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赤い月の夜に、君を殺す夢を見た。  作者: 妙原奇天


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第14話 臨界

 臨界という言葉を、町の誰も使わなかった。代わりに、掲示板の折れ線が上を向くことを「今週は少しきびしい」と言い、体育館の床がきしむほど棺の数が増えたことを「忙しい」と言った。忙しい、という語は便利だ。言い切らずに済む。言い切らないあいだに、鐘の影が昼にも校舎の壁を撫でるようになった。


 体育館は毛布と棺で隙間がない。毛布の盛り上がりは昼も夜も変わらず、棺の木目は同じ白色灯の下で薄く光る。壇の端では、役場の腕章の人たちが表を折り直し、読み上げる順番を決めている。読む相手がいないときでも、順番だけは決まる。決まりは、人を持たせる。


 ユウは、掲示板の折れ線を何度も追った。満ちるほど上がり、欠けると緩み、緩んだ隙に油断が滑り込み、また上がる。紙の上でだけ見れば合点がいくのに、体育館の床にひざをつくと、別の線が立ち上がる。毛布の下の背の高さ、棺の蓋の並び、花の数、靴の方向。方向はいつも出口のほうを向いているが、誰も歩かない。歩く足が、ここではすぐに重くなる。


「ここで、何をすればいいんだろうな」


 シュウトが背を丸くして、照明のスイッチを二重に固定しながら言った。彼の指は粉で白い。白は安全の印じゃなくなって久しいが、粉が階段で滑りを止めてくれることは、いまも確かだ。確かなものがひとつでもあると、人は控えめに前を向ける。


「起こす。見張る。戻す。……あとは、黙る」


「黙るのが、いちばん効くよな」


 ふたりの視線の先で、鐘は鳴らなかった。鳴らないのに、骨の裏で何かが震えた。昼にそれが来ると、人は顔を上げられなくなる。上げない顔の上で、紙だけがいつも通りに音を立てる。


 ユウの頭の中で、疑いが形になる。検疫の手順、共眠の申告、シフト表、否認の標語。眠りを制度にしてから、境目は日に日に薄くなった。薄くなるほど、夜の板はたわむ。たわみを直すために、紙は増え、罰則の欄は太くなった。けれど、太くなったのは紙だけだ。現実は逆に細くなっている。細いところから夢が入り、入り込んだ夢を否認するほど、夢の側がふくらむ。否認は、夢の栄養だ。


「制度が、境目をすり減らしてるのかもな」


 ユウは低く言った。自分の声が、自分のものより痩せて聞こえる。痩せた声は、床に落ちても割れない。


「何を減らすんだよ」


 シュウトが問い返し、続けて「減らせるなら、とっくに減らしてる」と付け足した。冗談の形をしているが、音は乾いている。乾いた音は長く残る。


 放課後、観覧車へ向かう途中で、ミサキに打ち明ける。錆色の骨組みの三番の柱に背をつけ、合図の順番を指先だけで確認してから。


「眠り方を教えるほど、夢は賢くなる」


「じゃあ、どうするの」


 ミサキは弱々しく笑った。笑うという行為にまだ体力を使える、という意味の笑いだった。彼女の頬の下で筋がひとつだけ動き、その動きが潮の気配と混じる。


「……」


 ユウは答えられなかった。答えはたいてい二択で、そのどちらも、ここでは同じ方へ傾く。眠らなければ守れない。眠れば失う。否認すれば膨らむ。肯定すれば崩れる。紙に書くほうへ手が伸びるたび、ペン先が黒の縁で止まる。止まる音が、鐘の手前の震えに似ている。


「ねえ」


「なに」


「今日、わたし、昼に少しだけ目を閉じた。保健室の廊下で」


「目を閉じた」


「ううん。眠った。気を失った、じゃない。眠ったの。見張りの子が肩を叩いてくれて起きたけど、あの一瞬の間に、あなたはいなかった。あなたのいない場所で、わたしは何かを見た」


 彼女は言い切って、口をつぐんだ。言葉はこぼれる前に、指で押さえた。押さえた指先の跡が薄く残る。残る、という事実だけが現実だ。


 夕暮れ、港に向かってサイレンが短く鳴った。短い音の裏で誰かの名前が削れ、紙に置き換えられる。置き換えの速度は日に日に上がり、紙の白さは増すのに、町の色は薄くなる。灯台は目を細め、海の表面に赤い息が戻る。


 夜、町の電灯がまたひとつ消え、闇の面積が広がった。広がったところへ、鐘の影の手が伸びる。伸びた手が背中にふれて、ユウは家の門を出た。ミサキの家へ行く足を、海への坂が横取りする。下りの感覚は速い。速さは危い。危さの中で、白線の粉が靴底に張り付き、かすかな抵抗をくれる。


 浜に、ミサキがいた。膝までの波に足を入れ、動かない。動かないことが選ばれているように見える。暗さに目が慣れるまでの数拍、ユウは呼び名を飲み込み、合図の順番を頭の中で繰り返した。手首、肩、最後に——。


「ミサキ」


 名前は最後に、の掟が崩れる。崩れる音が骨の裏で鳴り、潮と混ざって遠くへいく。彼女は振り向いた。髪が頬に貼りつき、視線はどこにも焦点を結ばない。焦点の代わりに海が宿り、海は人の目の位置では落ち着かない。


「ごめん」


 彼女の声は軽く、軽さにひびが入っていた。ひびは横に走る。横に走るひびは、水を集めやすい。


「少し眠ってた。あなたのいない場所で」


 言葉は完璧だった。完璧は脆い。脆さの角で、ユウの胸の中の何かが割れる。割れるのをそのままにはできなくて、彼は内側でゆっくり壊し直した。ゆっくり壊す。形をなぞって、角を落とし、粉にして、潮に混ぜる。混ぜて、音を立てないように流す。流してしまわないと、立っていられない。


