浄化者(プレイヤー)
だだっ広い荒野の真ん中で、シルヴィは急にバイクを止めた。
そこは、見渡す限りの荒野。
照りつける、痛いほどの日差しを遮る日陰になりそうな岩の一つもない。
休憩するにも、全く適していない場所だった。
サイドカーに乗っていたとはいえ、慣れない、エンジン可動式のバイクの振動を真横に感じていたルカは、肉体的にも精神的にも、早速疲れらしきものを感じながら、のろりとそこから下りた。
イースシティを代表とする西の地域特有の常夏の気候は、真っ黒なローブを愛用する自分には、明らかに向いていない。
じりじりと、陽が高くなっていくにつれ上がっていく気温に黙って耐えながら、熱気をはらう風一つ吹かない、荒涼とした大地を眺めた。
足元にあった、比較的大きめの石をロンギヌスの柄で軽く突くと、それは砂の塊であったかのように簡単に崩れ去る。
大地も、風も、空も、全てが乾いて見えた。
どうしてこんな場所に止まる必要があったのか。
そう疑問を抱きながら振り返り見たシルヴィは、ヘルメットを脱ぎ、赤い髪に手櫛を通しているところだった。
先ほどの町を出てから、数時間も走っていない。
意気込む彼女に促され、早々に出発するものだと思っていたのだが、シルヴィが言うままに町の中を連れまわされたのが、その大きな原因だ。
まだ朝っぱらだというのに、レストランに乗り込んで無理矢理テイクアウトのランチを作らせたり、余分な水を余分なほど買いに行ったり。
カルミラも、そう振り回してくれるシルヴィを、どこか面食らったように微笑んで見ていたが、余計な言葉は一切口にしなかったため、それに倣うことにしたのだった。
「どうして今更、イースの事を調べに参られたのですか?」
シルヴィの鋭い質問に、同じくヘルメットを脱いだばかりのカルミラの視線が行く。
一瞬、カルミラが答えるべきがどうかを迷ったように見えたが、すぐにそれを改めたようだった。
「天くんに、何か、イース崩壊の影響が表れているんじゃないかと思って調べてみたかったのよ」
はっきりとした口調で答える、カルミラをしばし見つめてから、シルヴィも答えた。
「そうですね。決して無いとは言い切れません」
こちらもはっきりとした口調で、それでもシルヴィはどこか思うところがあるのか、カルミラからわずかにその琥珀色の瞳を逸らしながら答えた。
ふむ、とカルミラはそんなシルヴィの横顔を見て、心の中で呟く。
光・浄化者とは、『賢者』ヒカリ直属の部隊である。
異例区、特化区画などの調査を主だったものとし、AAクラスの魔物退治者と変わらぬか、それ以上の実力者でなければなれない特別職だ。
たとえ世界上層部の者と言えど、光・浄化者が『賢者』から命を受けている場合、彼の者達の行動を妨げる権限はない。
セントラルを離れることの出来ない『賢者』の手足となり、その目となる存在。
『賢者』ヒカリが直接人選するため、彼女の性格や人柄、その能力値を盲目的に信用したところで、然したる害はないだろう。
しかしながら、一体何を、どこまで知っているのだろうか。
ギラギラと輝く太陽に照らされるシルヴィの横顔を眺めながら、カルミラは思考を巡らせていた。
「シルヴィ殿は、……天殿とは、一体どういった知り合いなのですか?」
バイクに乗っていた時も、ずっとだんまりを決め込んでいた様子だったルカが突然口を開く。
丁度、同じことを聞こうと思っていたところだったカルミラは、その質問が彼女の口から出て、少なからず驚いた。
相変わらずの無表情かと思いきや、ルカのどこか神妙な面持ちに、また驚いてしまう。
「まぁ! 私のことはレヴィとお呼びください、英雄ルカ」
シルヴィはにこやかに、艶やかに微笑むと、今すぐにルカの前にひざまずいてしまいそうな勢いで彼女に向き直った。
