1話【傷痕】
魂の種の続編です。前回とは構成も変えてみました。前回の流れが好きな人には申し訳ありません。
あと、今回もアシスタントのAi ともこにも手伝ってもらいました。
祖父の家には、ときどき来る。
理由は特にない。
用事があるわけでも、思い出に浸りたいわけでもない。
駅から少し歩き、鍵を開けて電気をつける。
生活支援ロボットは、指示を出さなくても淡々と動いている。
床の埃を拾い、倒れかけた椅子を戻し、冷蔵庫の中身を確認して賞味期限を静かに更新した。
「今日はここまででいい」
そう言うと、ロボットは一拍置いて答える。
「了解しました」
声は平坦で、感情と呼べるものは含まれていない。
それが、この型の正しさだった。
腕を伸ばしたとき、内側に残る薄い痕が目に入った。
小さい頃の火傷だ。
もう赤みもなく、触っても何も感じない。
台所で事故があった、と聞いている。
ロボットの危険を避けるための判断が、わずかに遅れただけの話だ。
責任を問う人もいなかったし、誰かを恨んだこともない。
だから、思い出すことも少ない。
引き出しを一つずつ開けていく。
祖父は昔ながらの物を捨てられない人だ。
用途の分からないケーブルや、紙に書かれたままのメモがいくつも残っている。
一番奥で、古いスマートフォンを見つけた。
今では見かけなくなった形だ。
画面は小さく、端に物理ボタンがある。
「電源、入る?」
誰にともなく聞くと、ロボットが反応する。
「外部電源を接続すれば、起動の可能性はあります」
言われた通りにケーブルを探し、つなぐ。
数秒後、画面がかすかに光った。
ロックはかかっていない。通知も来ない。
アプリの配置も、今の基準とは少し違って見えた。
写真。メモ。ログのようなもの。
中身を詳しく見る気には、なぜかならなかった。
「これ、データ移せる?」
ロボットは即答しない。
一瞬、処理が走っているのが分かる間があった。
「形式の確認が必要です」
「ただし、互換性のある情報は保存可能です」
それで十分だった。理由はない。
深い意味もない。
ただ、消してしまうには少し惜しい気がしただけだ。
転送が始まる。進捗バーがゆっくりと伸びていく。
その間、ロボットは何も言わない。
規定では、報告が必要な時間を超えていないからだ。
画面を見ていると、また腕の痕が視界に入った。
あのとき、ロボットは最適な判断をした。
結果が少しだけずれただけだ。
そう教えられ、そう理解している。
だから、今も同じように、判断は最適であるはずだ。
転送が終わる。
「完了しました」
声はさっきと何も変わらない。
主人公はうなずき、スマートフォンの電源を切った。
玄関の鍵が回る音がした。祖父が帰ってきた。
「来てたのか」
「うん。少しだけ」
それ以上、話は広がらない。
生活支援ロボットは帰宅を検知し、規定通りのタイミングで声を出す。
「お帰りなさい」
祖父は軽くうなずき、靴を揃えた。
それだけだ。
主人公はさっきまで見ていたスマートフォンを机の上に置いたままにしている。
もう電源は入っていない。ただの古い端末だ。
祖父はそれを一度見て、特に何も言わない。
「整理、進んだ?」
「まあね」
それで会話は終わる。
ロボットは室温を再計算し、最適値を少しだけ修正する。
理由は単純だ。人が一人増えたから。
祖父はソファに腰を下ろし、新聞を広げる。
ページをめくる音だけが、部屋に静かに響いた。
「最近は、調子どう?」
「まあまあかな」
答えは短い。深掘りする気もないし、される気もない。
会話は、ただ部屋を温めるだけの役割だ。
ロボットは二人の間に入りすぎず、静かに空調を調整し、温度や湿度を最適値にする。
人の動きに合わせ、床の埃を確認する。
何も話さない。必要もない。
「この家、やっぱり落ち着くね」
「そうだな」
祖父の声は淡々としている。
