桜・カルミラの悪夢
「……第二会議室、製作統括室の角を曲がる!」
勢いよく廊下を駆け抜け、角を曲がる。
最後にカルミラの姿を見た資料室の前を通り過ぎ、廊下の奥に、投影室と書かれたプレートが掲げてある部屋があった。
コウの話によると、彼女はそこにいるはずだ。
「カルミラさん! カルミラさん!!」
走るスピードも落とさず、飛び込むような勢いのまま乱暴にドアを開け放つ。
――――…そこには、一面の花。
照明の落とされた部屋の壁一面に映し出された、薄桃色の花を咲き誇らせる、桜並木。
花びらの舞い上がる天井には、清々しいほど良く晴れた青空。
風が流れる音が聞こえて、木々が揺れる。
新たに舞い上がった花びらが、天井にある青を隠すように舞い踊る。
鳥のさえずる声さえ聞こえて、子供が無邪気に笑う声が聞こえた。
……美しい風景だった。
その、花に満たされた映像を一面に広げた部屋の中央に、カルミラは横たわって眠っていた。
金色の柔らかな長い髪が広がり、彼女のまわりを、先ほど持って運んでいた資料だろう、紙が床を埋め尽くすように散乱している。
その紙たちの白にも、薄桃色の花の色が反射しているように、また色を吸い込んでいるかのように色づいていて、カルミラはまるで薄桃色の花びらの中に埋もれているかのようだった。
『カル、どうだ? 凄いだろう? 揺らしてやるよ、花びら落ちてくるぞ』
スピーカーから聞こえてくる、先ほど聞いたばかりのアルトリアの声。
その声だけで、彼がどれだけ穏やかに笑っているのかが分かるほどだった。
『や、やめてよ! 虫も一緒に落ちてくるじゃない!』
辟易と叫ぶ少女の声。
今と少しだけ違う印象を受けるが、それが間違いなくカルミラの声だと、すぐに気付く。
『おい、アル! こいつは俺のだぞ? カルミラ苛めたら許さねぇからな?』
『はいはい、分かってますよ。全く、朔よぉ、お前のカルへの激甘ぶり見てたら、こっちのが照れるわ。のろけも大概にしてくれ』
『うるっせー』
とてもとても、幸せそうに笑う青年の声が聞こえる。
とてもとても、楽しげに笑い合う声が響く。
それが本当の樹朔の声だと、……初めて知った。
*
――――…街は、もうすぐ夕暮れ。
朔と一緒に到着するはずだった魔物退治者達だけが管理所にやってきて、私に必要な管理統括としての荷物をどさりと机の上に、山のように置いてくれた。
「朔様ですか? アルトリア様と南門のほうを見てから帰るって、あっ、ちょっと!」
「駄目よ、カルミラちゃん! そんなに急がなくても朔様戻ってくるから!」
笑顔を振りまいて、私を止めようとしてくれる皆の脇をすり抜ける。
「嫌よ。あいつ目ぇ離すとすぐどこかに行っちゃうんだもの」
呆れて物を言う自分に、皆は揃って慄く。
「また英雄様にそんな言葉を!」
「朔様になんてことを!」
「そんなこと言えるの貴女だけですよ!」
毎度毎度のやりとりに、ほんの少し苦笑する。
「だってホントの事だもの」
「だってじゃなくて、あんたがわざわざ今迎えに行かなくてもって、皆言いたいの。明日の準備、しなきゃいけないでしょう! 明日になれば、朔様はあんたの旦那様だよ!」
まだ荷物の片付き切らない事務所の壁に吊るされたウエディングドレスを横目に、叱りつけてくるレイルを見上げる。
しかし、椅子の背にかけていた愛用の双銃を仕舞ったガンホルダーを引っ掴むと、勢いよく窓を開け放った。
「待ちなさい! 硝煙の匂いのする花嫁なんて許さないわよ!」
