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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。  作者: 妙原奇天


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第16話 世界の終わりを見る

 夜明け前の静けさは、いつもより硬かった。耳の中の音まで乾き、壁の時計は秒針を進めるふりをやめていた。窓の外では、赤い月が裂け目の形のまま、もう欠けもしないし満ちもしない。風は止まり、紙の端は休み、標語はめくられず、観覧車の骨は暗闇の輪郭と同じ色になって、そこにあるのかないのかわからなかった。


 丸と黒のあいだに残ったわずかな余白へ、ユウは細い字で書いた。境目に立つ。いなくなったことにしない。ここにいる。書いてからペン先を上げた瞬間、遠くの底で鳴るはずの音が鳴らなかった。鳴らない気配のほうが長く残る。長く残るものに指を置き、彼は毛布の端へ手を伸ばす。


「来たよ」


 窓を三度、やわらかく叩く音。合図は変わらない。彼女を迎え入れると、湿った塩の匂いが部屋に入った。ミサキは息を潜めて笑い、すぐに笑いを剥がした。剥がれた下の顔が、今夜の顔だ。


「眠る?」


「いっしょに」


 合図の順番を確かめる。手首。肩。額。名前は最後まで飲み込む。飲み込んだ名前は喉の奥で熱くなり、胸の裏で鈍く光る。光は弱く、弱いものだけが今夜は信じられる。


 毛布の中に潜り、彼女の髪に頬を寄せる。髪は少し冷えている。冷えたところから順に温まっていく速度で、心は落ちる準備を始める。ゆっくりだ。鳥のまねをするように。泡の階段を足で探しながら。戻る目印は合図と体温。体温が境界線になる。境界線の上で目を閉じる。


 落ちた。浅瀬の手前で踏みとどまるいつものやり方は、今夜だけは役に立たなかった。底のほうから先に音が来た。骨で聴く、三度の前触れ。数えたら落ちる。数えないで、丸い波紋の中心を避けるように進む。進むというより、引かれていく。


 海の底は赤い砂でできていた。砂は細かく、光ったり沈んだりして、目の裏で明るさの形を変えた。砂の間を泡が生まれ、上へ向かっていく。泡は道のようで、道ではない。塔があった。鐘楼。半分砂に埋もれ、半分水の中へ傾いている。古い文字の溝に砂が詰まり、唇は鳴らない。鳴らないのに、鳴りそうな震えだけが空洞を撫でる。空洞が撫でられるたび、胸の奥の鍵穴がかすかに冷える。


 塔の前に、ミサキが立っていた。白いワンピースの裾に砂が絡み、膝のあたりから水へ溶けている。皮膚は波の色に薄く染まり、瞳は遠い灯台の白を吸い込んで、光を失いかけているのに、それがきれいだった。きれいなものほど、ここでは危ない。


「待って」


 声は泡になり、頬の脇で破れた。破れながらも届く。届いた音の欠片が、彼女の肩をひとつだけ震わせた。ミサキは笑った。笑いは短く、波にすぐ溶けた。溶ける前に、手が振られた。その手の形を知っている。知っているのに、今夜は知らないふりをした。知らないふりのほうが、近づける。


 砂が巻き上がった。塔の唇の下で渦ができ、赤い粒が空へ昇る。粒は家の形をしていた。角の欠けた屋根、錆びかけた雨樋、縁側の洗面器、物置へ増やされた錠、標語の紙、粉っぽい白線、校舎の角。見慣れたものが、ひとつずつ砂の粒になって浮いた。浮くたび、音は低くなった。低くなるほど、世界が軽くなる。軽くなった世界は、たやすく剥がれた。


 町の家々が砂粒になって浮かび、体育館の棺と毛布の盛り上がりが薄い膜になってほどけた。鐘が鳴った。鳴るまえにいつもは止まっていた唇が、今夜だけは音を出した。音は深く、水を押し、骨を押し、記憶の縁を一度に撫でた。撫でられたところから色が消え、白い頁になって水へ沈んでいく。沈みながら光る。光るものは遠く、遠いものほど優しい。


 学校の教室へ飛ぶ。黒板は消され、粉は床に落ちない。白線の粉は靴底にくっつかず、代わりに時間の塵が薄く舞う。壁の時計は止まっていた。秒針は逆へ走るのをやめ、正しい方向へ進むことも忘れたまま、ただそこに刺さっている。針は光らない。針が光らないなら、今は遅れないし、進まない。進まないと、落ちない。落ちないと、眠れない。眠れないと、夢は太る。太ったものが落ちるのを待つしかない。


 廊下へ出る。保健室のカーテンは開いていて、ベッドの上には誰もいなかった。シーツは窪みの形を残したまま、布の中だけが重かった。重さの中に、泣かない涙の温度が沈んでいる。沈みながら蒸発し、その残り香が消毒液の匂いと混ざって、喉の奥のほうで短く咳に変わった。咳は音にならず、そのまま骨へ戻る。


