火の神と水の女神
火の神と水の女神
はじめに世界が暗く
まだ何もなかったころ
一人の神様が生まれました。
その神様と一緒に
空と大地も生まれました。
神様は空と大地の一部から
たくさんの神様を生み出しました。
神様達はそれぞれ助け合って
世界をつくっていきました。
太陽の神と月の女神は世界を回り
年月が過ぎるようになりました。
大地に草木が茂るように
土の神と風の女神がその手助けをしました。
雷の神と水の女神も空から雨を降らせて
地上に海をつくりました。
かくして世界は動きだし
いまに近いすがたになりました。
世界のようすに満足したはじめの神様は
うとうととうたた寝をしてしまいます。
まわりの神様はそれに気づかず
世界を動かすのに一生懸命でした。
まわりの神様が気づいたときには
ながい年月が流れ
はじめの神様は大きな木になっていました。
それを悲しんだ神様達は
たくさんの涙を流します。
そのそれぞれから
たくさんの神様が生まれ
またたくさんの生きものが生まれました。
神様達は生きものを地上に放し
ある生きものには空を住みかにあたえ
ある生きものには海を住みかにあたえ
ある生きものには大地を住みかにあたえました。
かくして空や海や大地に生きものが満ちあふれ
地上に生きものの楽園ができたのです。
ある日雷の神様が
あやまって雷を神様の木に落としてしまいます。
そのとき一本の枝が折れて燃え上がり
そこから火の神様が生まれました。
折れた枝は地上に落ちて
そこから人間の男女が生まれました。
神様達は新しく生まれた火の神様を喜び
地上に新しく生まれた人間達を祝福しました。
生まれたばかりの火の神様は
それまでの神様の中で一番若々しく
力の強い神様でした。
その誕生をお祝いして
ともに生まれた人間だけに火の使い方を教えてあげたのです。
神様の木はもっともっと大きくなって
空を支えるほど大きく枝を伸ばし
地中の根は死者の国に届くほど深く広がりました。
神様達はその木をとても大切に思い
毎日のようにお世話をしていました。
太陽の神と月の女神は木の上を通るたび
枝が青々と茂るよう
やさしい光で照らします。
神様の木のお腹が減らないように
土の神様は大地を豊かにしています。
風の女神は神様の木があつくないよう
風でこずえを揺らします。
雷の神様が雨雲をよび
水の女神が雨を降らせ
神様の木ののどが乾かないよう
全体をすっぽり雨糸でつつみます。
新しく生まれた火の神様は
神様の木にいたずらするものがいないか
つねに見張っている役目です。
それから長い時が過ぎて
地上では人間があたえられた火を使い
それぞれの文明を築いていました。
長い間木を見張っているだけの火の神様は
だんだん見張るのに飽きてきてしまいました。
そんなある日
神様の木に雨を降らせていた水の女神に
あるいたずらをしてやろうと思いつきました。
火の神様は木の枝から飛び降り
おもむろに水の女神に近づきました。
〈こんにちは、水の女神。あなたはいま地上がどうなっているのか、知っているか?〉
水の女神はずっと神様の木のお世話をしていたため
地上がどうなっているのか長い間見ていませんでした。
〈いいえ、知らないわ〉
水の女神は首を横に振りました。
〈それはいけない。あなたが神様の木のお世話ばかりしていたせいで、いまごろ地上の水がすべて干上がっているかもしれないよ〉
水の女神は不安に思いましたが
神様の木のそばを離れるわけにはいきませんでした。
〈いいえ、そんなはずはないわ。わたしが雨を降らせるとき、風が雨雲を地上に運んでくれるのを見ているもの〉
火の神様は雨雲が地上で雨を降らせるのを
枝の上から見ていましたが
わざと知らないふりをして言いました。
〈雨雲が地上にいくのなんて、ぼくは一度も見たことがない。それはあなたの勘違いではないのかい〉
水の女神は火の神様の話を聞いて
もっと不安に思いました。
〈あなたは長い間地上を見ていないのだろう? あなたが地上を見ていなかったせいで、いまごろ生きものは死に絶えているかもしれないよ〉
水の女神は地上をうつす井戸のたもとに走りより