「大丈夫、朔は気にしないわ! 今回だけは、私が一番に『おかえり』って言うって決めてあるの」
ひょいっ、と窓を乗り越えると、部屋の中から、ぎゃああああっ、と皆の叫んだ声が聞こえた。
無事、地面に着地。
「いぇーい、脱出成功!」
十点満点ー! などと上機嫌にバンザイをしてみる。
「待ちなさい! カルミラー!!」
すぐさま真上から、窓を乗り出したレイルの怒声が降ってきた。
「心配しないで、レイル。すぐに朔と帰ってくるから」
振り仰ぎ見上げた、二階の窓に見えるレイルに手を振って、駆け出す。
夕方に差し掛かっているので、もう通りに人影は少ない。
赤く彩り始めた空を眺めながら、南門を目指して、走る速度を上げた。
……明るい顔をして……。
そんな昔の、あの日の自分を、冷え切った目で見送る。
そう、本当なら、……すぐに朔と一緒に帰ってくるはずだった。
サウスシティはもともと、朔が暮らしていた街だった。
英雄と呼ばれるようになり、セントラルに家を持つようになっても、朔は暇があればサウスに帰ってきては、古くからの仲間と楽しげにしていた。
街の全員が友達だと豪語してやまない。
住民たちも、それを嬉しく思っている様子だった。
私はもとより兄の助けになるようにと、魔物退治者としてだけでなく、あらゆる管理職の資格を取っていた。
世界中が一定の安定を見せ始め、十二英雄がある理由によって市井に還ることが決まった時、朔たっての願いで私はサウスの管理統括の任に着くことになった。
サウスにはアルトリアも住むことになっていたため、二人のどちらかが管理統括をやればいいのにと言うと、二人は、重役はもうこりごりだ、と珍しく口を揃えた。
お前の下で一魔物退治者として戦うよ、などと、十二英雄のリーダーと副リーダーの一人に言われたなんて、他の管理統括が聞いたら卒倒するかもしれないなと、その時は考えたものだった。
着任して、おおよそ一週間。
もともと、朔と共に幾何かの日々を過ごしたことのあるサウスは、ごく自然に、何の問題も、障害もなく、私を受け入れてくれた。
サウスの全てをまだ把握したわけではなかったけれど、街の全員が友達だと言っていた朔の言葉の意味は早々に理解した。
そしてこの日は、セントラルでの仕事を全て片付けて、朔がようやく、街に戻ってくる日だった。
それだけでも街中が騒がしくなるのに、今回はそれだけじゃなかった。
世界的には知られていないけれど、サウスシティでは、誰もが知っている。
英雄・樹朔の恋人、カルミラ・エルトフォード。
内々に行われる二人の結婚式は、明日だった。
誰もいない真っ直ぐな道の前方から、聖剣エクスカリバーを引っさげたアルトリアが悠々と歩いてくる姿が見える。
古い友人の元気な姿を見て笑う自分に、アルトリアは手を軽く上げて見せながら笑った。
「ようよう、花嫁さん。こけて傷作るなよ」
「おかえり、アル。朔は?」
くしゃりと、アルトリアが大きな手で頭を撫でる。
相変わらずの子供扱いに、怒る気ももうない。
アルトリアは、ただいま、と呟きながら、親指で南門の方を指した。
「朔なら、門の外で泣いてたクソガキ相手にしてるぜ。さっき朔と歩いてたら、子供探してた母親みたいな女見てよ。それのガキだと思うんだが、こっちに来たろう? 浅黒い肌のいい女」
口は大変悪いが、それでも親切に、母親に子供を見つけたと告げに来たのだろう。
子供は母親とはぐれて、門の外に出たのだろうか?
