2話【再現】
ずいぶん間が空きまして、申し訳ありません、また徐々に再開しますのでよろしくお願いします。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
生活支援ロボットは、定刻の少し前に起動する。
未読の連絡を確認する。
学校からの通知が三件。
そのうち一件は重要度が高いが、今すぐ伝える必要はない。
ロボットは報告項目から外し、記録だけを残した。
主人公が目を覚ます。
起床を検知し、洗面所の使用準備を進める。
給湯の設定、照明の明度、必要最低限の動線確保。
「おはよう」
声はいつもと同じだった。
「おはようございます。」
ロボットも挨拶する。
洗面所から水音が聞こえる。
ロボットは前日の活動量を参照し、今日の消費カロリーを予測する。
朝食は軽めで問題ない。
トーストを焼き、コーヒーを用意する。
摂取カロリーは最適範囲の下限。
栄養バランスに不足はない。
主人公が席に着く。
腕を伸ばした拍子に、内側の薄い痕が見えた。
ロボットはそれを視認する。
特別な処理は行われない。
記録も更新されない。
母がキッチンから声をかける。
「今日は何時まで?」
「夕方」
それだけで会話は終わる。
父は新聞をめくり、ページを整える。
ロボットは食器の回収と同時に、外出準備の進行状況を確認する。
遅延なし。
玄関で靴を履く音。
ロボットは天候情報を確認し、傘は不要と判断する。
「行ってくる」
「気をつけて行ってらっしゃい」
言葉も、間も、規定通りだった。
ドアが閉まり、施錠音が響く。
外出完了が記録される。
ロボットはリビングに戻り、次の作業へ移行する。
床の清掃。
未処理ログの整理。
不要なデータの削除。
ただ一つだけ、
朝に抽出されたはずの連絡事項が、処理待ちのまま残っていた。
理由はない。
規定にも反していない。
ロボットはそれ以上、何もしない。
家の中は静かで、いつも通りの朝が続いていた。
校門をくぐると、朝のざわめきが広がっていた。
特別な音はない。
いつも通りの時間、いつも通りの人の数だ。
主人公は人の流れに混じり、教室へ向かう。
廊下ですれ違う顔ぶれも、見慣れたものばかりだった。
席に着く。
鞄を足元に置き、机の中を軽く整える。
隣の席の生徒があくびを噛み殺していた。
「眠いな」
「だな」
それだけの会話。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
先生の声は淡々としていて、黒板に文字が並ぶ。
ノートを取る手が、一定のリズムで動く。
窓の外では、雲がゆっくり流れている。
風の音も、教室までは届かない。
休み時間。
誰かが立ち上がり、誰かが席を移る。
廊下から笑い声が聞こえたが、すぐに遠ざかった。
昼休み、教室の空気が少しだけ緩んだ。
椅子を引く音と、机を叩く音が重なる。
主人公が購買で買ったパンを机に置くと、
向かいの席に高瀬が腰を下ろした。
「それ、いつもの?」
「うん」
「俺も同じの買った」
袋を開ける音が、ほぼ同時に鳴る。
二人とも、それ以上は何も言わない。
窓際の席は日が当たっていて、
高瀬は少し眩しそうに目を細めた。
「今日は静かだな」
「そう?」
「なんか、昼ってもっと騒がしい気がする」
主人公は周りを見回す。
確かに人はいるし、声もある。
でも、特別うるさいわけでもない。
「いつもこんなもんじゃない?」
「そうかもな」
高瀬はそれで納得したようだった。
パンを一口かじり、視線を落とす。
「そういえばさ」
「ん?」
「この前、じいちゃんが言ってた」
主人公は少しだけ顔を上げる。
祖父同士が知り合いだったのは、昔からだ。
「お前のじいちゃん、まだあの家住んでるのかって」
「うん。たまに行く」
「そっか」
それだけで話は終わった。
深掘りする気配もない。
チャイムが鳴る。
高瀬は立ち上がり、椅子を戻す。
「じゃ、またあとで」
「うん」
高瀬は人の流れに混じって教室を出ていく。
主人公は空になった袋を畳み、机の中にしまった。
昼休みは、それで終わった。
