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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。  作者: 妙原奇天


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第9話 境目

 境目は、目に見えないと信じられていた。線を引くのは大人の役目で、子どもはその内側で遊ぶものだと。けれど、ある朝、校庭の白線が波に洗われた砂浜みたいにゆらゆらしていた。体育委員が石灰を撒いても、しばらくすると線はまた膨らみ、縮み、端がほつれて図形の角が丸まる。授業の合間に窓からそれを見ていると、世界の輪郭のほうが酔ってしまったみたいに感じた。

 教室の時計も、ふざけ方を覚えたらしい。いつもの音を刻んでいたと思ったら、秒針が突然ひと目盛りだけ逆に戻る。戻ったくせに、すぐまた前へ進もうとして、そこで一瞬ためらう。そうして小さく震えながら、なんでもない顔で進み直す。板書のチョークが止まり、先生が目を細めて笑って見せる。「古いんだ、悪いな」。笑い声は弱く、弱いものほど長く続かない。

 境目がにじむと、人は印を増やす。廊下の壁に貼られる紙。階段の一段目に書かれた注意書き。保健室に置かれる小さなベル。鳴らすと誰かが来る。誰かが来ると言っても、それはいつも大人とは限らない。近くにいる人が、近くで届く手の範囲で、できることをする。それで持っている。

 その保健室で、先生が倒れた。昼と放課後の境にある静かな時間で、薬品庫の引き出しを閉める音のすぐ後だった。床に落ちる前に、近くにいた生徒が支えたから大きな音はしなかった。崩れるようでも、ゆっくりでもなく、ただ真ん中から力が抜けて、身体が空気の上に乗れなくなったみたいに見えた。救急車は来ない。来られない。検疫の腕章を巻いた人たちが来て、先生のまぶたに影を落として、腕に触れ、胸に耳をあて、それから必要な書類に必要な言葉を書いた。

 睡眠不足による心不全。紙に印字されたそれは、町のどんな気配よりも確かな顔をしていた。紙は正確で、正確さは人の隙間を塞ぐ。誰かがその紙を受け取り、誰かへ渡し、誰かが掲示板に貼る。貼られた瞬間から、噂は別の物語をつくる。紙は現実を伝え、噂は現実を溶かす。ふたつは同時に働く。

「先生、夢を見たらしい」

「保健室のベッドで、うとうとして、深く落ちたって」

「落ちた人は、もう戻ってこない」

 言葉は短く、硬い。硬さのほうが、人を守ると信じられている。葬儀の日取りも、紙に整って並んだ。体育館の隅に設けられた簡易の祭壇は、白い布の端が少し波打っている。線香の香りは薄く、外の潮と混じって不確かな匂いになる。泣く人はいなかった。泣くと目が腫れて眠くなる。眠くなると、落ちる。落ちると戻らない。そんな等式が、黒板の隅のように当たり前に記憶されはじめている。それでも、目を伏せる人の小さな震えは消えない。消せない震えが、布の下で微かに動き、手に持つ数珠の玉がかすかに触れ合う音を立てる。音は、鐘の残響の手前で消えた。

 ユウは、葬儀の列から一歩だけ離れたところに立っていた。ミサキは隣。彼女の袖口に、毛糸のほつれが一本だけ伸びている。それが、さっき体育館に入るときに引っかかったのだとわかった。ほどけた糸は、切れば簡単に目立たなくなる。けれど、切った糸の行き先は誰も問わない。行き先を問うことが、もうできなくなりつつある。問いは眠気を呼ぶ。眠気は悪いものに分類された。

 式が終わると、みんな足音を揃えないようにして出ていった。揃うと揺れるから。揺れると眠くなるから。揃わないことを学ぶのは、揃うよりむずかしい。出口のところで、検疫官の腕章が青い光を小さく見せる。見せるだけで、何もしないふりをしている。ふりが多すぎて、本物と偽物の境目も、白線みたいにゆらぐ。

