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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。  作者: 妙原奇天


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第15話 境界面で

 境目に立つ、と手帳の余白に書いた。黒い塗りつぶしの、ほんの手前。そこへ、細い字で。書いた文字は、紙の繊維に沈む途中でよろめき、かろうじて形を保った。夜になる前から、身体の中に薄い板を何枚も渡して、倒れない角度をさぐる。倒れない角度は、赤い月の角度に似ていた。欠けでも満ちでもない。裂け目。裂け目が、空の真ん中で止まっている。

 防波堤の先端へ歩く。海沿いの町は、夜になると音が少なくなる。少なくなった音の隙間から、別のものが忍び込む。潮の息。灯台の白。観覧車の骨のやせたきしみ。あと、骨の裏でだけ聴こえる鐘の前触れ。鳴るまえの震えは、相変わらず三度の数を持っていない。持っていないのに、身体のどこかがそれに合わせてうなずく。うなずく場所が今日も残っているのは、まだ救いだ。

 防波堤の先端は、昼間に見たときよりも狭かった。海の暗さが幅を奪ったのか、風が端の白をかじったのか。足を置く位置を、靴底の溝に任せる。沈む。沈みながら、落ちない。落ちないあいだに、呼べない名前を胸の奥で温める。温度のせいで、名前は鍵の形に近づく。近づきすぎて折れないように、合図の順番を心の中で繰り返す。手首、肩。最後に——。

「来たよ」

 背中から、ひそやかな声。振り向かずに、片手を伸ばす。指先に触れる皮膚の温度で、位置がわかる。ミサキの足音は、波の音に混じるとすぐに消えるのに、近づいてくると音ではなく気配の濃さで届く。濃さは怖さの単位でもあり、安心の単位でもある。

「ここ、狭いよ」

「狭いほうが、境目に近い」

「落ちたら?」

「ゆっくり落ちる。鳥のまねをする」

「うん。ゆっくり」

 並んで座ると、風が片方の頬だけ撫でた。片寄った撫でかたが、夜の機嫌を教える。機嫌の悪い夜は、鐘の影が早い。機嫌のいい夜は、影が遅い。今夜は、その中間。裂け目のような月にふさわしい、中途の速さだった。

「いっしょに落ちよう」

 ミサキが言った。囁きの重みが、肩から胸へ移動する。その移動の途中で、どこかの細い板がたわみ、音を立てずに厚みを増した気がした。いっしょに。落ちる。ふたつの単語の間を、潮が行って戻る。

「落ちる先が死でも、今はそれでいい」

 続いた彼女の言葉は、空に向かってすぐ薄くなった。薄くなったのに、消えない。消えないのは、たぶんここが境目だからだ。境目では、軽いものほど長持ちする。重いものは、すぐ沈む。沈む前に、抱き合う。

 ユウは腕を回し、彼女の背を引き寄せる。骨の位置。肩甲骨の角。髪の湿り。塩のにおいは弱い。弱いのに、今夜ははっきり届く。はっきりしているものだけが、この場所では信じられる。信じられるものを数えるみたいに、合図を渡す。手首。肩。額。名前は最後に残す。残したまま、目を閉じる。

 眠りの入口は、いつもより浅かった。浅いのに、水の色が濃い。色の濃さのぶんだけ、落ちる速度が遅くなる。遅さは救いだ。救いは刃の裏側に生える苔みたいに脆い。脆いのに、そこへ指を置く。指を置けるうちは、まだ戻れる。

 裂け目の月が、目蓋の内側にも映った。上下がない。左右もない。あるのは、こちらとあちら。境界面。ユウはそこで、わざと居眠りみたいに身体を傾けた。傾ける角度は、柱の番号を数えるときと同じ正確さで決める。三番の柱へ背を預ける癖が、そのまま防波堤の先端に持ち込まれる。癖は救いだ。救いは、ときどき罪になる。罪は粉に割れる。粉は潮に混ざる。

