表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Holy&Evil  作者:
1/20

聖なるかな、聖なるかな

pixivと同時掲載。

更新速度は同じの予定。

本作品は完成しているので、加筆修正を加えてからの掲載となる。


SFファンタジー・アクションあり、恋愛ありの人間模様。

少しでも皆さんが楽しんでいただけたら、幸い。

ようこそ、ホリエビの世界へ。

『聖なるかな、聖なるかな、御麗しき我らを見捨てし神よ』



 世紀末、恐怖の大王が降りてくると言われたあの予言は、あながち嘘ではなかった。

 ……ただ、人々がそれを視覚することさえできなかっただけで。


 後の世にて、誰かが言った。

『あれはただの破滅の予言ではなく、その時より破滅へ向かう世界への、過去からの警告だったのだ』

 嘘つき呼ばわりされた預言者の名前は、今では誰よりも後世を思いながら、誰からも理解を得られず、悲しみのうちに命を落とした悲劇の人として知れ渡っている。




 世界規模の大変動、大陸崩壊。

 地学者たちによる、正確な原因はいまだ不明としか語られない。

『この世の在るべき姿としての均衡が壊れ果てたせい』と、どこかの聖職者が言った。

 しかし、在るべき姿が何であったかを世界が知るより先に、人々の前には架空の存在とさえ思われていた『もの』が姿を現した。


 世界各地に見られるようになった、『悪魔』や『魔物』の存在。

 魔物たちは容赦なく人々を手にかけ始めた。


 時同じくして始まった、大陸の地殻変動と共に世界の人口は何分の一かに激減。

 その影響でほぼ一つにまとまった五大陸中に生き残っていた人々は、寄り添うように集まり合い、たくましくも新しく生きる術を見つけていった。

 海に浮かんでいた小さな島国がどうなったのか、詳しく知る人はいない。


 人々は嘆く。

 『悪魔』や『魔物』は実在し、我々を苦しめるのに、我々を護り導きたもう『神』や『天使』は何故姿を現そうともしないのだ、と。


『人々はついに見捨てられたのだ』


 そんな言葉を言ったのは、悪魔だったのか、現実を受け入れた人だったのか、今の僕に知る術はない。



 ……ノートを閉じると、古びた表紙には学生時代の出席番号と伊吹(いぶき)(そら)という自分の名前がでかでかと書かれている。

 これを書いた当時のことを思い出し、零れた笑みを口元に残したまま、まだ片付いていない荷物をまとめた段ボール箱の中へ放り込んだ。

 引っ越してきたまま、何も整理されていない部屋の中。

 とりあえずこれだけは、と用意した部屋用の魔除けの法玉を部屋の角に置いていく。最後の一つを窓辺に置いて、既に闇が支配する街並みを目に映した。


 見下ろした街道にはもちろん、人一人いない。


 たとえ街全体を対魔防壁で囲んでいるからといっても、夜の街全体が安全になるということはありえない。

 陽が沈んでから外へ出る者は、よっぽど自信のある強力な魔除けを身に着けた者か、自分のように魔物退治を生業とする者か、死にたがっている者くらいだろう。


 険しく細めていたヘイゼルの瞳を伏せ、ブラインドを落としてしまう。

 振り返ると、壁に立てかけておいた、愛用の大剣に手を伸ばした。

 その刀身は、己が身長とほぼ同じ。一見、無骨な骨のように見える刃は銀色に輝きながらも薄ら、浅い緑色を含む。

 しっかりと手になじむ柄を強く握り締め、目を閉じて刀身に額を寄せてから、再び元に戻した。

 深い息を吐きだし、部屋の電気を消して、散らかった部屋の中で唯一整えられたベッドに潜り込む。


『明日は新しい仕事場だ。少しでも眠らないと……』


 頭まで布団を被り、目を閉じる。

 どこまでも続く暗闇と、静か過ぎる夜の中に異形の物が蠢く声が遠く響いているのが聞こえてくる。

 舌打ちを返し、祈るように両手を組んだ。

 ……神に助けを請う訳ではない。

 見捨てられたのだとしても、生きている限り生きていかなければいけない。


『守られる立場に居続けるより、自ら大切なものを守る立場に立とうとは思わないのか?』


 魔物たちに比べて脆弱すぎる人間であることを嘆くより、それでも戦い生きることを選んだ最初の人の言葉は、今も多くの魔物退治者(バスター)たちの心を支えている。



/ランドセンタ・サウスシティ/

[A.M.09:03]

 朝が来れば、街中では大陸崩壊前と変わらない場景さえ見ることができる。

 明るい挨拶を交わす声。

 商売をする人の声。

 学校へ向かう子供たちの笑い声。

 当たり前のように、笑顔で行き交う人々の姿が見て取れる。

 和やかな景色。

 微笑みを零しながらも、思い出したように手にした地図に再び目を戻し、目的地へと歩みを進めていく。

 所々、壊れた建物のせいで、何度か迂回せざるを得なかった。

 四方の名を頂く大きな街でも、やはり『魔物』との戦いによる影響はあちこちに見て取れる。

 それでも、この街は自分が知っているどんな街よりも活気があり、ここに住む人たちの顔には揃って笑顔があった。


 ようやく辿り着いた小ぢんまりとしたビルは、他の建物と比べて明らかに被害を受けていない。

 出入り口のすぐ側らの壁に、『(いつき)魔物退治者(バスター)管理所』という小さな看板が掛かっている。

 確かにここだと地図をポケットに仕舞うと、ドアを押し開いた。


 チリンチリン。


 開くと鳴るように着けられていたベルが軽やかな音を立てて鳴り響く。

 誰か出てくるのかと思っていたが誰一人現れず、さほど大きくはない声で、すみませんと声を投げると、上階へ続く階段の奥から声が降ってきた。


「二階にいるから上がってきてくれるー?」


 威勢のいい女性の声に階段を見上げながら、素直に二階へと足を向けた。

 事務所、と書かれたドアを前に深呼吸を一つ。

 軽くノックをして、ドアを開けた。

 向かう先に大きな窓。

 先ほどまでその下を歩いてきた、青空が窓の向こうに広がっている。

 そんな窓の前にある大きな机にかじりついて書類にペンを走らしている女性が、一人。


「あぁ、いらっしゃい。じゃなくて、ようこそ樹管理所へ」


 顔を上げた女性は鼻にかかっていた眼鏡を上げつつ、青い瞳を柔らかく細めた。

 その色は、高く晴れた真昼の青空色。

 先ほど見上げた空の色とよく似ている。

 握り締めていたペンを置き、後ろに束ねていた髪を解きながら立ち上がった彼女の見事な金色の髪が音も立てずに肩に下りる。

 すらりと伸びた肢体はなだらかな曲線を描いて美しく、とても均等がとれていて、思わず見惚れてしまいそうになった。人懐っこい笑顔が、彼女から大人びた雰囲気を消し去り、まるで少女のような可憐さだと思ってしまう。