 その夜、ユウとミサキは、眠らずにいるために互いの過去を語り合うことにした。言葉で埋めれば、眠りの余地が減る。減った分だけ夜は浅くなる。浅い夜の上なら、落ちても戻ってこられる可能性が残る。観覧車の三番の柱の根元に座り、冬に抜けきらない潮風を背中に受ける。録音機は今日持ってきていない。音を確かめる夜ではないと思った。

「先に言っておくね。うまく話せなかったら、途中であなたが違う話をして」

「いいよ。順番は、気にしない」

「順番を気にしない、って言ってくれると、それだけで楽になる」

 ミサキは、指先で自分の膝を押さえた。膝の骨の固さは、世界が残してくれた現実のひとつだ。そこにふれるのが、今夜の最初の合図になった。

「小さいころ、川のそばに住んでたんだ。家の裏の道から、斜めに降りると石の浅瀬があって、夏になるとそこに足をつけた。母が見ているところからは出ないって約束して。水の中で見る空は、いつだって逆さで、川底の石は光ってた。石の表面に、薄い苔があった。手で触ると緑の匂いがした」

「どんな匂い」

「冷たくて、少し甘い。夏なのに、冷たいってわかる匂い。指でなぞったあと、手のしわに色が残るのも好きだった。あ、ほら、こういう話し方が危ないんだよね」

「いいよ。危なくなったら、戻る」

「うん。……あるとき、わたし、川で金色の……」

 ミサキの言葉が、そこで途切れた。途切れ方は唐突じゃなく、ふいにスイッチを切られたみたいにきれいで、怖かった。舌の上に載せた飴玉が、急に透明になって消えたときの感じに似ている。彼女は眉を寄せ、少し笑って首をすこし傾けた。

「ごめん。なんて言えばいいのかな。金色の、魚の……」

「魚?」

「いや、魚じゃなくて、えっと、上で父が……」

 変換の音がした。言葉の中の歯車が別の歯と噛み合おうとして空回りし、すぐに違うところに入って動き出す。無理に戻そうとすると、割れる。割れた破片は、小さいのに手のひらのどこかに刺さる。それが夜を深くする。深さは、危ない。

「父さんの話、してもいい?」

「いい。聞くよ」

「父は船に乗ってた。大きい船じゃない。小さな舟で、朝に出て、夕方に帰る。港の上を、魚の匂いが通り過ぎる。それが『帰ってきた』の合図だった。わたし、その匂いに合わせて玄関の鍵を外すのが好きでさ。鍵の金属が指に冷たくて、父の声が廊下に入ってくる前に、もう『おかえり』が口の中に上がってくるの。……うん、ここまでは言える」

「ここまでで十分だよ」

「もっと言いたい。父の声を真似したい。真似できたら、わたしは父のいる物語の中に行ける。けど、喉が、その形を忘れてる。忘れてるって、勝手だ」

「勝手だね」

「勝手だよね」

 会話の形が薄い笑いを連れて、すぐにほどけた。ほどけるたび、海の音が近くなる。近くなっても、鐘は鳴らない。鳴らない夜は、少しだけやさしい。

「ユウの番」

「俺?」

「眠らずにいるためだよ」

「そうだな……」

 ユウは、言葉の棚から軽い箱を選ぶように記憶を探した。重いものは、今夜は奥にしまっておく。取り出しやすいものから表に出す。そうすれば、眠らずにすむ。きっと。

「祖父の手巻きの時計、覚えてる? 俺、それを初めてもらった日のこと。祖父は、どこかで誰かからそれをもらってきて、帰りに坂で転んで、ガラスをちょっとだけ傷つけた。笑ってさ、『これでお前のだ』って言った。傷がひとつあるものは、持ち主がひとり増える、って」

「いい祖父だ」

「うん。あの日から、秒針の音が好きになった。正確に進むのに、たまに遅れる。遅れたぶんを取り返すときの、あの微かな焦りみたいな音。焦ってる、って言うのはきっと俺の勝手な当てはめなんだけど」