「ねえ、ユウ」

「うん」

「わたし、あなたのいない場所で眠ったこと、もう一度ごめん」

「……うん」

「罪は単位。あなたが言ったとおりに割ってみた。まだ手に残る粉がある」

「手を洗う水は、海でいい」

「洗うたび、鐘の影が濃くなる」

「濃くなったら、合図の板を重ねる」

「板は湿る」

「湿った板は、音を通さない」

「通さない音が、背中で鳴ってる」

 短い文を積むたび、境目の板が少しずつ強くなる。強くなりすぎると折れる。折れる前に、体温を境界線にして、そこへ寝かせる。ユウはミサキの耳元に、最後の理性を乗せる位置を探した。探る、という行為だけが、まだ日常の手触りを持っている。

「もしどちらかがいなくなっても、いなかったことにしないで」

 言葉を置いた。置いた瞬間、呼吸に似たものが止まりそうになって、止まらないまま形だけ変わった。いなかったことにしない。これは未来のない約束だ。未来のページは黒で、書く余白はない。ないのに、約束はそこへ針で穴を開ける。開いた穴から、紙の繊維が細くのぞく。のぞいた繊維は、髪の一本に似ている。似ているものだけが、夜を持たせる。

「するよ」

 ミサキが返す。返事は軽い。軽さの中に、重さの影があった。影の位置を指でなぞると、骨の上で止まる。骨は鐘の箱だ。箱を空にしておかないと、音が鳴ったときに溢れる。溢れた音は、足もとを濡らす。濡れた板は滑る。滑っても、落ち方をまねれば、戻る階段が見える。泡でできた階段は、踏むたびに消える。消えるから、覚えられる。覚えられるから、次の夜へ持ち運べる。

 遠くで、灯台が間隔を置いて瞬いた。瞬くたび、海の表面の赤が呼吸のように持ち上がる。持ち上がった赤の下に、鐘の影が揺れた。揺れの数は数えられない。数えると、落ちる。それでも、身体はいつもの三度を待つ。待っているあいだ、指を噛む代わりに、別の場所を選ぶ。噛むのではなく、触れる。頬。首筋。肩。触れながら、眠りと目覚めのあわいを往復する。往復の間だけ、言葉はなめらかに形を保つ。

「いなくなったら、どうする?」

「……見張る。戻る方法がないか探す。戻らなければ、いることにする」

「いることにする」

「うん。しない、より、する」

「する、と書く場所、ある?」

「黒の手前の、細い余白」

「針で穴をあける?」

「小さく。見えないくらい」

「破れない?」

「破れたら、縫う。紐は細くていい」

 会話は、縫い目の位置を決める作業に似ていた。決めた直線の少し手前で、針先が布から顔を出す。出たときの冷たさで、今いる場所がわかる。冷たさは、境目の印。印の上に指を置き、眠りの入口に足を置く。置きながら、落ちすぎない角度で呼吸を整える。数えない。数えると、逆へ走る秒針に追いつけなくなる。

 潮が満ちる。満ちるたび、防波堤は短くなる。短くなるたび、ふたりの影は重なる。重なった影の縁が、裂け目の月のかけらみたいに光る。光るものは、すぐ消える。消える前に、しっかり見る。見るために、目を細める。細めた視界の中で、ミサキのまつげの影が頬に乗る。乗った影は薄い、しかし確かに重い。重さがあるうちは、ここにいる。

「こわい?」

「こわいよ」

「わたしも」

「こわいこと、やめようか」

「やめたい。けど、やめたら別のこわさが来る」

「別のこわさは、名前が言いやすい」

「名前を言うのは、最後にする」

「最後にすることだけ、はっきり決めよう」

 ふたりは笑った。笑いは短い。短さのぶんだけ、跡が残る。跡が残ると、翌朝の足裏で確かめられる。確かめられるものがあるうちは、記憶は剥がれない。剥がれない記憶は重い。重いものを、今夜だけはふたりで半分ずつ持った。

 やがて、鐘は鳴らなかった。鳴らない夜のほうが、境目は薄い。薄いところで眠りと目覚めがひだのように重なり、その重なりの間に、言葉が何枚か挟まる。挟まった言葉は、たぶんまた明日の朝には別の順番になる。その順番でさえ、もう選べないのだと分かっているのに、選べるふりをする。ふりは板だ。板を渡しながら、夜を渡る。

