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Holy&Evil  作者:
16/20

夜明け

「どんな状態?」


 再びたどり着いた、北東に位置する、防壁の完全に崩れ落ちた場所。

 砕けた強化レンガが瓦礫のごとく積み重なって、足場も悪い。

 そんな地面に死屍累々と倒れているのは、先ほどまでこの場で結界を張っていたシュテファン管理所の魔物退治者(バスター)たちだ。

 結界師(ガーダー)と役目を代わり、気絶するように倒れたに違いない。

 そんな彼らに何をしてやれるわけでもなく、半ば放置して、ここでは特別に五人もの結界師(ガーダー)がまとまって結界を張っていた。

 その、一見薄い防御術の光の向こうにある深い闇に目を凝らせば、先ほど蹴散らした魔物の死骸の他に新たな魔物の姿が見えた。


「ご心配なく、無事に朝まで乗り切れます」


 カルミラに答えながらも、結界師(ガーダー)たちは集中力を途切れさせることなく、術を続けている。

 その安定ぶりにカルミラは言葉もなく、ただ深くうなずいた。


「ですが…」


「……ですが、何?」


 耳障りな金切り声をあげて叫びながら、結界に食って掛かった魔物が、バチンと音を立てて弾け飛んだ。

 それを横目に睨みつけた後、カルミラは言葉を濁した結界師(ガーダー)に視線を戻す。


「彼らが言うには、魔物の数はこんな程度じゃなかったそうです」


「もちろん、カルミラ様が蹴散らして下さったからでしょうが」


 ちらりと、ここで結界を張る五人全員の顔をうかがい見て、カルミラは静かに腕を組んだ。

 彼らが言うように、自分と天が少なからず魔物の数を減らしてから街に入ったこともあるだろう。

 だが、それだけが主たる理由と思ってはいない、と一目で分かる顔付きだった。

 それが本当かどうか、詳しく聞こうにも、力を限界まで振り絞ったシュテファン管理所の魔物退治者(バスター)たちは、精神力、術力ともに空っぽになったことを証明するかのように、惨たらしい姿で深い眠りに落ちている。

 そう、と小さく相槌を返して、カルミラは耳に装着している通信機に手を添えた。


「通信機を持っている全員、聞こえているかしら? それぞれが張る結界付近で、何かおかしなことは無い? 報告して」


 通信機から飛んだカルミラの言葉に一呼吸置いて、返信が返ってくる。


「北です! 異常ありません」


「南西! 魔物の数ですが、もう数えられるくらいに減りました!」


「こちら西。嘘みたいに、魔物の姿は見えません」


 次々と通信が入る。

 そしてその中にある、一つの異様さに、カルミラはすぐに気付いた。

 空色の目を大きく見開き、闇の中の魔物の姿を捉え、がばっと勢いよく東の方へと向く。

 その動作のあまりの唐突さに、二人ほど、結界師(ガーダー)たちが驚き戸惑ったほどだった。


「南東です! ま、魔物が、東の方へ移動しているのが分かります!」


 そんな、カルミラの挙動の後すぐに入った通信に、彼女はほんの小さく舌打ちを返した。

 北東に位置するこの場所の結界の向こうでも、見て取れる。

 結界間際にいる魔物を残して、その後ろに控えていた多くの魔物たちは、揃って東方面へと流れているのだ。


「こちら東! 何だか、魔物の数が増えてます!!」


 ひどく不安に満ちた声が、全通信機を通して伝わったことだろう。

 カルミラが平静を装ったまま、心の中で大きく舌打ちを返したことには、もちろん誰も気づかない。


「無事なの? 状況を」


「は、はい! 結界は完全です! …でも、どうやら門の外に誰かいるみたいで」


 その『誰か』に向かって、街の外にいる魔物の全てが群がっている……?

 ぞわぁっと、全身の毛が逆立つような恐怖に、思わず身が震えた。


――――…天くん、貴方なの……っ?!


「その人、助けを求めてる?!」


「いえ、全く! それどころか、……剣戟が、聞こえるんですが!」


 カルミラは思わず拳を握り、無言のままガッツポーズを取った。


「管理統括、門を開けますか? 外の人、助けるんじゃ…」


「いいえ、門は開けないわ」


 言い切る言葉は変わらない。

 カルミラは暗闇を見上げながら、通信機に凛と声を通す。


「朝日が昇りきるまで、門を開けることは許しません。……、……でも」


 通信機に添えた手が、ギシリと機械を軋ませた。


「もし、外の人が一言でも『助けて』と叫んだら、……私が行く。責任ならすべて負う。ここは私の街よ、……誰一人、死なせるつもりはないわ」


 その瞳に炎を灯すかのごとく、強い意志の光を帯びて闇を睨みつける青い目。

 カルミラの側に在ってその姿を見ていた結界師(ガーダー)たちは、静かに息を呑んでいた。

 





/サウスシティ中央広場/

[A.M. 05:42]


