第12話 夢の底
夢の底は、最初から深かったわけじゃない。浅瀬の延長、その少し先に、足がとどかない場所がある——ただそれだけのことだと、ずっと思っていた。水は透明で、底の赤い砂まで見える。見えるのに、そこへ降りていく道は用意されていない。泳ぐのではなく、落ちるのだと知ったのは、共眠の夜の、あの一度きりだ。
丸の日。手帳の端に、小さな丸印をつける。毛布は昼のうちに日陰で乾かし、ふちの塩を指で揉みほぐした。指に残る白い粉は、灯台の壁の粉と同じ匂いがした。窓の鍵を確かめ、針の箱を閉じ、秒針の音が逆に迷わないことを目で見張る。ミサキが窓を三度叩いた。三番の柱と同じ数。彼女を部屋へ入れる。足を畳の目にそっと置いて、音を消し、毛布の中へ潜る。合図は順番どおり。手首。肩。名前は、今日も最後まで飲み込む。飲み込んだ名前が喉の奥で熱く、少し甘い。甘さは危険だ。危険を知ったうえで、目を閉じた。
落ちた先には、赤い砂があった。最初は破片のような赤。砂粒が光をはね返し、目の裏でちらちらと波打つ。波打つたび、海の音が遠くでやみ、別のものが現れる。鐘。骨で聴く、あの低い音。けれど、今夜はいつもの三度ではなかった。一度、深く。二度目は泡に呑まれ、三度目は、鳴る前に、見えた。
海の底に、鐘楼が半分、埋まっていた。石造り。苔ではなく、赤い砂が継ぎ目を満たし、古い文字は砂に曇って読めない。塔の天辺はなく、折れて、空のほうではなく、水の暗さへ傾いている。塔の足元で、泡がゆっくり生まれては上へ向かい、それがいくつか連なって、細い階段のような形になっていた。階段をのぼる者はいない。降りる者もいない。ただ、泡は泡としてそこにあった。
塔の前に、ミサキが立っていた。薄いワンピース。腕は赤い砂に埋まり、膝まで水に溶けているのに、彼女は寒くなさそうだった。顔は、いつもの顔。観覧車の下で見せるときの顔。まばたきの時間が長い。ユウが近づく。近づくと、彼女は笑い、手を振った。手が揺れるたび、砂が肩のあたりでさらさらと滑り落ち、鐘の口へと吸い込まれていく。吸い込まれた砂で、鐘がわずかに重くなる。重くなったとき、あの低い音が、鳴りそうで鳴らない。
「待って」
声は出ていなかった。出ない声の形が泡になり、頬の横で破れて消えた。消えると、指先が軽くなり、足が水を蹴った。蹴っても前に進まない。進まないのに、目の前のミサキだけが、ほんの少しずつ遠ざかる。遠ざかるというより、後ずさる。引かれた線の上を、彼女が後ろへ歩く。砂があしらわれた床に、足跡は残らない。残らないのに、確かに後がある気配だけが、水の温度に混じって届く。
「待って」
今度は声になった。水の中で声が鳴ると、泡よりも重い波紋が生まれ、鐘楼の縁にかすかに触れる。触れた拍子に、塔の唇が震えた。震えの形は、観覧車の骨の鳴き方に似ていた。それが合図だったのかもしれない。ミサキは、もう一度だけ、手を振る。手首の細さ。指の長さ。もう知っているはずのものが、知らないふりでこちらを見る。視線がぶつかった瞬間、彼女は薄く笑って、後ずさった。
崩れた。泡になって。肩から、首、頬、額。最後に目。その順に、彼女は水の形になり、塔の縁へ溶けた。泡のひとつひとつが、赤い砂を一粒抱いて上へ向かう。向かいながら、鐘の口をかすめ、鳴らない音を残してゆく。鳴らない音のほうが、骨の裏に深く刺さる。刺さった途端に、ユウは浮上した。浮上する方法を、身体が勝手に選んだ。
目が開いた。毛布の暗がり。畳の匂い。窓の外の濃い青。体温の偏り。腕の下で、ミサキが泣いていた。声は押し殺されていて、まぶたの縁だけが濡れている。泣くと眠くなる。眠くなると落ちる。等式が頭をかすめ、すぐに消えた。消える前に、彼女が言った。
「今、あなたを見失った」
言葉は、小さかった。小ささは、刃の反対の形をしている。切らずに、ただ押す。押されると、胸の中心がきしんだ。きしみは痛みではなく、塔の唇の震えに似ていた。
「……ごめん」
「違う。違わないか。ごめん」
彼女は額をこすりつけ、浅い呼吸に似た、けれど呼吸ではない音をひとつ漏らした。言わないと決めていたはずだった。互いの夢は、話さない。形を与えた途端、夢は現実の影になって、寝床の隅で増殖する。それを恐れて、二人は決めた。「夢の内容は、言わない」。決めたのに、言葉は溢れる。言わないことで守れる夜は、思っていたより短かった。
「わたし、灯台の下にいた。海が引いて、石が露わになって、あなたは遠くで、誰かに肩を貸してて、わたし、呼びたかったのに、名前が喉の奥で——」
「やめよう」
「うん」