「私はカルミラ・樹・エルトフォード、ここの管理者よ。えっと、確か貴方はイブキ、伊吹、テンって読むのかしら?」


 机の上には、数日前に郵送した封筒が置かれている。

 写真と名前に指を添えた後、カルミラはその、開いただけの詳しく中も見ていないような履歴書を机の端に置きなおした。


「ソラ、です」


「失礼、伊吹天くんね。お噂はかねがね。それにしても若いわね」


 柔らかい茶色の髪と魅力的なヘイゼルの瞳。

 確かに背丈は申し分ないほどあるが、背に負った大剣が際立って彼自体が小さく見えがちになる。そしてその優しい顔立ちには幼さが見え隠れした。


「いえ、父が東洋系だったから、そのせいで若く見えるだけだと思います」


 説明するにつれ、声のトーンが少しずつ低くなっていく天に向かって、カルミラは口元に手を当てて微笑んだ。


「あら、ごめんなさい。でも私のほうが歳上だから許してね。とにかくそこの椅子にでも掛けて、仕事の話をするわ」


 カルミラが指差す先には、応接用として使っているらしいソファ。

 それに天が座ったのを横目に見ながら、カルミラは部屋の奥に一度姿を消し、コーヒーを入れたカップを持って帰ってきた。


「いい時に来てくれて本当助かったわ。抱えていた魔物退治者(バスター)、皆やられちゃって」


 天にカップを手渡すと、カルミラは苦々しい顔をしながらコーヒーをすすった。


「この街は他と比べても豊かそうです。人も多いから、その分……」


 その後の言葉を濁した天の顔を見て、カルミラは少し口元を引く。


「まぁそうでしょう。貴方に頼む初仕事はここの魔物退治者(バスター)を散々食い物にしてくれた奴が相手なのよ」


 天がぎょっとした顔をしたのを見て、カルミラは慌てて口につけていたカップを置きながら手を振った。


「そんなに心配しないで。初めは力量も測らずに突っ込んでいっちゃった子で、次と次がちょっと自信過剰な子達で、もう一人は不意をつかれちゃって、まぁ散々なのは変わりないけど」


「はぁ……」


「助っ人も説得中なのよ。本当は私が行けたら、四人も貴重な戦力を失わずに済んだんだけどねえ」


 ため息混じりにソファに深くもたれ、足を組んだカルミラに天は視線を注ぐ。

 管理所の所長を務める者は、自身も魔物退治者(バスター)を生業とするものが多い。他にも、結界師(ガーダー)治療者(ヒーラー)である者たちもいるが、カルミラの出で立ちは魔物退治者(バスター)のものだと思えた。

 タイトな服に身を包んだ、ショートパンツ姿。その柔らかそうな太もも辺りまで覆い隠すハイブーツは、自分も愛用する魔物退治者(バスター)特有の防御性を持った重苦しいブーツの改造版だ。

