔性のもの。
はしごを蹴りつけ、駆け上がり、ルカは屋上に躍り出た。
今まさに地平に没した陽の最後の光を背に、優雅な身のこなしで屋上に降り立った影があった。
「紹介するわ、彼は私と……っ?! ルカ!!」
笑顔で振り返ったカルミラの横を、ふわりと風をまとったルカが駆け抜ける。
聖と魔、対極の力にひしめいた空間が一瞬にして音を無くし、ルカが揮った槍が最初の音を生み出した。
――――ドゴオォ…ッ!!
背負った風を全て引きつれ、渾身の突きが目の前の目標を見失う。大きく空振りした力は突風となって遠く空の彼方へと突き抜けていった。
銀色の髪が舞う。
避けたはずが、残り隠れていた風の破片にハデスの美しい肌に紅い筋が走る。
ルカを見下した銀色の瞳に、一瞬の殺意が灯った。
「止めなさい! ルカ! ハデス……ッ」
カルミラの制止の声など、刃を振るうルカの耳には届かない。
ハデスはルカから目をそらすことなく、背中から、風に舞う羽根のような身軽さで地面へと落ちていく。
ルカは迷わずそれを追い、ビル四階の高さから地上へと飛び降りた。
それには慌てて、カルミラは屋上から身を乗り出して真下を覗き込んだ。
一片の絹のように、ハデスは地上に降り立つ。
そして上から追ってくるものを視認するより早く、降り立った場所から離れる。
まるで激突覚悟と言わんばかりの勢いで落下してきたルカは、地面に向かって鋭い一閃を揮う。
その槍技に巻き起こった風は地面にぶち当たり、向かい風となってルカが落ちる速度を緩める。
こちらも、舞うように降り立つ。
そしてその足で地面を蹴っていた。
避ける、などという隙も与えないほど容赦なく、ルカの繰り出す突きがハデスに迫る。
その一撃一撃が、並みの敵であったなら確実に仕留められうる威力を放っていた。
だが、残像さえ残すほどの動きで、ハデスはその攻撃の全てをかわしていく。
「――――それ程死に急ぎたいか、小娘」
槍の間合いである攻撃距離は保たれていた。
それなのに、すぐ耳元で聞こえた、その妖しいばかりの声に、ルカは身の危険を肌で感じ取る。
迷いのない動きで、敵との距離を取る。
だが、それさえ遅かった。
銀色の悪魔は、空間移動を行ったとしか思えないスピードで距離を詰め、槍の間合いに入りきる。
驚愕に息を飲んだルカを見下ろす、赤い瞳。
鋭利な刃のごとく、長く伸びた爪。
しなやかに振り上げられた腕は、空を割いて落ちた。
/数分前・天/
西日はとっくに地平に落ちて、すれ違う人たちは皆、足早に家路についている。
脇に籠手の箱を抱えた天もまた、樹管理所へと帰り道を急いでいた。
せっかくだから、と、金と二人、籠手の使い方について実践を踏まえて語り合った。
金は若い頃、なかなかに武術に精通した人物であったようで、思っていた以上の成果を見い出すことができた。
……その分、時間は食ってしまったが。
「あ、ハデスさんだ」
見上げた空には、ビルと瓦礫の柱を足場に、夕焼けの空を飛んでいく銀色の悪魔の姿。
あの美しい銀の髪が、今は紅。
まとう闇色の衣服は、これから来る夜を導くように風になびく。
一度、こちらに気付いたハデスと視線を交えて、天は彼に手を振って応えると、駆ける速度を上げた。
『ハデスさんも戻って来られたようだし、どんなことがあったのか、また話を聞いてみよう。それに、あの子…、……十二英雄の話も』
神槍を手に、真面目な面持ちをした黒髪の、物静かな少女、ルカ。
この世界に生きる者の誰もが一度はその噂を聞き、憧れを抱く十二英雄。その一人がこんなにも傍にいるなんて。
左腕にしっくりと納まっている籠手に、この帰り道中、もう何度目か視線を注いで、天は口元を情けないくらいに緩める。
気分上々、ご機嫌に、ほぼ完全に人気のなくなった夕暮れ道を走りぬけ、ようやく、樹管理所の前の道に出た。
――――…砂埃が舞い上がっていた。
眼前にある状況に絶句する。
しっかりと抱え持っていたはずの箱が、音を立てて地面に落ちたのさえ、自分で気づかない。
目の前で繰り広げられている激闘。