やめる、と言い、やめられない。言葉は砂と同じだ。握ればこぼれ、こぼれるうちに床の目に入り込み、翌朝の足裏で存在を主張する。毛布の中で、ユウは目を閉じ、暗さのなかに塔の形を探した。塔は半分砂に埋まり、もう半分が水に沈み、唇は鳴らない。鳴らないのに、音がする。音がするのに、鳴らない。矛盾の繰り返しが、胸の内側に薄いひびを走らせる。
眠ることが、怖くなった。眠らなければ守れない。眠れば失う。二択は、紙の上だと簡単に言える。現実は紙の反対側にいる。反対側で、ユウの手は震えもしないくせに、握るものが見つからない。見つからないから、順番に触れる。手首。肩。名前は、今日も最後に残す。残した名前が喉で光り、胸の裏で微小な鐘の形に変わる。形になってしまったものは、ただの言葉でなくなる。言葉でなくなったものを、どこへ置けばいいのかわからない。
朝、手帳の丸印は、夜の重さの分だけ濃くなっていた。ミサキは指先でその丸を触れ、「今日の線は、どこ」と聞いた。眠らない日。線でつなぐ夜。話す。話せば、眠りの余地が減る。減らした余地の上に、別の不安が住み着く。それでも、話すしかなかった。
「さっきの、夢の話、もうしない」
「うん」
「でも、ひとつだけ決めたい」
「なにを」
「もし、どちらかが落ちたら、もう片方は起きている」
「……それ、約束?」
「約束じゃない。決め事。ふたりで持てる重さにするための」
「起きてる側は、置いていく側になる」
「それでも」
「置いていくことが、守ることになる?」
「ならないかもしれない。けど、いまはそれしか持てない」
決め事は、板になる。薄い板。昨日より少し柔らかい、たぶん海水を吸った木の板。それを二人の間に渡す。渡して、その上で座る。板は少しだけ軋み、まだ折れない。その程度のものを、いくつも並べて、夜を渡る。渡りきれるかどうかは、毎回、海に聞くしかない。
学校では、時間割がまた変わった。欠けが終わりに近づき、満ちへ向かう準備が紙の上で整う。整うたび、心がほどける。「緩む」ではなく、「ほどける」。ほどけた糸の先で、だれかが眠る。眠ったあと、目を閉じたまま戻らない。保健室のベッドは埋まり、空く。埋まり、空く。そのくり返しが鉄の匂いになって、廊下に広がる。
放課後、理科準備室の窓辺で、ユウは顕微鏡を覗いた。赤い藻の切片。丸い胞子。開閉するたび、瞼の裏が重くなる。重さは夢と関係があるのかもしれない、と以前は思った。今は、重さという言葉のほうが、現実をだましている気がする。重さではなく、深さ。深さでもなく、距離。距離でもない。呼び名のないものが増えるほど、言葉は薄くなる。薄い言葉でしか、今の自分は釣り合いが取れない。
シュウトが部屋に入ってきた。顔色はよくなかったが、目は起きていた。白いチョークの粉はついていない。代わりに、録音機のテープがひと巻き、彼の手に握られている。茶色い帯。海の底の色に似ている。
「録れてた、前のやつ」
「鐘?」
「かすかに。三つ目は、波に消えかけて、それでも最後だけ、針が跳ねる」
「持ってて」
「持ってる」
彼はそれ以上、何も言わなかった。言わないで、机の角に腰を寄せ、窓の外を見た。校庭の白線は今日もゆらいでいる。ゆらぎの幅は、満ちる前の決まりみたいに一定だ。一定なものに対して、人は安心する。安心は眠気を呼ぶ。呼ばれた眠気を追い返すために、ユウはミサキの昨日の言葉を、心の中で反芻した。
——今、あなたを見失った。
見失う、という言葉は、優しい。失う、の手前に留まっている。留まっているものには、戻る道がある。道があるうちは、二択の板はまだ折れない。折れないうちに、夜が来る。
線の日。三番の柱の根元。風は弱い。海は、赤い泡を小さく吐いては引っ込める。観覧車の骨は鳴かない。鳴かない夜に、ユウはミサキと向かい合った。録音機は持たない。持たないと決めた夜だった。持たないことが、支えの軽さになることもある。
「眠らない日」
「うん」
「話そう」
「話す」
話すことは、言わないことの裏側にある。言わないために話す。話すために言わない。その矛盾は、夜の板に等間隔の穴を開ける。穴から水が上がる。濡れた足首を、手で包む。手のひらの血の温度で、穴が少しだけ小さくなる。小さくなった分だけ、言葉の幅が増える。
「いつから、眠るのがこわい」
「今日から」
「今日から」
「いえ、今朝から」
「今朝から」
「いや、たぶん……あの塔を見る、少し前から」
「塔?」
「——ごめん、言わない。決めたから」
「うん。わたしも言わない」
「言わないことを話すの、変だね」
「変だよ。でも、変なものほど長く持つ」
