『愛されていなかったとは思わない。けれど
『愛されていなかったとは思わない。けれど決して、愛されていたとは思えない』
久しぶりの樹管理所。
ドアを開けると、真っ先にカルミラの怒声が飛んできた。
「ちょっとくらいこっちの身にもなってみろっていうのよ!!」
デスクに向かったまま、めり込ませるのかというほど机に拳を叩きつけたカルミラの姿に、たじろいで思わず後退りをしてしまった。
このまま、そーっとドアを閉めてしまおうかと思ってしまった天を見つけたカルミラはぱっと表情を明るくして、手を振って見せる。それにへらっと笑って返しながら、事務所内に足を進めて、とりあえずソファに座った。
どうやらカルミラは、電話の向こうの相手に怒鳴っているようだ。
液晶テレビに映った同業仲間の顔を、カルミラは再び怒りの眼差しで睨みつける。
「お前のところにゃ、あのイブキと悪魔がいるんだろう? 十分じゃねえか」
「だからって天くんばっかりに仕事させる訳にはいかないでしょう! そっちには何十人もいるんだから、もうちょっと人数送ってくれてもいいじゃない」
「こっちは人数いても、決め手の奴が少ないの。お前がどうしてもって頼んだから、俺のところの凄腕そっちに送ってやったんだぜぇ? もう、痛手痛手」
「何が痛手よ! あんたってばいっつも自分の手におえない奴ばっかり私に押し付けるじゃない! 今度もそうなんでしょう?!」
どうやら図星を指されたらしく、画面の中の旧友は少しずり落ちた丸眼鏡のサングラスを戻して笑って見せる。
「ま、今のところ何言われようとこれ以上は無理なの! 送った子、腕は確かだから心配するなって。それよりカルミラ、近いうちに俺とまったりディナーでもしよ…」
がちゃん!
相手が言い終わるより先に、憤慨したカルミラはけたたましく音を立てて電話を切った。
「ったく、成長しろっての!」
悪態を吐きながら椅子に深く背を持たせかける。そして気を取り直すように大きく息を吐いて、ソファに座っている天に目を向けた。
「ごめんね、天くん。もう少し楽させてあげたいんだけど」
「いえ、僕なら大丈夫ですよ」
そう返してくれる天の屈託のない笑顔に、カルミラは思わず頭を抱えた。
「今の、セントラルの奴なんだけど、あっちはあっちで忙しいから。一人は来てくれるわ。だけどそれもどうなることやら……」
渋い顔で、金の髪をかき乱すカルミラを眺めながら、天は少し違うことを考えていた。
……ハデスと共に、初仕事だったあの魔物を倒したのは、もう四日前のことになる……。
――――…ハデスの力に焼け焦げ、天の大剣を眉間に突き立てられた魔物が、地面に音を立てて崩れ落ちた。
地鳴りのような響きと、巻き上がる砂埃。
上空では、残った小物たちが金切り声を上げている。
天が剣を引き抜くと、あふれ出した魔物の血が、それ独特の腐臭を放ちながら地面に広がっていくのが見えた。
剣を持っているのか、支えにしているのか、解らないほど消耗し、肩で息をする天をハデスは涼しい顔で見下ろした。
「や、やり、ましたね……。上の、どう、しましょうか…?」
天が上を見上げて、辛そうな顔を更にしかめる。
こちらを見下ろしながら騒ぎ続けている『低級魔物』に、ハデスは底冷えするような眼差しを向けた。
「騒がしいのは嫌いでな」
ハデスの手が、残像が追ってつくほど美しく空を掻いた。
その途端、爆発音が空中に響き渡り、空中を浮遊していた魔物たちは、軒並み、そのしなやかな手の一掻きだけで命を落としていた。
目を見開いた天の足元にまで、血の雨が、飛び散った肉片が降り注いでくる。
足元に転がってきた、首だけになってなお生きている魔物を、ハデスは見下ろすこともせずに踏み潰した。あまりの容赦なさに恐れが込み上げてくるが、それよりも、潔いほどの無情さに感心してしまう。
キラキラした目でこちら見る天に目を向けて、訝しげに眉間にしわを寄せた後、ハデスは再び上空を見上げた。
空にはまだ、魔物が爆発して上がった煙が浮いている。
銀色の悪魔はゆっくりと歩いて、まるでこの戦いで疲労困憊した天を背に庇うように、その前に立った。
「……ようやく見つけたと思ったら、人間などとつるんで何をしている?」