「日の出まで、後、十分、切りました」


 通信機から響く、期待を隠しきれない、明るさを押し殺した声。

 広場に集まった誰しもが、もう何も言葉にすることはないと、ただ黙りこくっていた。

 あれから次々と魔物の姿が消え、西門に続いて北西、南西、南門前にいた魔物がすっかり姿を消した。

 そして数十分前、北、南東、更には最大の被害を被っていた北東の壊れ果てた防壁前からも一匹残らず消え失せたばかり。


 残るは、東門前のみ。

 ある程度疲弊を回復し、相次いで目を覚ますシュテファン管理所の魔物退治者(バスター)たちは、ことごとく同じことを呟いた。


 夢か? と。


 彼らが倒れ、眠り込む前に見ていた絶望は、白み始めた空に微かに浮かんで見える星の輝きのような頼りなさで消えていく。

 数時間前には、確かに『全滅』という言葉を思い抱いて、己の命さえ諦めかけたというのに、今見渡す人々の顔に、そんなものは微塵も浮かんでいなかった。

 ただ、確信に変わった防衛の成功と、命あって朝を迎えられるという安堵。

 そしてそれをもたらしてくれた、今も剣戟を響かせる、東門の外にいる『英雄』の所業に、誰もが歓喜を抑えきれないと言わんばかりの表情で、硬く閉ざされたままの門を見つめていた。