 彼女が先ほどまで作業に勤しんでいた机と対になった椅子の背には、彼女のものだろう法衣服と、二挺の銃が、ホルダーに納まった状態で置かれている。

 だが一見して、彼女が戦闘を控えなければいけないような目立った怪我や傷がその体に在るようには見えず、天は小首を傾げてしまう。

 それに気付いた彼女は、小さな声で「見てみる?」と呟いた。


 カルミラはおもむろに左腕の袖を捲り上げ、手際よく、きっちりと止められていたシャツのボタンを上から二つ目まで外した。

 天が否定の言葉を紡ぐ間もない。

 細い首に下げられている、服の下に隠れていた小さなペンダントが視界に入る。

 そして、露わになった白い胸元。

 はだけて見えた女性の肌に声を上げて赤面するよりも、そこにあった悲惨なまでの傷痕に息を呑んでいた。


 何か大きなものの爪痕のような傷が、彼女の胸から左腕にかけて及んでいる。

 かろうじて傷口は塞がっているものの、一目見ただけで分かる、魔物にやられた、それ独特の痛々しい、今にもまた血を噴き出しそうな生々しく赤い傷がそこにある。


「やられたのは天くんがこれから戦う奴ではないわ。そうね、まずその情報と、その装備をどうにかしないと」


 シャツのボタンを止めつつ、もう一口コーヒーを飲んだカルミラは天に立つように促しながら袖を下ろした。


「武器はその剣と?」


「組み立て式の槍が足に、後は銃が一丁。ほとんど使いませんけど……」


「後で特別いいコマンドナイフを支給するわ。それも着けて。魔除けはピアス二つだけ?」


「あ、はい。それとポケットに支給されたやつがいつも入っています」


「よくもまぁそれだけで邪気に当てられずに来られたわね」


 呆れたというよりも感心したように声を上げたカルミラは、机に戻って乱暴に引き出しを開けると、中に保管されていた法玉のついた装飾具に目を通していく。


「今はとりあえず、これ渡しておくわ」


 深い群青色の法玉のついた銀の、両手首で対になったブレスレットを渡される。

 続いて、奥の部屋へと入って行ったカルミラは、そこからジャケットとシャツを天に向かって投げ寄越した。


「私こっちにいるから、上だけでいいわ、今すぐ着替えて。今着ている服、法衣服じゃないでしょう?」


「あ、はい、違います」


「夫の法衣服だけど、ちゃんと洗濯してあるし。大きさ合わないでしょうけど着ないよりマシだわ」


 背負った剣を下ろしながら、カルミラが夫と言った言葉に多少なりとも驚いた。


『結婚してるのか……。そうは見えないけどなあ。僕より年上って、一体何歳なんだ?』


 天は自分で自覚するほど童顔であったが、見た目でカルミラの歳を想像しても、自分と大した差があるようには感じなかった。

 そんなことを考えながら服を脱いだ時、突然、カルミラの机の上で安っぽい目覚まし時計がけたたましく鳴り響いた。


「嘘、時間だわ! ちょっと天くん、急いで! 出掛けるわよ」


 部屋の奥から慌てて駆け戻ってきたカルミラは、机の目覚まし時計を鷲掴みにして止め、椅子の背に吊るしていたガンホルダーを腰に巻き、手早くジャケットを羽織った。

 だがこちらを振り返って、まだ上半身裸状態の天の背中を見、ぎゃっと声を上げる。


「ごめんなさい! でも早く着替えて!」


「はっ、はい」


 真っ赤になって顔を背けたカルミラの仕草を横目で見て、つられて照れた天も慌てて服に袖を通す。

 お互いが照れた微妙に気まずい沈黙は、チラリとこちらを盗み見たカルミラが口を開いたことで破られた。


「……その背中、ひどい傷ね。翼の痕みたい。片方、痛々しいけど」


 ジャケットを羽織り、大剣を背負いながら天はカルミラの言葉に苦笑した。

 天の背中、丁度肩甲骨のあたりに、生えていた羽をまるで根元から切り取られたような傷が、片方は引き千切られたかのように腰にまで及ぶ傷がある。


「古い傷ですよ。それに生まれた時に翼はついていませんでした」


 目を細めて笑う、天の声にカルミラもつられて微笑む。

 だが、カルミラはすぐさま我に返った。


「違う! 出掛けるのよ! まったり語るのは明日でいいの。ああっ、もう五分経ってる! 早くっ」


 着替え終わった天の腕を思い切り引っ張って、カルミラは勢いよく事務所のドアから飛び出した。


「出掛けるって、あの、管理同意書とかはどうするんですか?」


「そんなの後でいいの、後で! 今日この時間しかないのよ! 今日だけはバーに来てるはずなの。今後の自分の命が懸かっていると思いなさい!」


 一階に下りると、入ってきた出入り口から外には出ず、カルミラは天の手を引っ張ったまま建物の奥へと突き進んだ。

 突き当たりにあったシャッターをカルミラの勢いに乗せられて二人で開けると、射し込んだ光によってそこにあったものが目に飛び込んでくる。

 もう数も少なくなってしまった、車や限定解除級の大型バイク。ひどく懐かしい思いでそれに見惚れていると後ろからカルミラの声が飛んできた。


「天くん、シャッター閉めて、早く乗って!」


 振り返った天は、最新型のホバーバイクにまたがっているカルミラの姿に目をむく。

 だが逆らう術を持たず、シャッターを閉め、彼女の言う通りホバーバイクのタンデムに乗った。


「タイムロスはこれで削るわ。喋らないでね、舌噛むから。カルミラ、行っきまーす!」


 元気よく発進を告げて、細い手はスロットルをフルに回す。

 確かにタイムロスを巻き返す勢いで、天は戦うよりも死にそうな思いを味わいながら、カルミラの運転するホバーバイクは街を駆け抜けていった。


/サウスシティ・バー・スン/

[A.M.09:48]

 中に入ると、思った以上に店内は混んでいた。

 朝から酒をあおって、などと言う言葉が頭の端に浮かんでくるが、すれ違う人はほぼ素面ばかりだ。


「夜飲みになんて来られないし、店だって開いてないから、皆大抵こんな時間に来るのよね。前にいた街じゃこんな場所なかった?」


「あったと思いますが、僕お酒は飲まないんで……」


 問いかけるカルミラに天は、素面だというのに陽気な声を上げる酒好きたちの姿に笑みを零しながら答えた。

 つい先ほど上司になった金髪の美女は、にこやかに微笑む。

 ふと、何かに気が付いた様子で、天はくるりと店内を見回した。


「それにしてもこの店、何だか退魔の気が薄くないですか? 魔除け置いてないのかな?」


 眉間にしわを寄せた天を見て、カルミラは人差し指を立ててにっこりと笑う。


「ほぼ正解よ。いい感性してるじゃない、さすがねー」


 カウンターにまで来ると、カルミラはそこに立っていた立派な口髭をはやしたマスターと親しげに挨拶を交わす。


「時間通りだ、カルミラ。待ち人はいつもの場所で飲んでるぜ」


 マスターの無骨な指が、つい、と店の奥を指す。


「ありがと、ボブ」


 そちらへ視線を回すと、目的のものを確認したと言わんばかりに勢いよくカウンターを離れた。


「この店はちょっと特別なの、彼のためにね」


 自分に続いて歩く天を振り返りもせずに、カルミラは若干声量を落として、そう教えてくれる。

 入り口付近では賑わいも見せていた店が、奥に足を進めれば進むだけ、薄暗く、人気がなくなっていく。

 そして薄暗くもある、長いカウンター席の一際灯りのない一番奥の席に、誰も寄せつけず、客がただ一人、座っている。


 遠目にも見て取れる、見事な銀髪が弱い光に煌く。

 その一本一本が、まるで冬の夜空に浮かぶ月光を編み取ったかのように、美しい。


「月にほんの数度だけ、この時間にやってくるの。だからマスターはこの時間だけ店の魔除けを最低限に落している。そのせいで昼間も動ける魔物に襲われたら、責任を持って彼が始末する約束で」


 天は息を飲んでいた。

 目にした者が何であるのか、理解したが、信じられないと思った気持ちの方が強かったのだ。


「……あれって、まさか悪魔ですか?!」


 天の口から零れる驚愕に、カルミラは微笑んで見せた。


「そう。でも、『魔物』と比べたら『悪魔』はまだ比較的人間に優しいほうよ。しっかり話し合える知性を持っているし、知識云々で言ったら、人間なんて足元にも及ばないでしょうしね」


