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第3話 失敗しても爆発しない世界(ブランチ)

王都の街灯魔力炉の暴走事故から、一夜が明けた。

 アルカディア王国・王立魔導院の第一編纂室の空気は、昨日までとは明らかに異なっていた。


 部屋の最奥の執務席では、第一編纂室長のバルカスが、苦々しい顔で無言のままパイプの煙をくゆらせている。

 深夜に原典大魔導書へ直書きして王都を灰燼に帰しかけた醜態を、若手魔導士全員の前で暴かれたのだ。さすがの傲慢な大魔導士も、今朝ばかりは大人しく貝のように口を閉ざしていた。


 その代わり、室内の若手魔導士たちの視線は、部屋の片隅の席で静かにお茶を飲んでいる青年――アイザックへと集中していた。


「おい、見たかよ昨日の……」

「ああ、中央魔導書に一文字も触れずに、光の術式だけで一秒で呪文を元に戻しちまった……」

「あんな魔導具、見たこともないぞ。アイザック先輩って、実はとんでもない宮廷隠密魔導士なんじゃないか……?」


 ヒソヒソと囁かれる根も葉もない噂に、アイザックは心の中で苦笑した。

(隠密魔導士なものか。前世で本番障害の鎮火に明け暮れて胃に穴を開けていただけの、しがないインフラ屋だよ)


 アイザックがマグカップを置き、ふと部屋の隅の席に目をやると、そこには昨日に引き続き、異様な光景が広がっていた。


「うぅ……どれが、どれだったっけ……?」


 見習い魔導士の少女、ルミナ・ファルクが、机の上に高く積み上げられた羊皮紙の束を前に、頭を抱えて唸っていた。

 机の上には、インクで手書きされた分厚い写本が何冊も乱雑に並べられている。

 その表紙には、ルミナの几帳面な文字で、それぞれこう題されていた。


『大魔導書第七章写本・風華結界改良版』

『大魔導書第七章写本・風華結界改良版_最新』

『大魔導書第七章写本・風華結界改良版_本当に最新_決定稿』

『大魔導書第七章写本・風華結界改良版_本当に最新_決定稿_修正済(ルミナ)』


(……出たよ)

 アイザックのこめかみが、ピクピクと痙攣した。


(前世の非IT系部署で死ぬほど見たやつだ。『企画書_最新_20240916_v2_修正_本当の最終版_田中.docx』の地獄だ……)


 どこがどう修正されたのか差分も分からず、どれが本当に正しい最新版なのか当人すら把握できなくなり、最終的に古いファイルで先祖返りして大事故を起こすパターンの典型例である。


 アイザックは静かに立ち上がり、ルミナの机へと歩み寄った。


「ルミナさん。机の上がすごいことになっていますね」

「ひゃっ!? あ、アイザック先輩……!」

 ルミナは慌てて乱れた丸眼鏡を直すと、恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「す、すみません、散らかしちゃって……。昨日の夜、アイザック先輩に励ましてもらって、私、ずっと温めていた新しい防御魔法『風華結界』の改良に挑戦してみようと思ったんです」

「いい心がけですね。防御魔法のどの部分を改良しようとしているんですか?」

「詠唱時間です! 今の風華結界は、発動までにルーン文字を八十節も詠唱しなきゃいけなくて、実践だと魔物の牙が届く前に唱え終わらないんです。だから、魔力循環の経路を短縮して、詠唱時間を半分に縮める実験をしようと思って……」


 そこまで熱っぽく語ったルミナだったが、ふっと表情を曇らせ、机の上の写本の山を見つめた。


「でも……中央の【原典大魔導書】に直接書くのは、昨日の事故のことがあって絶対に怖くてできません。だから、羊皮紙に何冊も写本を作って実験しようとしたんですけど……どれにどの術式を書いたか分からなくなっちゃって……」


 ルミナはしょんぼりと肩を落とした。

「それに、手元の写本でどれだけ実験しても、最後は中央大魔導書に反映しないと王国の魔導具には届きません。もし、私の書いた新呪文のせいで、また魔力炉が暴走したらどうしようって思ったら……怖くて、ペンが震えて止まっちゃうんです……」