「五時、五十一分。日の出です!」


 時を告げた声に寸分遅れず、地平から上り始めた太陽の光が、東門の塔にある光窓に射し込む。


 夜の瘴気が祓われていく。

 陽の光が、これほど深い安堵をもたらしてくれるものだということを、サウスの人々は改めて知ったことだろう。


 もう、街の中には誰一人として不安な表情を浮かべる者はいなかった。

 太陽が地平を離れたことを確認し、人々は抑えきれない感動で、誰彼かまわず、隣に立っていた者同士、顔を見合わせた。


「いいわ。門を開けてちょうだい」


 最後まで北東の崩れ果てた防壁跡に立っていたカルミラの声が、通信機から響く。

 ようやく、そう告げることが出来た。

 安堵に静かに息を吐き、カルミラもまた中央広場を目指して、その場を後にした。


 管理統括の許可に、待っていました、と言わんばかりに、門番たちが東門の閂を外す。

 ゴトン、と響く音に、人々は無意識の内に息を呑んでいた。


 中央広場から真っ直ぐに続く、東門への長い大通り。

 その道に、金色の朝日が射し込む。

 そこに、朝日に照らし出され、長く伸びた影。

 開き切った東門の外側。

 今まさに昇ったばかりの太陽に向かう、真白な外套に身を包んだ、戦士の後ろ姿。


 割れんばかりの歓声が上がっていた。


「朔様!」


「朔様だ!!」


「英雄よ、サウスは守られた!」


「朔様、万歳!」


 気がつけば、誰もがその名を叫び、讃えていた。

 吹き付けてくる、サウス独特の乾いた熱気をはらんだ風が、その人の髪を揺らす。

 黒く、束ねられた長い髪が白い外套の背で揺れる様は、誰もが一度は憧れ見惚れ、敬愛を抱いた英雄の中の英雄の姿だ。


 ……人々は英雄の名をたたえ、賛辞しながら、自分たちがその目に映した者が、望む英雄ではないことに、今はまだ気付いていないだろう。

 彼らは長い時間恐怖にさらされ、極限状態から解放され、ようやく得た安堵と歓喜で、『望む者』を見ていたに過ぎない。

 それは一種の集団催眠に近い心理状態だ。

 それもまた、少し時間が経てばおのずと理解する、優しい幻に過ぎないが。


「……、……天、殿…」


 ただ一人、ルカだけは、小さく、朝日の中にいる戦士の本当の名を呟いた。

 陽の光を受けた茶色の髪が透けて、金色にも似た輝きを見せている。

 右手に握った緑の大剣を揮って、刃を汚していた魔物の血を飛ばす。

 そして己の背丈ほどもあるその大剣を軽々と、背に負う鞘に仕舞った。

 白い外套に良く映える、鮮やかな緑。

 それは、見慣れた背中だと思っていた。

 幾度と見た、戦士の背中。

 だが、ふと、ルカの頭の片隅に触れたイメージは、簡単に言葉となって思考を染めた。


 乾いた不毛の大地に臨む、天のその背にあるのは、……まるで龍の翼だと。


 ルカの微かな呼び声が、その耳に届いたのか。

 戦士は振り返った。

 太陽にも負けない、それ以上にあたたかく、穏やかで優しい笑みを浮かべながら。


――――…ドクン。


 心臓が跳ねた音を、耳元で聞いた気がした。

 喜びに沸く人々でごった返す広場に居て、人波に今にも視界が遮られそうだというのに、自分と、天の視線は確かに、真っ直ぐに交わっていた。

 その面に浮かべられたあたたかな笑みも、歓声を上げる人々に笑いかけたのだと思えたはずだった。

 だけどそれが、自分ただ一人に向けられたものだと、確信する。


 ……だってそうでなければ、彼はどうして、……私の名を叫びながら駆けてくるのか。


「ルカーーー!!」


 この夜の戦いをものともしない足取りで、天は東門をくぐり抜け、中央広場の中心へと駆けてくる。

 その姿がどんどん近づいて、純粋すぎるほど素直で真っ白な、優しい笑顔がこの目に鮮やかに映る。


 任務のため、彼と手を振り別れてから、実質、一日も経っていない。

 なのに、その笑顔がとても懐かしい。


 ……私には決して、真似できない笑顔。

 明るく潔いほど清々しくて、その笑みを向けられた人を温かな気持ちにしてくれる。

 そんなものを、私が受けていいはずがないと、心のどこかで理解している。

 決して、得られるものではないと知っている。

 分かっている。


――――…なのに、今、こんなにもその笑顔を欲している。

 そうして笑ってくれる天を、こんなにも求めているのは、何故……?


 目の前に迫った、自分のために広げられた両手。

 自分のためだけに浮かべられた、笑顔。


「天、殿…っ!」


 その名を呼んで、この手を伸ばし返していた。


 天の手が、ルカの手に触れる。

 術力も体力も尽きたぼろぼろの状態であったルカは、まともに立ち上がることも出来ない。

 残る渾身の力で手を伸ばすだけで揺らいだ小さな体を、天の腕は確かな強さで抱き止めた。


「ルカ、ルカ…、血だらけだ、大丈夫か? よく頑張った、よく、サウスを守ったね」


 両手で頬を包むように触れて、天はその細いあごを汚した、既に乾き始めている血を拭ってやりながら、満面の笑顔でルカを褒める。


「へ、平気です。これは、ただの力の使い過ぎですから…」


 天の親指の先が、唇をなぞる。

 至近距離でこちらを覗き込む、優しいヘイゼルの瞳。


「本当に?」


「は…、はぃ…」


「そう、よかった」


 安心した、と目を細め、天の手はもう一度ルカの頬を撫でた。

 その途端、理由など全く分からないのに、一瞬にして頭に血が上った。

 頬が上気し、体温が上がり、顔が赤くなったのが、自分でよく分かった。


「…ルカ?」


 この目を覗き込んだ天が、ほんの少し首を傾げ、柔らかそうな茶色の髪が揺れた。

 変わらずにすぐそばにある、穏やかな微笑み。


 あぁ、天殿、どうして貴方はそんなに……。


 思考がまとまる前に、ぐらんと頭が傾いた。

 ついに限界が来たのか、それとも天の腕の中にいるせいなのか、急に、先ほどまでとは比べられない疲労感と虚脱感と、安心感に目の前が眩んだ。

 傾くルカの頭を支えて、天はすぐに小さな体を抱き寄せ、抱き上げた。

 天の肩に、ルカは無意識に頭を寄せる。


「お疲れ様、ルカ。……後は僕とカルミラさんに任せて」


 重なった体を通して、優しく響く天の声。

 張りつめていたはずの、研ぎ澄ましていたはずの神経が簡単に緩み、猛烈な眠気がルカを襲った。

 天が少し身を屈め、地面に無造作に転がっていたロンギヌスを拾い上げてくれる。

 霞む目に、確かに、天の大きな手に握られた神槍を見た。


 ……天殿、どうして、貴方はロンギヌスを……、


 沸き上がった疑問は、すぐに真っ白に塗り潰されて、ルカの意識ごと、深い眠りの底に沈んだ。



「天くーん! ルカー!!」


 喧騒の中、それでも良く通る声が名を呼ぶ。

 超特急で駆け抜けてくるカルミラの姿に、天はロンギヌスを持った手を高々と上げて振り回し、呼び声に答えた。


「カルミラさん、よかった、無事ですね!」


 天の明るい声と笑顔に、カルミラはその顔に苦々しい笑みを浮かべる。


「こっちのセリフよ! 天くんこそ、無事でよかったわ!」


 人波を掻き分け、やって来たカルミラは、天にしっかりと抱きかかえられた状態で完全に寝入っているルカを見ると、ほっと胸を撫で下ろした。


「私、天くんが東門のすぐ外に居るって分かっていて、助けに行かなかった。……恨まれても仕方ないと思ってるわ」


 まるで懺悔でもするように、神妙な面持ちでそう口にするカルミラ。

 浅く浮かべられている笑みは、カルミラが己自身の不甲斐無さを哂う暗いものだと、天はすぐに気付いた。


「そんなこと…っ、気にする必要はないですよ! カルミラさんがしたことは当然です」


 いつもと全く変わらない、屈託のない笑顔で、天はカルミラを見つめ返す。

 管理統括として当たり前の判断をしたと、天は思っている。

 カルミラ自身も、もちろんそれで間違ってなどいないと分かっている。

 それでも詫びたかったのは、ただの人として、仲間としての感情からだったと、お互い言葉にしなくても分かり合っていた。

 カルミラはほんの少し困った風に笑って、笑顔の天を見やった。


「でも、何故東門の前にいたの?」


「ああ、はい、僕も初めは北東に居ようと思ったんですけど、どうも東門自体が壊れかけているみたいで、魔物が集まっていくのが見えたんです。北東はカルミラさんがきっと戻って来られたら見てくれるはずだと思ったので、東に」