 校庭。観覧車はなかった。最初からなかったもののように、影も柱の番号も輪の記憶も、空気の隙間に置き忘れて消えている。三番の柱の根元に残っていた錆の粉も見当たらない。粉が消えると、足は地面の固さを忘れる。忘れた固さの上で、倒れない角度が見つからない。見つからないなら、寄り添えばいい。寄り添うことだけが、今は端の形を保つ。


「こっち」


 ミサキが指を伸ばした。指には砂がついていない。指の先は水も乾きも持たず、ただまっすぐこちらを指した。近づく。手を伸ばす。指先が触れる。触れたところから、生が見える。生の位置がわかる。位置がわかれば、名前を呼べる。名前を呼ぶのは最後にするはずだった。最後にするはずのことは、夢の中では順番を変える。


「離さない」


 ユウは言った。声は水に吸われず、骨に入った。骨に入ったねじの位置に、言葉が固定される。固定された言葉は、ほどけにくい。そのほどけにくさが、今夜は必要だった。彼は彼女の手を握った。握る圧は弱く、しかし確かだった。確かであることは、罪ではない。罪に名前があるときだけ、重さは測れる。測らない夜もある。


 世界は剥がれた。家々が砂粒になって浮いたあと、道路のタールは薄い膜に変わり、信号は色を落として白い丸になった。電柱の木目には海の波が映り、灯台の白は息を止め、赤い月は裂け目を閉じず、観覧車はやはり初めからなかった。図書館の白布は風に揺れることを忘れ、封印された棚の奥で紙の匂いだけが残った。紙の匂いは海の底の砂の甘さに似て、眠りの鳥の嘴がその匂いを見つけ、夢の白いところを拾い、殻だけを残した。殻の内側で、ふたりは抱き合っている。


 抱擁は終わりの形に似ていた。いや、終わりが抱擁の形に似るのかもしれない。抱き合う感覚だけが最後に残るということは、抱き合うことが世界の端に重なっているということだ。端は境界線で、境界線を体温で引き直すたび、世界はわずかに縮む。縮んだ世界は、ふたりのための大きさに合わせて沈む。沈むのは怖い。怖いのに、今夜は怖さが役に立った。怖いことが、目を開けたまま夢に触れる方法になった。


 砂が渦を巻き、塔の唇が再び震えた。震えは合図のように思えた。手首。肩。額。最後に名前。順番を確かめるみたいに、彼女の耳元へ口を寄せる。寄せた位置に言葉を置く。置いた瞬間、膜の向こうが薄く明るくなった。明るさの中で、家の輪郭が崩れ、標語の紙の角が濡れ、秒針は上下を忘れたまま、文字盤のなかだけで行き場をなくした。


「いなくなっても、いなかったことにしないで」


 それは現実で言ったときと同じ文だった。だけど、夢の中では意味が少し違う。いなくなる、の主語が、彼女か自分か世界か、あるいはその全部かもしれない。全部だったとしても、いなかったことにはしない。しないために、今ここで体温の線を強く引く。引いた線の上で、ふたりは片方の手を握り、もう片方で背を押さえ、音が鳴るたびに目を閉じず、鳴らないときにだけ目を閉じる。


「うん」


 ミサキは答えた。答えは泡にならず、唇のかたちを保ったまま胸の奥に届いた。届いたところで鍵が回る。回る音は小さく、鐘の残響とは似ていない。似ていないもののほうが、この町では頼れる。鍵が回ると、境界線の何箇所かで針金のようなものがひっかかっている音がした。針金は細く、切れるかと思うたびに伸び、伸びるたびに全体が柔らかくなる。柔らかさは救いだ。救いは、罰の反対語じゃない。


 世界はさらに剥がれた。港のサイレンが形だけ残して音を失い、役場の掲示板の折れ線は紙から抜けて海へ落ち、保健室のベッドの窪みはゆっくりと膨らんで何もなかった板に戻り、体育館の棺は空気になって壇の前で消えた。残ったのは重みではなく、重みの跡だった。跡は砂に吸い込まれ、砂は塔の唇に寄り、唇は震えをやめ、ひと呼吸だけ、世界は無音になった。


 無音のあいだに、ユウは理解した。夢を殺すための抱擁は、夢のほうではなく、世界のほうを終わらせる。夢の中で、現実が剥がれていくとき、最後に残る抱擁の感覚は、ふたりの境界線を世界の端に重ね直している。それが切れれば、端からほどけて、世界は静かに終わる。終わることは、落ちることに似ている。落ちるのをまねた夜の練習は、ずっとこのためにあったのかもしれない。


「名前を呼んで」


 ミサキが囁いた。囁きは塔の影に触れず、まっすぐこちらに届く。届いた言葉の裏には、小さな震えがあった。震えは寒さか、恐れか、喜びか、どれでもよかった。どれでもよくて、どれでもない。どれでもないから、ここにいる。