光速にも近いルカの槍の一撃一撃を、難なくかわしていくハデスの動きを目で追いながら、天は息を飲む。
「天くん! ルカを止めて!!」
管理所から飛び出してきたカルミラの叫びがその耳に届く前に、天の足は地面を蹴っていた――――。
――――空を割き、ハデスの爪が振り落ちる。
そのあまりの速さに、逃げの一歩さえ、退くことの出来なかったルカの眉間を、真っすぐに。
「――――駄目です…っ!!!!」
真横から現れた人影が、間一髪、惨事を回避した。
ルカの小さな体を腕に抱えたまま、天は肩で激しく地面に倒れ込む。
勢い余って、乾いた地面をスライディングしながらも、戦闘体勢を崩そうとしないルカを抑え込むように腕に力を込めて。
凶器の爪は完全に空を切る。
地面を滑って逃げたことで新たに巻き上がった砂埃の向こうに見える、殺意に満ちた赤い瞳。
殺すはずだった目標を奪って行った者を反射的に追って、そのしなやかな体が揺れる。
ヒュウゥッ
砂埃に反響する、飛来し、空を切る音。
天とハデスが視線を交えたのは、一秒にも、一瞬にも満たない時間の中だった。
そのやり取りに間髪など入れず、『それ』はハデスを襲った。
……天は見た。
ハデスの真横から、真っ白い網が彼を襲い、凄まじい衝撃によってその体を跳ね飛ばしながら捕獲する様を。
ズザザザザ…ッ!!
あまりの威力に、砂埃をもうもうと巻き上げながら地面を滑り、壊れかけた建物の壁に背を打ち付けて、ハデスの体は止まった。
「んな……っ?!」
顔を上げ、声を上げ、倒れ込んだまま上体を起こした天は、飛来してきた物が飛んできた方向を確認する。
そこでは、地面に片膝を着き、小型バズーカのようなものを構えていたカルミラが、やれやれ、といった表情で立ち上がるところだった。
がしゃんと放り投げるように小型バズーカを地面に投げ捨て、苦々しく歯を噛みしめながら大きくため息を吐きだす。
「ルカ! 管理者の話を聞きもせずに戦おうというのが、十二英雄にもなった者の取るべき行動かしら?!」
ものすごい剣幕で歩を進めながらも、カルミラはいまだ地面に転がる天とルカの横を勢いよく通り過ぎた。
彼女が向かった先は、ハデスのところだ。
壁際に、座り込むしかない状態になっているハデスの体にまとわりついている白い網。それが彼の体に触れているところから、細い煙がしゅうしゅうと上っている。
「ハ、ハデスさん! 煙出てます!」
立ち上がり、腕の中からルカを解放すると、天も慌ててハデスの側に駆け寄った。
カルミラと二人がかりで、ハデスを捕らえている網を取り去る。
殺意に満ちていた赤い瞳は、もう静かな雪月の銀色に戻っていた。
確かに気分はひどく害しているようだが、いつもの無表情に戻ったハデス見て、天とカルミラは深く深く息を吐いた。
「……まったく」
零れ落ちるのは、呆れ果てた声。
二人が自分を拘束していた網を除けると、銀色の悪魔は辟易とした態度を隠そうともせずに、音もなく立ち上がる。
その美しい面の、頬や、額、腕、手の甲にまで網目が焼きついている。
カルミラと天が彼から少し離れると同時に、ハデスは深くため息を吐きながら、軽く腕を振り、空を掻いた。
一瞬の微風が過ぎたかと思った瞬間に、ハデスの肌にあった痛々しい網目も、ロンギヌスの一撃の風圧に傷付いた頬の傷も、衣服を汚していた砂の一粒さえもが、綺麗に消え去った。
そして、少し離れた場所に一人立ち尽くすルカへ、冷淡な、完全に見下した視線を注ぎながら口を開いた。
「その動物に鎖でもつけて繋いでおくんだな」
ハデスの苦言に、脇に居るカルミラが苦々しい笑みを浮かべる。
「何を……っ!」
食って掛かろうとしたルカを、天は止めた。
「ルカ」
たしなめるように、だが高圧的に、腕を組んだカルミラが冷ややかな目でルカを見る。
ルカは仕方なく、ぐっと唇を噛んでうつむいた。
「はぁ…、とりあえず中に入りましょう。ハデスはあの事務所の窓に近い柱の上に来てくれない? 窓を開ければ話せるでしょ?」