 眠りが近づく。近づくと、身体が軽くなる。軽くなった身体が、裂け目の月へ浮き上がりそうになる。浮き上がる前に、ユウはミサキの耳元に、もうひとつ薄い文を置いた。

「ここにいる、って言って」

「……ここにいる」

「ありがとう」

 返事は小さく、それでも骨の裏まで届いた。届いたところで、目を閉じる。閉じる瞬間、波が堤の角を舐め、冷たい塩が靴の縁にひっかかった。ひっかかりは目印だ。目印があるうちは、戻ることができる。戻る前に、落ちる。ゆっくり。鳥のまねをしながら。

 落ちる間、夢は姿を見せなかった。代わりに、現実の側から薄い膜がこちらへ伸びてきた。膜はあわいで、指で破れそうで、破れない。破れないものに顔を寄せると、その向こうに、鐘楼の唇が見える。見えるだけで、鳴らない。鳴らないもののほうが、長くそこにいる。

 どれくらいの長さが過ぎたのかわからない。時間は、熱の移動の速さに似て、均一ではない。均一でないものほど、覚えていられる。覚えていられるあいだだけ、夢は夢であり、現実は現実であり、境目は境目でいられる。

 目を開けると、空の裂け目はまだそこにあった。遠くの灯台の白は細く、海の赤は吐いては吸い、吸っては吐く。防波堤の先端は、水の舌に何度も舐められて、さらに狭くなっていた。狭さの上で、ふたりは寄り添ったまま、同じ方向を見た。見ることができるものは少なかったが、少ないものほど見やすい。

「いなくなってない?」

 ミサキが小さく訊く。

「いる」

「いる」

 ふたりの声が、裂け目の夜にひとつだけ重なった。重なる音は軽い。軽い音が長く残る。残った音を、ユウは胸の中で数えずに持った。数えることは、今日はしない。しないことができる夜は、稀だ。

「帰ろう」

「うん」

 立ち上がる。立ち上がるという単純な動作が、境目では式になる。足を少しずらし、重心をわずかに前へ移し、肩に置いた重みを確かめる。二人で、ひとつの体のふりをして、最初の一歩を海に背を向ける側へ出す。足裏が白い石に触れ、石の冷たさで現実が輪郭を取り戻す。輪郭の中に、約束の語が転がっている。拾う。拾って、ポケットに入れる。

 防波堤を戻る途中、観覧車の影が遠くで揺れた。揺れの周期は、秒針の逆進に似ている。似ているだけのものは、今は優しい。坂を上がり、町へ戻る。戻る道の途中で、標語の紙が風にめくられ、裏に残っていた古い貼り紙の一部が見えた。「祭」。祭の字の右半分だけ。半分でも、字は識別できる。識別できるものは、まだ生きている。

 家に着くまで、ふたりはあまり話さなかった。話さないことで守れるものが、今夜は確かにあった。玄関で、ミサキが足を止める。振り返る。目は、さっきよりも焦点を持っている。焦点は、薄い糸でここに結ばれている。

「いなかったことに、しない」

「しない」

「する、じゃなくて、しない」

「うん」

 ふたりは笑って、ほどけない程度の短さで抱き合った。抱き合いながら、耳の近くで、言葉にならない音が小さく分裂して消えた。消えた場所に、薄い熱が残る。熱は、明日まで持ち運べる。

 自室に戻って手帳を開く。黒い塗りつぶしのすぐ手前に、もう一行だけ余白がある。そこに、細く書いた。

 ——境界面で、いっしょに落ちた。

 ——いなくなったことに、しない。

 ——ここにいる。

 ペン先を持ち上げると、遠くで鐘は鳴らなかった。鳴らない音が背骨をなぞり、なぞられた線がゆっくりと温まった。温度の位置で、今日の自分を知る。知ることができるうちは、まだ書ける。書けるうちは、まだ渡せる。渡せるうちは、まだ繋がる。繋がっていられるあいだだけ、未来のない約束を、夜の端に置いてゆく。置いて、戻る。戻って、もう一度、境目へ向き直る。次の夜のために。

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