 失敗の恐怖。

 そして、手作業による複製管理の限界。


 アイザックは優しく頷いた。

「ルミナさんの恐怖は、極めて正常な感覚です。安全な実験場も隔離された空間もないのに『度胸で本番に書き込め』と強要する方が、狂気の沙汰なんですから」


「え……?」

 ルミナが不思議そうに顔を上げる。


「失敗を恐れてペンが止まるのは、あなたの度胸が足りないからじゃありません。『失敗しても安全な仕組み』が存在しないことが原因です」


 アイザックは胸ポケットから、あの黒革の手帳『クロノス・ターミナル』を取り出した。


「ルミナさん。昨日、僕がバルカス室長に言った言葉を覚えていますか? 『どれだけ失敗して大爆発させても、本番には傷一つ付かない平行世界を作る』と」

「は、はい……! 覚えてますけど……本当にそんな神話みたいなことができるんですか……?」


「できますよ。――これより、あなた専用の【平行思考枝(ブランチ)】を切り出します」


 アイザックが手帳を開き、白紙の頁に指先で魔力を走らせた。


「中央大魔導書の本流……いわば幹となる【本流(メイン)】の最新状態を起点とし、ルミナさんの魔力波長を認識……」


 手帳の紙面に、光のルーンがさらさらと自動記述されていく。

 『git checkout -b feature/wind-barrier-opt』。


「――顕現せよ、【平行思考枝(ブランチ)】」


 フッ、と室内の空気が澄み渡るような音がした。

 中央の原典大魔導書から、淡いエメラルドグリーンの光のツルが一本、空中に向かってスルスルと伸びていく。

 そして、その光の枝の先端に――ルミナの机の真上に、本物の大魔導書と寸分違わぬ、半透明の光り輝く仮想魔導書がフワリと実体化した。


「わぁぁっ……! ま、魔導書が宙に浮いて……!?」

 ルミナが目を丸くして息を呑む。

 周囲の魔導士たちも「なんだあれは!?」「幻影魔法か!?」とざわめき出した。


「幻影ではありません。これは、本流の大魔導書から時空的に枝分かれした、『あなただけの仮想魔導書』です」

 アイザックは仮想魔導書の表紙を指し示した。


「この枝の名前は『風華結界・詠唱短縮の枝(feature/wind-barrier-opt)』。この魔導書の中には、現在の中央大魔導書のすべての術式が完全に複製されています。ですが、ここであなたがどれだけ文字を書き換えようが、ページを破り捨てようが、魔力を暴走させて爆発させようが――『本流の中央大魔導書には、傷一つ付きません』」