 ユウは砂を蹴らずに近づいた。蹴ると、粒の音が夜の板を傷つける気がした。彼女の肩に腕を回す。肩の骨の位置を指で確かめ、冷えたところから温いところへ少しずつ移動させる。移動の途中で、彼女の指がユウの服の端を掴んだ。掴んだ布に潮がしみて、重さがわずかに増える。増えた重さを、受けとめる。


「戻ろう」


「戻る場所、どこ」


「三番の柱」


「……遠い」


「遠いから、戻れる」


 彼女を抱き寄せ、砂の上へ二人分の影を重ねる。波が足首に触れ、引く。引いたあとに残る冷たさの形で、境目の位置がわかる。境目は薄い。薄いところほど、人はよく立てる。立てるうちは、まだここにいる。


「ねえ、ユウ」


「なに」


「制度って、優しいふりだね」


「ふりは、持たせるための板だから」


「板の上で眠ると、夢が板を食べる」


「食べさせないために、板を重ねた」


「重ねるほど、湿る」


「湿った板は、音をよく通す」


「鐘の音、昼にも近い」


「近いから、遠いふりをする」


「ふりで、今夜を持たせる」


 会話は短く、硬く、互いに寄りかかって自立する。自立しているふりをしながら、互いの重さを分け合う。その分け方が、もう習慣になっていた。習慣は救いの別名だ。救いは罰の反対語ではない。


 ユウは、彼女の額に自分の額をそっと合わせた。合図の途中で止める。手首、肩。名前は最後。最後はまだ遠い。遠さが、今はありがたい。ありがたいという感情が、この町でまだ許されているのかどうかは知らない。知らないことに救われる夜は、たしかにある。


「眠る?」


「……眠らない」


「起きてる?」


「起きてる」


「落ちそうになったら」


「噛む」


 指を口に運ぶ所作が、二人の間で合図になって久しい。浅い痛みは戻る目印で、目印が残るうちは迷わない。迷うのは、立ち止まったときだ。立ち止まったまま夜が深くなるときだ。


 砂浜の遠くで、誰かが転んだらしい音がした。駆け寄る足音は一本だけで、すぐに止んだ。止まった場所から、紙がめくれる気配が風に乗る。否認の標語はまだ新しく、角が鋭い。鋭い角で夜が裂けると、海の赤が薄くのぞいた。のぞいた赤は、息をするみたいに膨らんで、すぐに戻る。


「わたし、あなたのいない場所で眠った」


「聞いた」


「それ、やっぱり罪かな」


「罪は、ここでは単位だ。重さを計るための」


「単位なら、捨てられないね」


「捨てないで、割る。割って、一晩ぶんにする」


 ユウは言いながら、自分の胸の中でさっき砕いた言葉の粉を確かめた。粉はもう角を失い、潮に馴染みはじめている。それでも、ところどころが骨に触れてちくりとした。ちくりが、起きている側の証拠だ。証拠を持ち歩くのは疲れるが、今はそれくらいが丁度いい。


「帰ろう」


「うん」


 坂を上がる。上がる間、ミサキの手がユウの袖を離れない。離れない間に、灯台の白が間隔を置いて瞬く。瞬くたび、観覧車の骨が夜空に細い線を引く。線は波に洗われる白線よりもまだまっすぐで、まっすぐなものの上なら、数歩だけ速く歩ける。


 家に着くと、母は縁側の洗面器の水を替えていた。表面に落ちた外灯の光が揺れ、その揺れが畳の目に吸い込まれて消える。消える前に、母が言った。


「シフト、変わったよ。満ちが前倒し」


 紙を受け取り、壁に貼る。貼りながら、ユウは手帳を開いた。黒の手前の余白は、もう一本線を書き足すには足りない幅しか残っていない。残っていない幅の上に、無理に小さく書く。


 ——落ちそうになったら、粉にして流す。

 ——戻る目印は、合図と名前。

 ——最後まで、折らない。


 ペン先が紙から離れると同時に、窓の外で鐘は鳴らなかった。鳴らない音が薄く背骨を撫で、撫でられたところに寒さが残る。寒い場所を、ミサキの手が探り当てる。探り当てられるうちは、生の位置は変わらない。変わらないあいだだけ、起きていられる。


「ユウ」


「なに」


「今夜、名前、呼ばないでいよう」


「うん」


「呼ばないで、起きてる。起きてるあいだに、罪を割る」


「割って、粉にして」


「潮に混ぜる」


「混ぜて、戻る」


 合図を確かめ、毛布のふちをたぐる。外では風が標語の紙をめくり、階段の粉がわずかに舞う。舞った白は、もう安全の印ではない。それでも、足裏の溝に入り込み、次の一歩で音を吸ってくれる。吸われた音のぶんだけ、夜は薄くなる。薄くなったところへ、鐘の影がまた手を伸ばす。伸ばされた手の先で、ふたりは目を閉じないまま、ゆっくりと落ち方をまねた。鳥をまねる、という紙の言葉を思い出しながら。ゆっくり。ゆっくり。泡の階段が見える速度で。


 臨界は言葉にならなかった。言葉にならないもののほうが長く続く。続くあいだに、手の温度は減り、増え、また戻る。戻るたび、最後の鍵はまだ折れずにいる。折れない鍵の形を、ユウは胸の奥で何度も撫で直した。撫で直すことでしか、立っていられない夜がある。立っている、と言えるうちは、ここにいる。ここにいる、と言えるうちは。

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