カルミラが指で示す、管理所横にある、多少崩れてはいるが、まだまだ立派な石の柱。そこにも以前はそれなりに頑丈な建物が建っていたのだが、今はそれだけしか残っていない。
返事も返さず、睨みつけてくるルカを冷たく一瞥して、ハデスはふわりと空へ舞い上がる。
そんな銀の悪魔を見上げる。
彼の向こうに広がる空はもう、すっかり夜の青を連れてきていた。
*
仏頂面したルカをソファに座らせると、ハデスが降り立った柱に一番近い窓を全開にしてから、天は奥の部屋へ入っていく。
ほぼ給湯室になっているそこからでも、仕事椅子に座ったカルミラが疲弊してうなだれているのが見えた。
その心痛を察し、天も苦笑いをかみ殺して、先ほど金にお土産としてもらった中国茶を煎れ、戻ってくる。
「ありがと」
「ありがとうございます」
「ハデスさんもどうぞ」
窓から盆ごと、ハデスに差し出す。
「……」
しばらく訝しげな表情をしていたハデスだったが、いつもの純真無垢な笑顔で茶を差し出す天に負けて、渋々それを受け取った。
そして天も、ルカの前にある椅子に座り、黙って茶をすする。
「……彼はハデス。今、私と契約して、天くんのサポートをしてもらっているわ。斑目からは何も聞いてないの? 今朝の時点であいつが知っていたってことは、セントラルじゃもう知らない管理者いないでしょうに」
「斑目所長からは何も伺っておりません。それより、悪魔と契約など一体どういうつもりですか!」
「どういうつもりも何も、利害が一致したのよ。私の契約を貴女がどうこう言う権利はないわ。もちろん、契約をしている間、ハデスを襲うことも倒すことも許さないわよ」
立ち上がってまで、ぎりぎりと睨みつけてくるルカを、カルミラはため息混じりに流す。
まあ、まあ、と向かいに座る天はルカをなだめてくる。
まだ仏頂面で、さも気に食わないといった表情のまま、ルカはソファにボスンと音を立てて座った。
「まぁ、予告もなく十二英雄を簡単に送りつけてくる斑目もたいがいだけど」
目の前のパソコンを立ち上げ、カルミラは手早くキーボードを叩いた。
「やっぱりルカの荷物の乗った貨物バス、こっちに着いたのが襲われたのが分かって隣街に避難してるわ。明後日に走るそうよ」
そう言ってルカに視線を投げると、彼女は怒り顔を和らげ、一瞬渋い顔をして見せたが、どうにか落ち着きを取り戻したのか、手に持っていた湯飲みをテーブルに置いた。
「……こちらに来る前に護符を新しくしたせいでしょう。能力が落ちたと思われて、襲われたのだと思います」
ルカはおもむろに、身に着けていた黒いローブを脱いだ。
その下には、ロンギヌスと同じ色をした青緑の薄い鎧。両手に巻かれた、またこれも槍と同じ色をした護符。黒い文字がうっすらと浮かび上がる包帯のような細い布には、見たことのないような呪語がぎっしりと書き込まれている。
「仕方ないわね。元々、寝泊りはここでしてもらうつもりだったし、服もしばらく私ので我慢してくれる?」
どんなにカルミラの思惑が気に入らず、突っかかっていこうとも、最後には「はい」と素直に返事をするところを見ると、ルカはカルミラが嫌いというわけではなさそうだ。
天は胸を撫で下ろし、残りの茶をすすった。
「ところで、戦士殿」
急に、ルカは天に向き直った。
思わず湯飲みを落としそうになりながら、天もルカに向き直る。
昔から憧れていたはずの、英雄。
その一人のはずの少女は、線が細く、どこを見ても華奢で、美しい黒曜石のような瞳で真っ直ぐにこちらを見ている。
前もって分かっていなければ、外見だけで判断してしまえば、決して、彼女が十二英雄の一人だとは思いもしないだろう。
「伊吹天くんよ」
どうやら名前を覚えていないようだな、と、パソコンをいじりながらカルミラが声を投げてくれる。
「では、伊吹殿」
「そんなにかしこまらないで下さい。天でいいです」
「……天殿、そんな状態で戦われて、大丈夫なのですか?」
「そういえばさっきもそんなこと言っていたわね?」
カルミラもパソコンの画面から目を離して顔を上げ、こちらの話に参加してくる。