ミサキは笑い、遠くの灯台の光を指さした。白い光は細く、間隔をあけて瞬く。瞬くたび、海の表面の赤が薄く持ち上がり、すぐに沈む。沈むと、鐘の影が背中を撫でる。撫でられた場所で、ユウは指を噛む。痛みは、戻る合図。浅い痛み。浅い眠り。二択の板の端で、身体は自然に平衡を求めて揺れる。
「ユウ」
「なに」
「もし、わたしが海の下を歩く夢を見ていたとして。もし、わたしの足跡が砂に残らないとして。もし、あなたがそこへ来てしまったとして。——その場合でも、あなたは起きている?」
「起きている」
「どうして」
「起きているほうが、見失う範囲が狭い」
「狭いほうが、うれしい?」
「うれしい」
「罪は?」
「罪は、うしろに置いてくる」
「置いていける?」
「置いていけるふりをする」
「ふりで生き延びる」
「ふりを休める夜は、丸の日だけ」
「明日は?」
「明日は……黒の手前。余白に細い字で、『三番の柱』」
「うそつき」
笑って、彼女は指を差し出す。ユウはその指を取る。脈は浅く、確かだ。合図は手首から肩へ、肩から額へ。額が触れた瞬間、また塔の唇の震えが胸で響く。響きの正体はもうわかっていた。鳴る前の鐘。鳴らせない鐘。鳴らしたら戻れない鐘。鐘の手前に、ふたりの板が微かに重なる。重なりは薄く、それでも二択の隙間に橋を一本だけ渡した。
夜の中ほどで、ユウはいちど目を閉じた。閉じたまま、眠りのふちを歩く。眠れば失う。眠らなければ守れない。決められない夜に、決めないまま歩く方法を、からだは覚えつつある。歩いているあいだだけ、塔は遠い。遠いものは、やさしい。
翌朝、母は縁側の水を替え、父は物置の錠をまたひとつ増やした。増えた鍵の重みで、扉がわずかに沈む。沈む音が、鐘の残響に似ている。学校の廊下では、標語の紙が重なり合い、風で端がめくれている。めくれた下から、古い紙の色が顔を出す。色は黄色く、少し茶色い。茶色はテープの色に似ている。シュウトがそれを見て、黙って頷いた。黙ることで、足りない言葉を補っている。足りなさの分だけ、彼はまだ起きている。
手帳の黒い塗りつぶしは、相変わらず向こう側を見せない。見せないことが、今の救いだ。黒の手前の余白に、ユウは今日の決め事を書き足した。
——片方が落ちたら、片方は起きている。
——起きた側が、戻す。戻せなければ、見張る。
——見張るあいだは、名前を呼ばない。最後に呼ぶ。
書いて、ペン先をそっと持ち上げる。持ち上げたペンの先に、小さな黒点ができる。点は点のまま、線にならない。ならないうちは、二択の板は折れない。折れないあいだ、眠れない夜は続く。眠れない夜が続くあいだ、眠る夜は救いになる。救いが罪になる夜も、きっとある。それでも、ここにいる。
昼、校庭の白線がいちどだけまっすぐになった。まっすぐな線の上で、シュウトが粉を撒き、ミサキが紙を押さえ、ユウは石を拾う。拾った石は掌で温まり、やがて冷える。冷えた石をポケットに戻す。戻す場所があるうちは、まだ大丈夫だと、誰かが言った気がした。誰かは、もういない人かもしれない。いない人の声の高さを、ミサキが上手に真似る。真似する声が、秒針の遅れを取り戻すときの音に似ている。似ている音を胸に入れ、ユウは目を閉じないまま、夜を待った。
夜は来る。潮は満ち、赤い月は雲の裏から顔を出し、鐘は鳴るかもしれないし、鳴らないかもしれない。鳴る前の震えだけが、確かだ。確かなものだけで、板を並べる。ひとつ、ふたつ、みっつ。薄い橋の上で、ふたりは歩く。歩きながら、手首。肩。最後に名前。呼ばれない名前が喉で光り、呼ぶまえに夜が明ける。明けた朝に、また細い字で書く。
——見失っても、失わない。
——失わないために、起きている。
——眠るときは、ふたりで。
塔は海の底へ傾いたまま、今日も鳴らないふりをしている。ふりで生き延びることと、ふりをやめること。その境目は紙の裏にある。紙の裏は、手の温度で少し柔らかい。柔らかさを確かめるように、ユウは手帳を閉じ、三番の柱の影を探した。影は短く、夜はまだ遠い。遠いもののほうが、やさしい。やさしいもののそばで、二択は静かに揺れつづける。揺れの上で、彼は知っている。どちらを選んでも、守ることと失うことは、ほとんど同じ行為になるのだと。それでも、選ばないまま、見張りつづけるやり方が、たしかにあるのだと。
「今夜も、三番の柱」
ミサキが言う。ユウは頷く。頷いた拍子に、胸の中の鐘が、ほんのわずかに鳴りそうになって、鳴らなかった。鳴らない音が、いちばん長く、骨の裏に残った。残った音のぶんだけ、次の丸印は、きっと濃くなる。濃くなっても、書ける。書けるうちは、まだここにいる。ここにいる、と言えるうちは。