どうやら、シルヴィにとって『賢者』ヒカリと同じ英雄であるルカは敬って当たり前、その身を讃えて当たり前と言わんばかりの態度だ。
ルカもルカで、そういう扱いをされることには慣れているのか、平然とシルヴィと向き合う。
「私はイース崩壊後、セントラルの医療施設階で天くんの看護に就いておりました。それはもう、着きっきりで! その頃からのお付き合いですのよ!」
嬉しそうに、とても声を弾ませて、シルヴィはそう教えてくれる。
その笑顔に苛立ちを感じつつ、ルカは無表情を崩さぬままに、また胸を押さえた。
『……私、今またムカッとしたぞ…?』
小さく首を傾げるルカの横で、カルミラは感心したように声を上げた。
「へぇ、貴女、医療施設階の担当もされているの? 優秀なのね。……そうかぁ、じゃあ、天くんのイース崩壊直後の記録ってそこに詳細収められているわけだ。私の手元に来ていない資料が、山ほど」
カルミラの声はとても穏やかで、顔には笑顔が浮かべられていたが、その身には、金色の長い髪が逆立つんじゃないかと思うほど凄まじい怒りの気をたぎらせている。
シルヴィはそんなカルミラに圧倒され、少々怯えながら何度も頷いた。
「一応、医療施設階のデータはよほどのことが無い限り開示されませんので…」
「ほう、それは現状、管理下に置いた魔物退治者の管理者にも開示されないものかしら?」
「……それは…」
シルヴィが言葉を濁す。
カルミラはニコリと、彼女に優しく微笑みかけると、腕を組んで荒野の先に視線を投げた。
ため息が一つ零れる。
あれだけ天くんのデータをくれと頼んだのに、やっぱり隠していたのね、コウ。
『兄さんめ、帰りに会う時を覚えておきなさい!』
言い逃れなんて許さない、と心の中で決めて、静かに怒りを燻らせる。
……今頃、セントラルにいるコウは、ひどい悪寒を感じていることだろう。
「じゃあ、天くんの背中の傷も、イースの時に負ったものなのかしら?」
ぼそりと、独り言のように呟いたカルミラの言葉に、シルヴィが食いついた。
「あれはイース崩壊で負った傷ではありませんわ。もっと古い傷ですわね」
「あら? 貴女も見たことがあるの?」
「はい!」
二人の美女が、視線を交り合わせてにやりと笑い合う。
一人、話が見えず、眉間にしわを寄せたルカは、二人の顔を交互に見ながら思わず声に出していた。
「天殿の背中の、…傷?」
「ええ、背中にね、結構痛々しい傷痕があって」
「肩甲骨あたりから腰にまで伸びる傷と、もう片方も」
「そうそう、まるで背に在った翼を千切り取られたように見えるのよね」
どうやらシルヴィはカルミラの例えが気に入ったのか、目を輝かせて彼女の言葉に頷いている。
ルカはますます眉間にしわを寄せて、訝しげに二人を見やった。
「それはいつ、どうやって、……見られたのですか?」
質問はとても素朴なものであったが、ルカにとって、それはなかなかに重大なものであった。
二人が話す、天の背にあるという傷を見るためには、『素肌の背中』を見なければ、知り得ないことだ。
シルヴィのように医療施設階で天の看護に当たっていたなら、処置や検査のたびに目にすることがあっただろうと頷けるが、果たしてカルミラは、どうやって?
ルカの視線の意味に気付いたのか、カルミラはニヤニヤと笑みを隠しもせず、
「べつに、目の前で服、着替えさせたときに見たのよ?」
なんてことを、さらりと言ってのけた。
ルカは頭を抱えたくなったのを、どうにか堪えた。
自分が樹管理所に来てから、天が事務所で服を全部脱ぐようなことは無かった。
事が起こったとしたら、それは自分が来る以前のことなのだろう。
ま、まさか二人は目の前で素肌を曝すような間柄なのか?
いや、そんなはずはない! カルミラ殿には朔様がおられるではないか!
