静かな廊下で聞いた足音
アレックスがアルバローザ公爵家に来て、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。
朝の廊下は、いつもより少しにぎやかだ。
侍女たちが忙しそうに動き、暖炉係が薪を運び、
遠くからは厨房の香ばしい香りが流れてくる。
アメリアはそんな空気の中、
軽い足取りでアレックスの部屋へ向かっていた。
「アレックス、今日の朝食はね、蜂蜜のパンだよ。好きそうだなぁって──」
扉の前まで来たとき、
中からアレックスの小さな声が聞こえた。
「……ここは、どこから行けば……」
扉が少し開く。
アレックスが地図のような紙を手に持ち、眉を寄せていた。
「アレックス、おはよう!」
アレックスは顔を上げ、ほっとしたように目元が柔らかくなる。
「……アメリア。
この紙、屋敷の地図って言ってたけど……難しくて……」
アメリアは近寄って紙を覗く。
カインが昔、使用人用に簡易で描いた図が残されていたものだが、
幼い子には少々複雑だ。
「これはねぇ……パパが描いたから、ちょっとクセがあるんだよね。」
「クセ……?」
「うん、つまりね、よく分からないってこと!」
アメリアが胸を張ると、アレックスは一瞬ぽかんとし……それから小さく笑った。
「……じゃあ、アメリアが案内して。」
「もちろん!」
アメリアがアレックスの手首を軽くつまんで廊下に出ようとしたとき、
廊下の奥からカインとマリアがゆっくり歩いてきた。
「おはよう、アメリア。アレックスも。」
マリアが柔らかく微笑み、
カインは腕を組んだまま頷く。
アメリアが元気よく言う。
「パパ、ママ!アレックス、もう屋敷に慣れたよ!」
アレックスは少し照れたように二人を見る。
「……その……迷わなくなってきました。」
マリアは目元を緩めた。
「まあ、よかったわ。
アメリアがいっぱい一緒にいてくれたからね。」
アレックスはうつむき、
けれどどこか誇らしげに言う。
「……アメリアが、優しくしてくれるから。」
その言葉を聞いたマリアは、
「ほほぅ……」と満足げにアメリアの肩をぽんぽんと叩いた。
カインも娘の頭に手を置き、
小さく囁く。
「アメリアはよくやっている。
……アレックス、お前はこの家の子だ。遠慮はいらん。」
どきっとしたようにアレックスが目を上げる。
「……いいの……?」
「いいに決まっている。」
カインの“公爵らしい重い声”に、アレックスの背がぴんと伸びた。
アメリアはそんな姿を見て微笑む。
「ね?だから、アレックスは家族だよ!」
アレックスは少しだけ目を丸くし、
ゆっくりと頷いた。
*
廊下を歩く二人の後ろでは、
影のような気配がそっと動いた。
アルバローザ家の“影部隊”。
アメリアに気づかれぬよう、
ほんの少し距離を保ちながら見守っている。
(……アレックス様。
またアメリア様のおそばに。
良い傾向でございます……)
低い声でつぶいたその影は、
すぐに廊下の角へ溶けるように姿を消した。
アメリアもアレックスも気づかないまま、
屋敷の“安心”は静かに支えられていた。
*
その日の午前。
アメリアはアレックスを連れて中庭へ出た。
冬の終わりが近づき、冷たい空気にほんのり春の匂いが混じっている。
アメリアが言う。
「アレックス、走るの得意?」
「……普通、だと思う。」
「よし!じゃあ競争しよ!」
「……きょ、競争……?」
「うん!あそこのベンチまで!」
アレックスは一瞬迷ったようだが、
アメリアの弾む声につられて頷いた。
「よーい……どん!」
アメリアが駆け出す。
アレックスも慌てて走り出す。
足音は小さくて、
風を切る音もまだ弱いけれど──
二人の笑い声は庭に明るく響いた。
「アメリア!速い……!」
「アレックスも頑張って!」
わずかな距離だったが、
アレックスは息を切らしながら笑った。
「……負けた……」
「やったぁ!じゃあ次はアレックスが勝つ番ね!」
アレックスは胸をおさえ、頬を赤くしながら小さく頷いた。
「……勝ちたい。」
アメリアは嬉しくなって手を叩く。
「いっぱい練習しよ!」
二人の声が朝の空気に混ざって、
ゆっくりと遠くへ流れていった。
幼い日々は、
こんなふうに静かに積み重なっていった。