 ひどく明るい声でそれだけを教えてくれると、カルミラは物怖じもせず、その悪魔の傍へと歩み寄った。


「お変わりなさそうね。私のラブコール、請けてくれる気になった?」


 静かにグラスを傾けていた彼は、音も立てずにそれをカウンターに置くと、伏せていた目をゆっくりとカルミラに向けた。


「またお前か。……その屈しない意思の強さには感心する」


 その口から声が零れた瞬間、その音のあまりの妖艶さに、ぞっと背中を何かが走り抜けていくのを感じた。

 まるで雪の降る空に滲む銀色の月のような、凍えるほど美しい瞳が、冷ややかな笑みと共に細められる。

 ほんの微かに身を揺らした、その動きで銀色の髪が流れた。

 この世のものとは微塵も思えない、整いすぎた容姿は逆に恐ろしくさえある。

 『人』と比べて形容しがたい、あまりの美しさ。

 それは性別など問わず、心を持つ生き物なら簡単に魅了してしまうであろう。


「オレは人間とつるむ気はない。いい加減諦めて、さっさと帰るんだな」


 雪月の瞳に明らかな嘲笑を浮かべた後、彼は流れるような動きで再び手に取ったグラスを傾ける。

 琥珀色の液体が、形のいい唇に触れた。

 カルミラが次に言葉を発しようと口を開くより先に、天が彼女の腕を強く引っ張った。

 天に引きずられるようにしてカウンターから離れ、少し距離を取らされる。


「何! 何よ?!」


「何ってこっちの台詞ですよ! 先ほど言っておられた助っ人って、まさかこの悪魔のことなんですか?!」


「そうよ! 他に誰がいるのよ」


「正気ですか? 彼、悪魔なんですよ」


「言われなくても分かってるわよ! そんなこと」


 小声でコソコソとやってはいるものの、そう距離の無い傍らで言い合っている二人の人間の会話など、悪魔である彼には筒抜けであった。

 今にもため息でも吐き出しそうな面持ちをして、冷めた目で彼らを見やる。

 ……そしてピタリと、天の姿を見止めて動きを止めた。


「お前」


 目が合ったわけでも、名指しされたわけでもなかった。だがこちらに投げかけてきた悪魔の声に、自分が呼ばれたのだと、天は分かってしまった。

 目を見開き、顔を上げ、向い合っていたカルミラを残し、振り返る。

 こちらを真っ直ぐに見る悪魔の、銀色の瞳の美しさに、勝手に鼓動が跳ね上がった。

 視線が交わると、天はただ何を言われるのかと待ちながら押し黙った。だが悪魔は何かを問う様子でもなく、ただじっと天を見つめる。

 柔らかな茶色の髪、優しい色をしたヘイゼルの瞳。天が、悪魔である彼にとって邪魔で厄介で鬱陶しい、魔物退治を生業とする魔物退治者(バスター)であることは、その格好を一瞥するだけで分かっただろう。

 完全なる沈黙が落ちる。

 それは長くもなく、短くもないものだった。

 自分の鼓動だけが聞こえる。天には、思いもよらぬ不思議な静けさだった。


「……ひどく似ている、だが違う」


 ふっと、銀色の瞳は逸らされ、ゆっくりと閉じられた。

 飲み干されたグラスのふちを、悪魔の美しい指がなぞる。

 まるでこちらの興味を失くした様子でカウンターに片肘をついた悪魔に向かって、カルミラは天の手から逃れ、挑むような剣幕で詰め寄って行った。天が再び彼女を止めようと伸ばした手を、後ろ手に追いやりながら。


「絶対、貴方に悪いようはしないわ。貴方の欲しがっている情報、全力で提供させていただくから…」


「人間が集めた情報と、オレが自身で集めるものと、価値の違いは見て取れるが?」


 彼女が全てを言い切る前に言葉を遮り、ぐっと詰まったカルミラの顔を見て、悪魔は笑う。凍りつきそうなほど美しい、冷えた笑みが口元に浮かぶ。

 それに負けじとカルミラが口を開こうとした瞬間、背後から伸びてきた細い手が、彼女の細い肩をグッと掴み上げた。


「カールーミーラー!」


 続いてもう片方の手が、ガシリと首根っこを掴む。

 短い悲鳴を上げながら、カルミラは猫のようにすくみ上がった。

 天が振り返ると、そこには怒りの形相をあらわにした女性が立っていた。

 茶色い緩やかなウェーブのかかった短い髪と茶色い瞳。天と目が合うと、どうも~、とにっこり笑いながら挨拶をしてくれる。

 細い手に、それでもしっかりと拘束されたまま、カルミラは天に向かって彼女を紹介してくれた。


「こ、こちらはレイル・ナイトホーク。私のかかりつけの治療者(ヒーラー)よ。レイル、この子は仕事場の新しい魔物退治者(バスター)、伊吹天くん」


 レイルはもう一度天に向かってにこやかな笑顔で挨拶をすると、途端に顔つきを変えてカルミラを引っ張った。


「いくら仕事だからって私の診療時間をすっぽかそうなんぞ十年ほど早いわ。その傷で死ぬ気かい?」


 暴れる余地もなく引きずられていくカルミラは、慌ててポケットから取り出した紙幣を天の手に握らせた。


「いい? 私が帰ってくるまで、彼を絶対逃がしちゃ駄目よ! 何が何でも、いざとなったら身体使ってでも引き止めるのよ」


 いいわね! と念を押しながらも、カルミラはズルズルと引きずられるように、レイルによって連行されていく。


「身体使って……って、どうするんですか……」


 残された天はほぼ茫然としながら、手の中の紙幣と隣で涼しい顔をしている悪魔の顔を交互に見やった。


「あ、……えっと、取りあえず、マスター、この方にもう一杯同じやつ……」


 返事を返してくれたマスターに手を振って、天は仕方なく彼の隣の席に座る。

 横目で天を一瞥し、再び目を伏せた悪魔の横顔をちらりと見てから、天も目を伏せた。

 指先から髪の毛一本に至るまで整った、妖しいばかりの美しさに、「魅せられてしまったら終わりだよ」と昔、先輩の魔物退治者(バスター)に忠告されたことを何故か今、この時になって思い出してしまう。