し、しかし……、
ぐるぐると思考を巡らせていけばいくほど、無表情を繕っているはずのルカの顔色は疑惑と困惑で曇っていく。
カルミラが笑い出したくなるのを必死で耐えている横で、シルヴィは声を張り上げた。
「私はですね! 全部脱いでもらって隅々までじっくり見ましたの!」
さすがにその発言にはカルミラも驚き、ルカなど蒼白して目を見開いてしまった。
「天くんの体ってよく締まっていて、とてもいい筋肉のつき方をしているんですのよ? バランスがいいと言いますか、こう、思わず触りたくなるような、後ろから抱きつきたくなるような、そんな背中にあの傷痕があって、またそこが……っ」
胸の前で手を組み、恍惚とした表情で天の体について陶酔したように語るシルヴィ。
ルカはその横顔を、真顔で睨みつけてしまう。
一通りの驚きが通り過ぎ、落ち着きを取り戻したと同時に、確実に胸の内のムカムカ感が増していることに気付き、手に持ったロンギヌスをギリリと握り込んでしまった。
このままでは収拾がつかない事態になりそうだ、と、カルミラはどうにかシルヴィをなだめている。
そんな二人に向かって、ルカは低く、明らかな苛立ちを押し殺しながら唸るように進言した。
「そろそろ行きましょう…! いい加減、こんなところで道草している暇はないはずです…!」
そのルカの口調にはさすがに、カルミラは少しやりすぎた悪戯を悔いたように微笑んで見せたが、シルヴィの方は、まるで水を打たれたかのようにスッと冷静に返った。
「何を言っておられるのですか、英雄ルカ」
苛立ちを抑えきれないまま、彼女に視線を向けたが、ルカは途端に息を呑んだ。
出会ってから初めて見せる、シルヴィのどこか冷めた眼差し。
ひどく落ち着いた声が、逆に不自然でさえあるように感じた。
「ここが、目的の場所です。『ここ』こそが、『イースシティ』中央なのです」
腕を開いて、この場所を示す。
遠く、シルヴィの赤い琥珀色の瞳が見る先に、どこまでも続く荒野。
カルミラとルカは、呼吸さえ忘れ、大きく目を見開いてこの荒野を振り返り、見渡す。
乾き切ったわずかな風に、砂が舞う。
まともな生物の痕跡すらない、荒れ果てた野が広がるばかり。
今、自分たちが立つこの場所が、一夜にして崩壊したイースシティだというのか。
「まさか…っ、そんな! こんな場所が、イースなわけが…っ」
思わず零した言葉に、シルヴィは何を答えることもなく、ただ静かな目で二人を見ただけ。
それだけで、彼女の言葉が嘘や冗談ではないと知るには十分だった。
足元を滑る乾き切った風に、地を覆う砂が捲られる。
そこから覗く『もの』に気付き、カルミラは踏みしめていた足の下に視線を落とした。
靴底を滑らせて砂をはらうと、地面に埋もれていたものが現れる。
錆びた看板、それはサウスシティでもよく見かける、店屋が掲げるものだ。
ほんの少し視線を動かすと、ぼろぼろになった人形が砂の塊の向こうに見えた。
どこかの家の窓の桟、扉の破片。
まさに風化していく途中の、崩れかけた防壁の強化レンガの欠片。
割れた、一般家庭用の魔除けの法玉。
乾いた地中に、ひしめきながら、さまざまなものが埋まっている。
そして見えた、瓦礫を全て飲み込んだ乾いた地に添うように続く、荒廃のない真っ直ぐな道。
東西南北の名をいただく全ての街に共通する、中心から四方の門へと真っ直ぐにのびる大通り、その道が。
……大抵、朝夕と、活気あふれる街の人たちによって市が立つ。
元気のいい、商人たちの笑い声。
学校帰りの子供たちの笑顔。
夕飯の買い出しにきた母親の姿。
交代時間に夕食を買いに来た門守たち。
迎える夜に備えて街の巡回する、その街々で羨望を受ける魔物退治者たち。
――――…賑わう、イースシティの大通りに『あった』幻を、見た気がした。
カルミラは思わず、震えた手で口を押えた。
叫びだしそうだった声を、言葉を飲み込む。