サウスシティは案外広い。母親は今頃、躍起になって子供を探しているだろう。
……だが、南門まではもうすぐ。
ここからなら、門の形さえ見て取れる。
そして、ここまで来る道は、おおよそ一本道。
その道を、カルミラはひた走ってきたのだ。
それに。
「この街に今、浅黒い肌の親子なんて居たかしら? バスは、一昨日の事故から走ってないの。別ケースで来訪もなかったはずよ? そんな報告、誰からも受けてな……」
言い切る前に、カルミラは言葉を止めていた。
悪い予感だけが、二人の胸に込み上げる。
お互いの顔を、その目を見て確かめ合うより先に、南門に向かって疾走していた。
呼吸も忘れたように、ただ足を動かす。
すぐそこのはずなのに、門までの距離は、やけに遠かった。
指先が冷えて、心拍数が上がっている。
胸騒ぎが、ただの杞憂であって欲しいと願いながら走った。
でもその不吉な予感が的中することを、……心のどこかで分かっていた。
門が開かれると、その途端、強烈な魔気の波に押されるように足を止めた。
「朔っ!!」
目の前の光景に、悲鳴のような声で名を呼ぶ。
その声に、西日に照らされた少年は、ゆっくりとこちらへと顔を向けた。
浅黒い肌をした少年の、幼いにもかかわらず、見惚れるほど整った顔立ち。
金色の瞳が、夕日のせいで赤く染まって見える。
その小さな体は、重力を全く無視しているかのように、宙に浮いていた。
一見、非力そうな、まだまだ小さく細い少年の手で、口の端から血を流す、朔の首を絞めながら。
「…く、るな…っ! カ、…ル」
苦しげに、それでも零れる朔の声。
こちらにまで音が聞こえてきそうなほど、少年の小さな手が、更なる力を込めて朔の首を絞める。
途端に、朔の顔が苦痛に歪む。
「朔を、離しなさい!!」
一瞬のうちに銃口を少年に向け、照準を合わせたが、少年はとても蠱惑的な笑みを浮かべて、絞め上げ続ける朔の体の後ろに完全に身を隠した。
一方の銃を仕舞い、銀の短剣に握り変える。
「離せって言ってるのよ!!」
「待てっ! カルミラ!!」
アルトリアが自分に向かって伸ばした手を振り払い、地面を蹴る。
朔の背に隠れていた少年を視界に捉えると、その小さな眉間に照準を合わせ、引き金を引き、その腕に狙いを定め、銀の短剣を振り下ろす。
それは本当に、たった一瞬の出来事だった。
仕掛けた攻撃速度はまさしく迅速で、狙い定めた位置も的確であった。
しかし、それでも。
「私が欲しいのはお前だけだ。……他はいらんのでな」
鈴の鳴るような声。
小さな手の片方が朔の首から離れ、向かい来たカルミラの胸に狙いを定めてかざされる瞬間に、朔が絶叫する。
「やめ、ろっ!! やめろっ、ロキィ!!!!!」
――――…音は、なかった。
朔の顔が青ざめ、驚愕に目を見開いたまま、凍りついた様を見ていた。
体が跳ね飛ばされる。
ただ重力に引かれて、落下していく。
武器さえ弾き飛ばされ、空になった手を、それでも朔に向かって伸ばす。
その指先が、私に向かって伸ばされた朔の手に触れることは無かった。
地に打ち付けられるはずだった自分を、アルトリアが全身を使って受け止めてくれたことにも気付けない。
己の顔に降り注いできたのが自分の血だと気付くのにさえ、少しかかった。
「逃げ、ろ、逃げるんだ…っ、アルトリア!! カルを連れて…っ、行け…! 行ってくれ!!」
涙さえ混じった叫びが響く。
奥歯が鳴るほど噛みしめたアルトリアが、自分を抱え上げる。
視界が霞む中、朔とロキの周りが急にたわんで、黒いもやのようなものが溢れ、穴のようなものが宙に現れたのを見た。
街へ、門の中へと走り始めるアルトリアの肩越しに、絶望に表情を歪ませる自分を眺め見るロキの金色の目が、愉悦に細められていく。
「朔…っ、嫌だ…っ! アル、戻って! 朔を…っ、さ、く、朔…っ!!」
黒い闇が、ロキと共に、朔を飲み込んでいく。
遠く霞み、それでも見える朔の血に濡れた唇が、自分の名を呼んだのが分かった。
伸ばし合った手は遠すぎて、……届かない。
「朔…っ!!」
闇は、まるで底なしの水面のようにゴポリと音を立てて朔の指先まで全てを飲み込むと、何事もなかったかのように掻き消えた。
残ったのは、いつもの夕暮れの風景だけ。
「朔ぅっ!! 離して! アル…ッ、朔が、ぁ…!!」
「喋るな、カルミラ!! ちくしょう! なんて傷だ…っ!」
喋るたび、口から大量の血が溢れだしていることにも気付けない。
痛みがひどすぎて、痛覚はとっくに麻痺していた。
