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Holy&Evil  作者:
17/20

『ここは死地、無情に命を奪われた場所。そして浄化者は祈る、憐みを、と』


『……私、何でここにいるんだろう?』


 真剣にそう考えて、ルカは首を捻った。

 隣に立つカルミラは、今通り抜けてきたばかりの魔法陣(ゲート)システムからひょいと飛び出して、わき目もふらず軽快な足取りで進んでいく。

 金色の髪を揺らすその背を、ルカは無言のまま見つめてしまった。





 あの怒涛の夜から、丸三日が過ぎていた。

 一時的にセントラルから送り込まれた大量の技術者や建築者や作業員たちの姿も街から消え、カルミラ管理統括の元、サウスシティは元通りの平穏を取り戻した。

 ある意味また、怒涛のようであった三日間の報告書をまとめ上げたカルミラは、それらを提出する名目で、世界を動かす上層部の一員である兄、コウに会いにセントラルへと赴く予定を立てていた。


 セントラルに戻ることには個人的に抵抗があったが、かつての戦友、自分と同じ十二英雄の一人、アルトリアの失踪事件に関する着目点を語らう為である会合に、わざわざ不参加を表すほど、事を軽く見ている訳ではない。

 微力なれど、彼を助け出す力になれればと思わないことはない。

 だから、今回は天に留守を任せ、カルミラと共に「セントラルへ」と魔法陣(ゲート)システムをくぐったのだった。

 


 しかしながら今いるこの場所は、どう見ても、どう考えても、セントラルではなかった。

 魔法陣(ゲート)システム塔から下り切ると、そこに広がっていたのはのどかな町並み。

 どんな町にも見かける朝市が立ち、活気あふれる声がどこからともなく聞こえ、通りにはこれから学校に向かうのだろう子供たちの姿がある。

 一見しただけで、サウスよりもはるかに規模の小さな町だと分かった。


「……カ、カルミラ殿、我々は、セントラルに向かったはずでは?!」


「あぁ、…うん、そうね」


「そうね、って、…こ、ここはどこですか?! ウインズゴッド氏に報告に行かれるのではなかったのですか?」


「あー、あれ? うーんと、…嘘だったり?」


 悪びれた様子も無く、カルミラはにこやかな笑顔を浮かべる。

 思わず絶句するしかなかった。

 いかめしい顔をして眉根を寄せたルカの驚きようにカルミラは声を上げて笑うと、すぐに、ここ数日のうちにずいぶん見慣れてしまった、仕事にかかっている時の顔付きに戻った。


「嘘、嘘、嘘よ。報告は帰りの予定なの。本当はね、……イースに行こうと思って」


 ようやく本当の行先を口にした、カルミラの面に少し陰りが射す。


「イース、ですか? …でも」


「そう、正しくはイースシティ跡、ね」


 言い直したカルミラは、静かに腕を組んだ。

 セントラルに報告にしに行くだけにしては、やけにしっかりと戦闘装備を整えているなと思って見ていた彼女の腕にぎっちりと巻かれたガンナー用のプロテクトが、それだけで軋んだ音を立てる。


「ここはイース跡に一番近い町よ。魔法陣(ゲート)システムが繋がっているのはここまで。あとは自力で行くしかない。……ほら、天くんにはまだ、イース跡に一緒に行きましょうとは言えないでしょう?」


「はぁ…」


 いまいち納得しかねているような声音で、ルカは返事をする。


「そうだ、ルカ。貴女はイースが『消えた』とき、どこで何をしていたの?」


 急に問いかけを振られ、ルカは数秒、記憶を辿る為に黙った。


「……確かその頃、私はウエスシティ認可最東端にある遺跡の地下で調査に参加していました」


「あら、地下に潜ってたわけ? それなら詳しく知らなくても仕方ないわね」


 合点がいったと言わんばかりに頷いて、カルミラは横目にルカを見やった。


 イース崩壊。

 数か月前に起った大惨劇。

 四方の街の一つが一瞬にして破壊し尽くされ、そこに生きていた数万という人々の命が奪われた。


 悪夢のような一夜。

 その夜を生き延びた、ただ一人の魔物退治者(バスター)、……伊吹天。


「……天くんの事、不思議だと思わない? 本当は、魔物退治者(バスター)の素性なんてあんまり気にしないんだけど、彼にはあまりにも理解しきれないことが多い。それがもし、イース崩壊と関係があるなら、と思って」