一瞬にしてそんな場景を思い浮かべてしまったのは、カルミラがこの場所、イースシティと同じ四方の街、サウスシティに長く住み、またその造りを完全に熟知した管理統括としての立場ゆえだろう。
信じられないというよりも、信じたくないという気持ちの方が大きかった。
しかし、シルヴィの言葉に、今自分自身が感じた感覚に、嘘だと否定の声を上げることさえ出来ない。
『ここ』は、確かに『イースシティだった』のだ。
「何かの…っ、何かの間違いではないのですか! だってこんな、こんな『大地ごと生命の無い場所』に、西の街があったとは思えない!!」
絶句したカルミラの横で、ルカが叫ぶ。
そう、二人がにわかにこの場所が、西の街があった場所だと信じることができなかった大きな理由こそが、それだった。
いくら、この世界の大地がほぼほぼ不毛なものだといっても、全く何も育まないというわけでもない。
ささやかながら草木は芽吹き、育ち、川が流れ、作物も実る。
とりわけ、四方の名を頂く街やその周辺の大地には特殊な浄化が成されており、ただ毎夜魔気にさらされ、瘴気に包まれる大地と比べると、恵みは多く、大地から生命を感じ取ることは多かった。
だが、今足を踏みしめるこの場所には、全くといいほど、それが感じられない。
草木どころか、雑草の一つも、枯れた草の一葉さえ見当たらない。
乾いた大地は砂のそれにも似て、かつて、この場所を頼りに何万という人が生活していたと想像するには、あまりにもあり得ない惨状だった。
「……以前の、イース崩壊直後でも、大地の様子はここまでひどくありませんでした。あれからたった数か月でイースシティのあったこの場所全てが、大地までも風化する。そんなことは明らかに異常なのです」
ずっと黙り込んでいたシルヴィは、そう断言すると、おもむろにライダースーツのジッパーを腹の辺りまで引き下ろした。
その下に、薄手の浄化者独特の衣を着込んでいるのが見える。
「イースシティの人々は、大地ごと殺されたのです。そして、崩壊したイースシティに残っていたものは、彼らの体のみ。異変に駆けつけた我々が昇華するはずだった人々の魂は、全て、何者かの手によって奪い去られていました」
懐から引き出されたシルヴィの手には、透き通る水晶で出来た十字架が握られていた。
両手の指の間に器用に挟み持たれた、八本の十字架。
まるで鋭利なナイフのようにも見え、容赦なく照りつける太陽の日差しを吸って光りながらも、乾いた大地に輝きを落としている。
「一体誰が、イースの人々の命を奪ったのか。そしてその莫大な量の魂を一体どうするつもりなのか。命を媒介にする呪術は、恐ろしく強大な力を持ちます。イースの人々の魂を奪った者が、もしもそれを糧に術を行うとしたら」
想像は容易だった。
蒼白したカルミラとルカの顔を交互に見やったシルヴィは、赤い琥珀の瞳に悲しげな光を灯しながらも、冷静さを失っていない鋭さで、荒野となったイースシティを見渡した。
「我らは、それを憂いた『賢者』ヒカリ様の命で動く、あの方の手足、目、そしてその意思。決してイースの人々の死を、これ以上の悲しみに繋げることのないように」
透き通る十字架を持つ手を、乾いた大地と水平に掲げる。
まるでそれは、そこから起こる異変を指し示すかのようだった。
シルヴィの十字架が指す先の大地が、ぼこぼこと砂を隆起させて沸き立つ。
「……っ!」
「っ?!」
その様に気付いたカルミラが双銃を抜き放ち、ルカがロンギヌスを構える。
細められたシルヴィの赤い琥珀の瞳が、より一層の悲しさを帯びた。
歓喜に上げる雄たけびような叫びを上げながら、砂の大地から次々と沸き上がってくる魔物たち。
その数はあっという間に膨れ上がり、なおも増えていく。
「この真っ昼間にこの数か…っ!」
苦々しい笑みを浮かべて舌打ちを返すカルミラに、シルヴィが魔物たちから視線を逸らすこともせずに、柔らかい口調で紡いだ。
「ここは死地なのです。だから昼間と言えど、人の理解を超えた、どんなことが起きても不思議ではありません」