「魔法陣システムを繋げ! ありったけ薬と、治療者連れて来い! ヒカリを呼べ、コウもだ! ……カルミラ、お前を死なせるものか!」
このとき、アルトリアの言葉など何一つ聞こえていなかった。
ただずっと、夕焼けで血のように真っ赤に染まった空を見上げながら、うわ言のように繰り返していた。
「殺してやる、殺してやる! ロキ…、絶対、絶対! 朔は私の…っ、朔は…っ! ……殺してやる、殺してやる! 殺してやる…っ!!!!」
自分の血で真っ赤に染まった手を、届かなかった朔の手に伸ばし続けていた。
……そうして、アルトリアやヒカリや、たくさんの治療者達のおかげで、私は生き延びた。
ただし、傷が治ることは無かった。
ロキから受けた攻撃はあまりにも強力な闇の一撃で、通常の回復術とは反発し合いすぎ、治しきることは不可能だったのだ。
死に瀕してもなお、大人しく治療に専念する気すらなかった私に『賢者』ヒカリは、不完全ながら、ある大術をかけた。
それは、時間に干渉する術。
二年前のあの時、私の体は時間を止めた。
癒えない傷を負ったまま、もう二年。
絶えず痛みに苛まれ、二年前と同じような威力で武器は揮えない。
あの時から何一つ、変わっていない。
私の隣に居るべき人、……朔はいない。
……どろりとした暗闇が、足元から体を這い上ってくる。
その冷たさ、おぞましさ、恐ろしさ。
それがどれほどの闇なのか、分からないわけではなかった。
闇は言う。
死ねばいい。
楽になれる。
死になさい。
解放される。
痛みからも、憎しみからも、全て……。
体の内側からささやくのは、甘美な絶望。
立ち尽くす自分を、頭からつま先まで全て、闇が真っ黒に塗り潰す。
死への誘いが、大いなる絶望が、頭の中で繰り返し繰り返し、こだまする。
――――……だけど。
伸ばした手の先さえ見えない暗闇の中で。
一片の希望さえ見えない絶望の淵で。
それでも目を閉じれば、目を閉じれば、……朔の笑顔が見える。
英雄、樹朔。
英雄、英雄と誰もが言うけれど、そんなもの、私には微塵も関係ないことだった。
朔は、朔だ。
漆黒の髪と、深淵の瞳。
昔々から色々なものを背負って、背負いたくなくても背負って、守り通して。
たくさん辛いことを味わってきたのに、太陽のように笑う。
英雄になりたくて、なったわけじゃない。
私の前でだけは、英雄などではない、ただの樹朔でいられた、朔。
私の朔。
私だけの。
絶対に助ける。
絶対に。
だから、……死ねない。
こんなところで、死ねない!
死ねない!!
「……死ねないわ、朔を、……助けるんだから」
開けた視界。
伸ばした手は、懐かしい桜並木を映した天井に向かう。
痛む頭を押さえて、全身を覆い尽くしていた悪夢の気配を振り払う。
そして寝転んだまま、開け放たれたドアを振り返り、そこに立つ人影を見上げた。
闇にも決して染まらない、朔の真白な外套。
今まで、どんな誰に対しても、朔の愛用品を貸したり、着せようなんて思いはしなかった。
けれど、彼ならいいか、なんて思えたのは、彼の、……こんなところのせいなのかもしれない。
「……何、泣いてるのよ、天くん」
寝転んだままのカルミラが、柔らかな笑顔を浮かべる。
細められた青空色の瞳の優しさにハッとして、天はようやく自分が泣いていたことに気付いた。
「あ、れ? なんで僕、泣いてるんですか?」
「ふふ、こっちが聞きたいわよ」
少し気だるそうに起き上がったカルミラは、壁にあった投影装置のスイッチを切った。
途端に桜並木の風景は消え去り、何もない、ただの静まり返った薄暗い部屋に戻る。
「なんでだろ? なんでか、涙が…」
恥ずかしそうに顔を赤らめて、天は頬の涙を乱暴に拭う。
泣いたのは、本当に自分の意図するところではなかった。
自分の意思など全く無視して、一面の桜の中に寄り添うように眠るカルミラの姿に、涙が溢れていた。
その顔に微笑を浮かべたまま、カルミラは投影装置の中に入っていた爪の先ほどのメモリースティックを、首に下げたペンダントの中に仕舞う。
そんなカルミラの顔を見て、理由なんて分からずに込み上げてくる想いに浸ることもせず、それどころではないことを思い出して、天は慌てて口を開いた。
「そうだ! カルミラさん、大変なんです! サウスが!」
「……何? 街がどうしたの?」
穏やかだった表情が、途端に真剣なものに変わる。
天が切り出した説明の一言目を聞くと同時に、カルミラは部屋を飛び出し、すぐに後に続いた天と二人、廊下を駆け出し始めた。