鏡のように平らかな井戸の中をのぞきこみました。
井戸の水を通してながめた地上の様子は
緑豊かな森がどこまでも続いています。
〈地上はこんなにも青く、生きものであふれているわ〉
水の女神は井戸をのぞきこんでいる火の神様に言いました。
〈わかりませんよ。あなたがそう見えるだけで、草木が生い茂るだけの死の森かもしれないよ〉
鏡のような井戸の水に波紋が広がり
水の女神のこころも揺れました。
〈そんなに心配なら、地上に降りてみればいいのに。その目で見て、その耳で聞き、手でふれて、生きものの息吹を感じとってくればいい〉
水の女神は迷いました。
神様達の間で取り交わした約束では
地上に降りてはいけないきまりでした。
〈地上に降りて、すぐ戻ってくれば大丈夫。あなたが戻って来るまで、ぼくがまわりを見張っておくから〉
水の女神は井戸のつるをつたって
そろそろと地上に降りていきました。
それを眺めていた火の神様は
水の女神がつるを中ほどまで降りたのを見はからって
井戸のつるを切ってしまいました。
ようやく火の神様のいたずらに気がついた水の女神でしたが
なすすべもなく真っ逆さまに地上に落ちてしまいました。
ついには地面とぶつかってしまい
水の女神が落ちた森の中には大きな湖ができてしまいました。
いたずらが成功した火の神様は
井戸の上からそれをおかしそうに眺めていました。
火の神様のいたずらを知った太陽の神様はたいへん怒り
水の女神が地上に落ちたことを知った月の女神は
さめざめと涙を流しました。
ほかの神様の間にも不安がひろがりました。
火の神様はまだ若かったので
神様達がどうして不安がっているのかわかりませんでした。
太陽の神様は不安がる神様達を見まわし
厳かに口を開きました。
〈ついに我々の恐れていたことが、現実となってしまった。水の女神は地上に落ち、世界を支える神様の木も、間もなく枯れるだろう〉
辺りに神様達のすすり泣く声が響きます。
黙って聞いていた火の神様は
そんな話はいままで聞いたこともありません。
驚いた火の神様は太陽の神様に問いただしました。
〈どうして水の女神が地上に落ちたくらいで、神様の木が枯れるというんだ〉
太陽の神様は寂しげな顔で首を横に振ります。
〈水の女神は地上に落ちたとき、力を失い、人間になってしまった。自分の力でここまで戻ってくることはできない。水がなければ草木が枯れるように、水の女神が降らせた雨がなければ、神様の木もいずれ枯れてしまうだろう〉
太陽の神様の言葉は静かなさざ波となって
神様達のこころに悲しみの影を落としました。
しかし火の神様だけは納得しません。
自分のいたずらが招いてしまった責任も感じていましたが
何より神様の中で最も年若く
強い力を持っていました。
〈水の女神を地上から連れ戻せばいいんだろう?〉
火の神様は力強く言い放ちます。
〈ぼくが地上に降りて、水の女神を連れ戻せばいいんだろう?〉
辺りにいた神様達は水を打ったように静かになりました。
火の神様の強い視線を受けて
太陽の神様はゆっくりとうなずきます。
火の神様は彼の気配に気圧されて
縮こまっている神様達を見渡します。
〈簡単なことじゃないか。どうしてこんなことを怖じ気づく必要があるんだ〉
火の神様はうつむいている神様達を冷ややかに見つめます。
すると太陽の神様は溜息をひとつつき
哀れむような瞳で火の神様を見つめました。
〈お前は若いから、何も知らないのだろ〉
火の神様は腹を立てて太陽の神様をにらみました。
〈たしかにぼくは、あんた達よりも若く、ものを知らないかもしれない。けれど、何もかも知っているかのような顔をして、何も教えてくれないあんた達の方がよっぽど悪いと思うね。地上に行ってはいけないと言うなら、その理由を前もってぼくに教えてくれていれば、こんないたずらはしなかったのに〉
さめざめと涙を流していた月の女神が
二人の間に割ってはいります。
〈わたしたちとて、何でも知っているわけではありません。ただあれはやっていい、これはやってはいけないと、経験から知っているだけです。このような事態も、まさか地上に降りたがる神様がいるとは思わなかったのです〉