煙の奥から零れ、聞こえてきた声に、天は震えるように身を強張らせ、体力などほぼ残っていない体で身構えた。
吹き付けてきた風に、煙が流れていく。
その向こうに、先ほどまでそこにいた『魔物』とは明らかに違う影が、嘲りを含んだ笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
ハデスの肩越しから空を見上げていた天は、ようやくして目視した、『高位悪魔』の姿に思わず息を呑む。
見事なまでに美しい黒髪は長く、まるでそれ自体が生き物のように夜風に舞っている。ハデスと並んでも引けを取らない恐ろしいほどの美貌に、琥珀の瞳。明らかなほどの殺意と侮蔑が込められた視線が、こちらに注ぎ下ろされていた。
「我が妹の求愛さえ拒んで何処へ逃げたかと思っていたが、それほど人間に入れ込んでいたとはな」
何の言葉も返してこない、冷淡とした銀色の美丈夫の態度に、空に浮いた悪魔はただ不機嫌に目を細めた。
「ふん、変わらん奴め。今も後ろを気にして、動こうともしない」
人智を超えた美しい顔に亀裂のような、細い、嘲笑の笑みが広がる。
「お前も変わらんだろう。相変わらず、重度の妹想い(シスコン)だ」
まるで負けじと、あからさまなため息を吐きだしながら、ハデスはそう零した。
ハデスの言葉に怒りをあらわにした悪魔の瞳が、一瞬にして怒りの炎と殺意に満ちる。
まるで、空間を割って飛来した無数の稲光が辺りを包むように地面を走り抜ける。襲い掛かるように吹き付けてきた突風に身を揺らされながらも、目を逸らしはしなかったはずの悪魔の背中に、一時前までは確かに無かった、黒い翼があった。
「なんならここで五百年前の決着をつけてもいいんだぞ?」
殺気のたぎる声に怯えるかのように、ビリビリと大気が震えている。
そのあまりの力の強大さに天は顔をしかめながら、本来なら自分を打ちつけていたであろう魔者の、解放された力の衝撃から守ってくれているらしいハデスの背を見上げた。
「……まあ、いい」
不意に空気の振動が止まり、雷が消え失せ、悪魔はため息混じりに力を解いた。
ふっと、その背から闇色の翼が消え去る。
「今お前を殺したら、後で妹が俺を殺すだろう。それではつまらん。……それに、もうすぐ夜も明けることだしな」
確かに白んできている東の空へ視線を投げながらも、悪魔は今一度、美しい面に亀裂のような笑みを浮かべた。
「近いうちに妹がお前に会いに来るだろう。せいぜい、嫉妬深い我が妹からその脆弱な生き物を守るんだな」
再び、ハデスを嘲るように見下ろした後、悪魔は星の消えていく夜空に溶け込むように姿を消した。
先ほどまで確かに、緊迫極まった空気に包まれていたこの場所は、まるで夢でも見ていたかのように、朝を迎え始めた夜空があるだけだった。
茫然としている天をよそに、ハデスは大きなため息を吐く。そしてゆっくりと明るくなっていく空を見上げた。
「帰るぞ」
「は、はい」
振り向きもせず、街に向かって歩き始めたハデスの後に、慌ててついて行こうとする。
そして、確かに一歩踏み出した。
――――…が、その後の記憶がまるでない。
気がつくと、樹管理所で介抱されていた。
カルミラ曰く、ハデスが、ぶっ倒れた自分を管理所まで運んできてくれたらしい。
その運び方がどんなに悲惨だったかは、カルミラが伏せているので天は知らない。
どうやらあの戦闘で、自分が思っていた以上に気力も、体力も、術力も消耗していたようで、新しい仕事場の初仕事後早々、お休みをもらう羽目になり、今に至る。
「全く、天くんが倒れている間に魔物でも来たらどうしようかとハラハラしたわ」
「すみません……。あの、それから、ハデスさんは?」
「決まってるじゃない。引き換えにした情報を渡したらあっという間よ」
呆れがちに息を吐いて、カルミラはコーヒーをすする。
報酬を手にした途端、夜の明けきらない朝日の中を飛んでいくハデスの姿が簡単に想像出来てしまい、天は少し笑った。
「さてと、天くんも来たことだし、行きますか」
カルミラは手早くジャケットを羽織りながら、残りのコーヒーを飲み干した。