「焦ってる音、わかる気がする」

「急ぐのに、誰も急かしてくれないときの音。ひとりで前に行くときの音」

「いまの時計とは、相性がいいね」

「逆に戻るのと、取り返そうとするのと。たぶん、どっちも同じ速度を目指してる」

「同じ速度を目指してる」

 ミサキが繰り返すと、その言葉がふたりのあいだに薄い板みたいに渡った。渡した板の上で、夜の重さが少しだけ分散する。分散した重さの間に、境目が現れる。今夜の境目は、前よりも静かに揺れていた。

「私の昔話、もう少ししてもいい?」

「もちろん」

「川のこと、途中で止まったでしょう。あのあと、わたしたぶん、金色の……えっと、魚かどうか、やっぱりわからない。光の破片を拾ったの。水からあがったとき、掌にちいさな光がひとつ乗ってた。家に持ち帰って、机の引き出しに入れて、夜に見ると、光っているの。父が帰ってこない日に、その光がふと消えた。次の日に、父が帰ってきた。『ただいま』の声と同じ高さで、あの光が戻ってきた」

「光は、戻るんだ」

「うん。戻る。戻らない日もあるけど、戻る日もある。わたし、そういうふうにできてると思いたい」

「そういうふうに」

 彼女の声は、教科書の紙みたいに薄く、指先の跡を残さないで通り過ぎる。それでも、耳の内側に小さな影を落としていった。影が残るうちは、物語はまだある。あるはずだ。ユウはそう言い聞かせる。言い聞かせる相手が自分であることを自覚した瞬間、胸の内側が少し軋んだ。

「ねえ、ユウ。わたし、自分の話をしてるのに、ときどき、誰かに教えられた台詞みたいになってる。わかる?」

「うん」

「言ってるのに、覚えてない場所がある。覚えているのに、言えない場所もある。そこに水が入ってきて、字がにじむみたいに」

「境目だ」

「境目、にじんでる?」

「町も。俺たちも」

「町と同じなら、直せる?」

「直せるふりなら、できる」

「ふりでいい」

 ふたりは笑った。笑いは短く、やさしい。やさしさは薄く、消えやすい。消えたあとに残る静けさを、今は頼りにするしかない。

 遠くでサイレンが短く鳴った。誰かの夜の終わりの合図。合図はいつも突然で、いつも遅すぎる。ミサキは肩をすくめ、観覧車の骨組みに背をつけ直した。鉄は冷たい。冷たさは、境目のこちら側の証拠だ。

「先生のこと、悔しい」

「うん」

「先生、きっと、わたしたちにやさしくするために、眠らなかった。眠らないでいることが仕事になって、仕事は仕事じゃなくなって、身体がやめるほうを選んだ」

「紙は、睡眠不足だと言う」

「紙は正しい。正しいけど、それで足りる夜がある?」

「ないと思う」

「ないよね」

 正しさの薄さを確かめあって、ふたりは黙った。黙ると、世界の音が寄ってくる。海の表面のさざめき。観覧車の鎖の、風と擦れる微かな音。灯台の白い壁に当たる波の跳ね返り。どれも弱く、弱いものほど長く続く。長く続くものだけが、境目を越えてこちらへ届く。

「ミサキ」

「なに」

「自分の物語を失いつつある、って、言ってた」

「うん」

「それでも、今話した川の話、俺は覚える。代わりに持てるなら、持つ」

「代わりに持つ?」

「誰かの記憶は、他の誰かの安全地帯にもなるらしい。安全地帯、って言うと変だけど。落ちそうになったら、そこに手をつく場所」

「私の川、ユウの中にあるの?」

「ある」

「なら、わたしは、あなたの祖父の時計を持つ。秒針が遅れたあと、取り返す音。取り返すときの微かな焦り。わたし、それを、たぶん上手に真似できる」

「真似して」

「今?」

「今」

 ミサキは目を閉じずに、唇の形だけで小さな音を作った。音は、実際には鳴らない。鳴らないのに、確かにそこにあった。秒針がためらう前の気配。ためらいを飲み込んで、進む決心をする小さな力。観覧車の骨組みが、ほんのわずかに共鳴した気がした。