太陽の神様は月の女神を下がらせ
火の神様と向かい合います。
〈お前が地上に降りるというなら、死者の国の闇の神様に頼んで、人間に生まれ変わらなければならない。生まれ変わる人間はお前に選ばせてやろう。神様の木が枯れるまで、地上でいう千年の時間しかない。その間に水の女神を見つけなければならない〉
火の神様はそんなことは簡単だと言わんばかりに
自信に満ちあふれていました。
〈水の女神をすぐにでもここへ連れ帰ってみせる。約束するよ〉
火の神様は太陽の神様に背を向け
さっさと神様の木の根元に歩いていこうとします。
〈待て〉
太陽の神様は火の神様を呼びとめました。
〈お前に言っておかなければならないことがある。大切なことだ〉
火の神様は歩くのをやめ振り返りました。
太陽の神様は厳しい顔をして続けます。
〈我々が地上に降りない理由はいくつかあるが、その一つに我々が生きものと違い、痛みや苦しみを感じないということがある。お前が人間に生まれ変わればわかるだろう。お前は痛みや苦しみに耐え、水の女神を探さなければならない。人間に生まれ変われば、ほかにも様々な苦難がお前を襲うだろう。それでも行くというのか?〉
火の神様にはそれがどういったことなのかわかりませんでした。
しかし年若く力の強い火の神様は
その恐ろしげな忠告にも動じませんでした。
〈ぼくはあんた達のように、いろいろなことを知っているわけではないけれど、地上は恐ろしいところだからと、指をくわえて神様の木が枯れるのを見ているつもりはない。地上がどんなところだろうと、恐れるつもりも逃げるつもりもないよ。ぼくは水の女神を見つけるまでは、ここへ帰って来るつもりはない〉
火の神様は他の神様達に背を向けて
さっさと神様の木の幹を降りていきました。
太い幹をつたって火の神様はどんどん地上へ降りていきます。
地上に着いても火の神様は下へ下へと幹をつたっていきました。
とうとう神様の木の根っこが広がる
死者の国へとやってきました。
死者の国は神様達の住む天上と違って
いつもぼんやりと暗く霞んでいます。
火の神様は辺りを見回し闇の神様を探し歩きます。
しかしいくら探しても暗い霧が漂うばかり
死者の行列が続くばかりです。
火の神様は声を張り上げて
霧の彼方に向かって叫びました。
〈闇の神様、闇の神様。もしも近くにいるのなら、ぼくの声にこたえてくれ〉
すると霧の先からくぐもった声が響いてきました。
〈私の名前を呼ぶのは誰かな?〉
火の神様は霧の先を見ましたが
誰のすがたもありません。
火の神様はもう一度霧に向かって叫びます。
〈闇の神様、ぼくは天上からやってきた火の神だ。近くにいるのなら、どうかぼくにすがたを見せてくれないか?〉
するとしばらくして返事が返ってきました。
〈私には定まったすがたは無いのだよ。生きものが生まれたときからずっと死者の国にいたせいで、体はとうの昔に朽ちてしまった。いまはこの霧になって、死者の国を治めているのだ〉
火の神様は暗い霧を見つめました。
〈天上の最も年若い火の神様が、死者の国に何のご用かな? 用がないならさっさとお帰り。ここは静寂しか無い、灰色の世界。火の神様がこちらへ来るにはまだ早すぎる〉
霧は静かに漂います。
〈ぼくは地上に落ちた水の女神を探している。人間に生まれ変わるには、どうしたらいいんだ?〉
火の神様は辺り一面を覆う
暗い霧に向かって話しかけます。
〈水の女神? ああ、そういえば。少し前に死者の行列の中に、そのような女がいたかもしれない〉
〈水の女神はどこにいったんだ?〉
火の神様は慌てて聞き返しました。
暗い霧はゆったりと流れていきます。
〈さあねえ、ここでは天上や地上とは時の流れが違っているから、百年前かもしれない。ほんの数日前かもしれない。どちらにしろ、いまここには水の女神はいないよ。もしも水の女神のあとを追って人間に生まれ変わるなら、死者の行列に並ぶことだ〉
火の神様は死者の行列に目を向けました。
死者の行列は上へ上へと続いており
目もくらむほどの長い列ができていました。