 内心、小さな悲鳴を上げながらも、連行されてしまったカルミラの言葉をないがしろにする訳にもいかず、どうしようかと考えを巡らせ続ける。

 しゅう、と、横からいい音を立てて、マスターが注文した酒をカウンターに滑らせてよこしてくれる。二つ滑ってきたグラスを、反射的に両手で掴み止めた。


「一つはおごりだ。飲んどきな」


「ありがとうございます」


 悪魔の目の前にあった空のグラスと、なみなみと揺れている酒の入ったものとを取り替えつつ、手を振ってくれるマスターに笑顔で礼を言う。

 天は、自分のためのグラスに入った液体で、緊張により乾いた口の中を湿らせる。それは酒ではなく、懐かしい味のするコーラであった。

 目を細めてそれを飲んでいる天の横顔を見てから、悪魔もグラスを手に取った。


「そういえば、さっき『似ているが違う』って言われたのは、何なんですか?」


 顔をこちらに向けもせず、雪月の瞳が横目に天を見る。

 冷え冷えとしたその視線に、内心、聞いてはいけなかったことだったのだろうか? と思いはしたが、問うてしまったことは仕方ない。

 しばらく、そんな冷たい銀色の瞳と見つめ合ったままでいたが、持っていたグラスを置いた彼はゆっくりと口を開いた。


「お前の魂が知り合いによく似ている。だが微妙に違う、……それにお前は男だったな」


「魂……?」


 彼の言葉に少し考えながら、なんとなく胸に手を当ててみる。

 魂が似ている、とは、どういう意味なのだろうか?

 魂かぁ、ともう一度小さく呟いて、頭をかいた。それと、「男だったな」などと言われ、それくらいは顔や身体を見たら一目瞭然のはずなのに、とも思う。

 そういえば、『悪魔』や『天使』は性別を超越しているという記述をよく目にはするが、彼はどう見ても男性に見えた。


「女の人を探しているんですか? ……僕に似た人、か」


 人懐っこい容姿をした魔物退治者(バスター)は、カウンターに両腕を乗せ、見上げるように天井へ視線を向けながら、呟く。


「確かに、双子の姉がいましたけどね」


 懐かしむような笑顔を浮かべながら悪魔の方へと向き直った天は、思わず息を飲み込んだ。

 自分が零した言葉に対して酷く真剣な面持ちになった悪魔は、射るような目でこちらを見ていた。

 思わず、浮かべていた笑顔を引きつらせてしまう。


「いました、というのはどういうことだ」


 低く押し殺した声に、一瞬気を取られる。


「えっ? あ、北東の大破壊で生き別れましたから……。僕たちのいた街は特別被害が大きくて、それに姉は目の前で『上級魔物』に連れ去られたんです。諦めたくはないけど、生きている望みは薄くて」


 しどろもどろに答えた天の顔を冷めた目で眺め、悪魔は再び椅子に座り直した。


「なら余計違うな。俺のは二年前まで一緒にいた」


 ぐっとグラスに残った酒をあおった彼を見て、つい、浮かんだ疑問が口を突いて出る。


「じゃあ、二年間ずっとその人を探しているんですか? 人間の、女の人ですよね?」


 素朴な疑問であったが、彼のまとっていた恐ろしく静かだった空気が、ばりっと電気が走ったように震えたのを感じて、天は咄嗟に、自分で自分の口を押さえた。


「……それがどうした? 貴様には関係のないことだろう」


 天を睨みつけた悪魔の雪月の瞳が一瞬、深紅に染まる。飲み干された空のグラスに、音もなく亀裂が入った。


「いや、別にそういうつもりで言ったんじゃなくて! ちょっ、ちょっと待ってください! せめてカルミラさんが戻ってくるまで!」


 席を立とうとした悪魔に手を伸ばし、その腕を掴む。

 必死の形相で引き留め、その腕を捕らえた天に振り返った彼の目は、明らかな驚きに満ちていた。


――――肉の焼け焦げるような匂い。

 悪魔の腕を掴んだ天の左手から、煙が上がる。


 すさまじい激痛に声を上げることさえできず、天が目を見開いたのを見て、悪魔は己が腕を掴んだ手を払い飛ばした。


「…う…っ、ぐ…っ!」


 焼け焦げた手のひらを見て、口唇を噛み締める。痛みに呻き、歪んだ天の顔を見て、悪魔はひどく呆れた様子で口を開いた。


「馬鹿かお前は。人間ごときが『高位悪魔』に触れればどうなるかくらい知っているだろう」


 涙目になりながら悪魔を見上げた天は、苦虫を噛み潰したような顔をしながら情けなく笑って見せた。


「いや、その、……実を言うと、悪魔の方に会うのって初めてなんですよね」


 天は胸の前で、一度空気をかき混ぜるように右手で円を描くと、淡い光を放ち始めた手のひらを焼けた手に当てた。


「よく『魔物』や『上級魔物』には仕事上会うんですけど、本当の『悪魔』に会うのは初めてで、こんなに普通に喋れるもんだとは思わなくて、つい……」


 傷ついた手のひらがゆっくりと治っていく様に目を落とし、悪魔は、へらっと、やけに柔らかく笑った天の横に再び座った。


治療(ヒール)ができるのか。それにしてもよく燃え出さなかったな。……あぁ、その対魔装飾具(アミュレット)のせいか」


 天は両手首にはめた銀の腕輪を見てから、悪魔に目を向けた。


「これですか? さっきカルミラさんにとりあえずと渡されて」


「その服も(いつき)(さく)のものだろう。あまり近づかれると痛い」


 銀の悪魔が口にした名前に、天は数回瞬きをしてから治療(ヒール)を止め、驚きを声に出せずに彼を見やった。


「樹、朔…? なんっ、え? この服も? 嘘、これカルミラさんが旦那さんのだって!」


 樹朔とは、今やこの壊れた世界では伝説の人。

 世界で最初に立ち上がった魔物退治者(バスター)

 漆黒の髪に深淵の闇を思わす瞳。勝気な笑みを口元にたたえ、強い精神力と並の人間を軽く超えた肉体を持ち、最強の名と共に世界中に生き残った人たちの心に再び希望の光を灯した英雄。

