買春
試し読みにどうぞ。
午後六時。
仕事を終え、都会の雑踏に紛れ込む。
黒いパンツスーツとベージュのカットソーに身を包み、ローヒールのパンプスで足早に駅へと急いだ。
コインロッカーを開け、中身を取り出し、私は駅のトイレへと駆け込む。
個室で服を着替え、鏡の前に立った。
眼鏡を外し、コンタクトに変えた。
後ろに一つにまとめていた髪を解くと、ふわっとほのかにシャンプーの香りがした。
携帯用のアイロンで、毛先にカールをかけていく。
両耳の後ろにコロンを重ねた。
濃く甘い香りが、狭い空間に立ち込めた。
化粧は程々で良い。
ただ、アイラインと唇の色はさらに濃く塗りつぶした方がよく目立つ。
リップグロスで光らせた唇の上下を何度か合わせて、色を馴染ませた。
鏡に映る目の前の彼女は、妖艶な笑顔でこちらを微笑む。
腕にかけていた大きなトートバッグを紙袋に押し込み、代わりに小さなショルダーバッグを取り出す。
そのショルダーバッグに入れるのは携帯電話と、口紅、そして昨日買い足した煙草だけで良い。
カチッと留め具がはまる音がした。
その瞬間に、スイッチが入る。
残りの荷物は、コインロッカーに再び置いて、私はある場所へと向かった。
ハイヒールがコンクリートを蹴る音が小気味よく響く。
ミニスカートの肌寒さも、しばらく歩けば忘れてしまうだろう。
安っぽいネオンに彩られた道沿いに、携帯電話を眺めながら、声をかけられるのを待つ女たちが並ぶあの場所に。
適当に画面をスクロールしていると、目の前が薄暗くなった。
「いくら?」
顔を上げると、男が立っていた。
帽子を被っていて顔はよく見えない。
しかし、それは互いにとって好都合である。
「プチなら五千円。本番、ゴムありなら一万円」
——安すぎる、と思ったのだろう。
案の定、男の動きが一瞬止まり、目を見開いた。
しかし、すぐに手でポケットをまさぐり、万札を取り出した。
それを受け取る時、先週末に替えたばかりのジェルネイルが、艶やかに光った。
鞄の留め具をはめると、顔を上げて、男に向かってにっこりと微笑んだ。
つばで隠された男の目線が、執拗に私の身体の線をなぞる。
私たちは、ゆっくり歩き出した。
ここから一番近い、安っぽいネオンで飾られた、巨大な箱の中に向かって。
「ねぇ……意外と良いところの子でしょ」
私が紙煙草にライターで火をつけると、隣で寝そべる男が話しかけてきた。
男は私の答えなど待たず、一人で勝手に喋り続けた。
「手首とかに傷ないし、愛想はあんまりないけど、言葉遣いはそう悪くない。持っている物も、一級品だよね」
男の頭の中で繰り広げられる妄想に付き合うことは、料金に入っていない。
肺に重たく溜まった煙を吐き出すと、ようやく呼吸がしやすくなった。
「ねぇ、なんであんなところに立っているの?」
ふぅっと白い煙を男の方に向かって吐き出した。
男がしかめ面をして、その煙を手で散らした。
「それを知って、どうするの?」
男が軽くせき込みながら答えた。
「……珍しいなぁと思って。君さえよければ今後もまた会っても良いよ。いつも違う相手だとリスクもあるだろうし」
――くだらない。
こういうところで、分かったような態度とか、勘違いした優しさを見せたりしてくるところとか。
未だ半分くらい紙煙草は残っていたが、灰皿に火のついた先端を、力いっぱい押し当てた。
「ここだけの関係の方が、お互いにとって幸せですよね」
私は立ち上がり、床に散らばった下着を手に取った。
男のため息が、背後から聞こえた。
今年の夏のボーナスで買ったカルティエの時計を手に取る。
退室時間まで、あと十分。
ワンピースを頭から被る時、男の上半身が見えた。
三十代前後の、よく引き締まった身体の上に、割と整った横顔が付いている。
案外滑らかな肌質だった。
髪は黒く、ピアスもタトゥーも無い。
昼は、身体の線に沿ったオーダーメイドのスーツが良く似合っていそうだ。
――私と同じように。
私は、あの男の上に乗った。