〈ぼくは水の女神を探すために急いでいるんだ。こんな長い列に並ぶことはできない〉
火の神様は列の後ろも見通せない
暗い闇の底を見ていいました。
〈いっただろう、ここは地上とは時の流れが違うと。心配しなくても大丈夫。きみには特別に生まれ変わる人間を選ばせてあげるし、もしまた水の女神を死者の国で見かけたら、それに近しい人間に生まれ変わるようにしてあげるから〉
最後には忍び笑いさえ聞こえてきそうな口調で
闇の神様はこたえました。
仕方なく火の神様は行列の最後に並びました。
そこは霧ではなく暗い闇が音もなく漂い
明かり一つ見あたらず
死者達のうめき声が響くばかりです。
〈闇の神様、闇の神様〉
火の神様は暗闇に向かって叫びます。
〈まだ何か用かな、火の神様〉
火の神様は泣き叫んでいる死者達を指さし
不思議そうに尋ねます。
〈どうして死者達は悲しみ叫んでいるんだ?〉
暗闇の底から響く歌のような叫びは
途切れることなく聞こえてきます。
〈死者達は地上に大切なものを残して死んでしまった。だから死んだ後も悲しみ苦しんでいるのだ〉
〈苦しんでいる?〉
火の神様は思わず聞き返しました。
〈ああそうだったね。きみたち天上の神様達は苦しみを知らないのだったね〉
火の神様は闇の神様の物言いに腹を立てましたが
あえて文句を言うことはしませんでした。
〈苦しみとは、いったい何だ? 知っているのなら、もったいぶらずに教えてくれればいいだろう〉
死者の行列は少しずつ少しずつ
上を目指して登っていきます。
〈言葉で説明するのは難しいね。きみも人間に生まれ変わってみればわかるだろう。人間として生きている間、たくさんの苦しみに出会うだろうから〉
火の神様は暗闇の彼方を見据え
闇の神様にもうひとつ尋ねます。
〈さっきあんたは、天上の神様達は、と言ったが、あんたは違うのか? あんたは神様なのに、苦しみを知っているのか?〉
暗闇からはすぐに返事が戻ってきませんでした。
見る間に死者の行列はぼんやりと明るい霧の中へやってきました。
さきほどとはうって変わり
重々しい声が明るい霧にこだまします。
〈以前私はきみに、自分の体はとうに朽ちてしまった、と言ったね。私は神様だが、苦しみを感じたことがある。死者達の臭気にあてられ、自分の体が腐っていくとき、私は言いようのない不安に襲われ嘆き悲しんだ。毎日毎日腐りかけた体で、死者の国を泣き叫びながら歩いた。私を死者の国に追いやった天上の神様達を恨んだこともあった。しかし死者で私を助けようとしてくれる者など、どこにもいなかった。それが生きものなら誰もが経験する苦しみだと知ったのは、体が朽ち果てちりとなってからだった〉
火の神様は黙って闇の神様の話を聞いていました。
死者の行列は明るい光のさす場所へとやってきていました。
〈では、痛みとは〉
火の神様が尋ねようとした途端
空からまぶしい光が差し込みました。
〈火の神様、きみはどんな人間に生まれ変わりたいのだ?〉
一筋の光の中から闇の神様の声が聞こえてきます。
火の神様は黙り込み
自分が人間に生まれ変わるときが来たのだと感じました。
1
それからどれくらいの時間が地上で流れたのか、火の神様は人間に生まれ変わりました。
砂漠に囲まれた、湧き水のある街。遠くに赤黒い岩山が霞んで見えます。
火の神様はある商人の家に生まれ、何不自由ない生活を送っていました。
あるとき、火の神様が庭で遊んでいると、屋敷の前をみすぼらしい物乞いが通りかかりました。
屋敷の周りには高い柵が囲ってあって、庭には色とりどりの植物が植えてありました。
物乞いは柵越しに火の神様に話しかけます。
「坊ちゃん、坊ちゃん。どうか何か恵んでください。お腹が減って死にそうです」
火の神様は物乞いの様子をじっと見つめていましたが、物乞いが食うのにも困っているのを聞くと、何か恵んでやろうと周りを見渡しました。
すると庭に大きな赤い実を付けた木があるのに気が付きました。
火の神様はその木によじ登り、赤い実をもぎとりました。
その実をひとつ物乞いに恵んでやると、
「ありがとう、ありがとう」
と言って、物乞いは街角に消えていきました。