 彼の働きがあったからこそ、世界は魔物たちに対する対処法を見出し、今、人々が生きることができているのだと言っても過言ではない。

 老若男女問わず、世界中では彼のようになりたいと魔物退治者(バスター)を目指す者が次々と生まれている。

 だが、当の本人は今のところ消息不明。

 その生死さえ不明である。


「あの女が樹朔の妻だろう。疑問などどこにもないが?」


「ちょ、ちょっと待って下さい」


 天は思わず、頭を抱えた。

 カルミラとは、どう推測しても二つ三つほどしか歳は離れていない。自分が十五の時に彼が魔物退治者(バスター)として立ち上がった。

 本や新聞なんかで見た彼は確か、あの時で今の自分くらいの歳だったはずだ。


『歳の差カップル?! いやいや、そんなことはどうでもいいんだ。カルミラさんが樹朔の妻?! じゃあ、サウスは英雄の妻が管理統括?! それが本当だったら、世界中の噂だろうに、一度も聞いたこと無いけど?! ていうか、英雄樹朔は妻帯者だったの? 初耳! あ、そういえばカルミラさんが名乗った時…』


 何かしらの疑問と思考の坩堝に陥っているらしい天の横顔をどこかつまらなさげに眺めて、ため息を一つ吐き出した悪魔はゆっくりと口を開いた。


「昔、あいつに会ったことがある。今、あの女が身につけている物と同じ気を感じられる。……どうしてあの男があれほど強かったのか知っているか?」


「いえ……」


「あいつは守りたい者のためだけに戦っていたからさ」


 悪魔はカウンターに肘をついたまま、軽く指先で何かを示した。

 天がそちらに目を向けると、レイルにまだ何か文句を言われながら帰ってきたカルミラの姿があった。


「お前は、何のために戦う?」


 その声に、その言葉に、天は再び銀色の悪魔へと視線を戻した。

 横目で自分を見る彼と目を合わせ、頬をかいて少し顔を伏せる。


「……具体的には、言えないんですけど」


 天は言葉を濁した。

 伏せられたヘイゼルの瞳に落ちる影。

 それは先ほどまで見せていた柔らかい優しさや、底抜けの明るさを曇らせてしまいそうな暗さを含んだものだった。


「僕は戦わなきゃいけなくて、そうして償わなきゃ、僕が生きていけなくて。……だから今は、自分自身のために、戦います」


 先ほどまでの快活さはどこに、たどたどしく言葉を紡いだ後、天は顔を上げて黙ったままの悪魔の横顔を、それでも真っ直ぐな瞳で見つめ返した。


「自分のため、ね」


 頬杖をやめた悪魔は目を細め、思わず見惚れてしまいそうな微笑を浮かべて天を眺めやった。


「上出来。それこそ正義のためとかぬかしやがったら切り刻んでやるつもりだったのに、惜しいことをしたな」


 笑う彼に、返すように笑いながら、天は首を滑った冷や汗を手で拭った。


「帰ったわ! 何だか話が弾んでいるようだけど、何? いい事?」


 割って入ってきたカルミラの顔を、二人が同時に見る。


「お前の話、受けてやろう。気が変わったら即抜けさせてもらうがな。その間の情報収集は約束してもらう」


 悪魔の口から出た言葉にカルミラは目を見開き、そのまま素早い動きで天に向き直った。


「天くん! 何したの、君! 凄い凄いっ、天才だわ!」


 カルミラは力一杯天に抱きついて一方的な抱擁を浴びせるだけ浴びせると、ぱっと離れ、銀色の悪魔に向かい直し、ジャケットの胸から折りたまれた小さな紙を取り出した。


「気が変わらないうちに簡易契約書に名前を! これは公平なビジネスとしてのお付き合いよ」


 後になって命を取られたりすることのないようにするため、双方の間でしっかりと契約を結んでおかなければいけない。

 カルミラは取り出したペンで羊皮紙の契約書に自分の名前を書くと、ペンと共にそれを彼の前に差し出した。


「そんなものはいらん。我が名は、……ハデス」


 彼が自らの名を口にした途端、血のように赤い文字でその名が契約書に滲み出てくる。

 二人の名前が書かれた契約書を見つめたカルミラは嬉しそうに、くぅ~っと声を上げ、とびきり可愛らしい笑顔を浮かべた。


「レイル、確認者としてサインして! それで早速なんだけど、この伊吹天くんと組んでやってもらう仕事の打ち合わせがしたいの。場所だけど私の事務所は?」


「俺はあそこには入れん」


「あ、そうか。じゃあ、天くんの部屋借りていい?」


「昨日引っ越してきたばっかりで、何にも片付いてないんですけど」


「あー、そんなの気にしない気にしない」


 契約書をまた胸に仕舞って、場所は? と詰め寄ってきたカルミラに逆らえず、天はしぶしぶ、借りた部屋の住所を口にした。


「この後一回管理所帰ったら、片付け手伝いに行ってあげるから」


 肩を落とす天の背を叩いて、上機嫌に笑うカルミラを恨めしげに見る。


「じゃあ五時に、天くんの家にいるから」


「五時って、そんなギリギリの時間! 陽が落ちたらカルミラさん帰り道危ないじゃないですか」


「仕方ないでしょう? 真っ昼間の間は、彼、ほとんど人の話聞かないもの」


 天は一度、腕を組んで二人のやりとりを見ているハデスに目をやる。

 悪魔である彼にとって、やはり日中の太陽は身を苛むものとなるのだろう。そこは、あらゆる『魔物』がおおよそ夜行性なのと同じだと考えてもいい。


「いいじゃない、帰れないと思うくらい危なかったら一晩くらい天くんのところにいさせてよ」


「なんてこと言うんですか! 僕、旦那さんに顔向けできなくなりますよ」


「あら、何かするつもりなの?」


「何にもしないけど!!」


 そんなやり取りをする二人を黙って眺めていたハデスだったが、小さくあくびをすると音もなく席を立った。


「後は二人でやってくれ。五時にこいつの家に行く」


 ハデスはカウンターの上に酒代を置くと、振り向きもせずに店を出て行った。

 マスターと店員が慌てて魔除けを店に置いていく。

 一変して破邪の力に覆われた店の様子に感心しながらも、天はカルミラに強く念を押した。


「いいですね? 陽が落ちる前に送っていきますから、そのつもりで仕事の話してください」


「もー、真面目なんだから! 分かったわよ」


 カルミラの返事にがっくりと首を垂れた天は、深く息を吐いた。


『尊敬する樹朔様。僕、貴方に殺されるのだけは嫌です……』


 ポケットの上から契約書を押さえて上機嫌に笑っているカルミラの愛らしい笑顔を見ながら、天はもう一度ため息を吐いた。


/天のアパート/

[P.M.16:20]