ルカの質問の意味を考えつつも、天は眉間にしわを寄せた。
「……別に、体調は悪くないです。あぁ、でもさっきは、法衣も装備も全部外して、置いて来てしまっていて」
情けないですよね、と笑って見せた天の顔を、ルカはじっと瞬きもせずに見ている。
その真剣な眼差しに、自分が見当はずれなことを言っているんだと思い知らされた天はバツ悪く、口を閉ざすしかなかった。
「自覚がありませんか? おかしいですね」
「自覚って、何の?」
カルミラが、さっと横槍を入れてくれる。
ルカはカルミラの方へと向き直ってから、天に振り返るように目を向けた。
「天殿は今、魂が半分欠けていると言っても過言ではない状態です。普通に考えても、そんな状態の人間が生きていられるなどと考えられません」
ルカは全く口調を変えることなく、さらりとそう言ってのけた。
茶を飲もうとしたカルミラは、目を見開いてそのまま机に湯飲みを戻した。
「じゃあ何? 天くん、いつ死んでもおかしくないってこと?」
「そんな! 普通に元気ですよ!」
「ええ、だから余計おかしいのです。もし何かしらで魂が欠けてしまったら、欠けた時点で人間の身体は機能しなくなります。何か神具に近いもので補うことはできますが、天殿の装備の中で一番力のあるのはその大剣。ですが、それには魂を補えるほどの能力はあるようには思えません」
ルカは手を伸ばすと、そっと小さな手で天の胸に触れた。
それほど至近距離になってようやく、彼女の腕に大量に巻かれている護符がわずかな光を放っているのが見えた。
「……欠けてしまってはいるものの、必要な魂の量は保てているのかもしれません。私にはこれ以上詳しいことは分かりませんが、治療者や上級魔物退治者に出会っても何も言われないなら、気にすることはないのかもしれません」
ルカは天から手を離すと、カルミラに目配せを送る。
天は、離れていった小さな手が押さえていた心臓の真上を、ゆっくりと自分の手で押さえた。
「上級魔物退治者ねぇ。さて、果たして私は上級なのかしら?」
カルミラはまたキーボードを軽快に叩いて、大きく椅子を引いた。口調はおどけていたが、腕を組んで画面を見つめている顔は真剣そのものだ。
魔物退治者の能力は、魔物退治者として登録をしたときに埋め込まれる指先のチップにより、その者の情報の全てをセントラルシティ、中央塔管理局に伝えている。
死と隣り合わせで、いつどこで死ぬかさえ予想できない魔物退治者。そのための最低限の管理だ。ランク付けもそのチップからの情報により、正確にオンラインに公表されている。
「やっぱり、最近戦ってないから下がってるわ。AAからAに。これで上級なんて言えると思う?」
渋い顔をしてルカに問いかける、カルミラの心配げな視線が天に向く。
「心配ありません、貴女は間違いなく上級クラスです。誰がなんと言おうと、貴女は朔様が望んで背中を預けた人物、残る英雄たちも必ずそう言うでしょう」
あまりにもはっきりと、ルカは言い切った。
彼女の口からいとも容易く、英雄、樹朔の名が出たことに驚きながらも、やはりルカは間違いなく十二英雄の一人なんだと確信を得るような気持ちがあった。
しかしながら、ルカの賛辞が気に入らなかったのか、やけに渋い顔をしたカルミラはあからさまなほどにため息を零しつつ、椅子の背に深くもたれた。
「じゃあ大丈夫でしょう。天くん、私には貴方が命に関わるほどおかしいとは思えないし、感じないもの」
「そうですか」
「よかったですね」
頷きながら、天は胸を撫で下ろして安堵の息を吐いた。
「あ、すごい。天くんの名前AAにあるわよ? 知ってる? AからAAに行くまでの壁の厚さ」
カルミラが画面を指差しながら、二人を呼ぶ。
席を立ってカルミラの傍らにまで来ると、天はパソコンの画面を覗き込んだ。
「本当ですか?! うわっ、本当だ! 嬉しいな…」
現在、AAクラス八十三人、という表示に、天は口を閉ざした。