つられて立ち上がった天だったが、カルミラの顔を見てから、立ち尽くした。
「あの、どこへ?」
「もー、言ったでしょう? 仕事が終わったら一番に天くんの法衣服作らなきゃって」
「ああ、あー、そういえば……」
「まあ、途中で昼食を取るくらいは許されるでしょうけど」
カルミラは上機嫌に、あれこれと食べたいものを口ずさんでいる。
天はというと、惜しげに、今着ている樹朔のジャケットに目を落とした。
『返さなきゃならないよな、朔さんのジャケットだもんな……』
「ほら行くわよ、天くん」
「はいっ、すみません!」
咄嗟に謝ってしまいながら、天はカルミラに続いた。
/法衣服専門店・金/
[P.M.13:43]
「いらっしゃい。……やあ、カルミラ」
「ハァイ、金大師」
薄暗い店の中、棚という棚に溢れんばかりの布たち。窓際には布と同じだけの糸たち。
はさみを持った金大師と呼ばれた老紳士は、裁断台に広げた布を優雅な手つきで二つに断ち切っていくところだった。
「この子の服をお願いしたいの。一等上等なのでね」
「……私の店には上等でないものはないがね」
「分かっていますわ」
にこやかなカルミラの笑顔に、無表情だった金大師はため息を吐くように笑顔をこぼした。
「ではまず、剣を下ろしてくれるか。採寸をしよう」
「あ、はい」
下ろした剣を壁に立てかけ、振り返ると、大師はメジャーを引き伸ばしながら天の腕を掴んだ。
「いい腕だ。その剣も飾りというわけでもなさそうだな」
手首から始め、腕へと採寸を進めていく金大師は上目にちらりと天の目を見ると、すぐに作業に戻った。
剣に対してそう聞かれたのはひどく久しぶりだったので、天は少し苦笑いを浮かべた。
天が持つ緑色の大剣は、柄の大きさに比較して刀身がずいぶんと大きい。鍔はなく、柄と同じもので出来た楔がそれを支えている。背負ってみるとその大きさは、自分の背より一回りほど大きい。
「意外と軽いんですよ。見た目よりは」
笑顔でそう言った天の顔は見ずに、金は天の背中に回ってその肩幅を測り始めた。
「……これは朔殿の服だろう?」
一目見ただけで、金はこの服の本当の持ち主を見抜く。
「はい、カルミラさんに貸していただいて……」
「脱ぎなさい。正確な寸法が取れん」
「は、はい」
慌てて、でも惜しげにジャケットを脱ぐと、手近な机の上にきちんとたたんで置く。
「金大師はセントラルにいた頃、世界一の仕立屋だったのよ。今でも自分が作った服も、それを着ている人物も全部記憶してるの」
マネキンが着ていた見事な刺繍の入ったチャイナドレスを勝手に試着して戻ってきたカルミラが、そう教えてくれる。
笑顔を浮かべた彼女は天の前で踊るように一回転してチャイナドレスを披露してくれた。
「中央にいたのはもう何年も前の話だ。早く戻ってきなさい」
金は、タンクトップ姿になって戻ってきた天の背中にもう一度メジャーを当てた。続いて腰回りと脚の寸法を測り終えると、立ち上がりざま、すぐ側に立てかけてある天の大剣の柄に少しだけ指を滑らせた。
「この剣をどこで? 私が知る限りでもこの材質の物を持っている者は数えられるほどだ」
鏡の前で、チャイナドレス姿の自分を堪能したカルミラが再び試着室に戻っていく。それを目で追った後、前方に回ってきた金の問いかけに答える。
「父から譲り受けました。大陸崩壊より少し前ですが」
「そうか、……それにしても見事な龍骨だ」
感嘆の言葉を零しながら、金は天の大剣が何であるのか、まるで最初から分かっていたかのように言い当てた。
それには、天も驚いてしまった。
龍骨。
それはまさしく、龍の骨で出来ているといわれている物体。
人が持てる技術では生成することは出来ない物質で、何故この形を取っているのかということさえ解明されていない。
それでも、これは確かに剣であり、もう長い年月、共に戦ってきたものだった。
形は違えど、他にもいくつか、、同じ龍骨で出来た武具を天は知っている。
「……姉も、ものは違いますが同じ龍骨の武器を持っています」
懐かしむように呟いた天の声を背中に聞いていた金だったが、何か思い出したように裁断台に向かうのをやめ、振り返り、その口を開こうとした。
――――ドガァンッ!!!!!
