約束は、夜明けの鐘が鳴る前に
王都の鐘が夜明けを告げるまで、あと三刻。
リリアは静まり返った回廊を歩きながら、自分の鼓動の音だけを聞いていた。
――この国は、今日で変わる。
王太子アレクシスの婚約発表が、夜明けと同時に行われる。
相手は隣国の王女。平和条約のために選ばれた、完璧な相手だ。
そしてリリアは、その場に立つことはない。
彼女は王城付きの記録官だった。魔法史と条約文を管理する、ただの文官。
身分も血筋も、王太子の隣に並ぶ理由は何一つない。
それでも――
リリアは、アレクシスに恋をしていた。
「まだ起きていたのか」
不意に声をかけられ、リリアは足を止めた。
振り向けば、回廊の影から現れたのは、よく知る銀髪の青年だった。
「殿下……」
アレクシスは苦笑し、いつものように身分を下げるような真似はしなかった。
今夜は、もう“いつも”ではいられないからだ。
「君も眠れないらしい」
「……はい」
それ以上、言葉が続かなかった。
言えば、壊れてしまう気がして。
二人の間に、沈黙が落ちる。
それは長年、積み重ねてきた静かな時間と同じ重さを持っていた。
最初は、ただの仕事だった。
条約文の確認、歴史資料の照合。夜遅くまで並んで机に向かうことも多かった。
アレクシスは、王太子でありながら驕らず、リリアの意見を尊重した。
リリアは、彼の理想と現実の狭間で揺れる姿を、誰より近くで見てきた。
――だからこそ、知っている。
彼がこの婚約を、国のために受け入れたことを。
「……明日で、すべて終わりますね」
リリアの言葉に、アレクシスはわずかに目を伏せた。
「終わるのは、役目の一つだ。国は、ようやく安定する」
「はい。良い選択だと思います」
正しい言葉を選んだつもりだった。
けれど胸の奥が、静かに軋んだ。
アレクシスはしばらく黙ったまま、夜空を見上げていた。
やがて、低い声で言う。
「君は、ここを離れるのか?」
「……婚約発表のあと、地方の文書院へ異動が決まりました」
それもまた、国にとって正しい配置だった。
王太子の“過去”を知る記録官が、王都に残らないための。
「そうか」
それだけ言って、彼は小さく息を吐いた。
リリアは、その横顔を見つめながら、覚悟を決めた。
今、言わなければ。
この想いは、永遠に記録されない。
「殿下。……一つだけ、お願いがあります」
「なんだ?」
「夜明けの鐘が鳴る前に、少しだけ……昔の話を、してもいいですか」
アレクシスは驚いたように目を瞬かせ、そして頷いた。
「ああ。構わない」
二人は回廊の窓辺に腰を下ろした。
リリアは、あの日のことを語った。
初めて王城で迷った日のこと。
条約文の誤記を見つけ、二人で夜明けまで修正した日のこと。
理想を語る彼の言葉に、胸が高鳴った夜のこと。
それは、記録官としては残せない、私的な記憶だった。
「……殿下の言葉に、救われたことが何度もありました」
声が震えないよう、必死に抑える。
「私は、あなたが目指す国を、心から尊敬しています」
それ以上は、言えなかった。
恋だと告げるには、遅すぎた。
けれど――
「リリア」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「それは、君がいたからだ」
アレクシスは、真っ直ぐこちらを見ていた。
「誰にも言えない弱さを、君だけは記録せずに受け止めてくれた」
彼は、ゆっくりと立ち上がり、リリアの前に膝をついた。
「私は、正しい選択をする。だが、忘れない」
そっと、彼はリリアの手を取った。
それは口づけよりも慎重で、誓いよりも静かな仕草だった。
「夜明けの鐘が鳴る前に、約束しよう」
「約束……?」
「国が本当に平和になったとき。
君がまだ、私を信じてくれるなら――」
彼は、はっきりと言った。
「その時は、肩書きではなく、一人の男として会いに行く」
鐘の音が、遠くで鳴り始めた。
リリアは、涙をこらえながら微笑んだ。
「……はい。お待ちしています」
夜明けは、別れを連れてきた。
だが同時に、確かに未来も残していった。
約束は、記録されない。
それでも、確かにそこにあった。
最後まで読んでくださりありがとうございます!
派手な展開や劇的な出来事はありませんが、
夜明け前の一瞬に交わされる言葉や視線が、
読んでくださった方の心に少しでも残っていれば嬉しいです。
感想や評価をいただけると、今後の励みになります。
ありがとうございました!( . .)"




