第10話 潮汐
潮の表が新聞の天気欄より正確に読まれるようになったのは、赤い月の満ち欠けと死亡者数の折れ線が、ほとんど重なり始めてからだった。役場の廊下に貼られたグラフは、誰が見てもわかりやすいように太い線で描かれている。丸い満潮の印の夜は、ふくらんだ線が上を向き、人の線も一緒に上がる。上がるたび、名前が失われる。欠けに向かうと線は少し緩む。緩むと、人は油断して眠る。眠ると、また線が跳ねる。紙の上の二本の線は、まるで息の合った二重唱みたいに寄り添っていた。誰も、それをきれいだとは言わない。
役場は「眠りのシフト表」を配った。町の全戸に封筒で届く。封筒の中には、曜日ごとに色分けされた表と、注意書きが三枚。仮眠は一時間以内。仮眠の前後に冷水。家族単位で交代。共眠は推奨しない。ただし未成年は例外として、保護者の監督下で——。紙は慎重に言葉を選び、慎重さの分だけ冷たかった。眠ることが制度になった。制度になると、否認は形式に堕ちる。掲示板の白い紙は相変わらず「夢はない」と言い張るのに、裏では夢に触れないための眠り方の手引きが配られている。町全体が矛盾の上で静かに均衡していた。
学校では、その表に合わせて授業の時間割まで組み替えられた。午前の数学は午後に回り、夜間待機の時間帯に合わせて補習が増え、体育館の照明は一晩で二度だけ完全に落ちる。教室の時計は、たまに秒針を逆に刻み、それでも全体としては前へ進むふりを続けていた。進むふりの上で、誰かの名前が消える。
ユウは家に戻ると、役場の表とは別に、自分たちの手帳をつくった。文房具屋で買った安い罫線ノート。表紙の角を少し丸くして、指に吸い付く紙を選んだ。見開きで一週間。左の列に「眠る日」、右の列に「眠らない日」。眠る日は小さく丸をつけ、眠らない日は細く線を引く。丸の日は、抱き合う。線の日は、話す。毛布は屋根裏から移したままの場所に置き、合図はいつもの順番——手首、肩、最後に名前。名前は鍵だ。鍵を乱暴に回すと折れる。折れる鍵を抜く道具は、もう町にない。
「眠る日、今週は三回しかない」
「欠けに入るから、役場の表も緩んでる。だから怖い」
「緩むと、人が眠る」
「眠ると、誰かが終わる」
会話は短く、正確で、冷えた。冷えた文の合間に、ミサキは小さな丸印を指でなぞった。触れただけで、紙の角がやさしく沈む。沈んだところから、昔話を取り出す。眠らない日のために、言葉を増やしておく。
線の日の夜、ふたりは観覧車の三番の柱に背を預け、互いの過去を交換する。先週覚えた祖父の時計の話をミサキが言い、今週新しく話す川の光の続きはユウが持つ。交換は、少しずつ巧くなった。どちらかの記憶が霧に飲まれそうになると、もう片方の口が先に形を作る。文の角をやさしく支えると、文は倒れずに進む。進み方は歪でも、戻って来られる程度の深さで済む。そこまでを、合図が守ってくれる。
「緩んでる夜って、においが薄いね」
「潮のにおい?」
「それも。鉄も。鐘の影も。ぜんぶ薄い。薄いと、眠れる気がしてしまう」
「眠れる気がするのが、いちばん危ない」
「危ないのに、うれしい。ひどいよね」
「ひどい。でも、その嬉しさがないと、持たない」
丸の日の夜は、毛布の中で短く落ちる。落ちる前に、手首。次に肩。名前は、ほとんど口に出さない。口に出すと、鍵穴が見えてしまう。見えてしまうと、目当ての鍵じゃないものまで差し込みたくなる。合わない鍵は折れる。折れる音が、いちばん遠くまで届く。毛布の中は狭く、狭いところに温度が溜まる。温度は危険だ。危険だと知りながら、温度がないと人間は持たない。どちらにも傾けないまま、浅い眠りの端を行き来する。端の向こうで、鐘が三度、鳴る夜も、鳴らない夜もある。
緩みの週の真ん中、検疫官は町内放送で優しい声を装った。「皆さん、仮眠は大切です。指示に従って、交代で休みましょう」。その日、音楽室のピアノの上で、古い楽譜がひらひらと落ちた。誰かが眠ったのだ。落ちた音は小さかった。小さいのに、廊下の隅々まで届いた。噂はすぐに別の物語を作る。「先生の葬儀で泣かなかったから、今になって泣いたんだ」。泣くと目が腫れて眠くなる。眠くなると落ちる。等式はまだ生きている。
シュウトは、役場の表と自分の手帳の表を重ねて持ち歩いた。白いチョークで段差に粉を撒き、放送部の古い録音機を点検し、体育館の照明のタイマーを二重にセットする。正義を板の裏に仕舞った彼は、代わりに段取りで町を支え始めた。段取りは正義よりもやわらかく、やわらかいぶん、疲れやすい。
「ユウ、シフト表の写し、渡しとく」
「ありがとう。こっちは、俺たち用」
「……黒いの、なんだ」