「そうだったの。……うーん、一番頑丈とか言われているだけあって、みんな結構ほったらかしだったのかもね。それかあっちが壊れたのが響いたのか、……どのみち、防壁全体を修繕ね」


 次々と、結界を解除して中央広場に集合してくる結界師(ガーダー)たちの中にラファードの姿を見つけると、カルミラは彼に手を振って合図をし、天を促して歩き出した。


「それにしても、天くん、凄いわね。天くんの戦闘力は把握してるつもりだったけど、あの量の魔物に一人で向かって行って片付けちゃうほどとは思わなかったわ。見た目『低級魔物』とはいえ、魔界から直接来たあいつらは『中級魔物』程度の力はあったはずなのに」


 カルミラに感心したといった様子で肩を叩かれて、天は少し照れはしたが、ロンギヌスを持った手でポリポリと頭を掻きながら、どこか納得いかない様子で首を傾げた。


「いや、『中級魔物』と違って、やっぱりあいつらは『低級魔物』の戦闘方法でしたし。多勢に無勢っていうやつですか。……そういう戦闘って、魔物退治者(バスター)のみんなが慣れているんじゃないんですか?」


「どういうこと?」


 カルミラに聞き返されて、天はもう一度首を傾げた。


「イースに居た時は、毎夜あんな感じだったんですが…。ちょっと懐かしいとか思っちゃいました」


 暢気な笑顔を浮かべて、あれこそが、さも当然の夜の姿だと言ってのける。

 さすがにカルミラが口を開けて驚いたことに、天は笑顔のまま、何か間違ったことを言っただろうかと考えたのだった。


 



/樹管理所・ルカの部屋/

[P.M.14:06]

 窓から差し込む光が、ちょうど目元にかかる。

 その眩しさと、外から聞こえてくる活気付いた人々の声に、目を覚ました。

 見上げた天井。

 部屋を満たしている、うららかな午後の日差し。

 気だるい体を起こすと、そこが樹管理所で借りている自分の部屋のベッドの上だと分かった。


 軽い頭痛が残っている。

 限界を超えて、術を張る為にロンギヌスの力を引き出したのだ。

 体のどこかに負担がかかっていても不思議ではない。

 この頭痛は少し続くかもしれない、と考えながら、こめかみに指先を当て、深く息を吐き出した。


 ベッドの頭側の壁には、ロンギヌスがきちんと立てかけてあり、手を伸ばして、ほんの少しだけロンギヌスの柄に触れる。

 自分の腕にはまだ千切り取った護符の残骸が残っており、それに気づいて、ルカはゆっくりと手を引き戻した。

 眠りに落ちる間際に、見た光景を思い出す。


『天殿はロンギヌスを掴んでおられた……。それも、ごく自然に…』


 ルカは腕の護符の残りを取り去ると、枕元に置いてあった別の護符を腕に巻きつけていく。

 その間も、思考を巡らせる。


『そう、この一度だけではない。先の戦闘でも、天殿はロンギヌスを掴んでおられた』


 アスタロテとの戦闘の時、力を拮抗させるために、天はロンギヌスを確かに掴んだ。

 その時の様を思い出し、ルカは睨みつけるように空を見た。


 ロンギヌスは、普通の神器とは違う。

 触れるものがたとえ神であったとしても、己が認めない者には容赦なく神炎を見舞う。

 その青き浄化の炎は、どんな道具や術式を使ったとしても、易々と抑えられるものではない。

 そして、揮い手がそう何人も存在するわけでもない。

 今のところ、確実にこの世界に己一人だろう。

 天が、己と同じ、ロンギヌスに認められ、その揮い手として認められる者だというのだろうか?


『しかしそれは考えにくい…。ロンギヌスは今、意思の疎通さえしてくれない状態なのに』


 何故、天殿は?