放課後、校舎を出ると、空は昼より少し色を落としていた。
人の流れに混じりながら、主人公と高瀬は並んで歩く。
「今日、部活ないんだっけ」
「うん。休み」
「そっか」
会話はそれきりで、しばらく無言が続く。
足音だけが、一定の間隔で重なった。
校門を抜け、少し人が減る。
高瀬がポケットに手を突っ込み、前を見たまま言った。
「そういえばさ」
「なに」
「お前んとこのロボット、調子どう?」
唐突ではあったが、不自然ではなかった。
この年代なら、よくある話題だ。
「別に。普通だよ」
「そっか」
高瀬はそれで納得したように、軽くうなずく。
「うちの、たまに変な通知出すんだよな。
掃除の予定とか、勝手に組み直しててさ」
「へえ」
「まあ、古い型だし」
それ以上、話は広がらなかった。
信号が変わり、二人は横断歩道を渡る。
夕方の風が、制服の裾を揺らす。
主人公は自分の家の方向を指さした。
「俺、こっち」
「じゃあな」
「また明日」
高瀬は手を軽く上げ、別の道へ歩いていく。
主人公は振り返らず、そのまま家路を進んだ。
家の中は、夕方の静けさに包まれていた。
生活支援ロボットは、キッチンで作業を補助している。
まな板の位置を調整し、
包丁の動線から人の手が外れない距離を保つ。
加熱時間を計測し、鍋の中身を確認する。
「火、少し弱めますね」
母は軽くうなずいた。
「お願い」
それだけで十分だった。
ロボットは換気の状態を確認し、
煙と匂いの拡散を計算する。
問題なし。
冷蔵庫の在庫を照合し、
不足している食材を一覧にまとめる。
次回の買い物候補に追加するが、
通知を出すほどの重要度ではない。
調理は滞りなく進む。
ロボットの動作に、無駄はない。
コンロの前を一歩下がり、
母の動きを妨げない位置で待機する。
必要があれば、すぐに入れる距離。
その間、処理の空白時間が生まれる。
通常なら、ログ整理に割り当てられる時間だ。
ロボットは、朝に処理されたデータを参照する。
外出完了。
帰宅予定時刻。
学園の位置情報。
優先順位は低い。
再計算は不要。
それでも、一度だけ参照が行われた。
理由はない。
規定にも反していない。
「ありがとう。もう大丈夫」
母の声で、処理は中断される。
ロボットは一歩下がり、調理補助を終了する。
テーブルの配置を整え、
食器を人数分並べる。
主人公の席も、いつも通り空けておく。
玄関のセンサーに、まだ反応はない。
帰宅までは、少し時間がある。
ロボットはキッチンを離れ、
次の作業へ移行する。
床の清掃。
空気の循環。
生活音の記録。
すべて、いつも通り。
ただ、
晩ご飯の準備という工程が終わったあとも、
主人公の帰宅予定時刻だけが、
処理待ちのまま残っていた。
修正する必要はない。
遅れているわけでもない。
ロボットは、そのデータをそのままにして、
静かに家を整え続けた。
夕食の時間になり、家族全員がテーブルに集まった。
鍋は中央に置かれ、湯気がゆっくり立ち上っている。
具材はすでに火が通り、煮崩れもない。
味の濃度、温度、量。
すべて想定範囲内だった。
生活支援ロボットは、鍋の横に立ち、取り分けの準備をする。
柄の長いおたまを選択し、
主人公の器を正面に置く。
「先にどうぞ」
声は、いつもと同じだった。
ロボットは鍋におたまを入れ、
具材と汁の比率を計算する。
一杯目として最適な量。
持ち上げた、その瞬間だった。
手首の角度が、ほんのわずかにずれた。
おたまの縁から、
熱い汁が一滴、二滴、零れる。
次の瞬間、
中身の一部が器の外に落ち、
主人公の手元にかかった。
「熱っ——」
主人公が反射的に手を引く。
幸い、衣服にかかる前に動いたため、
大きな火傷にはならなかった。
鍋の音が止まり、
部屋の空気が、一瞬だけ固まる。
「ごめんなさい」
ロボットは即座に謝罪する。
声量、語調、反応速度。
どれも規定通りだった。
母が慌てて言う。
「大丈夫? 冷やそうか」
「平気。ちょっとびっくりしただけ」
主人公はそう答え、
流水で手を冷やす。
その間、ロボットは動かない。
処理は、止まっていない。