シュウトの視線が、手帳の最後の数ページで止まる。真っ黒に塗りつぶされていた。マジックの濃い色が紙の裏まで滲み、次のページの隅に黒い影を作っている。ユウは手帳を閉じ、少し笑って言った。
「そこには、何も書けない。日付も、約束も」
「塗ったの、おまえ?」
「うん。先に暗くしておけば、未来に対して余計な期待を持たずにすむ」
「期待、持ってもいいと思う」
「持つのは、たぶん生き残ったやつの役目だ」
シュウトは口を結び、うなずいた。そのうなずきは、賛成でも反対でもなく、今はそれで持たせる、という意味だった。人間は、合図を減らしながら、意味で持つ。
欠けの終わりに、死者の数は本当に緩んだ。役場のグラフの線が一度だけ水平になり、掲示板の前で、誰かが小さな声で「よかった」と言った。その小さな声は、町の空気を一瞬だけやわらげた。やわらぐと、人は眠る。眠ると、翌朝、港の倉庫でふたり同時に冷たくなっていた。父親と子。枕元に古い毛布が一枚。毛布のふちが、塩で硬くなっていた。
葬儀では、また泣かない。泣かないことは礼儀になってしまった。礼儀は人を守るが、長く続けると人を削る。削られたところから、夢は入り込みやすい。夢を否認する紙は、今日も新しいホチキスで留められた。紙は新しく、言葉は古い。
ユウは夜、観覧車の前で手帳をひらいた。丸印の夜でも、目は閉じない。眠らない夜でも、目は乾かない程度に瞬きをする。黒い塗りつぶしの手前に、かすかな余白が少しだけ残っていた。余白は数行。そこに、小さな文を新しく置く。
——明るくなったら、灯台のふもとで弁当を食べる。
——ミサキの川の話の続き。台風の翌日、川底の石が一段深くなる。
——シュウトの録音機、テープを新しいのに替える。
——鐘は三度。名前は最後。
書きながら、黒の向こう側に手が伸びる感覚がした。伸ばした手は、何にも触れない。触れないのに、温度だけが指先に残った。温度は危険だ。危険でも、ここで生きていくには必要だ。
「ページ、真っ黒なの、いや?」
ミサキが横から覗き込んで聞いた。ユウは手帳を閉じ、彼女の指を軽く握った。手首、肩、名前。順番を確認する。名前は、まだ言わない。
「いやじゃない。見えているほうがこわい」
「見えるほうが、約束したくなるもんね」
「約束は、いちばん重い」
「でも、ひとつだけなら、書けるよ」
「ひとつ?」
「明日も三番の柱。これだけ」
ユウは笑い、ペンを取り、黒の手前、余白の端に細い字で書いた。
——明日も三番の柱。
字は細く、かろうじて紙に引っかかる程度の濃さだった。濃くしすぎると、黒に吸われる。かろうじて、が今のやり方だ。
潮は、満ちる。赤い月が雲の向こうから顔を出すと、海の音が低くなり、鐘の影が背中を撫でる。撫でられたところが、うすく冷える。冷えは合図の前触れだ。手首。肩。名前は飲み込む。飲み込んだ名前が喉の奥で光る。光は弱く、しかし消えない。消えないうちは、鍵は折れない。
役場の表は、次の満ちを予告している。紙の上の線は、ためらいなく上を向く。人の線も、上へ向かう準備を始める。準備は、祈りの別名だ。祈りは紙に貼られない。だから、手帳にだけ書いておく。丸と線が交互に並ぶ見開きの上で、ふたりの言葉が増える。増えるほど、白いページは減る。減り続けた先に黒がある。黒の向こうに、なにも書けない場所がある。あるのに、見えない。見えないもののほうが、よく見える夜がある。
「ユウ」
「なに」
「今日、鐘は鳴ると思う?」
「わからない」
「わからないって、救いだね」
「うん。わからないあいだだけ、約束しなくてすむ」
「じゃあ、約束はしない。明日のことも、しない」
「でも、手帳には書いた」
「書いたね。うそつき」
「ふりがうまくなった」
「ふりで生き延びる」
ふたりは笑い、観覧車の骨組みが薄く鳴いた。鳴り方は鐘に似ず、ただの鉄の音だった。ただの、が今は十分な救いになる。夜風の向こうで、灯台が目を細める。細めた光が、黒いページの縁を一瞬だけ透かした。透けたところに、白い点がひとつ残っていた。誰もそこに印をつけない。印をつけない白が、今夜の約束の代わりになった。
潮汐は、町の呼び名になりつつあった。潮の呼吸に合わせて人が眠り、起き、数え、減る。紙は整い、言葉は削れ、合図は守られる。守られた先で、最後の鍵はまだ折れていない。折れていない限り、明日の欄に小さく書ける。
——ここにいる。
——明日も。
——三番の柱で。
それだけを書いて、ペン先をそっと持ち上げる。黒の向こうは、見ない。見ないふりをやめない。見たふりも、やめない。ふたつのふりのあいだで、潮は満ち、欠け、鐘は三度、水の重さを通って骨の裏へ届く。届いた音の分だけ、手帳の白はまた細くなる。それでも、細い白は残る。残った白の上で、今夜も、呼ばない名前の順番を確かめ続ける。