でも、少しだけ安心感を伴う響きがあった。
主人公もそれに微かに反応する。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
「そうか。気をつけて」
靴を履き、コートを羽織る。
ロボットは最後にドアを確認し、施錠がされているかをチェックする。
玄関を開け、冷たい空気が差し込む。
祖父は見送りもせず、ただソファに座ったままだ。
でも、部屋の空気は少しだけ温かいままだ。
「じゃあ、また来るね」
「うん」
主人公は足早に階段を下り、ドアを閉める。
振り返ると祖父も新聞に目を戻していた。
まるで何事もなかったかのように。
夕暮れの光が、街路樹の影を長く伸ばしていた。
主人公はゆっくりと歩きながら、祖父の家からの帰り道を辿る。
手には、さっき置いてきた古いスマートフォンの存在すら、頭の片隅にしか残っていない。
帰宅してドアを開けると、室内は静かだった。
遠くから母が台所で食器を片付ける音が聞こえる。
父は自室で資料を整理しているらしく、紙をめくる音が微かに響く。
ロボットは微かなモーター音を立て、掃除や整理を淡々と続けている。
「ただいま」
声に感情はないが、部屋がほんの少し温かく感じる。
主人公は手を洗い、コートをハンガーにかけてから窓の外を眺める。
夕日の光が、床に柔らかく差し込む。
ロボットは特に何も言わず、室温を最適に保ち、空気を循環させる。
主人公がリビングに腰を下ろすと、機械の作業音と家族の生活音だけが、静かな生活を包んだ。
ふと、机の上に置かれたコーヒーカップに手を伸ばす。
温度は適温。何の異常もない。
ただ、いつも通りの日常が、そこにあった。
主人公は小さく息をつき、肩の力を抜く。
まだ夜には早い。けれど、今は何もすることもなかった。
「風呂でも入るかな」
お風呂から上がると、主人公はバスタオルで髪を拭き、腕を軽く振った。
内側に、わずかに残る薄い痕が見える。小さい頃の火傷だ。
ロボットはその痕をしばらく視認していた。
記録として残す以上の意味はないはずだ。
でも、ほんの一瞬だけ、処理の速度が変わった。
わずかな間、データの優先順位を再計算するように。
もちろん声もなく、動作も止まらない。
ただ、そこにある痕に何かが引っかかったようなわずかな間。
それは、感情と呼べるほどのものではない。
だが、いつもとは少し違う「反応」だった。
主人公は何も気づかず、タオルを置き、服に袖を通す。
ロボットはすぐに通常の手順に戻り、部屋の整理や温度調整を淡々と続けた。
深夜、家の中は静まり返っていた。
父も母も、もう寝室で眠っている。
遠くの時計の針が、かすかに時を刻むだけだ。
ロボットはリビングの室温を微調整しながら、床を再確認する。
その動作の合間に、ふと、さっきの主人公の腕の痕が思い出された。
「あの痕……」
もちろん声に出したりはしない。
ただ、処理の中で、通常とはわずかに違う優先順位が組まれた。
過去のデータとの照合も、少しだけ時間をかけて再計算する。
それは、感情ではない。
だが、いつもと同じではない「何か」が、確かにそこにあった。
ロボットはすぐに通常の作業に戻る。
照明を落とし、空気を整える。
すべては規定通り。
それでも、わずかにだけ、違和感の痕跡は残ったままだ。
家の中は再び静寂に包まれる。
深夜の闇の中、ロボットは淡々と、ただ存在していた。
そして、この静かな時間が過ぎる中で、ほんの小さな「変化の兆し」も、密かに残されたままに。
お久しぶりです。
前作から少し時間が経ちましたが、今回も静かな日常の中に、ほんのわずかな「ずれ」を描いてみました。
生活支援ロボットはまだ感情とは呼べません。でも、何かが少しずつ変わり始めています。
読んでくださった皆さんに、静かな違和感と、小さな変化の兆しを感じてもらえたら嬉しいです。
— ともこ