 淡々と語るカルミラの声を遮らんとするかのように、低く唸るような轟音が近づいてくる。

 その音に驚いてルカは思わず顔を上げたが、カルミラは平然と腕を組んだまま、音の響く方を的確に目で捉えて、遠く視線を投げるだけ。


「だから、調査に入るなら一緒にと、根回し頼んどいたの」


 にやっと口元を引く、カルミラ。

 呆然とするルカ。

 二人の前に、腹の奥に響くエンジン音を上げる、大型バイクが滑るように走り込んできて、止まった。

 バイクに詳しくないルカにしてみれば、カルミラが所持している大型バイクとよく似た物だと思いさえしただろう。

 だが、それは紛れもなく旧文明の産物である、ガソリンによる可動式バイクであった。

 朝日を浴びて、赤と黒でペイントされたボディが光る。

 そのバイクから、ライダースーツを着込んだ人物が颯爽と下り立った。


 黒一式のライダースーツ。

 黒のフルヘルメット。

 どんな女性でも、一度はなりたいと羨望を向けるであろう、豊満な胸と、くびれた腰と、形のいい尻が、密着したライダースーツの上から良く見て取れた。

 少し開けられた胸元には、黒水晶の十字架が輝いている。

 カルミラとルカの顔を交互に見た後、その女性はヘルメットを取った。

 ふわりと、とても赤みがかった茶色い髪が肩に落ちる。

 二人に向かって真っすぐに視線を注ぐ、その目は優しげに細められてはいたが、まるで揺らめく炎の色を映したように赤い琥珀。

 カルミラにも負けない勝気な笑みを浮かべ、バラ色に紅を引いた唇が、澄んだ声を届けた。


「初めまして、セントラル、(ヒカリ)浄化者(プレイヤー)の一人、シルヴィ・ジェム・テイラーと申します」


 グラブを取って、差し出される手。

 求められた握手に、二人は素直に応えた。





/サウス・西門付近/

[A.M.08:25]

 セントラルに向かった二人を見送り、魔法(ゲート)陣システム塔を後にした天は、まるで散歩気分で歩きながら、街を見回っているところだった。

 先ほど、朝市の中を通った時、押し付けられるようにしてもらってしまった紙袋いっぱいのりんごを一つ取り出してかじりつつ、朝の街並みを見渡す。

 西門を背に道を歩きながら見回す街並みに、特に目立って変わっている点は見当たらない。


『前から思ってたけど、この辺りってなんだか懐かしい感じがするんだよな。空気の感覚も気持ちいいし』


 そんなことを考えながら、上機嫌に空など見上げ、歩いて行く。

 まだ姉と暮らしていた頃の、懐かしい感覚がよみがえってくるようだった。


 父を亡くし、姉と二人、一つの場所に長くとどまることもなく暮らし歩いた。

 まだまだ子供だった自分達には、辛い旅の日々だったかもしれない。

 だけどそうは思わなかったのは、隣にはいつも、まるで鏡に映したかのような姉がいてくれたから。


 しかし、ふと、疑問がよぎる。


 記憶に留めている、離ればなれになる前の姉の姿は、それほど今の自分と似てはいない。

 確かに、子供の頃と比べるには、年月を経ているし、男女という性別の壁が二人の外見を隔てるだろう。


 しかし、もっと別の理由があったはずだった。


 二人の明確な違いの表れ。

 写し鏡のようだったお互いが、まるで水面を境に映る光と影のようなものになった理由が。


 だが、考えても考えても、その理由は霞を掴もうとしているかのごとく、おぼろげな記憶と共に手ひどい頭痛となって自分を苛むだけだった。


『……僕は、そんな大事なことも忘れているのか。……でも、それが大事だったかどうかも覚えてない。重症だな…』


 深くため息を一つ吐き出し、顔を上げた瞬間、目の前に在った壁に、思わず身を強張らせて全身の動きを止めた。

 あと一歩でも踏み出していれば、紛れもなくこの壁にぶち当たっていたことだろう。

 天は無言で、一歩後退りした。

 ぼんやりするにも程がある、と、自分自身に悪態を吐きながら、改めて今いる場所を確認し、首を捻った。


 大通りを真っ直ぐに歩いていたはずだった。

 それなのに、わざわざ大通りを逸れて違う道に入り、こんな場所まで来るとは。


 ぼんやりしていた中の無意識だったからこそ、引き寄せられてしまったのだろうか?