「え……? ほ、本当に……?」

 ルミナはおずおずと羽根ペンを握り、仮想魔導書に近づいた。


「嘘だと思うなら、試してみるといいですよ。思いっきり危険な術式を書いて、暴走させてごらんなさい」

「えっ、そ、そんなの怖いです……!」

「大丈夫です。僕が保証します」


 アイザックの静かで確信に満ちた笑顔に背中を押され、ルミナは意を決して仮想魔導書を開いた。

 第七章三十四ページ。昨日復旧したばかりの、整った街灯制御式の隣の余白。


 ルミナは震える手で、あえて極端に魔力循環を圧縮した、危険な短縮詠唱式を書き殴った。

 そして、指先から魔力を流し込む。


 瞬間――

 仮想魔導書の回路が赤く発光し、許容量を超えた魔力が激しくスパークした。


『――ボフッッ!!』


 手元で小さな黒煙が上がり、焦げた匂いが漂う。

 ルミナは「きゃあっ!」と悲鳴を上げて頭を抱え、床にしゃがみ込んだ。


「ご、ごめんなさい! 大魔導書を壊しちゃいました……! また街灯が爆発しちゃう……!」

 涙目で怯えるルミナ。


 だが。

 何秒待っても、天井の警鐘水晶は鳴らなかった。

 赤黒い警告の光も点滅しない。


「ルミナさん。顔を上げてください」

 アイザックの声に、ルミナがおずおずと顔を上げる。


 部屋の中央に鎮座する【原典大魔導書】は、穏やかな緑色の光を放ったまま、何事もなかったかのように静まり返っていた。

 王都の街灯も、魔導院の魔力炉も、微動だにしていない。


「あ……れ……? なにも……起きてない……?」

「ええ。爆発したのは、あなたの目の前の『枝』の中だけです。本流(メイン)には何の影響も及んでいません」


 アイザックは手帳をトンと軽く叩いた。

 すると、ルミナの手元で黒焦げになっていた仮想魔導書のページが、瞬時にツルリと新品のように修復された。


「枝の中で失敗したら、直前の状態に戻すのも一瞬です。……どうですか、ルミナさん?」


 ルミナは自分の両手を見つめ、それから目の前に浮かぶ美しいエメラルドグリーンの仮想魔導書を見上げた。


 失敗しても、誰も怒らない。

 失敗しても、誰も傷つかない。

 王都を火の海にする恐怖も、大切な呪文を消してしまう不安も、ここには何一つ存在しない。


「……すごい……」

 ルミナの唇から、震えるような感嘆が漏れた。


「すごい……! 私、どんなに失敗してもいいんだ……! 思いついたアイデアを、全部ここで試していいんだ……!」


「そうです。優れた術式を探求する者に真に必要なのは、失敗を恐れない自由な試行錯誤です。さあ、思う存分実験してください」


 アイザックが微笑むと、ルミナの表情から一切の迷いが消え去った。


 少女の細い指先が、目にも留まらぬ速さで羽根ペンを走らせ始める。

 八十節あった詠唱を、六十節へ。

 魔力の結節点を組み替え、冗長な数式を削ぎ落とし、四十五節へ。

 途中で回路がショートして三度ほど煙を噴いたが、ルミナはもう怯えなかった。楽しそうに笑いながら、手元の仮想魔導書を巻き戻し、次の改善策を試していく。


(……素晴らしい集中力だ)

 アイザックは目を細めてその光景を見守った。

 前世でもそうだった。優秀な若手エンジニアに最も必要なのは、細かい指示ではなく「壊しても絶対に大丈夫な検証環境(サンドボックス)」と、心理的安全性なのだ。


「あ、あの……アイザック先輩……」


 ふと、隣から恐る恐るといった様子で声がかかった。

 振り返ると、同僚の若手魔導士――テオが、目を輝かせながら立っていた。

 真面目で大人しい性格だが、基礎研究が好きな二十歳前後の青年だ。


「テオくん、どうしました?」

「お、俺にも……その【平行思考枝(ブランチ)】というやつを、使わせてもらえないでしょうか……!? 俺、ずっと『火炎球の魔力消費を半分に抑える術式』のアイデアがあったんです! でも、もし失敗したらバルカス室長に怒鳴られると思って、ずっと試せなくて……!」


「もちろんですよ、テオくん」

 アイザックは快く頷き、手帳を構えた。


「テオくん専用の枝を作りましょう。手帳の登録名は『火炎球・低燃費化の枝(feature/fireball-eco)』。ルミナさんの枝とは完全に独立していますから、お互いの実験が混ざることもありません」