ニコリと、元の明るさを取り戻したかのようにシルヴィが微笑んだ。
一斉に、飛びかかってくる魔物の群れ。
砂で出来たその体が風にさらされるだけで、砂粒が空に舞うのが見えた。
三人が同時に後方へ飛ぶ。
次の足場となる地面を踏むまでの間に、カルミラの双銃が火を噴いた。
放たれた銃弾の全てが、こちらに突撃向かい来る魔物たちの眉間に吸い込まれるように直撃する。
「…な……っ?!」
銃弾をまともに喰らったはずの魔物が、ただの一匹も倒れない。
穿たれた穴の開く頭の中央に、また砂が集まり、見事に修復される。
数瞬動きを止めたかと思えば、再び動きを取戻し、突撃を仕掛けてくる。
地に倒れたと見えたものさえ、途端に起き上がって襲い掛かって来た。
だが、魔物たちは一匹たりとも、彼女たちの間合いに立ち続けることは許されなかった。
美しく弧を描いたロンギヌスの切っ先が、空を、地を、襲い来る魔物の体を、胴から真っ二つに切断する。
魔物はことごとく、ざらりと音を立てて砂に還った。
しかしそれも、ほんの短い間のこと。
次の魔物がまた襲い掛かり、飛びかかって来る頃には、再び砂の大地から形を取り戻し、三人に向かって牙を剥くのだった。
「『攻撃する』という行為によって『傷つけ』られるのは、受肉した肉体を持ち、霊体によってそこに留まり、魂によって記憶を持つ、この三つによって実体化したものにのみ、可能とされること」
軽快な足取りで攻撃をかわすシルヴィの片手が、一瞬、消えたかと思わせるほどの速さで揺れた。
その手に持たれていたはずの透明な十字架が、さくりと砂の大地に突き刺さる。
「申し上げましたように、ここは死地なのです。この場に現れるものは、既に肉体を持たず、霊体もなく、魂さえ奪われたものの成れの果て」
「じゃあ、こいつらはどういうことなの?! 亡霊というには、実体がありすぎるわよ!」
攻撃をかわして、空に舞っていたカルミラの金色の髪を、また別の魔物の攻撃がかすめた。
その鋭い爪によって数本の髪が切れ飛び、地面に落ちていく。
確かな攻撃を仕掛けてくる砂の魔物は、毎夜相手にする魔物たちと際立った違いがあるようには思えなかった。
「これらに在るのは、ただの思念のみです。死への恐怖、恨み、生への執着、欲望、……その妄執だけ」
ふわりと虚を撫でるように、シルヴィの手が振れる。
それだけで、そこにあったはずのもう四本の十字架が、音もなく地に突き立っていた。
その間にも、全く攻撃を受けつけない魔物たちは刻々と数を増やしながら、ついには三人を中心にしてその周りを取り囲んだ。
「ちぃ…っ!」
三百六十度、魔物に囲まれた状況に、カルミラは大きく舌打ちを返す。
どう切り抜けようかと思考を巡らすルカとカルミラとは違い、シルヴィはこの戦闘が始まる前よりも更に静寂をまとったかのような冷静さで、両手をゆっくりと胸の前で組んだ。
「憐れな子等よ…」
深く沈み込むような声。
この戦闘において背を合わせ合った浄化者は、今にも魔物の爪の餌食となろうこの状況で、静かに目を閉じ、祈る。
二人の魔物退治者は息を呑み、祈るシルヴィの横顔を振り返り、見た。
「苦しみから解き放たれよ、……汝らは癒されるであろう」
凛と響くその声に、魔物たちは聞き惚れるかのように一斉に動きを止めた。
同時に、先ほどシルヴィの手から離れ、大地に突き刺さった水晶の十字架が、真昼の光の中にあって分かるほど、淡く、だが強く光を放ち始める。
「悲しみから解き放たれよ」
「痛みから解き放たれよ」
「飢えから解き放たれよ」
言葉と共に、大地に手のひらをかざし、水平に薙ぐ。
地に刺さった八本の十字架のうち、最初に放った四本の水晶から紡ぎだされた光が、地に正方形の光の線を描いた。
その内側にいた魔物は、完全に動きを奪われる。
運良く逃げおおせた残りの魔物が揃って威嚇の声を上げ、光の正方形の中に立つ三人、特にシルヴィに向かって牙をむいた。
「恐れから解放されよ」
