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買春

作者: 佳紘
掲載日:2026/05/03

試し読みにどうぞ。



午後六時。




仕事を終え、都会の雑踏に紛れ込む。




黒いパンツスーツとベージュのカットソーに身を包み、ローヒールのパンプスで足早に駅へと急いだ。




コインロッカーを開け、中身を取り出し、私は駅のトイレへと駆け込む。




個室で服を着替え、鏡の前に立った。




眼鏡を外し、コンタクトに変えた。




後ろに一つにまとめていた髪を解くと、ふわっとほのかにシャンプーの香りがした。




携帯用のアイロンで、毛先にカールをかけていく。




両耳の後ろにコロンを重ねた。




濃く甘い香りが、狭い空間に立ち込めた。




化粧は程々で良い。




ただ、アイラインと唇の色はさらに濃く塗りつぶした方がよく目立つ。




リップグロスで光らせた唇の上下を何度か合わせて、色を馴染ませた。




鏡に映る目の前の彼女は、妖艶な笑顔でこちらを微笑む。




腕にかけていた大きなトートバッグを紙袋に押し込み、代わりに小さなショルダーバッグを取り出す。




そのショルダーバッグに入れるのは携帯電話と、口紅、そして昨日買い足した煙草だけで良い。




カチッと留め具がはまる音がした。




その瞬間に、スイッチが入る。




残りの荷物は、コインロッカーに再び置いて、私はある場所へと向かった。




ハイヒールがコンクリートを蹴る音が小気味よく響く。




ミニスカートの肌寒さも、しばらく歩けば忘れてしまうだろう。




安っぽいネオンに彩られた道沿いに、携帯電話を眺めながら、声をかけられるのを待つ女たちが並ぶあの場所に。









適当に画面をスクロールしていると、目の前が薄暗くなった。




「いくら?」




顔を上げると、男が立っていた。




帽子を被っていて顔はよく見えない。




しかし、それは互いにとって好都合である。




「プチなら五千円。本番、ゴムありなら一万円」




——安すぎる、と思ったのだろう。




案の定、男の動きが一瞬止まり、目を見開いた。




しかし、すぐに手でポケットをまさぐり、万札を取り出した。




それを受け取る時、先週末に替えたばかりのジェルネイルが、艶やかに光った。




鞄の留め具をはめると、顔を上げて、男に向かってにっこりと微笑んだ。




つばで隠された男の目線が、執拗に私の身体の線をなぞる。




私たちは、ゆっくり歩き出した。




ここから一番近い、安っぽいネオンで飾られた、巨大な箱の中に向かって。









「ねぇ……意外と良いところの子でしょ」




私が紙煙草にライターで火をつけると、隣で寝そべる男が話しかけてきた。




男は私の答えなど待たず、一人で勝手に喋り続けた。




「手首とかに傷ないし、愛想はあんまりないけど、言葉遣いはそう悪くない。持っている物も、一級品だよね」




男の頭の中で繰り広げられる妄想に付き合うことは、料金に入っていない。




肺に重たく溜まった煙を吐き出すと、ようやく呼吸がしやすくなった。




「ねぇ、なんであんなところに立っているの?」




ふぅっと白い煙を男の方に向かって吐き出した。




男がしかめ面をして、その煙を手で散らした。




「それを知って、どうするの?」




男が軽くせき込みながら答えた。




「……珍しいなぁと思って。君さえよければ今後もまた会っても良いよ。いつも違う相手だとリスクもあるだろうし」




――くだらない。




こういうところで、分かったような態度とか、勘違いした優しさを見せたりしてくるところとか。




未だ半分くらい紙煙草は残っていたが、灰皿に火のついた先端を、力いっぱい押し当てた。




「ここだけの関係の方が、お互いにとって幸せですよね」




私は立ち上がり、床に散らばった下着を手に取った。




男のため息が、背後から聞こえた。




今年の夏のボーナスで買ったカルティエの時計を手に取る。




退室時間まで、あと十分。




ワンピースを頭から被る時、男の上半身が見えた。




三十代前後の、よく引き締まった身体の上に、割と整った横顔が付いている。




案外滑らかな肌質だった。




髪は黒く、ピアスもタトゥーも無い。




昼は、身体の線に沿ったオーダーメイドのスーツが良く似合っていそうだ。