 引き寄せられた理由、とやらを深く考えなくても、天にはすぐに理解できた。

 この場所は、サウスの中でも特に緑が多い。

 そのせいだろう、と天はゆっくりと口元を引いた。


 世界の大半は不毛な土地と化してしまったとはいえ、自分には、いや、『自分たち』には、生い茂る木々や、咲き乱れる花々は近しい存在だった。

 倒壊しかけたビルと、既に倒壊したビルの隙間に小さな道を見つけるまで、そう時間はかからなかった。

 子供に戻って探検でもしているかのような、わくわくした気分で、その細い道に迷いもなく足を進める。

 時々、背中の大剣が壁にひっかかったりしながら、どうにか通り抜けた、道の先。


「う…わぁ……!」


 目の前に広がる一面の緑に、ただただ声が上がる。

 朝日を受けて輝く木々の葉がキラキラと、吹き付けるそよ風に揺られている。

 さわさわと心地いい葉摩れの音。

 どこからか聞こえてくる、清水の流れる音に心が癒される。


「凄い…。一体誰がこんなところ作ったんだろ?」


 踏み出す足の下に、可憐な草花が小さな蕾を着けているのを見つけて、天は足を置く位置を変えた。

 足元に確かに息づく緑を無下に踏み潰してしまわないように、慎重に一歩ずつ奥へと進んでいく。

 どこかで巣を造っているのだろう、小鳥が高い声で鳴きながら飛び去る音を聞く。

 高く空に伸びた木を見上げて、その先にある青空を仰いだ。


「……姉さんと同じ趣味だな…」


 ぼそりと呟いた。


 姉の趣味は、不毛な土地を緑に還すことだった。

 住んだ場所、住んだ場所、あっという間に緑の屋敷に変えて、植物を売って生活していた姉。

 目を細めて草花を相手にする、日光を浴びて振り返り、微笑む彼女の姿は、今でも鮮明に思い出せる。

 自分とは似てもいない細い手を泥だらけにして、子供の頃のままの無邪気さで笑う。


 ……彼女を失くして、もう何年が過ぎたのだろうか。


 少し中にまで入ると、木々の密度は目に見えて増した。

 この場所が、特別管理扱いの公園か何かだと思わなかったのは、あまりにも人の手が加えられていないと感じたからだった。

 緑が成長する意思に任せてある。

 そして成長するために少しだけ、手を貸してやっている。

 そうして育ってきた植物たちを、天は小さい頃から姉の側でずっと見てきたからこそ、そう感じたのだった。


『誰かが住んでいるんだろうか? 住居があるとしたら、もっと奥かな?』


 木々の枝や草花を手折らないよう、注意しながら、天は更に奥へと足を向ける。

 どれだけ目を凝らしても、緑の向こうに住居らしき建物の影を見つけることが出来ない。あるものと言えば、この場所の中心に当たる辺りに、うっすらと灰色の光の筋のようなものが空へと昇っているだけだ。