 黙々と片づけを手伝ってくれるカルミラを時々振り返りながら、天も手を動かす。

 潰したダンボールの数も徐々に増えて、部屋の中が見られるようになってきた。


「カルミラさん、僕の履歴書見ましたか?」


「見たわ。名前と写真だけ」


 また空になったダンボールを潰しながら、そう答えたカルミラの言葉に天は「そうですか」と、力なく返すしかなかった。


「イブキという結構凄腕の魔物退治者(バスター)がいるっていうのは聞いていたの。名前だと思っていたんだけどね」


「前のところではそう呼ばれていましたから」


 苦笑いして見せた天に、カルミラはほんの少し口元を引いて、次の荷物の前に座った。


「私は、別に魔物退治者(バスター)の過去なんてどうでもいいのよ。必要なのは魔物退治者(バスター)としての能力が確かであること、それだけ。たとえ魔物を憎んでいるからと言われても、英雄になりたいからと言われても、戦う力を持っているならそれで十分」


 一度、手を止めたカルミラの目が虚ろに宙を見つめる。

 だが、明るい空色を湛えているはずの瞳はどこかくすんだ険しい光を帯び、まるで怒りに満ちてさえいるようだった。


「だから天くん、貴方の過去は話したくなったら聞かせて。酒の肴にでもね」


 一変して明るく、カルミラは天に振り返り片目を瞑ってみせた。


「さてと、一通りはこれでいいわね。コーヒーか何かいただいてもいいかしら?」


 ぎゅっと、最後のダンボールの束を一つに縛ると、カルミラは大きく伸びをした。


「今入れてきます。カルミラさんはもう座っていてください」


「そう? じゃあそうさせてもらうわ。うんと濃いコーヒーもらえるかしら、ブラックで」


 返事をしながらキッチンに入っていった天の笑顔につられて微笑みながら、カルミラはすぐ足元に転がっているクッションの上に座った。


「ファイル、ファイル、あったこれこれ」


 他のものと一緒に、本棚に片付けてしまっていた資料を詰めたファイルを取り出す。

 ページをめくっていきながら、戻ってきた天からコーヒーを受け取った。


「ありがとう」


 いいえ、と返しながら、天はカルミラの手に持たれているファイルを覗き込む。


「これが初仕事の相手ですか? ……それにしても、カルミラさんはどうしてあの、ハデスさんを引き入れようと?」


 そこに映っている魔物の特性を書いた文章を目で追いながらも、問いかける。


「あー、彼? 彼は元々結構、人間びいきなのよ」


 濃いコーヒーに口をつけながら、カルミラはファイルを天に渡した。


「別に悪魔が人を愛するというのも珍しくない話よ。その逆もね。私は実際見たことはないんだけど、彼は恋人と一緒に結構前からこの街にいるらしいの。でも二年前くらい、私がこの街に来て間もない頃、彼女がどうやら別の悪魔に連れ去られたとかで」


 関心深く頷いて、自分のコーヒーを飲むことさえ忘れている天に、身振り手振りを入れながらカルミラは話を続けた。


「ほら彼って、見ての通りかなりの『高位悪魔』じゃない? 話を聞いてこう、ビジネスの話ができるかもと思って。一応これでも世界的に情報はいただけるわけよ。これでも私、管理統括だから。魔物も悪魔の情報も、その気になれば結構入ってくるの、だから~」


 確かに『高位悪魔』を味方につけられれば、怖いものなしだ。

 彼らは夜の世界を知り尽くしている。人間など、時に魔物退治者(バスター)など、足元にも及ばぬ力を揮うだろう。


「ギブアンドテイクができると。凄いですよ、そんな発想があっても実行に移す人はあまりいません」


 キラキラした目で自分を見上げる天に、カルミラは指で頬をかいた。


「ま、褒め言葉としてもらっておくわ。でも本当に凄いのはハデスの彼女だと思うけど」


 カップをあおってコーヒーを飲み干し、カルミラはそれを小さなテーブルの上に置いた。


「物凄い女性だったみたい。私は見たことないんだけど、天くんと同じ東洋系の小柄で可愛らしい人で、魔物退治者(バスター)登録さえしてないのにそこらの魔物退治者(バスター)よりよっぽど強かったって。更に凄いのは、悪魔と触れ合っても傷つくことさえなかったらしいの」


「どうしてですか?」


「そんなの知らないわ。普通、魔物退治者(バスター)でも焼け焦げるわよ。……そうね、触れる時に精神力で上手く中和したらしばらくは持つかもしれないけど、そんなことに力使い続けていたら死んじゃうわ。破邪の守りでガードして、……そしたら触れないわね」


「悪魔の邪気と同じものをまとう……、と人間の肉体が持たないですね」


 うーん、と唸りながら二人が腕を組んで考え込み始める。

 そして黙って、出窓に座って二人の様子を観察していたハデスが口を開いた。


「面白い案が出ているようだが、どれもハズレだな」


 ぴょんと飛び上がらんばかり、二人は同時に跳ねるように顔を上げて、見開いた目でハデスを見やった。


「い、い、いつからそこに!」


「それより、どうやって入ったんですか?! 窓にはちゃんと法玉が……」


 窓際に置いておいた魔除けの法玉を探す天の仕草に、ハデスは腰掛けたすぐ傍にあった、くすんだ色の法玉を指で弾いて部屋の中に転がした。


「こんなもの、守りとも言えんな」


 転がった法玉を拾い上げたカルミラは、それを光に透かして眺め、眉間にしわを寄せた。


「天くん、これもう駄目よ。邪気に当てられて使い物になってないわ」


「本当ですか? 確かにそれも結構長く使ってたからな……」


 そう、使い物にならに認定を受けた、鈍い色を反射するだけの宝玉をカルミラから受け取りながらぼやく。


「天くん、ほんっと危なっかしいわね。防御とか、守りとか、あんまり気を払わないでしょう?」


 どうやら図星を指されたようだ。

 ぎくり、とばかりに胸を押さえた天の仕草に、カルミラは深くため息を吐く。


「うちにあるの後であげるわ。とりあえず、仕事の話をしましょう。倒して欲しいのはこの魔物よ」


 カルミラはファイルから抜き出した紙を、ハデスと天に渡した。


「どうやら『中級魔物』の単独行動型、かなり凶暴なやつなの。血の海が見たくて人の多いこのサウスに来たみたいだけど、そうもできなくてストレス感じているってところでしょうね」