 天殿。

 天、殿…、は……。


 頭の中でその名を連呼する。

 その度、ルカはゆっくりと、ゆっくりと頬を染めていく。

 そしてついには、巻き終わらない護符を投げ出すように、ルカは頭を抱えた。


『ぬおおおっ、私は、一体どこで気を失った?!』


 自分以外、誰も居やしないのに叫びたい気持ちを我慢して無言のまま、頭を抱えていた手で顔を覆い隠し、ベッドに再び身を投じて悶える。


 覚えているのは、天が自分を抱き上げ、彼がその手にロンギヌスを掴んだのを見たところまでだ。

 想像するに、その後は自動的に、天が、気を失った自分を中央広場からこの管理所のベッドまで運んだということになる。

 あの、街中の人でごった返した広場を、天のたくましい腕一本で抱きかかえられ、運ばれて行ったのかと思うと、もうめり込むほどベッドに額を擦りつけるしか出来なかった。


 がばっと、ルカは身を起こす。


「そ、そうだ。別に、抱きかかえられたのも、街中を抱いて運ばれたのも初めてという訳ではなかったな。この前の戦闘の後だって、そうだった。うん、そうだった……」


 さも何でもないことだ。


 と、自分に言い聞かせたくて口に出してまで言ってみたのだが、効果は全くなく、明らかに逆効果だった。


『……抱き運ばれたのは二回目…』


 その事実が頭の中を回る。

 勝手に上気する頬。

 耳まで熱く、赤い。

 部屋の片隅にあるドレッサーについている鏡に映り込んだ自分の顔は、見られたもんじゃないと言い切れるほど、茹でたように赤い。


「……何なのだ? これは…」


 治まりのきかない赤らんだ頬に手を当てて、ルカは呟いた。


 両腕にだらりと下がった護符を、赤い顔のまま乱暴に巻きつける。

 そして勢いをつけてローブを引っ掴み、ロンギヌスを手繰り寄せると、部屋を飛び出した。


 このまま、意味の分からない感情に部屋の中で一人悶えている訳にもいかない。


 玄関ドアの窓ガラスに映り込む、まだまだ赤い顔をした自分を見つめて眉間にしわを寄せると、ルカは外へのドアを押し開いた。





                       *

 外へ出ると、あまりの活気に、目が回りそうだった。

 それもそうか、と内心うなずく。

 日没までに防壁をある程度直しておかなければ、昨夜と何ら変わりないことになってしまうのだから。


 絶えず行き交う人たちの中に、見知った姿がないかと探してみるのだが、如何せん、人が多すぎるのと、身長が足りなさ過ぎる。

 通りを見渡すことも出来ずに、ルカは少し肩をすくめた。


「よう、英雄のお嬢、具合はどうだ?」


 後ろから声をかけられ、ぼふん、と音を立てて肩を叩かれる。

 飛び上がらんばかりに驚いて振り返ると、シュテフが土方姿で立っていた。


「貴方こそ、怪我の方はもうよろしいのですか?」


 彼に向き直ると、ルカの目は、自然とシュテフの腹に向いた。

 そのお腹をぽーんと気前よく叩いて、シュテフは歯が見えるほどにっこりと笑った。


「おう! 心配ご無用。俺はどっちかってぇと、動き回ってる方が体にいいんだ」


 その笑顔は、つい数時間前まで、腹に風穴を開けられて倒れていた男だとは到底思えない。


「ご無理はなさらずに」


「お互い様だ、お嬢ちゃん! あんたが血を吐いてまで術を使ってくれなきゃあ、俺らはとうにあの世行きだった。感謝してるぜ!」


「……感謝など。私は当たり前のことをしただけです」


 にこやかなシュテフとは違い、淡々とルカは答えた。

 ふぅむ、とシュテフが奇妙な声を漏らす。

 どうやら自分の答えが気に入らなかった様子だとルカは気付いたが、あえて何を言うこともなかったし、シュテフもそれ以上、口を出してこなかった。


 そのかわり、先ほどの元気な笑顔とはどこか違う、いやらしい笑みをその顔に広げ、にやにや、にやにやと目を細めてルカを見下ろした。


「それにしても、俺はお嬢ちゃんと天の野郎が良い仲だとは知らなかったなぁ」


「……は?」


 今まで、冷淡とも取れる冷静さを張り付けた無表情であったルカの顔が変わる。

 黒曜石のような輝きを持つ大きな目を更に大きく見開いて、驚きに思わず声を上げていた。


「まぁ、天の野郎は一見優男に見えるが、男の目から見てもいい男だ。見目も悪くねぇしな!」


 シュテフは軍手をはめたままの手で腕を組み、うんうん、と何度も頷いている。


「あいつ、街のみんなにも速攻で好かれたんだぜぇ? あの性格だから、うなずけるが。見た目も性格もしゃべり方も全然違うのに、どこか朔様みてぇなところがある。面倒見もいいしなぁ」


 シュテフはちらりと、絶句しているルカを見やった。

 シュテフとて、(いち)魔物退治者(バスター)管理所を任される所長だ。

 人となりを見抜く力は、常人よりは上である。

 ルカはもちろん気付いていないが、彼は彼なりに、自分の娘ほど歳の離れた、英雄であるこの少女のことを気にかけていたのだ。

 もう一度、納得してうなずくと、シュテフはバシン、とルカの小さな背を叩いた。


「いやぁ、お似合いお似合い!」


 などと、心から嬉しそうに笑って言う。


「ちょ! 何を誤解…っ! 話をっ! ちょ…っ!」


 バシバシと容赦なく立て続けに背中を叩かれ、その度にルカは息を詰まらせ、言葉が続けられない。


 ハッと、ルカは気付いた。

 このシュテフが良い例なのかもしれない。

 天はごく当たり前に、仲間である自分を気遣って駆け寄り、術力を使い果たして眠った自分を放置することが出来ず、管理所まで運んだ。


 ただそれだけだ。


 しかし不本意ながら、自分で思い返しても恥ずかしく、出来うることならば抹消してしまいたいような光景が街の人々の目に焼き付いてしまった。

 まるで、昔の安い映画のヒーローが、人々を救い、その中でただ一人のヒロインに駆け寄って抱きしめる。

 そんな感じの様が。


 それによってサウスの人々は、このシュテフ同様に、彼の言葉を借りるならば『良い仲』として、我々二人の事を誤解したに違いない。


 これは何としても釈明をしなければ、天殿に多大な迷惑をかけてしまう!