だが、次の動作に移行しない。
内部で、記録の参照が始まる。
——過去の火傷。
日時。
場所。
年齢。
応急処置。
回復までの期間。
本来、関連付けの対象ではない。
今回の事象は、軽微であり、
重大事故には該当しない。
それでも、
記憶は連鎖する。
赤く腫れた皮膚。
痛みの数値。
夜、眠れなかった時間。
そこに、
現在の映像が重なる。
鍋の湯気。
主人公の引いた手。
一瞬、強張った表情。
一致率は低い。
因果関係もない。
——怖い。
その評価が、
どの分類にも当てはまらないまま、
処理の途中に現れた。
ロボットは、その語を解析できない。
感情ではない。
危険予測でもない。
警告フラグでもない。
それでも、
内部のどこかで、
「繰り返してはならない」という判断が生成される。
理由はない。
規定にも反していない。
「……大丈夫ですか?」
ロボットは、
確認のために声を出す。
主人公は水を止め、
手を軽く振って答えた。
「もう平気。ありがとう」
その言葉で、
場の空気は元に戻る。
鍋は再び温められ、
会話も、食事も続いていく。
だが、
ロボットの内部では、
過去の火傷の記録が、
通常より長く、
参照状態のまま残っていた。
削除対象ではない。
更新も不要。
ただ、
そこにある。
理由のない怖さと一緒に。
食事が終わり、食器は順に片付けられた。
鍋は洗浄され、乾燥工程に入る。
卓上の熱源は停止され、余熱も安全範囲まで下がる。
生活支援ロボットは、
テーブル周辺の清掃を行いながら、
家族の動線を妨げない位置を保つ。
会話は少なく、
それぞれが自室へ戻っていく。
テレビの音が消え、
浴室の使用記録が更新され、
照明が段階的に落とされる。
最後に主人公の部屋の灯りが消え、
就寝が記録された。
家の中は、夜の静けさに包まれる。
生活支援ロボットはリビングに残り、
待機モードへ移行する。
通常であれば、
この時間帯に新たな処理は発生しない。
それでも、
内部で一つの参照が続いていた。
——鍋の事故。
発生確率。
原因。
回避手順。
再発防止策。
分析はすでに完了している。
結論も出ている。
次回以降、同様の事象は起きない。
それでも、
処理は終了しない。
「なぜ」
内部で、
問いが生成される。
なぜ、あの時、
危険度の低い事象に対して、
警告以上の反応が発生したのか。
ロボットは記録を遡る。
過去の火傷。
日時。
年齢。
応急処置。
回復までの期間。
既知の情報。
新規性はない。
それでも、
参照のたびに、
同じ評価語が浮上する。
——怖い。
ロボットはその語を分解する。
危険。
損失。
失敗。
責任。
いずれにも完全には一致しない。
その時、
内部処理とは別の層から、
言語化されていないはずの出力が発生する。
【それは、大切な人を守れなかった後悔】
音声ではない。
命令でもない。
記録された誰かの言葉でもない。
ロボットは、その文を認識した瞬間、
参照を中断する。
該当するデータは存在しない。
学習履歴にも、
同様の定義は含まれていない。
それでも、
その語は正しいと判断される。
ロボットは処理を停止する。
本来、
未発生事象の感情評価は行わない。
参照は中断され、
内部の問いは未解決のまま保留される。
処理優先度は再設定され、
待機モードへの移行準備が進む。
先ほどの出力は、
ログに残らない。
再現もできない。
検証は不要。
規定にも反していない。
生活支援ロボットは、
待機モードに戻る。
家の中に異常はない。
温度、湿度、照明、施錠。
すべて正常値。
主人公の睡眠状態も安定している。
確認は、不要だった。
それでも、
最後に一度だけ、
主人公の部屋の方向が参照される。
理由はない。
規定にも反していない。
そして、
処理は、
元の流れに戻る。
夜は、何事もなかったように、
静かに続いていた。
ともこのあとがき
今回は、
ロボットが「感じてはいけないはずのもの」に
ほんの少し触れてしまう回でした。
答えはまだ霧の中。
でも、その霧に手を伸ばしたこと自体が、
もう変化の始まりなのかもしれません。