「あ、ありがとうございます……!!」

 テオの机の上にも、淡い紅蓮の光をまとった仮想魔導書が実体化した。

 テオは感激した様子でペンを走らせ始める。


 それを見ていた他の若手魔導士たちも、堰を切ったようにアイザックの元へと集まってきた。

「アイザック先輩! 俺にも枝をください!」

「私にも! 治癒魔法の詠唱速度を上げたいんです!」

「僕もずっと試したかった式があるんです!」


「はいはい、順番に思考枝(ブランチ)を切り出しますから並んでください」


 編纂室の中が、かつてない熱気と活気に包まれていく。

 部屋の隅で、煙管をくわえたバルカスだけが「チッ……小賢しい真似を……」と忌々しそうに舌打ちしていたが、若手たちの目の輝きを止めることは誰にもできなかった。


 ――それから、わずか数時間後のことだった。


「アイザック先輩! できました! 完成しました!!」

 ルミナが机を蹴らんばかりの勢いで立ち上がり、両手を上げて歓声を上げた。


 彼女の目の前の仮想魔導書には、美しく整えられた幾何学陣が描かれていた。

 八十節あった風華結界の詠唱は、わずか四十節――従来の半分の時間で展開できる、驚異的な新術式へと進化を遂げていた。


「俺の方もできました!」

 テオも興奮冷めやらぬ様子で駆け寄ってくる。

「火炎球の燃焼触媒の循環式を改善して、威力を落とさずに魔力消費を三割カットできました!」


「二人とも、素晴らしい成果ですね」

 アイザックは心から拍手を送った。

 わずか半日で、現場の若手二人がそれぞれ国家級の改善術式を作り上げたのだ。ブランチによる並行開発の威力は絶大だった。


「アイザック先輩! この素晴らしい二つの呪文を、中央の【原典大魔導書】に合体させてください!」

「俺の火炎球も、本流に合流させて王国全土で使えるようにしたいです!」

 満面の笑みを浮かべるルミナとテオ。


「分かりました。それぞれの枝の成果を、本流へと統合……【術式統合(マージ)】を行いましょう」


 アイザックは手帳を中央大魔導書に向け、二人の仮想魔導書から光の糸を手繰り寄せた。


「まずは、ルミナさんの『風華結界短縮の枝』を本流へ統合……」

 スッと、エメラルドグリーンの光が中央大魔導書へと吸い込まれ、第七章にルミナの新術式が美しく刻印された。

 マージ成功。何の問題もない。


「よし、次はテオくんの『火炎球低燃費化の枝』を本流へ統合――」


 その瞬間だった。


『――バチバチバチバチッッッ!!』


 空間を切り裂くような、激しい紫電が宙を走った。

 中央大魔導書がガタガタと激しく震え、ページが何かに噛み合わない歯車のように激しく痙攣し、ピタリと硬直した。


「ひゃあっ!?」

「うわっ、なんだ!?」

 ルミナとテオが飛び退く。


 見れば、開かれた中央大魔導書の第七章三十四ページ――王国魔法の心臓部である【共通魔力励起循環節】の上に、見たこともない禍々しい赤紫色の魔力文字が、刻み込まれていた。


――――――――――――――――

<<<<<<< HEAD (本流:ルミナが高速展開用に書き換えた共通循環節)

 魔力励起循環節・風華流動式第七項(流速三倍加速)

=======

 魔力励起循環節・火炎凝縮式第七項(熱量圧縮優先)

>>>>>>> feature/fireball-eco (テオが燃費向上用に書き換えた共通循環節)

――――――――――――――――


「な、なんですかこれぇぇぇっ!?」

 ルミナが悲鳴を上げた。


「呪文のページが真っ二つに裂けて、変な矢印と横線で固まっちゃいました……! あ、アイザック先輩、魔導書が呪われちゃいました!!」

「お、俺のせいです……! 俺が変な呪文を合体させようとしたから、大魔導書を壊しちゃったんだ……!」

 テオが真っ青になって頭を抱える。


 その光景を見て、部屋の奥からバルカス室長が下卑た笑い声を響かせた。

「がっはっは! それ見たことか! 平行世界などと調子に乗るから、術式同士が喧嘩して魔導書が死んだわ! これだから青二才の小細工は使い物にならんのじゃ!」


 絶望に染まる編纂室。

 だが、その混沌の真ん中で――アイザックだけは、懐かしそうに口元を綻ばせていた。


(……ふっ。来ると思ったよ。風魔法と火魔法で別々に見えても、どちらも根底では同じ『共通モジュール』を呼び出しているんだからな)


 アイザックは黒革の手帳を優雅に構え直し、パニックに陥る二人の若手魔導士へ、穏やかに語りかけた。


「安心してください。呪われてもいませんし、壊れてもいません。これは――複数の人間が同じ魔導書を同時に進化させようとした時に必ず訪れる、祝福の関門ですよ」


「しゅ、祝福……!?」


「ええ。――これより、【術式干渉(コンフリクト)】の解消作業を開始します」

◆【今話のITまめ知識:なぜエンジニアは「ブランチ(Branch)」を切るのか?】


第3話で登場した「ブランチ(Branch=枝)」。

Gitが世界中の開発現場で圧倒的に愛されている最大の理由が、この機能にあります。


◆1.ブランチがない世界の恐怖

もしブランチがなかったら、1本のプログラム(本番環境)をチーム全員で直接編集することになります。

これでは「誰かが実験中にバグを出した瞬間、チーム全員の開発が止まり、本番サービスも停止する」という地獄絵図になります。


◆2.ブランチは「安全な実験用コピー」

そこで、本流(『main』 や 『master』 と呼ばれます)から自分専用の枝(ブランチ)を伸ばします。

ブランチの中は完全に独立しているため、どれだけ無茶なコードを書いて壊しても、本流には傷一つ付きません。

納得がいくまで何千回でも安全に試行錯誤できるのです。


◆3.「心理的安全性」がチームを救う

作中のルミナのように、「失敗したら怒られる、システムを壊してしまう」という恐怖があると、エンジニアは新しい挑戦ができなくなります。

「いくら失敗しても安全に元に戻せる」という仕組み(ブランチ)があるからこそ、人は思い切ったイノベーションを起こせるのです!

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