 と、心の中で思ったのだが、このシュテフのニヤニヤさ加減を見ただけでも、こちらが根負けしそうなのが目に見えてしまった。


 ……あぁ、できれば皆さん、記憶を失ってください。


 ルカはわずかに頬を染めながら、本気でそう考えた。


「お、あれに見えるは天じゃねえか? じゃー、俺は行くから、彼氏によろしくな~」


「だから、違いますったら!」


 声を張り上げて否定するルカの言葉に微塵も耳を傾けず、シュテフは高らかに笑い声を響かせて歩いて行ってしまった。

 天とすれ違う時、ニヤリと含んだ笑みを見せて、元気に手を振る。

 彼と入れ違いにこちらへやって来た天は、シュテフの言動に憤りを現すルカを見て、いつもどおりの穏やかな笑みを見せた。


「ルカ、もう大丈夫なの? もっと寝ていていいんだよ?」


 そう、どこか心配げな色を残した声で尋ねてくれる天。


「もう大丈夫です! ご心配をおかけし…」


 自分の話をまるで聞いてくれなかったシュテフに対する苛立ちを抑えつけるように、勢いをつけて天へと視線を移したルカだったが、その言葉の語尾は、意思に反して飛んでいた。


 天もまた、防壁の修理にでも携わっていたに違いない。

 シュテフ同様、とまではいかないが、戦闘装備はとっくに脱いで、大剣だけをその背に背負い、あとはいつもと全く違う軽装に身を包んでいた。

 汗に濡れたシャツ、茶色の髪もまた汗に濡れている。

 腕やシャツ以外にも、土埃で頬が汚れていることには、どうやら気付いていないのだろう。


「ご、心、配をお、かけ、しま、した」


 ようやく我に返り、ルカは言葉を言い直す。

 天を見上げていたはずの頭が、空気の抜けていく風船細工のように下がっていく。

 下がるついでに、ルカの頬は赤く染まった。


「そう? よかった」


 頭の上で、天がにこやかに笑ってそう言った声だけが聞こえる。

 しまった、一つ笑顔を見過ごした、と残念に思った自分の考えを、ルカ自身が不思議に思って、うつむいたまま首を傾げてしまう。

 ついこの前まで、何ともなかったはずなのに、天の顔を真っ直ぐ見ることが出来ない。


 何故だ?

 何なのだ?


 ぐるぐると、疑問だけがルカの頭を巡っていた。


「カルミラさんは向こうで物資と人材と作業の指示に追われてるよ。忙しすぎて、大変でさ。ルカの事が気になるから、僕だけでも先に帰れって言われて」


 カルミラの名が出て、ルカは冷静さを取り戻した。

 答えの出ない疑問は頭の片隅に片付けて、がばっと顔を上げる。


「私もお手伝いに参ろうと思っていたところです」


「そうなの? でも、きっともうすぐカルミラさんも帰ってくるよ? 僕らは夜に備えなければいけないし、カルミラさんもそろそろ休まなきゃ。セントラルから山ほど作業員さんが来てくれるからね。安心していいって」


「…そうなのですか」


「うん」


 勢い勇んだ気持ちが空回りして、ルカはどこか寂しげに肩を落とした。

 そのしゅんとなった姿に思わず笑みが零れ、またうつむいたルカの肩を長い鬢の髪が滑り落ちる。

 その様に天は気が付いた。


「あれ? ルカの髪、『この前切られた』まんまなの?」


「え…? あ、はい。あれから何かとありましたので、そのままですね」


 ルカもまた、今気が付いたと言うように、指先で少し自分の髪を梳く。

 束ねていたとはいえ、背中にまで達していた髪と揃いだった鬢の髪だけが長く残っており、無残に断ち切られた後ろ髪の襟足はザンバラ。

 ファッションとしては斬新だが、ルカがそれを良しとしている訳ではなく、ただ何も気にしていないだけだということが、天にはよく分かった。


「よかったら切ってあげようか? これでもイースに居た頃、凄腕の理髪師に褒められるくらいだったから、腕は信用してくれていいよ」


 と、天は片目を瞑って見せる。


「切…? 天殿が…?」


 ルカが返事をする前に、天の中ではもう決定事項になってしまった様子だ。

 上機嫌に笑いながら、ハサミはどこに仕舞ったかな? と呟くのだった。






/樹管理所/

[P.M.15:23]

 ルカの髪を切り終えた頃、金大師がやってきた。

 朝のうちに、朔の白い外套の汗抜きや染み抜きや汚れ落としを頼んでおいたのだ。

 カルミラは、もともと汚れ防止やらのコーティングがかけてあるから、そんなに気を遣わなくていいと言っていたのだが、これを常用させてもらっていたら、「汚す」、「破る」、等等気遣って、こっちの精神がまいってしまいそうだから、一度返すと決めたのだ。