ここに来る前に確認した時には、もう少し多かったはずだ。減っているその分だけ、嫌な想像をするが、それが想像では済まされないことを知っている。
「ルカは? 何クラスなの?」
後ろから、控えめにパソコンを覗き込もうとしていたルカに振り返って尋ねてみる。
ルカは眉一つ動かさずに、
「私の名前はそこにありません。それに載るのは来年からのはずです」
と答えた。
「はい?」
天は思わず、情けないほど素っ頓狂な声を上げてしまった。
正式な魔物退治者登録ができるのは二十歳を超えてからである。素質があり、更に監視者を置いた上でなら未成年でも准魔物退治者として認められないこともない。
若者は血気盛んで、自らの能力も把握しないうちに自爆することが多々ある。そのために管理局が引いた年齢制限だ。
だが、英雄は別物だ。
大陸崩壊から再び人間がまともな生活を送れるほど立ち直るまでの間に活躍した『聖なる、神から与えられた武器を振るう資格のあるもの』を指す。
「じゃあ、今、十九歳?」
「そうです」
決して、ルカの年齢が自分と近いと思っていたわけではなかったが、自分よりもかなり年下だと思われる彼女が英雄と呼ばれる存在であることに対して、絶句するしかない。
天が一体何を考えたのか、大体の想像がついてしまったカルミラは、その背をポンポンと優しく叩いてやった。
「十二英雄の中に十代は三人いるわ。ルカと、もう一人の顔は知らないけれど日本刀持ってるって朔が言ってた。あと一人は中央塔にいる、今年十五よ」
十二英雄の情報は、一般的に英雄が十二人いるということ意外、世間に知らされてはいない。
英雄に、彼らが持つ力に頼りすぎると、誰も彼も、生きていけない。
今の時代は、たとえ英雄と呼ばれる者でさえ、図に乗れば命を簡単に落とすものなんだと、理解しているからだろう。
十二英雄の身元を把握しているのは、中央管理局と十二英雄と呼ばれた者たち自身、そしてその身内くらいのものだ。
英雄たちのリーダーである樹朔の妻であるカルミラでさえ、自分の夫と、もう三人ほどくらいしか知らない。
そして例外的に、全世界中に名を知られ、顔を知られている英雄は、樹朔のみ。それに見合う行動を、戦果を、彼は成し遂げてきた。
昔でいえば、ちょっとした大人気世界的ヒーローのようなものだと、樹朔自身が己のことを馬鹿にしながら話していたことを、カルミラは思い出していた。
「カルミラ殿がおっしゃる、そのもう一人は、私より一つ下の草薙真ですね。名前からして、天殿と同じ地域の出でしょう。私は監視者必要なしと言われましたが、彼は二人の監視者と共に巡回魔物退治者として、セントラル以外の地域を回っているはずです」
「え…、英雄なのに監視者付きなんですか?」
「はい、彼は未熟です。我々の中で一番未熟です」
ルカが珍しく、くすりと笑う。
それはとても暗い笑みで、今語った者のことを快く思っていないことなど一目で分かるほど性悪げで、天はなんとなく目を擦って、見間違いだったのだろうか? と、ルカの顔をもう一度確かめてしまった。
「あぁ、それは英雄だからといってランクが必ず上位だという訳じゃないってことよ」
「そうなんですか?」
「ええ、大陸崩壊の混乱の時、確かに英雄たちは活躍したけれど、全員が全員、一人で何万人も助けたわけじゃないでしょ? 朔だって私といたし、逆算してみてよ。十代の英雄たちなんて何歳だと思うの?」
そう言えばそうだ。
全世界で同時に起こった、あの大崩壊。
全大陸全土の壊滅。
あの時、混乱はどこかしこにもあった。
大災害と、現れた魔物たちによる攻撃。
目の前で起こる虐殺。
助けてくれる人はいない。
助けを求める相手もいない。
ただ、逃げるだけ。
ただ、生き延びるだけ。
そして諦めた人から、消えていっただけ。
戦うことを選ばなかった人から、死んでいっただけ。
「ランクの一番上だけは、いつまでも変わってないんだけどね」
一緒に画面を覗き込みながら、そこにある見慣れた名前に、この時ばかりは三人は同時に頷いた。
「朔と、レイ・ブランフォード。この二人のままね」