「憎しみから解放されよ」
「妬みから解放されよ」
続くシルヴィの声。
その言葉が終わるよりも早く、魔物たちは一斉に飛びかかってくる。
視界を埋め尽くすほどの無数の敵影に、カルミラとルカは迎撃に己が武器を握り締めた。
「そして、……その孤独から解放されよ、汝らは赦されるであろう」
深く閉じられていた、シルヴィの赤い琥珀色の瞳が再び、開かれる。
残る四本の十字架が光の線を引き、乾いた大地に正しく八芒星アウセクリスが描かれた途端、
――――ドンッ、と、衝撃が一帯に落ちた。
……降り注ぐはずだった魔物たちの攻撃は、目の前で止まっていた。
今まさに引き金を引こうとしていたカルミラは、空中で完全に停止した魔物の前から数歩、後ろへと下がる。
十字架から立ち上る光に囲われた空間の中、動きを持つのは自分達だけ。
砂で出来た魔物たちは、全て、その身の時間を奪われたかのように、静止していた。
「……完全浄化空間…」
ロンギヌスの切っ先を僅かに下げ、そう呟いたルカの声に、シルヴィはほんの少し口元を引くと、光が描く八芒星アウセクリスの本当の中心に立った。
首に下げていたい黒水晶の十字架をその手に握り、改めて、動きを失くした魔物たちを憐れみ深い目で見やる。
「光と闇の僕、天と地の子、火と水を従え、生と死の流れに生く。何時如何なる時も中心に在りて、その理を正そう」
空に掲げられる黒水晶が煌めいて、シルヴィの頬に光を落とす。
微かな笑みは慈悲に満ちて、こぼれる声はどこまでも優しい。
「……さぁ、祈りなさい。あなたの神に」
砂の大地を踏みしめる、シルヴィが立てた足音さえ、聞こえなかった。
唯一聞こえたのは、シルヴィの良く通る声だけ。
彼女の言葉に答えるように、八つの十字架と、その手の内にある黒水晶の十字架が輝きを放つ。
「高らかに私は謳う、キリエ・エレイソン(この者達に憐みを)!!!!!」
――――ぶわり、と渦巻いたのは、波のような光だった。
一点の影さえ落ちない、光の洪水。
風もない。
音もない。
どこまでも清く真っ白な光に誰の姿も見えず、自身さえ飲み込まれた。
その光は、一切の闇の存在を許さないような至高の光。
もしもこの胸の内に闇が在るのなら、それごと己の存在を消し去ってしまうのではないかと思うほどの清浄さ。
ただただ目が眩んで、倒れないようにと自分を支えるのだが、抱いた一抹の不安は簡単に思考を支配した。
清い光を前に抱いた罪悪に対し、……思わず、助けを求めた、笑顔があった。
手放しかけた意識が戻る。
ハッと、呼吸を取り戻したかのように仰いだ、空。
先ほどまで、周りを完全に魔物に取り囲まれていたとは微塵も感じさせないほど清々しく、澄みきった青空。
乾き切った地表を滑る砂を運ぶ風さえ、澄んでいる。
辺りは、魔物が姿を消しただけでなく、空気さえ一変していた。
その理由はすぐに感じ取れた。
それは今し方、死地とまで言わしめた大地に、僅かばかりではあるが、命の息吹が戻っていると感じ取れるほどであったからだ。
魔物の浄化と共に、死んだ大地に命を吹き込む。
術の同時詠唱並みの高等技術を楽々とやってのけた、その胸に一点の迷いも曇りも持たない浄化者は、束ねられた長い赤毛の髪を、吹き付けてくる熱気をはらう風に梳かれながら、息を吹き返したばかりの大地にしっかりと立っていた。
二人に向かって微笑みを浮かべるシルヴィ。
穏やかなその笑みは、聖母のそれと見紛う。
彼女が、光・浄化者に選ばれるだけの実力者であることを目の当たりにし、言葉を失ったまま呆然とするカルミラとルカに、シルヴィは、
「それじゃあ、ちょっと早いけどお昼にしません? もう、お腹ぺこぺこ~!」
と、先ほどの穏やかな笑みはどこへ、とびきりにこやかな笑顔と、まるで少女のような無邪気さで言う。
さすがにその一声には、浄化者シルヴィに対して神秘的なイメージを描きかけていた二人を、現実という谷底に突き落とすには十分効果的だった……。