上から眺めた時、あの男の表情は、ひどく歪んで醜かった。
たった一万円で欲望を剝き出しにしている姿はあまりに滑稽で、それを目の当たりにした時、私は果てた。
けれど、それは快楽ではなく、嘲笑に近かった。
――そして、どこかで見慣れたものを見るような感覚でもあった。
その時の光景を思い出すと、吹き出しそうになる。
それをごまかすために、軽く咳払いをして、出入り口へと向かった。
もう一人くらい客を待とうかとも考え、先ほどの通りへと足早に歩いた。
互いの存在を無いかのように扱いながら、横に並ぶ女たちの列は異様な空気を漂わせていた。
列を成すメンバーは、最初に到着した頃とはほぼ異なっている。
しかし、その中に入ってしまえば、無意識の連帯感すらあり、妙な安堵感もある。
私はいつもの場所へと立ち、スマホの画面を覗いた。
SNSの通知件数が画面に表示されている。
そこをタップすると、一番上に、メッセージの送信者の名前がのぼった。
思わず顔をしかめる。
「来週は帰ってくる?お父さんのお祝いもあるから。あとで電話ちょうだい」
私はSNSの画面を上に向かってスワイプし、スマホをショルダーバッグにしまった。
少し乱れた髪を後ろに束ね、私は来た道へと戻った。
「おはようございます」
オフィスに到着すると、未だ他の社員はほとんど来ていない。
上司が少し離れた場所で、パソコンを眺めている。
「おはよう……今日も早いね」
「部長こそ、いつもお早いですよね。お疲れ様です」
「君くらいだよ。こんな朝早くから仕事して、成績もいつも上位。皆にも見習ってほしいなぁ。俺の若かったころは……」
レンズ越しに満足げに笑う上司が見える。
何度も聞いた昔話なので、内容を聞いていなくても、いつ相槌を打てば良いか、いつ褒めそやせばいいか、よく把握している。
ひとしきり話し終わると、上司がコーヒーカップを持って立ち上がり、私の背後へと近づく。
一瞬暗転した画面に、彼の手が私の左肩に置かれたのが映った。
左肩を何度か揉んだ後、ポン、と叩いて上司は給湯室へと向かう。
姿が見えなくなったところで、誰にも気づかれないように、左肩を手で何度か拭った。
ふと、昨晩の男の手の感触を思い出す。
その不快感は、よく似ていながら、どこか違っていた。
午前中の打ち合わせをすべて終え、昼休みになった。
女子トイレから出て、社員食堂へ向かうため、給湯室の前を通ろうとした時だった。
男性同士の会話が聞こえてきた。
「今日の打ち合わせ、どうだった?」
「あの人がプロジェクトリーダーのやつね。T大出身で、頭良いのは分かるんだけど、なんかなぁ。とっつきにくいんだよな。あんまり頭良いと、それはそれで考えものだよね」
「分かる分かる。女はそこそこであるほうが丁度良いんだよな……どうせ途中で育休と時短で、出世できないんだし」
軽い笑い声と、次々に代わっていく話題の中で、こだまする彼らの言葉。
私は、どうしても給湯室の前を横切ることはできなかった。
無意識に食いしばっていた奥歯の力を抜き、気が付けば、食堂とは反対方向に踵を返していた。
午後6時。
今日もこの時間にパソコンのブラウザを閉じることができた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
残る職員たちに笑顔を振りまき、職場を後にする。
会社の外に出て、スマホを確認した。
SNSのアプリケーションを開き、急いで文字を打ち込む。
「お父さんの社長就任祝い、仕事で行けそうにないけど、埋め合わせします。また帰れそうな日を連絡します」
『良い娘』の私として、送信ボタンを押した。
しばらくは、母から連絡は来ないだろう。
すぐにスマホを閉じた。
今日も私は、街に立つ。
「いくら?」
そう聞かれたら、今日はこう答えよう。
「プチは3000円、本番はゴムありで5000円」と。
どうせ中身は変わらない。
声をかけてくる男も、私も――。
私は、買っている。
男の底の浅さを、特等席で眺めるために。