 事務所の前に立つと、中からごとごとと音が聞こえてきたので、カルミラが帰ってきていることを確信する。

 油紙に包まれた外套を抱えて、天は事務所のドアを叩いた。

 中に入ると、帰ってきて既にシャワーを浴びたらしいカルミラが、机の上に書類の山を積み上げながら、まだ慌しくしているところだった。


「お帰りなさい」


「ただいまー。ねぇ、天くんがルカの髪切ったんですって? 上手ねー」


「あ、見たんですか? 可愛いでしょう!」


 自信満々に、天は胸を張って笑った。


 ルカの髪は、襟足をキレイにそろえて、全体的に段を入れて不自然にならないように切りそろえた。

 長い鬢の髪はもったいなかったので、少し長い目に残してあるのだが、それがまた可愛らしい。


「ルカ、さっきからずっと洗面所の鏡の前に座ってるわよ。気に入ったね、きっと」


 事務所を出てすぐ曲がったところにある共同洗面所を指差して、カルミラは、にしし、と歯を見せて笑った。


「さぁて、これで私も一段落だわ!」


 ボスン、と最後の書類の束を机の上に乗せると、カルミラはうーんと伸びをする。


「さすがにそろそろ限界。ちょっと寝るわ。天くんも寝なきゃダメよ? あ、でも、二時間経っても私、起きてなかったら起こして~」


 と、あくびを一つ噛み殺しながら、カルミラは靴を脱いで、すぐ側にあるソファに横になった。


「はい、僕もそろそろ仮眠取ります。……あの、カルミラさん、ベッドに行った方がいいんじゃ?」


「いいのよ、どうせすぐ起きるんだし…、オヤスミ…」


 そんなやり取りをする短い間にも、カルミラは見て分かるほど素早く眠りに落ちていった。


 すぅ、と穏やかな寝息が聞こえ始める。

 せめて何か体の上にかけてあげるものがあれば、とキョロキョロと事務所の中を見回してみたが見つからず、ついには自分が腕に抱えている物に視線が落ち着いた。

 返すつもりで持ってきた、朔の外套。


『綺麗にしてもらったんだし、これでいいや』


 油紙から外套を取り出して、ソファに横たわるカルミラの上にかけてやる。


『もしかすると昔、朔さんがこうしてカルミラさんにこの外套をかけてあげたりなんかしたこともあったのかな…』


 ふと、そんなことを想像して、天は口元が緩むのが分かった。

 朔の外套に抱かれるように包まれて眠るカルミラの姿に天は目を細め、音を立てないように静かに事務所を後にする。

 

 廊下から洗面所をこっそり覗くと、ルカは鏡の前に座って、何やらロンギヌスに語りかけている。その後ろ姿がどこか嬉しそうで、楽しそうだったので、そっとしておくことにした。

 


 借りている部屋に戻ってきて剣を壁に立てかけると、目覚ましを二時間後にセットして、ベッドに大の字になって倒れ込む。

 横になった途端、とろとろと襲い掛かってくる眠気に逆らう術は持たない。


 ……色々、あったな……。


 消息を絶った英雄、アルトリアさん。

 セントラルで会った、彼の家族、セリアさんとアトレイユくん。

 世界の上層部。

 カルミラさんの兄、コウ・ウインズゴッド。

 『賢者』ヒカリ。

 セントラルの秘密。

 光る文字の扉の向こうには、何があるんだろう?