「……朔様の消息が分からない今でも、ここに名前を載せ続けるのは、何故なのですか?」
「そんなの、朔の名前をここから消したら、全世界的に士気が下がるからでしょ」
カルミラはつまらなさそうに、ランクSSにある夫の名前を見つめる。
その空色の瞳が、暗い。
天は横目にカルミラを見て、ほんの少し心配げに表情を崩す。
ルカの細い指がSSに載る、もう一つの名前を指差して、そんなカルミラの様子に気づきもしないままに問いかけた。
「カルミラ殿はこの、レイ・ブランフォード氏にお会いしたことはありますか?」
「いいえ、私はないわよ? 同じことを朔に聞いたら、なんとなく話を逸らしていたのを覚えているから、朔なら会ったことがあるんじゃないかしら」
「僕もこの人の噂なら聞いたことがありますよ! 何でも四十歳くらいの男性で、倒した魔物を積み上げて足蹴にしていても似合うくらいの、あんたが悪魔じゃないかって突っ込みたくなるくらいのダンディーな方らしいです」
天はハッとなって、窓の外のハデスを振り返った。
何か言いたげなハデスの目に、慌ててごめんなさいと叫ぶ。
「本当? 私が聞いた話では、過去の文献に名前が載っていて、逆算すると大崩壊の時にはもう六十近いお爺ちゃんだっていう噂よ? それなのにSSってなんて人だって思っていたのに」
ルカはそのカルミラの言葉に、更に眉間にしわを寄せた。
「私が聞いたものでは、詳しい年齢は分かりません。ですがお二人がおっしゃるほどの年齢ではなかったはずです…。彼の戦いのその後には、魔物の欠片さえ残らないそうです。見習わねばなりません。どうやらセントラルに住んでいるという話で、どこかで彼と会うことができるそうですね」
「本当ですか?! 僕、死ぬまでに彼に会って稽古付けてもらうのが夢なんです!」
少年のように目をキラキラさせて、己の夢の浮かぶ天井を見つめる天。
「……そうね。じゃあ、天くんのためにコネでも使って彼の正体調べましょうか? そして誰の噂が正しかったか、賭けと行きましょう! 罰ゲーム付きで」
にんまりとカルミラが笑う。
敗者には、何かとんでもない罰ゲームが待っているといわんばかりの、意地悪な笑みだ。
ルカは思わずぞっとしたが、天はまだ目をキラキラさせたまま、「はいっ!」と元気に返事をした。
「……用がないなら、俺は行くぞ」
茶を飲み干したらしいハデスが、窓の外から声を投げてくる。
「わわわわわっ」
ぽーいと部屋の中に放り込まれた湯飲みを、天は慌てて受け止めた。
「あぁんハデスゥ、夕食にしてから今晩、貴方にとってもいい情報があるのぉ」
極上の甘え声で、カルミラは今まさに夜の空に飛び上がろうとしたハデスを引き止める。
甘えて物を言うのは、ただのおふざけだ。
小さく咳払いをし、口調を元に戻すと、したたかに笑いながら机の一番下の大きな引き出しから三本、酒のボトルを取り出して窓の桟に乗せた。
「本当はもっと夜中に来てくれたらそれでいいんだけど、スンのマスターがハデスと飲みなっていいお酒くれたのよね。それ空けちゃうわよ? 夕食一緒に食べない? 隣のビルの屋上ででも」
身をひるがえそうとしていたハデスは動きを止め、静かすぎるほど静かに、その雪月のような銀色の瞳でカルミラを見つめる。
天の中にあった、どうやらハデスが大の酒好きだという考えは、確信に変わった。
「さっさとしろ」
ほとんど投げやりに言葉を残して、ハデスは宙に舞い上がる。
天が窓から身を乗り出してハデスの行く先を見上げると、くるりと宙で一回転して管理所のビルを越えていったのが見えた。
カルミラが言ったとおり、隣のビルの屋上に向かったのだろう。
「じゃあ、夜ご飯にしましょう。天くんそこのバスケットと袋持ってー。屋上に上がってから、隣のビルに飛び移るわよー」
上機嫌なカルミラは、酒瓶三本を腕に抱え、二人を先導する。
どうやら、ハデスのことをまだ認め切れていないルカがあからさまに嫌そうな顔をするのを横目に見ながら、天は食料の詰まったバスケットと袋を持って、カルミラの後に続いた。