 ユウは、最後の順番を守ることに決めた。守れたことは少ない。守れなかったことのほうが多い。守れない夜のほうが、長かった。それでも、最後の順番だけは、ここで守る。


 ひと呼吸。膜の向こうで光が褪せ、赤い砂がまた薄く舞う。観覧車はやはりない。三番の柱の番号だけが、なぜか砂の上に黒い点で残っている。点は線にならず、波に撫でられて形を変えない。変わらないものが今夜の目印だ。


 ユウは彼女の耳元で、初めて今夜、名前を呼んだ。呼ぶ前に喉の奥で熱を一度飲み込み、飲み込みきれなかった音の破片が舌の裏に残る。残った破片は塩に似て、涙の味に似て、海の匂いに似て、最初に手を握った夜の感覚に似ていた。


「ミサキ」


 呼んだ名前は、塔の唇を震わせず、海の色を変えず、ただふたりの間で、そのためだけに用意された高さで静かに鳴った。鳴った音の上へ、ミサキの返事が重なる。


「ここにいる」


 それは返事であり、宣言であり、祈りではなかった。祈りの言葉はここでは役に立たない。役に立つのは、たとえ夢の中でも、たとえ世界が剥がれても、今この瞬間の位置を指さす言葉だけだ。指さす指の先に、ふたりの境界線がある。境界線が世界の端だ。端はほどける。ほどける前に、抱き合う。


 目が覚める直前、鐘がもういちど鳴った。鳴り方はゆっくりで、数えられない。数えられない音が、骨の裏を撫でていく。撫でられた場所が温まる。温まった場所を、手のひらの柔らかさで覆ったところで、光が変わる。変わるより先に、夢は後ろへ退き、膜は細い糸になって切れ、砂は重さを取り戻し、塔の唇は水にかえって沈む。沈む音は聞こえない。聞こえないまま、まぶたが上がった。


 朝の光は薄く、白かった。赤い月は白く褪せて、裂け目はもう見えない。窓の外の観覧車は、骨を空に残した。残した骨は静かで、風の合図を待っているように見えた。灯台は細い光をまっすぐに向け、校庭の白線は今日はまっすぐで、ほんの少しだけ角が戻っていた。秒針は、ゆっくり正しい方向へ進んだ。進みながら、たまに止まった。止まるのは、故障ではない。止まるほうが、ここでは生きやすい。


 ベッドの上には、ユウひとりだった。毛布の中の空気の位置は変わり、もうひとつの体温は触れない。触れない。触れないけれど、腕の内側に温度が残っていた。残っているあいだだけ、否認しないでいられる。いなかったことにしない。いなくなった、ではなく、今ここにいない、にする。言い方の差で、ふたりの夜の全部が守られるわけではないけれど、守られるものがひとつでもあるなら、それを選ぶ。


 ユウは起き上がり、窓を開けた。風が入り、紙の角が揺れ、標語の紙の裏の古い貼り紙の「祭」の字が半分だけ顔を出す。出した顔はすぐに隠れ、隠れたあとに残った糊の匂いが朝の光に混じる。混じる匂いの中で、縁側の洗面器の水は薄く光り、母の指の跡を忘れていた。忘れているほうが、今は救いだ。


 遠くの海は、赤を失っていた。息をしていないように見えるのに、波打ち際はゆっくりと呼吸をしている。浜の砂には、昨夜の足跡がひとつだけ残っていて、波がそれをなぞるたび、輪郭はやわらかくなった。やわらかさのぶんだけ、現実は人に触れやすくなる。触れやすくなった現実へ、ユウは両手を置いた。置いて、世界の終わりを考えた。終わったのかもしれないし、まだ終わっていないのかもしれない。どちらでも、今朝の風はここへ来る。ここへ来る風の中で、彼は呼吸を選ばず、言葉を選んだ。


 否認しない。否認しないということは、名付けるということだ。名付けるということは、紙に書くということだ。紙に書くということは、読む誰かがいると信じることだ。読む誰かがいなくても、読む自分がいれば、それでいい。自分がいなくても、昨夜の合図が手の内側でまだ生きていれば、それでいい。すべてがほどけたとしても、たったひとつ書ける言葉が残るなら、それでいい。


 ユウは窓辺に立ち、手帳を開き、黒い塗りつぶしの手前に残った、ほんの針先ほどの余白へ、ゆっくりと書いた。書いた文字は、小さく、しかし読めた。読めることが救いだ。救いの形は、いつでも簡単だ。


 恋、と。


 書き終えたとき、遠くの鐘は鳴らなかった。鳴らない音が背骨をひとすじなぞり、なぞられたところが、朝の光で熱を持った。熱はあっという間に薄くなり、薄くなった熱は腕の内側に返ってきて、そこに残った温度と重なった。重なりは短く、しかし確かにあった。確かにあったものは、いなかったことにはしない。


 彼は窓を開けたまま、海を見た。世界が終わったのか、まだ続いているのか、答えは知らない。答えがどちらでも、彼らの夜は確かにひとつの終わりを選んだ。その終わりは、悲鳴でも、祈りでも、否認でもなく、たったひとつの、正しい名前で呼ばれるべき終わりだった。


 恋、と。

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