突然、建物に何かが突っ込み、同時に倒壊する音が聞こえた。
それに続くように、人々の叫びが、甲高い女子供の悲鳴が続く。
「何かしら?」
試着室から飛び出してきたカルミラはガンホルダーを素早く装着すると、窓に頬をつけるほどにして外を見た。
続いて天も剣を掴み、外へのドアを大きく開け、道へと飛び出す。
こちらの通りに向かって、走り逃げてくる人達の姿。
穏やかな日常の景色は吹き飛んで、悲鳴と恐怖に満ちた声が辺りに響く。
少し先の広場の辺りから、ゆっくりと土煙が立ち上っていくのを見止めた。
「魔物だ! 今入ってきた長距離バスに張り付いてやがった!」
今にも転げそうな勢いで走ってきたバスの連絡員とおぼしき男が、剣を持った天の姿と、店の窓から覗くカルミラの姿を見つけた途端、声を張り上げて叫んだ。
「行くわよ、天くん!」
「はい!」
入り口付近に立っていた天の脇をすり抜け、走り出していくカルミラ。
彼女に答えると同時に、天も駆け出していった。
*
横倒しになった長距離バスが、もうもうと煙を上げている。
すれ違いに、頭から血を流した運転手らしき人物が抱えられて連れられていく。うわ言のように、まだバスの中に乗客がと繰り返し続けている。
空には見覚えのある『低級魔物』が数十匹。
数日前、ハデスと共に戦った『中級魔物』の傍らを飛んでいたものと同じ、飛行タイプの魔物だ。
騒がしく、けたたましい声を上げて、地上を見下ろしている。
いつ、下にいる人間に襲いかかるかという状況で、バスの中には確かに、負傷したらしい乗客が数人取り残されているのが見えた。
カルミラは双銃を抜き、空に浮かぶ魔物に狙いを定めた。
「私が上のを狙うわ。下に来たのお願いね!」
カルミラは一瞬だけ天を振り返り、双銃の照準の先に視線を送ったが、驚きに満ちた表情で再び、天に振り返った。
「天くん! 服は! 防具は! 対魔アクセサリーは!」
「あ、全部置いてきてしまいました」
龍の大剣を持った以外、天は全ての装備を金の店に置いたままにしてきてしまった。薄着の普段着だけの今の彼の防御力は、そこいらにいる一般人たちと変わらないだろう。だがそれを気にもしていない様子で剣を構える天に、カルミラは思わず渋い顔をする。
「なんてことを! それに、そこのあなた! 早く下がりなさい!」
カルミラが声を張り上げる、その視線の先。
バスの側に一人、頭からすっぽりと真っ黒なローブに身を包んだ人物が立っていた。
そう高くはない背丈に、細身の体躯。目深に被られたローブのフードの奥から、上空の魔物を見上げていたその人物は、カルミラの声に反応してゆっくりとこちらに顔を向ける。
「来ますよ! カルミラさん!」
まるで天の声を合図にしたかのように、甲高い声を上げて、上空から魔物が雨のように降り注いだ。
魔物の狙いは一様に、黒いローブの人物。
剣を構え、地を蹴る。
引き金を引く。
それよりも先に、黒いローブは円を描くようにひるがえり、一瞬のうちに、数体もの魔物が地面に堕ちた。事切れた魔物の体が、ザラリと、砂と化して広場の地面に散った。
襲い掛かるのをためらった魔物が、けたたましく鳴き叫ぶ。
地表を指していた青緑の細い槍の切っ先が見事な弧を描き、空を向く。
滑空して落ちてくる魔物。
ローブの人物はふわりと身を揺らし、鋭い爪を振り上げたままの魔物の背後から、手にしていた美しい槍を突き立てた。
断末魔を上げることもなく、魔物は砂に還る。
