メメント・モリ、メメント・ドミニ
目が覚めたら病院のベッドだった。
やたらと頭が痛むことを気にしながら、朝臣は直近の記憶を紐解く。
確か、銀行の駐車場。アクセルとブレーキを踏み間違えた高齢ドライバー。
猛突進してきた自動車の進行方向から、慌てて逃れたはず。
その時に足がもつれて、倒れ込んだ拍子に、フェンスの柱へ頭をゴツンとやってしまった、と思う。
打ちどころが悪かったのか、勢いがあり過ぎてしまったのか。
意識を失い、救急搬送されたのだった。
「やれやれ、一時はどうなることかと。余分に〈天命〉を持ってて良かった」
そんな彼のベッド脇に、在るはずがない、在ってはならないものがいた。
全身もれなく真っ白なガイコツ。
身に纏うのは真っ黒なローブだけ。
何という、古典的な、クラシカルな姿だろう。
「…………ぎゃあ」
理性が制動をかけて、短い悲鳴を上げるに済んだ。
「ん? 朝臣、まさか。とうとうわたしが視えるようになったのか」
「一応驚いちゃったけど、えっと、何だよアンタ」
「見ての通り、わたしは死神。命を運ぶものさ」
なるほど、なるほど。と、朝臣は頷いて、自分の正気を疑った。
病院のベッドで起きたら、死神に遭った。
夢か? 幻覚か?
頭を打った拍子に、脳機能のどこかがイカれてしまったのか。
怖ろしい想像に、朝臣の背を冷たい汗がつたった。
「ア、アジャラカモクレン、キュウライス……」
「そんな架空の呪文が効くと思うな、どアホ。わたしを追い返そうだなんて失礼だぞ」
「す、すみません……殺さないでください」
落語の知識は無効だった。
命乞いをする彼へ、死神は「そんなことするもんか」と、優しい声音で安全を保証してくる。骨ばかりなのに声がするとは、これいかに。どんな仕組みだ。
「わたしはね、朝臣、おまえの名付け親でもあるのだよ」
「何だって? じゃあ、アンタがこんな古めかしくも雅やかな、似合わない名前を俺につけたのか」
「そんなこと言うな。似合わないなんてことない」
「学生時代、しょっちゅう揶揄われたんだぞ。おじゃるとかアソンとか呼ばれた」
「ああ。それは知ってる。おまえのそばでずっと見てきたからな」
死神の発言に思考が止まる。そばで? ずっと?
守護霊気取りなのだろうか。事実だとしたら、ゾッとする。
「おまえの恥ずかしい秘密も全て承知しているよ」
「やめてくれマジで。悪い夢なら、覚めてくれ」
「安心しろ。誰にも言わないから。おまえの父親とわたしは古馴染みでね、ぜひ名付けてほしいというから、そうしてやったのだ」
「そんな話、聞いたことねえよ……」
「信じてもらえると思わなかったのだろうな。面白い男だったよ」
聞いてもいないのに語り出す死神。
朝臣は周囲を見渡すと、幸いにも病室には他に誰もいない。
「おまえの〈天命〉もまた尽きるところだった」
「テンメイって? 余命? 寿命?」
「寿命というと、かなり違うな。それはおまえたちにとって、肉体の経年・加齢によって達する、生命活動のおおよその物質的強度の限界を、計算しようとするものだろう」
「じゃあ何なんだ」
「ふむ……〈天命〉が尽きた時、生物は死ぬ。だがそれは必ずしも、その個体の限界、余命に達する時に一致するとは限らない。肉体の生命力との関わりはないのだ。急病の発作、事故、他殺、不審死など……〈天命〉の終わりは、そういった死に方をする例ばかりだな」
「それって、何ていうか……運が悪い、っていうものか?」
「うむ、さよう。〈天命〉とは、実質上、生き死にについての命運を左右するものだと言って良い。この星の有機生命体は皆、その身の内に〈天命〉を宿す。その残量の多寡によって、生存し得る刻限が定められるのさ」
死神は余分な〈天命〉を生者死者から収穫してまわり、地球の大気や海中に還元する役割を担う、という。科学的に未観測の存在である〈天命〉は、地球という一つの生命体の分泌物が元になっているのではないか、とも。
生物は、自発呼吸によって〈天命〉を体内へ取り込み、常におのれの持ち分に足して補いつつ、その量を増減させている、とのことだ。