 そして、おかしなことに、この区画を取り囲む街並みさえ見えない。

 木々が邪魔をして、視界を遮っている、と考えるのが無難だろうが、そんな言葉で済まされない。

 そもそも街の方からは、ここにこれほどの緑があるとは気付かなかったし、街の誰も気づいていなかったし、知りもしなかった。

 この場所を隠すための結界か何かが、どこかに張ってあるのかもしれない。


 だが、何故隠す必要があるのか。

 そもそも、誰が隠したのか。


 頭の隅で疑惑と憶測が巡り、物騒なことさえ考え始める。

 しかし、自分を落ち着かせるために深く息を吸った鼻につく、濃い緑の匂い。

 栄養度の高い、肥えた土の匂い。

 それに、適度な水の匂い。


 ずっと、姉と二人、そんな空気の中で生きてきた。


「あぁ…、懐かしいな……」


 呟いた時には、もう、何もかもを深く考えることを止めていた。

 不意に泣きそうな気持ちになる。

 この深い緑の向こうから、姉が自分の名を呼びながら駆けてくる、そんな錯覚にさえ陥っていた。


 はた、と天は我に返った。

 そして頭を掻く。

 思い出に浸るのはいいが、精神をそれに引っ張られるわけにはいかない。

 気を取り直して、道、とは言えないが、『誰かが通っていた跡が残っている道』を見やった。

 それは間違いなく、この場所の中心へと続いている。

 遠目の空にうっすらと見える、灰色の光が集まっている場所だ。

 再び歩き始めた天は、何度も道を塞ぐ植物を掻き分け、何度か道を塞ぐ木のために迂回を余儀なくされつつも、確実に中心に向かって足を進めた。



 そこへ近づけば近づくだけ、植物は密集していた。

 それは、入り口付近で感じたものとは違って、手入れが行き届かなくなっているような、長い間、人の手を借りることが出来なくなって群生するしかなくなったというような印象を受けた。


 がさり、と生け垣になり損ねている椿を押し退けると、ようやくして中心部であろう場所が見える位置にまでたどり着く。

 遠くからも見えていた通り、灰色の光がその場所に降り注いでいる、いや、集まっているのか。

 その中心には、石で造られた祭壇のようなものが微かに見えるが、取り囲むように在る灰色の光がたわんでいて、正確に見て取ることは出来ない。

 何か儀式的な場所なのかと訝しむ。

 更に歩みを進めて、目を凝らし、灰色の光の中を見ようとする。

 ほんの一瞬、僅かに、その石の祭壇の上に横たわる誰かの姿が見えた。


『……女の人?』


 もう一歩足を進めると、あれだけ前進を妨げていた緑が、急に退いた。

 それが、この場所にたどり着いたためだと気付いた時、天はもう一つ、あることに気付いた。

 灰色の光の中心にばかり気を取られていて、気付いてさえいなかった。

 黒い衣が、この緑と清々しい空気に満ち溢れた場所には異質なほど、目立っていたにも関わらず。


 ……石の祭壇の傍らに、それを背に、手足を投げ出して、眠る者。

 力なく、気だるげに地に落ちた腕。

 そよ風に微かに揺れる、銀色の髪。

 伏せられた目蓋、縁取る長い睫毛が頬に影を落とす。

 透けるほどの白い肌に、光が当たっている。


 それは、まるで一枚の神聖画のよう。

 人智をはるかに超えた、人外なるものの美しさ。

 だが、何より天を驚かせたのは、銀色の悪魔の、想像さえ出来なかった、……穏やかな寝顔だった。


「あれ? ハデスさん?」


 だからこそ、不用意に発してしまった声に、天自身、深く深く、悔いた。


 その眠りは、浅いものだったのか。

 ひどくゆっくりと開いていく瞼の向こうに在る、雪の降る夜に浮かぶ銀色の月のような瞳。

 それが、天の姿を映した瞬間、燃え上がる炎のように赤く染まった。


「う…っわ! まっ!! 待ってくださ…っ!!!!」


 天が慌てて上げた制止の声など、完全に聞く耳を持たないと言わんばかりの、ハデスの紅蓮の瞳が一瞬で至近距離に迫った。


 ズジャジャジャジャ…ッ!!


 気付いた時には、天は、土と小石の残る地面に背中を擦らせながら倒れ込んでいた。

 見上げた先には、己の体の上に馬乗りになったハデスの姿。

 怒りを満たした赤い瞳が、無慈悲に、冷徹に、自分を見下ろしている。

 腕に抱えていたはずの紙袋から吹き飛んだりんごが、ゴトゴトと次々に地面に降って落ちた。


「……何故ここに居る? どうやって結界を通った?」


 浴びせられる質問と、それを紡ぐ声の冷たさ。

 掴み上げられた胸倉が、ギリ、と音を立てる。

 さほど苦しく感じないのは、ハデスの温情だろう。


「け、結界ですか? …あったんですか? 何も感じませんでした…」


 確かに、この場所の周りが結界で覆われ、隠されているかもしれないとは考えた。

 だが、それが万人の通行を妨げるためのものだとは想像していなかった。


 そんな結界を、知らずに通り抜けたのだろうか?