また別の日。
同じ物乞いが庭の柵の前を通りかかりました。
火の神様が同じように庭で遊んでいると、物乞いが柵越しに話しかけます。
「坊ちゃん、坊ちゃん。どうか何か恵んでください。夜が寒くて凍え死んでしまいます」
火の神様は物乞いの様子をじっと見つめていましたが、物乞いが着るものにも困っているのを聞くと、何か恵んでやろうと周りを見渡しました。
すると庭に面したテーブルの上にいちまいの大きな布がかかっていました。
火の神様はテーブルの上から大きな布を持ってきました。
その布をいちまい物乞いに恵んでやると、
「ありがとう、ありがとう」
と言って、物乞いは街角に消えていきました。
また別の日。
前と同じ物乞いが庭の柵の前を通りかかりました。
火の神様が同じように庭で遊んでいると、物乞いが柵越しに話しかけます。
「坊ちゃん、坊ちゃん。どうか何か恵んでください。お金がなくて困っています」
火の神様は物乞いの様子をじっと見つめていましたが、物乞いがお金がなくて困っているのを聞くと、何とかしてやろうと周りを見渡しました。
するとポケットの中に小さな青い宝石が入っていました。
火の神様はその青い宝石を物乞いに恵んでやると、
「ありがとう、ありがとう」
と言って、物乞いは街角に消えていきました。
それから何年かして。
父親は商売に失敗して、屋敷は人の手に渡ってしまいました。
家族みんなは借金のかたに、奴隷になって働かなくてなりませんでした。
つらい労働のために、家族は病気や怪我でつぎつぎと死んでいきました。
火の神様はひとりになってしまいました。
ある日。
火の神様が床を磨いていると、その屋敷の新しい主人がやってきました。
火の神様は主人の顔に見覚えがあり、あっ、と叫びました。
新しい主人は、幼いころ柵の前にやってきた物乞いだったのです。
「わたしはきみが生まれる前、この屋敷の主人だったものだ。きみの父親のあくどい商売で財産も家族も奪われ、物乞いに身をやつしていたんだ。いつか復讐をしてやろうと機会を待ち、やっとそれが巡ってきたんだ」
火の神様は驚いて息を飲みました。
「ぼくも、殺すのか?」
動揺する火の神様に、新しい主人は優しく微笑みました。
「いいや、きみには三つの恩がある。殺しはしない。奴隷の身分を捨てて、どこへでも好きなところへ行くがいい」
火の神様は少しの食料と、少しの荷物を持って、旅に出ました。
砂漠をさまよい歩くうちに、昔の記憶がよみがえります。家族がいたころの楽しかった思い出。奴隷になってからの辛かった日々。
不思議と胸の辺りが苦しくなってきました。
火の神様は苦しみというものがどんなものか分かるような気がしました。
2
それからどれくらいの時間が地上で流れたのか、火の神様はまた人間に生まれ変わりました。
火の神様はある旅一座の子どもとして生まれ、街から街へ気ままな生活を送っていました。
森に囲まれた、緑豊かな村。遠くに青白い山脈が霞んで見えます。
旅の途中、一座は小さな村へ滞在しました。
火の神様はその村で初めて水の女神をみつけました。
井戸で水を汲んでいた水の女神は、火の神様を見つけ目を丸くしました。
「あなたは」
火の神様も水の女神を見つめます。
長い間人間として暮らしていた火の神様も、水の女神ほど美しい女性には出会ったことがありませんでした。
不思議と胸の辺りが苦しくなってきましたが、それは以前感じた苦しみとは違うものでした。
しかし本来の目的を思い出し、水の女神の腕を掴みます。
「一緒に天上に帰ろう。あなたが戻らないと、神様の木が枯れてしまうんだ」
火の神様の必死の訴えに、水の女神は悲しげに首を横に振ります。
「ごめんなさい、まだ天上に帰ることはできないの」
火の神様の手を振りほどくと、水の女神は走って逃げてしまいました。
ひとまず水の女神を連れ帰るのをあきらめた火の神様は、旅の一座からはなれ、同じ村で暮らすことにしました。
水の女神には、死者の国で見た死者達と同じように、地上に思い残したことがあるのだろうと火の神様は思いました。
よく働く火の神様の様子に、いつしか村人たちもうち解けていきました。