「じゃあ俺は死ぬはずだったんじゃないのか」
「うむ。頭を打って死にかけていた。だからわたしが、手持ちの〈天命〉におまえのを差し替えた」
言うやいなや、死神の白骨の手が朝臣の腹にズボッと突き込まれる。
悲鳴を上げる間もなく、ヌバッと取り出されたのは、火のともったロウソクだった。
「ロウソクに視えるだろう? わたしにとっては異なる見た目だが」
「えーっと……」
「恩に着るがいい。おかげで素寒貧だが、せがれが早死にするのを防げて良かった」
またズボッとロウソクを返品する死神にビックリしつつ、朝臣は礼儀として一応、感謝を述べた。どうやら命の恩人でもあるらしいから。
「……ありがとうございます」
「うむ。しばらく安静にしたら、元気に生きてゆきたまえ。今後も見守っててやるからな」
それは正直に言って勘弁してほしいところだった。
だが、死神は言った通り、その後の朝臣の人生を至近距離で眺め続けた。
当時二十九歳、独身のサラリーマンだった朝臣は、当初、死神の存在を疎ましく、煙たがりながら、生活を続けた。
しかしながら、つかず離れず、ときにコッソリ助言をくれたり。
悩みを抱えたら、一緒に解決策を考えてくれたり。
彼の行く末を案じてか、やたらと心配してきたり。
死神の名付け親は、親心で彼に接し続けてくれた。
朝臣にだけ視える、秘密の友人のようであった。
死神の強い勧めに根負けして、渋々婚活をし、可もなく不可もない、つり合った相手と巡り合って、籍を入れた。
つつましい暮らしを心がけ、産まれた子どもたちに愛情をそそいだ。
やがて年月が過ぎ、子らが親離れして自立していくのを見送る。
それぞれが家庭を持ち、また新たに営みを育んでゆくのを、老いぼれながら朝臣は見守った。
彼のそばから、ついぞ死神は離れなかった。
親離れ、子離れできてないのは俺たちだけかと、朝臣は冗談ぶって笑った。
「何か言い遺すことはあるかね」
今際の際、死神は、ついにその命を閉じゆくせがれに問うた。
「……アンタのおかげでしあわせだったよ」
「おいおいおい、泣かせてくれるじゃないか。わたしに涙腺とかないが。スカルジョ」
「それいじょういわんでいい。むぎわらかいぞくだんにはりあうな」
「わっはっは。じゃあな、朝臣。わたしのせがれや」
「ありがとう、ととさん」
事切れた老体を前にして、死神は長い間、微動だにせず、顔を眺め続けた。
「……やれやれ。いい人生を送れたようで何よりだった。さてと」
死神の目前から、朝臣老人の遺体が忽然と消失した。
と思うと、死神のガイコツ姿が、今しがた旅立ったばかりの男のものにすげ変わっている。
「ようやく本当の意味で、わたしのものになったな。朝臣、せがれや」
コキコキと首を鳴らした途端に、その姿が若々しいものへと逆行する。
髪の抜けきった皺くちゃだったのが、全身に活力みなぎる、青少年へ。
「うん。これくらいの歳頃がちょうどいいだろ。ま、気分で時々、着替えるとするかね。某ゲーム風に言うなら、霊基再臨? みたいな。違うか」
死神はついに、朝臣の全てをおのれのものとした。
死んだ彼のパーソナリティ、記憶、知識、考え方、遺伝情報、身体のつくり。豊富な幸福、豊富な経歴。
今やそれらは全て、名付け親の手中に在る。
律儀に臨終まで待った甲斐があった。
名付けるということは、対象の主となるということ。
名前を付けた相手に対し、全てを掌握する支配権を持つこと。
死神ははじめからこうするために、ずっと朝臣に引っ付いていたのだ。
事故で死にかけた後、姿が視られるようになってからは特に、自分の言いつけを破らせるようなことのないよう、極力気を配ってきた。
もし一度でも歯向かわれていたら、失敗に終わったことだろう。
ずっと、友好的に接してきてくれて良かった。
本当に、朝臣はいい子だった。
「さあて、何して暮らそうかなあ」
死神の機能を持ち得たまま、朝臣という男を流用し、その存在は人混みに紛れていってしまった。
〈終〉