あっという間だった。
舞うような身軽さで倒れたバスの上に駆け上がり、空に浮かぶ魔物に向かう。まるで空を歩むことさえ可能なのではないかと見紛うジャンプ力で、空に止まっていた魔物に槍を揮う。
青緑の切っ先が光の円線を宙に残し、体を真っ二つに割かれた魔物は、そこでザラリと砂に還った。
黒いローブに身を包んだその人物はやはり宙に止まることは無く、ゆっくりと落下し、再びバスの屋根に着地した。黒いローブはまるで翼のように、彼の者のしなやかな動きについて閃く。
残った魔物たちはまるで怒りの声を上げるかの如く叫び、一斉にバスの屋根に立つ者に向かって突撃していく。
その数に、その勢いに、誰もが思わず息を詰めた。
だが。
ひゅるり、と弧を描く細槍が残す光の軌跡はあまりにも美しく、戦いを見守る者たちに絶望を垣間見る隙さえ与えなかった。
なぎ払い、払い落とし、時に突き刺し、叩きのめす。
彼の者の間合いに入ることすらできず、群がる魔物が次々と地に堕ちて消えていく。
それはまるで、槍術の教科書のような無駄のない戦い方。
あれだけいた魔物は、もう全て跡形もなく砂に変わっていた。
自分に襲いかかりに下りてくる敵がいなくなったことが分かってか、闇を切り取ったような黒いローブ人物は、まるで羽根が舞い降りるかのような身軽さで地に降り立った。
目深に被られた黒いローブのフードの奥にある瞳が、確かにこちらを見、呆然とする二人の魔物退治者を一瞥する。
天とカルミラは、黒衣に覆われた彼の者の戦いぶりに、加勢することなど完全に忘れて見入ってしまっていた。
魔物の数は、既に片手で数えられるほどに減っていた。
それが残っていたのは、空のずっと高いところにいたためだ。騒がしく鳴きながら、こちらを覗っているようにも見える。
自分たちが狙っていた人物のあまりの強さに怯えを成したのか、それとも…。
そんなことを考えたのは一瞬だった。
残る魔物たちは一斉に目標を変え、弾丸のような速さで空を滑空し、鋭い爪を振りかざしながら、天に向かって降り落ちてくる。
「天く……っ!!」
カルミラが名を叫んだ声がした。
いくつかの銃声。二匹の魔物が地に伏す。
剣を構え直す、その僅かな隙に間合いに入り込んだ一匹が天の眼前で鋭利な爪を振り上げる。
反射的に地を蹴って後方に飛び、攻撃を避けようとするが、それさえ間に合わない。
こめかみに向けて落ちてくる鋭い爪が、横目に見えた…――――
……ぴたりと、魔物の動きが止まる。
天の茶色い髪が、魔物の爪に触れてハラハラと地面に落ちていく。
魔物はそのままの体勢で完全に停止し、……ザラリと、目の前で砂に変わり果てた。
魔物の姿が消え去ると、天の目の前には美しい槍の切っ先だけがあった。
「貴方が今、戦いに臨まれるのはとても無謀だと思います」
深く被られたフードの奥から、よく通る、少女かと思わせる声が零れた。
淡々とそう天に告げた彼の者は、素早く広場を、上空を見渡し、敵が残っていないことを確認すると、ひゅるり、と細い槍の切っ先を下げた。
先ほどから膨大なまでの破邪の威力を放つ細い槍は、白に近い、銀色に輝く中にはっきりと青と緑が見て取れる、輝かんばかりの美しさを湛えたものだった。
この目で見たとはいえ、黒いローブに身を包む者の小さめの手で揮うにはあまりにも不釣合いなものに見える。
だが何故か、それを持つ小柄なこの者の側に、槍は在って当たり前のようにさえ見えた。