 星をも両断せる力、美しい妖精の剣、エクスカリバー。


『この剣はどうする? 捨てておけ! そんなもの。人間に肩入れする妖精の剣だろう?』


 岬で拾い帰ったレコーダーから聞こえた、ロキの声。

 とても不思議だと思った。

 とても、不自然だと。


「落ち着いて、良く考えてみろよ。お前が感じている通りなんだから」


 気が付くと、テーブルに腰かけていて、向かいの席に誰かが座っていた。

 その姿は、はっきりとは見えない。

 どれだけ目を凝らしてみても、ぼんやりとした人影があるだけ。

 それに全く違和感も疑問も持たないで、引き続き、彼に話しかける。


「そう、だって、ロキは『この剣はどうする?』って聞いてるんですよ? それも、一回じゃない。確か…、そう! アルトリアさんをどうするか…って」


 薄らと発光しているかのような人影は深くうなずいて、肯定してくれる。

 だから、取り留めのなかった漠然とした考えは正しいものなんだと自信を持った途端、閃くように思い付いた。


「あれって、決して一人ではできない会話ですよね? ……でも、レコーダーから聞こえた声は一つだけ。足音も一つ」


「本当に? お前はそれを『確認することが出来た』の?」


 そう問われれば、答えることは出来ない。

 だからこそ、その答えに辿りついた。


 一つの声、一つの足音。

 だけれど決して、一人では出来ない、会話。


「ま、さか…」


 さぁっと、冷水をかけられたように血の気が引く。


 一つ、ではない。


 同じ声音。

 同じ口調。

 全く同じ体重による、同じ足音。


「じゃあ、……ロキは、二人…?」


 驚愕に見開いた目で、向かいに座る彼を見る。

 彼は何も言わなかったけれど、確かに、……笑ったように見えた。


 目の前のテーブルが歪む。

 まるで風に吹かれるように、向かいに座った彼の影も揺らめく。

 見る間に世界が消えていく。

 思わず叫んで、テーブルの向こうへと手を伸ばしていた。


「待って! 待ってください!! 朔さん…――…っ!!!!」


――――ジリリリリリリリッ……


 枕元の目覚まし時計が、けたたましく鳴り響いていた。

 彼へと伸ばしたはずの手は、何もない空へ、何でもない部屋の天井に向かって伸ばされていただけだった。


「……ゆ、…め…?」


 数秒、手を伸ばした先の天井を見つめていた天だったが、弾かれたようにベッドから起き上がると、部屋を飛び出していた。



                       *

 騒がしく慌ただしく、靴音を立てて階段を駆け下りてきた天が、事務所のドアを開こうとノブを掴む。

 それと丁度同時に、内側からもかかった力のせいで、ドアはものすごい速さで開いた。

 ドアの内側と外側と、向かい合わせに立った二人は、一瞬、驚いて言葉もなく見つめ合ってしまった。


 天が見た、事務所内からドアを開けたカルミラは、今までに見たことがないと言い切れるくらいに、頬を染め、寝起きでだろう、空色の瞳を潤ませた、やけに色っぽい姿だった。

 その手には、しっかりと朔の白い外套を握り締めている。


「あぁ、天くん。……これ、かけてくれたの、天くん?」


 はぁ、と艶っぽいため息を吐く。

 まだ寝乱れたままの金色の髪が、寝汗の滲んだ首筋に張り付いている。

 無意識に、カルミラは手でそれを梳いた。


「は、はいっ、僕です」


 思わず赤面して、言葉に詰まってしまう。

 そう、と微笑むカルミラにそのまま見惚れてしまいそうになるのを踏み止まって、天は思い出したように声を上げた。


「そ、そうだ! それよりカルミラさん! 話が!!」


「ちょ、ちょっとだけ待って! 三分でいいから、時間をちょうだい!」


「あ、はい、大丈夫です。待ってます」


 カルミラは無言のまま、手の仕草だけで「ごめんね」とやってみせると、フラフラとした危なっかしい足取りで洗面所に消えて行った。

 その後ろ姿を見送ってから、天は先に事務所に入り、ソファに座って彼女が戻ってくるのを待っていた。


 都合よく、夕食の買い出しに行っていたらしいルカが、食料を詰め込んだ袋を両手に抱えて、軽快な足取りで階段を上がってくる。

 ドアを開けっ放しにしたままだった事務所のソファに座っている天を見つけると、どこかご機嫌な様子でこちらにやって来た。


「お帰り、ルカ、丁度良かった。……自分で切っといて言うのもなんだけど、似合ってるよ、髪」


「ありがとうございます。会う方会う方、そう言ってくださいました。誰もが褒めておられましたよ、天殿の腕を」


 少し照れて頬を染め、視線を泳がせながら、ルカは短くなった鬢の髪を指先でつまむ。

 そんなルカの仕草に、天は微笑みを浮かべた。


「さぁ、戻って来たわよ! 話って何、天くん!」


 乱暴に顔を洗ってきたのだろう、カルミラの前髪からは雫が滴り、襟首や袖口など、あちこちが濡れている。

 妙な意気込みに声を荒げながら戻ってきたカルミラに、二人は若干、呆気にとられるのだった。




 

 ……天が自分の考えを一通り伝え終わると、カルミラは真剣な面持ちで腕を組み、低く呻った。


「……そうね、アルトリアのことばっかり気にしていたから、そこまで気を回してなかったわ」


 天もまた、黙したまま小さくうなずく。


「分かった。明後日にでも、セントラルに今回の事を報告に行かなきゃいけなかったから、その時にもう一度、レコーダーの記録をもらってくる。コウにもすぐ伝えて、検証してもらうわ」


「お願いします」


 ルカに一連の事情を説明し終えると、天は改めてカルミラに向き直った。


「きっと天くんにはお留守番してもらわなきゃいけないけど、次のセントラル行き、ルカ、貴女一緒に行きましょう?」


 そう聞いてきたカルミラに、ルカは即答せず、少し渋った後、かなり間を開けて、か細い声で「はい」と答えた。


「ロキが二人、ね…」


 ぼそりと、カルミラが呟く。

 その声音の低さと、そこに含まれる確かな憎しみ。

 天もルカも、それに気づかないほど鈍感ではない。


「……全く、厄介以外何ものでもないわ」


 舌打ちを返して、そう吐き捨てる。

 高く晴れた青空色の瞳が虚空を捉えて、そこに映し出したであろう、少年の形をした悪魔の幻を睨みつけ、燃えていた。


 そんなカルミラの横顔を、二人は黙ったまま、ひどく心配そうな面持ちで見つめることしか出来なかった。




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