「できた」

「できてた」

「あなたの話と、私の話、交換したら、眠らずにいられる?」

「たぶん、少し」

「少し、でいい」

 三番の柱のボルトの陰に、昨日の紙片がまだ残っていた。潮でふやけ、鉛筆の線が太くなっている。太い線のほうが、今は読みやすい。線は重なり、時間は同じ場所を通り、境目は今日もにじむ。

 帰り道、校庭の白線を横切ると、夜風に揺れてまだ柔らかかった。足の裏に線の粉がつき、靴底の溝にうっすら残る。教室に入ると、時計はいつもの音を刻みながら一度だけ逆に戻り、すぐに何もなかったみたいに前へ進んだ。ユウはその瞬間を、目で追って逃さないようにした。逃さなかったところで何が起きるわけでもない。けれど、見張ること自体が、今夜の仕事のように思えた。

 廊下で、シュウトが立ち止まっていた。黒板用の白チョークを指の腹で砕き、粉を紙切れに包んでいる。「地面が滑るから、階段に撒く」と言った。言い方は不器用で、顔は真面目だった。真面目な顔は、境目の手前で役に立つ。

「先生のこと、どう思う」

 ユウが尋ねると、シュウトは少しだけ考えるふりをしてから答えた。

「正しい言葉の数が、足りない。だから、足りない分を、黙ることで埋める」

「黙ることで」

「泣かない、って紙が言うから。泣くと眠くなるから。けど、紙は俺の中でうるさい。だから、黙る」

「うるさい紙、あるね」

「ある」

 話すことと、黙ること。その境目もまた、にじむ。にじむ境で、紙は裂けやすく、裂けたところから必要な空気が出入りする。出入りがある限り、まだ持つ。持っているあいだに、やれることをやる。やれることは小さい。小さいものだけが、今は安定している。

 放課後、理科準備室の窓辺で、ユウはノートを開いた。今日の欄に書き足す。白線は波。時計は逆。先生の葬儀は静か。泣かない。ミサキの川。父の声。祖父の時計。交換。境目はにじむ——でも、合図がある。手首、肩、名前。最後は名前。名前は、いちばん硬くて、いちばんやさしい鍵。鍵はまだ折れていない。折れていないあいだは、使える。

 窓の外で、夕方の色がうすくなった。灯台の白は遠く、赤い月はまだ雲の裏にいる。境目は、また少しだけ厚くなっていく。厚くなったところへ、薄い言葉を一枚ずつ貼る。貼りながら、ユウは思う。ミサキの物語の欠けた部分を、俺は持てるだろうか。持つことは、守ることだろうか。守ることは、彼女の夢をまた殺すことだろうか。答えは、いつも同じ場所で揺れている。

 夜、三番の柱の根元で、ふたりはまた会った。今日は鐘は鳴らないかもしれない。鳴らない夜のほうが、境目は色を取り戻す。戻した色の上で、ユウはミサキの手首に指を置く。

「ここにいる」

「いる」

「川の光、俺が持ってる」

「秒針の遅れ、私が持ってる」

 交換した記憶は、ふたりの間で温度を持った。温度は危険だ。危険なのに、手放せない。手放せないものだけが、今は救いの形になる。境目はにじみ、白線は揺れ、時計はときどき逆を刻む。それでも、名前はまだ呼べる。最後に残った鍵を、今夜は使わずに済んだ。それでいい夜も、きっとある。

 遠くで、見えない鐘の文字が、かすかに擦れる音がした。音は水の重さを通らず、空の浅さだけを撫でて消えた。消える前に、一瞬だけ、町の輪郭がはっきりした。はっきりしているうちに、ユウは目の前の彼女の輪郭を、指先でそっとなぞった。指先に残るのは、鉄の冷たさと、塩の匂いと、言葉にならない温度だった。

 境目は、今日もにじむ。

 でも、ここにいる。

 ここにいる、と言えるうちは。

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