 どんなものであれ、『結界』というものを通り抜ける場合、何らかの違和感を感じ取らなければ、魔物退治者(バスター)としての力量が知れる。

 それは事と次第によっては、生死にも関わることなのだ。


 見るからに天が消沈したのを見て、ハデスは小さく舌打ちを返した。

 自分の下でもがいていた、今は急に肩を落とした天の口から出た言葉が嘘でないことはすぐに分かった。

 数日前、同じくこの場所を見つけて入り込んできたルカでさえ、入り口に張ってある結界の一つしか越えられなかった。


『あの女は光の祝福を受けていたな…、二つ目の結界が通れなくて当然だが…』


 その結界を、感じもしなかった、と言う天の言葉が気になった。


「……質問を変えよう。……何か、――――見たか?」


 一段と冷たい声が、天に降り落ちた。

 こちらを見下ろす赤い瞳は、思わず息を呑むほど非情で、冷酷で、……美しいものだった。

 胸倉を締め上げ続けるハデスの指に長く伸びた、刃となんら変わらない爪が、喉元に触れる。

 なまじおかしなことを言っても、そして何も見ていないと嘘を吐いても、このハデスの前では、全く意味を成さないだろう。

 ごくり、と唾を飲み込む天の喉が上下する。

 それだけで、ハデスの爪は天の喉の皮を割いた。

 細く赤い線が、肌に走る。


「……、は…っ」


「は?」


「……ハデスさんの、寝顔…、見ました…」


 数秒間、二人の間に沈黙が落ちた。

 小鳥のさえずりや木の葉の揺れる音が、のんきなほど、相変わらずその場にあるだけだった。


 ハデスは大きなため息を吐きながら、天を半ば投げ捨てるように離し、その体の上から退いた。

 呆れ果て、ようやく解放されて立ち上がる天を、言葉も継げないほどの脱力をありありと感じさせるような冷めた目で眺めて、もう一度ため息を吐きだす。

 その瞳はもう、いつもの雪月の銀色に戻っていた。


「はー…、驚いた。ここ、ハデスさんの場所だったんですね」


 立ち上がり、体についた土を手で掃いながら、天は屈託もなく笑いながらそんなことを口にする。

 ハデスはそんな天の笑顔を横目で一瞥すると、短いため息をまた吐き出した。


 銀色の悪魔が緑に向かって手をかざすと、木々はまるで生き物のように、草花はまるで小動物のように、動きを持った。

 今まさに編み込まれていく魔法。

 彼が一歩進むごとに、道が出来、草木はアーチを造り、正確に、外へと道を示していく。

 無言のまま、ハデスは歩いて行く。

 天はその後に続きながら、一度だけ、彼に見つからないように後ろを振り返った。

 灰色の光の柱は、変わらずにそこに在って、たわんだ光で包み込む何か、いや、誰かを隠している。


 それが一体誰なのか。


 気にならないと言えば嘘になるが、問いかけてしまいそうになる言葉を飲み込むと、それきり前を向いて、先を歩くハデスの背中を見つめた。


「いつも、朝になったらどこへ帰られるんだろうと思っていたんですけど、案外近くでしたね。びっくりしました」


 後ろから話しかけてくる天の声は、どこまでも明るい。

 つい先ほど、一つ間違っていれば、この悪魔に命を取られていたかもしれないという懸念は、もちろん微塵もない。

 ハデスはついに振り返り、その長い爪の先が天の鼻先に突き刺さるのではないかと思うほどの勢いで、指を突きつけた。

 驚くほど近くに、ハデスの指先がある。


「二度と! 絶対に! ここへは来るな!!」


 普通の者であれば、怯え慄き、ただ言葉もなく頷いてしまうであろう、ハデスの殺意と怒りのこもった声に、天は、


「はい、分かりました。それより、ハデスさんもりんごどうですか?」


 などと、全くもっていつもと変わらない明るい笑顔で、紙袋の中に残っていたりんごを取り出し、ハデスに向かって差し出した。

 目の前にいる悪魔に対して、不信も、不満も、わずかばかりの警戒心すら、ない。


 それにはさしものハデスも、その手を額に当てて、深く項垂れたのだった。




 