それから数年後。
年頃になった二人に、結婚の申し込みが数多く寄せられるようになりました。
火の神様に、ぜひうちの娘と、という申し出はたくさんありましたが、すべて断ってしまいました。
水の女神にも、ぜひうちの嫁に、という申し出はたくさんありましたが、すべて断ってしまいました。
それを不思議に思った火の神様は、水の女神にどうして結婚しないのかと聞きました。
すると水の女神は静かに笑うだけでした。
「あなたこそ、どうして結婚しないの?」
水の女神は不思議そうに聞いてきます。
「ぼくは火の神様だから、人間と結婚する必要はないんだ」
とちらちらと水の女神を横目で見ていました。
「それに、母さんを一人残してわたしがお嫁に行くことなんてできないわ」
水の女神は年老いた病気の母をひとりにすることを心配していたのです。
水の女神の寂しげな横顔を見ていた火の神様は、何とか力になってやりたいと思いました。
「じゃあ、ぼくがあなたのお母さんのお世話をするよ」
突然の火の神様の申し出に、水の女神はびっくりしました。
「火の神様、あなたの気持ちはうれしいけれど、これ以上あなたに迷惑をかけるわけにはいかないわ」
水の女神の父親が死んでから、彼女は森の中でずっと炭焼きの仕事をしてきたのです。
その仕事はけっして楽なものではなく、いままでやってこられたのも母親が元気だったからでした。
「気にすることはない。ぼくは好きでやっているんだから。それに炎の扱いならぼくの得意とするところだ」
もともと火の神様であった彼ほど、炎の扱いが上手なものはいませんでした。
水の女神はしばらく迷っていましたが、やがて火の神様に深々と頭を下げました。
「ありがとう」
それから数年がたって、年老いた病気の母親が亡くなりました。
棺に納められた母親の顔は笑っているように見え、今まで一緒に暮らしてきた火の神様の目に熱いものがこみ上げてきました。
それが悲しいという気持ちとは、その時の火の神様にはわかりませんでした。
「火の神様、いままでありがとう」
村はずれの両親の墓の前で、水の女神はぽつりと呟きました。
火の神様は口をつぐんだまま、水の女神のうしろ姿を黙って眺めていました。
「これから、あなたはどうするんだ?」
火の神様は水の女神の背中に問いかけます。
「わたしは、もう少し地上に残ってやることがあるの。まだ天上には戻れないわ」
水の女神は静かに火の神様に向き直ります。
「火の神様、あなたはどうするの?」
火の神様は何も言いませんでした。
黙って墓石を見つめるばかりです。
水の女神はまだ涙の残る頬に微笑みを浮かべます。
「わたしは家に残って、炭焼きを続けようと思うの。わたしは緑豊かなこの森が好きだから」
間入れず、火の神様も答えました。
「じゃあ、ぼくもそうしよう。どちらにしろ、あなたを天上に連れ戻すことがぼくの役目だから」
水の女神は驚いて聞き返しました。
「火の神様は、それでいいの?」
すると火の神様はいたずらっぽく笑って、
「ぼくが選んだことだから」
と言いました。
それから何年か経って、村の外から木材を買う商人がやってきました。
商人は広大な森をみて、このまま放っておくのはもったいない、と言いました。
そして村長にこの森を売ってくれるように頼みました。
しかし先祖代々大切に守ってきた森なので、村人達はいまさらその土地を売ることはしませんでした。しかし中には、少しくらい森の売ってもいい、という人もいました。
商人は何度も村長に話をしましたが、村長はがんとして首を縦に振りません。
ある夜のこと。
火の神様はふと何かの気配がして、目を覚ましました。
隣の部屋に眠る水の女神を起こさないよう、そっと寝台を抜けて耳を澄ませます。
最初は、森の中で村人達の言い争う声しか聞こえませんでした。しかしそのうちに金属がぶつかる音、木が焦げる匂いが漂ってきました。
火の神様は家の戸口に飛び出します。
「火事だ!」
村の小道から誰かが叫びながら走ってきます。
「おい、火事だ! 誰かが森に火をつけたんだ。早く逃げないと焼け死んでしまうぞ」