武器と人が、寄り添うようにして在る。
「……神槍、ロンギヌスだわ」
カルミラの呟きに、彼の者は繕った様に何も反応を見せず、二人に背を向けた。
二人は新たに声をかける言葉も見つからず、去って行こうとする小さな背中に視線を注いだままだった。
魔物が倒されたことで、あっという間に、辺りは雑踏で包まれた。
バスの中に残された人たちを助けるために走ってきた人々。
救護を叫ぶ者。
指示する者。
歓声となって、魔物を対峙した正体不明の者を讃える声があちこちから上がる。
慣れたもので、魔物さえいなくなってしまえば人々はまた賑やかな日常に戻っていく。
そんな人ごみの中で、黒いローブの人物は、ぴたりと動きを止めた。
どこからともなく溢れるように増えた人波に、身じろぎを忘れたかと思うほどだ。そして、左右を交互に見渡し、また増えた人の量に、明らかに戸惑っている様子だった。
何を思ったのか、黒いローブの人物は、人波を掻き分け、颯爽とした足取りで二人の前に戻ってきた。
目深に被られていたフードの奥から、鋭く、力強い印象を受ける黒曜石の瞳が、まっすぐに二人を見詰める。
彼の者を前にして、カルミラも天も、一度、ごくりとつばを飲み込んだ。
「少々お尋ねしますが、樹魔物退治者管理所はどこにあるのでしょうか?」
二人に尋ねられた言葉は丁寧で、零れ落ちた声は多少の焦りを含んだ、先ほどの戦闘の片鱗など微塵も見せない、淡々としたものだった。
そのギャップに呆然としつつ、カルミラは問いかけられた言葉に対して、ただただ目を見開いた。
天は無言で、問いかけに答えるべく、カルミラを指差した。
「……え?」
天の指先を追った黒曜石の瞳が、呆然とするカルミラを見上げる。
「……セントラルからの魔物退治者って、もしかしてあなた……?」
そう問いかけ返すカルミラに、どうやら彼女が誰であるのかを理解したのだろう。
目深に被っていたフードを取って、その姿を明らかにした。
さらりと、その奥から現れた黒髪が風に揺れる。一つに束ねられた長い髪は、背中を過ぎるほどまで及んでいる。
黒曜石かと見紛うほどの美しい黒い瞳に、白い肌。だが、その顔立ちは、かつてアジアと呼ばれた、天と同じ地域の人種のものではなかった。
黙っていれば人形かと見紛うような、目を奪われずにはいられないほどの美少女であったが、ひどくキツイ印象を与えられる。それはひとえに、彼女の真面目すぎるとも取れる、何の感情も浮かべてられていない冷淡とした表情のせいだ。
「セントラル、斑目魔物退治者管理所から参りました。ルカ・L・マキャベリです」
ひゅるりと音を立て、槍の切っ先を大地に向けて後ろ手に回すと、ルカはカルミラに向かって小さな手を差し出した。
「これからお世話になります」
差し出された手を、カルミラは取る。
「こちらこそよろしくお願いするわ。彼は私の管理所所属の一人、伊吹天くんよ」
「よろしくお願いします」
眉一つ、表情一つ変えず、愛想笑いもせずに、ルカは天と握手を交わす。
「よろしくお願いします」
天の言葉を受けてもルカは何の表情も浮かべず、ゆっくりと手を離した。
ひゅうと空を切り、青緑の細槍を持ち直す。
「まさかアイツ、十二英雄の一人を送ってくるなんて……」
カルミラは心から信じられないと言った呟きを、一人零している。
ルカはただ黙って、自分を眺めている二人を冷淡とした目で見つめ返していた。