――私と同じように。




私は、あの男の上に乗った。




上から眺めた時、あの男の表情は、ひどく歪んで醜かった。




たった一万円で欲望を剝き出しにしている姿はあまりに滑稽で、それを目の当たりにした時、私は果てた。




けれど、それは快楽ではなく、嘲笑に近かった。




――そして、どこかで見慣れたものを見るような感覚でもあった。




その時の光景を思い出すと、吹き出しそうになる。




それをごまかすために、軽く咳払いをして、出入り口へと向かった。








もう一人くらい客を待とうかとも考え、先ほどの通りへと足早に歩いた。




互いの存在を無いかのように扱いながら、横に並ぶ女たちの列は異様な空気を漂わせていた。




列を成すメンバーは、最初に到着した頃とはほぼ異なっている。




しかし、その中に入ってしまえば、無意識の連帯感すらあり、妙な安堵感もある。




私はいつもの場所へと立ち、スマホの画面を覗いた。




SNSの通知件数が画面に表示されている。




そこをタップすると、一番上に、メッセージの送信者の名前がのぼった。




思わず顔をしかめる。




「来週は帰ってくる?お父さんのお祝いもあるから。あとで電話ちょうだい」




私はSNSの画面を上に向かってスワイプし、スマホをショルダーバッグにしまった。




少し乱れた髪を後ろに束ね、私は来た道へと戻った。









「おはようございます」




オフィスに到着すると、未だ他の社員はほとんど来ていない。




上司が少し離れた場所で、パソコンを眺めている。




「おはよう……今日も早いね」




「部長こそ、いつもお早いですよね。お疲れ様です」




「君くらいだよ。こんな朝早くから仕事して、成績もいつも上位。皆にも見習ってほしいなぁ。俺の若かったころは……」




レンズ越しに満足げに笑う上司が見える。




何度も聞いた昔話なので、内容を聞いていなくても、いつ相槌を打てば良いか、いつ褒めそやせばいいか、よく把握している。




ひとしきり話し終わると、上司がコーヒーカップを持って立ち上がり、私の背後へと近づく。




一瞬暗転した画面に、彼の手が私の左肩に置かれたのが映った。




左肩を何度か揉んだ後、ポン、と叩いて上司は給湯室へと向かう。




姿が見えなくなったところで、誰にも気づかれないように、左肩を手で何度か拭った。




ふと、昨晩の男の手の感触を思い出す。




その不快感は、よく似ていながら、どこか違っていた。









午前中の打ち合わせをすべて終え、昼休みになった。




女子トイレから出て、社員食堂へ向かうため、給湯室の前を通ろうとした時だった。




男性同士の会話が聞こえてきた。




「今日の打ち合わせ、どうだった?」




「あの人がプロジェクトリーダーのやつね。T大出身で、頭良いのは分かるんだけど、なんかなぁ。とっつきにくいんだよな。あんまり頭良いと、それはそれで考えものだよね」




「分かる分かる。女はそこそこであるほうが丁度良いんだよな……どうせ途中で育休と時短で、出世できないんだし」




軽い笑い声と、次々に代わっていく話題の中で、こだまする彼らの言葉。




私は、どうしても給湯室の前を横切ることはできなかった。




無意識に食いしばっていた奥歯の力を抜き、気が付けば、食堂とは反対方向に踵を返していた。









午後6時。




今日もこの時間にパソコンのブラウザを閉じることができた。




「お疲れ様です。お先に失礼します」




残る職員たちに笑顔を振りまき、職場を後にする。




会社の外に出て、スマホを確認した。




SNSのアプリケーションを開き、急いで文字を打ち込む。




「お父さんの社長就任祝い、仕事で行けそうにないけど、埋め合わせします。また帰れそうな日を連絡します」




『良い娘』の私として、送信ボタンを押した。




しばらくは、母から連絡は来ないだろう。




すぐにスマホを閉じた。




今日も私は、街に立つ。




「いくら?」




そう聞かれたら、今日はこう答えよう。




「プチは3000円、本番はゴムありで5000円」と。




どうせ中身は変わらない。




声をかけてくる男も、私も――。




私は、買っている。




男の底の浅さを、特等席で眺めるために。

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