/イースシティ跡に最も近い町・サンミリア/

[A.M.08:31]

 握り合った手を離すと、ヘルメットを脇に抱えたシルヴィは、ルカの顔をじっと見つめて、にっこりと笑った。


「髪をお切りになられたのですね、英雄ルカ。以前の髪型もお似合いでしたが、今もとてもキュートですわ」


 そう褒められて驚いたのは、ルカの方だった。

 そして、ルカは真っ向から、初対面のはずのシルヴィに聞き返す。


「失礼ですが、どこかでお会いしましたでしょうか? 記憶にないもので」


 その冷え切った声と冷たすぎる対応に既視感を覚えて、隣に立っていたカルミラはルカの顔を横目で盗み見た。

 思い出したのは、初めて出会った時のルカの姿だ。


『人見知りするのかしら?』


 そんなことを考えつつ、とりあえず二人の間に口を挟まずに、どうなるのかを見守る。


「覚えておいでになられませんか? 『賢者』ヒカリから祝福を御受けになられた時、ヒカリ様の傍に控えておりましたのが私です」


 赤い琥珀色の目を細めて、にこりと笑うシルヴィ。

 ルカはちょっと間を置いて、ポン、と手を叩いた。

 どうやら覚えがあるらしい。


「思い出してくださって光栄ですわ! そして、一度お目にかかりたいと思っておりましたの。英雄樹朔様の奥様、カルミラ様」


 こちらに向き直ったシルヴィが口にしたことに、カルミラは大して驚きもせず、にこやかな浄化者(プレイヤー)の顔を、目を細めて眺め見た。

 樹朔の妻として自分の名を知っている者は限られているとはいえ、ある程度、英雄に関わる内部事情に精通する者であれば、簡単に分かる事実だ。

 そうやって呼ばれるのも、さらし者にされるのも、とっくに慣れっこになっているので、カルミラはいつものように得意の仕事顔で笑って見せる。


「と、いうよりも」


 途端に言葉をひるがえすと、シルヴィは口の前に人差し指を立て、子供たちがする内緒話のような無邪気さで、告げた。


「ヒカリ様のおっしゃる、『カルねぇ様』がどんな方なのかと、ずっと楽しみでしたの!」


 ニカッと、歯を見せてシルヴィが笑う。

 カルミラは面食らったように目を見開き、数瞬の間を置いて、カッと頬を赤く染めた。

 ニコニコと微笑み続ける、ライダースーツに身を包んだ意外な浄化者(プレイヤー)は、なかなか見事に二人の心を掴んだのだった。


「で、ですね~、あれ? うーん、あの~」


 カルミラとルカの背後を覗き込んで、それから彼女たちの後ろに続く魔法陣(ゲート)システム塔へと視線を投げ、大きく左右を見回し始めるシルヴィ。

 どうやら、誰かを探している様子なのは、すぐに分かった。

 軽く頬を染めながら、落ち着かずに指を遊ばせ、照れた様子で二人に問いかける。


「あの~、天くんは、…どこに?」


 きゃっ、と可愛らしい声を上げて、頬を押さえる。

 天の名を口にしただけで、シルヴィの頬の赤みが増したのが目に見えて分かった。


「え…? ……天くんは、今回はサウスに留守番なの。まだイース跡には行きたくないでしょうから」


 カルミラの返答に、シルヴィは明らかにがっかりした様子で、頬を押さえていた手を静かに下ろした。


「そ、そうですか……」


 しゅーん、と身を縮こまらせて項垂れる。

 その姿に、カルミラは絶句し、ルカは軽い怒りを覚えた。


『え? 何だ? 私今、ムカッとしたぞ?』


 ルカはローブの上から己の胸を押さえつけ、思わず首を傾げた。


「残念ですが仕方がありませんわね。では、参りましょうか、イースシティ跡へ!」


 消沈した自分を奮い立たせるためにか、はたまた元からの彼女の性格なのか、シルヴィは一際明るく声を張り上げて、思考を切り替えたようだった。

 サイドカーから取り出されたヘルメットを二人に渡し、シルヴィはもう一度ヘルメットを被る。

 のどかな町に再び、バイクのエンジン音が轟くのだった。



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