 資料にはご丁寧に、暗視カメラで遠くから撮影された魔物の写真まで入っている。


「で、厄介なのがそいつにあやかろうと小物が一杯集まっていることね。そいつ一匹なら真っ向からやりあってもいけるでしょうけど、横槍入れられたら集中も出来ない」


 真剣な眼差しで魔物のデータを目で追っている天に対し、ハデスはさもつまらなさそうに目を細め、持っていた紙を音もなく炎に変え、灰すら出ぬように燃やし尽くした。

 それを見ていたカルミラは少し顔をしかめてため息を吐いた後、もう一枚紙をハデスへ差し出した。


「二年前からそれ前後、人に手を出した悪魔のリストよ。貴方が当たった名前を削れば結構な情報じゃないかしら」


 目を見開いたハデスは、差し出された紙に手を伸ばす。

 だが、ハデスの指先がかすかにさえ紙に触れる前に、カルミラはリストをファイルに仕舞った。


「悪いけどこの情報は後払いにさせてもらうわ。これを見て、こっちの仕事を放っていかれたらたまらないもの」


 にっこりと笑みを浮かべて見せたカルミラに、ハデスは黙って険しい目で彼女を睨みつける。

 それを物ともせず、カルミラはもう一度笑った。


「大抵、深夜街の防壁から外側の、北の方に出没すると聞いているわ。早速今夜向かって、発見と同時に状況を判断して戦闘可能なら戦闘を。小物はこいつを倒せば散ると思うけど、油断はしないで」


「はい」


「日付が変わって、午前一時に、天くんを管理所から送り出すわ。それと合流できるようにお願いね」


 打って変わった真剣な眼差しでそう言ったカルミラに、ハデスはため息のようなものを吐きだす。


「分かった」


 了承の言葉を得て、カルミラは満足げに笑い、天に親指を立てて見せた。


/樹管理所/

[A.M.0:52]

 戦闘装備を整え、最後に大剣を背に負った天の姿に、カルミラはただ感心したように息を漏らした。


「その姿なら頷けるわ。イースシティ最強の魔物退治者(バスター)、イブキ」


「やめてくださいよ、その呼び方」


 眉間にしわを寄せたまま、ひどく照れた天の顔つきにカルミラは腕を組みながら笑った。


「みんなそう呼ぶけれど、結局は僕一人の力ではありませんでした。仲間のサポートがなければ、僕は今頃……」


「天くんがいたのは、(ワン)管理所だったわね……」


「……はい」


 静かに答え、二人の間に短い沈黙が落ちる。

 このままでは二人して押し黙ってしまいそうな重い雰囲気を吹き飛ばそうと、カルミラは無理矢理笑顔を浮かべて、天の服の袖を引っ張った。


「これが終わったら一番に天くんの法衣服作りに行かなくちゃいけないわね。夫のお古じゃ悪いでしょ?」


「いえ、とても光栄です。朔さんの服を着ることが出来るなんて、…ちょっと汚したり破ったりしたらどうしようかって思いますけど」


 少し緊張した笑顔を浮かべ、服の裾を摘んで見せた天に、カルミラは渋い顔をして頬をかいた。


「あー、やっぱり聞いた? ハデスね、言ったの」


 カルミラは自分のデスクの上に腰掛けると、足を組んで天に向かって情けなく微笑んだ。


「あの、……今、朔さんは?」


「行方不明よ。世界中の人が知っているとおり」


 あっさりと言ってのけた後、カルミラの表情が一瞬曇る。

 消息の分からない英雄、樹朔。

 世界中の誰もが、彼の帰還を望んでいる。

 だけど、きっとそれを望むどんな誰の思いよりも強く、彼女が一番、彼の帰りを望んでいるに違いない。

 ずっと見せていた彼女の勝気な笑顔が、強い瞳が、その瞬間ひどく孤独なものに思えた。


「……カルミラさん、これが終わったら飲みに行きましょう! その時にでも僕の昔話、聞いてくれますか?」


 柔らかく笑った天の姿に、カルミラは一度目を見開いた後、ゆっくりと口元を引いた。


「ええ、喜んで」


 答えるカルミラに天は嬉しそうに手を振って身をひるがえし、事務所から駆け出していった。




 ……管理署の外へ出ると、ドッと圧し掛かるように湿った夜の大気が身体にまとわりついた。

 いつもながらに変わらない、そこ潜む者たちの臭気を含むようになった独特の夜の匂い。濃い瘴気をはらんだ風と、深い闇。

 そこから感じ取る恐怖を、これから迎える戦闘への興奮に変える。

 天は無意識に乾いた口唇を舐め、鋭い眼差しで暗闇を見据えた。


「……遅い」


 突然降ってきた声に、天は素早く空を見上げた。

 闇夜にも溶けない、美しい闇。

 なびく銀色の髪が、街の灯りに照らし出されて星のように輝く。

 倒壊したビルの、瓦礫と化した柱の上に腰を下ろしていたハデスが、銀色の目を細めてこちらを見下ろしていた。


「すみません」


 闇色の外套を風にひるがえらせ、音もなく地上に舞い下りてきたハデスは、素直すぎるほど素直に謝る天に冷え冷えとした眼差しを注ぐ。


「じゃあ、行きましょうか」


 場違いなほどにこやかに笑って自分を促す天に、ハデスは呆れがちなため息を一つ吐く。

そして二人は夜の闇に溶け込んでいった……。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