男はきびすをかえし、走って村に戻っていきました。
火の神様は驚いて森の奥に目を向けると、もうもうと煙が立ちのぼり、景色がかすんで見えます。
「ねえ、どうしたの?」
水の女神が戸口のところに立っていました。
水の女神はぼんやりした瞳で燃えている森に目をやり、愕然となりました。
「しばらく雨が降っていないから、火の回りが速いわ。早く村の人を非難させないと」
水の女神は村の小道を走っていきます。
火の神様もその後を追います。
「これは自然の火じゃない。人間がつけた火だ。ぼくにはわかる。ぼくが昔人間にあたえたものと同じ気配がする」
村まで後もう少しというところで、道に炎に包まれた木が倒れてきました。
「危ない!」
前を走る水の女神の頭上に、炎に包まれた木が迫ります。
大きな音をたてて、木は地面に転がりました。
「大丈夫か?」
火の神様は木の反対側に回り込み、木に足を挟まれた水の女神を見つけました。
「わたしは、大丈夫」
水の女神は小さな声で呟きます。
「いま助ける!」
火の神様の切迫した顔色を見て、水の女神はうっすらと笑みを浮かべました。
「わたしのことはいいの。あなただけでも早く逃げなさい」
青ざめた水の女神の顔を眺め、火の神様は彼女と初めて出会った時のことを思い出しました。
あの時とは反対で、いまは胸の奥がとても痛みます。
「いやだ。あなたを置いて行くことはできない。ぼくの役目はあなたを」
火の神様の言葉が終わるより早く、炎に包まれた木々が次々に倒れてきました。
迫ってくる炎をみながら、火の神様の胸にいままで感じたことのない暗い気持ちが生まれました。
それは憎しみという気持ちでした。
火の神様は木々が倒れてくるのを黙って見ていました。
水の女神の手を握り、迫る炎をじっと見つめていました。
その瞬間、憎しみは灼熱の炎となって、火の神様の体を覆いました。
村の人間すべてを飲み込み、森に生きるすべてのものを飲み込みました。
「やめて」
水の女神が止める声も、もはや火の神様には届きませんでした。
森は三日三晩燃え続け、ひとつの村と、ひとつの森を燃やし尽くしました。
3
それからどれくらいの時間が地上で流れたのか、水の女神は人間に生まれ変わりました。
三方を山に囲まれた、海に面した港町。
青い海が水平線になって、どこまでも続いています。
水の女神はその港町の娘として生まれ
毎日海の向こうへ旅立つ船を見てきました。
「また海の向こうを見ているのかい。あんたも飽きないねえ」
船着き場に座っていた水の女神は、老婆の声に顔を上げました。
「海の向こう、神様達の手の届かない世界へ行った、息子のことを思い出していたの」
すると隣に座った老婆が声を立てて笑いました。
「変だねえ。あんたはまだ結婚していなかったと思うけど」
水の女神は水平線に視線を戻し、昔を懐かしむように目を細めました。
「昔々、ある女神が湖で水浴びをしていました。そこへ近くの村の若者が来て、女神の羽衣を隠してしまいました」
老婆は日向ぼっこをしながら、水の女神の話に耳を傾けました。
「天上へ帰れなくなった女神は、若者と結婚し、三人の子どもをもうけました。しかし若者は流行病で早くに亡くなってしまいました。三人の子ども達は大きくなって、それぞれの道を進んでいきました。一人は商人。一人は旅人。一人は村に残り、家の仕事を継ぎました」
老婆は海からの風に目を細め、水の女神の横顔を見つめます。
「旅人から聞いた昔話かい。それから女神はどうなったんだい?」
老婆の質問に、水の女神はふんわりと微笑みました。
「それから女神は」
海の向こうから白い帆をはためかせ、いっそうの船が近づいてきます。
「商人の船だよ。新しい積み荷が届いたんだよ。早く知らせないと」
老婆はさっさと立ち上がり、港町の方へ走っていきました。
水の女神は澄み渡った青い空を見上げ、誰に聞かせるでもなく語ります。
「それから三人の息子達を見届けた女神は、ある人を待ち続けました。ずっとずっと待ち続けました」
水の女神は立ち上がり、水平線に背を向けました。
白い船が海の上をゆっくりと滑り、港に入ってくるところでした。