[30]固まる執事⑥
自分自身の身体をゆっくりと動かして、肉体の返してくれる反応を感じ取り、その様子をじっくりと観察した。
充実した力が、お腹の底のほうにたまっているのがはっきりと解り、タクミは小さなユーリに口の端を吊り上げて笑って見せた。
手に入れた力は十分に、この若い魔法使いを満足させてくれるものだったらしい。
「どうじゃ、タクミ。神を喰った味は?」
「なかなかいいですよ。今までは出来なかったことも多かったけど……そう、今ならこんなことも出来そうな気がします」
ニッと笑うとタクミの姿が、ユーリの目の前から掻き消えた。
「ほら、出来た」
消えたはずのタクミの声が彼女の後ろから聞こえる。
「ほぅ。ここは、汝と盟約を結んでいるアデューの地でもないというのにできるよにな」
ユーリは驚いた風もなく振り返った。
「汝も、これで一流の魔法使いの仲間入りじゃな。もう、年寄りどもに口うるさく云われることもあるまいて」
タクミは1つの神の半身しか取り込んでいない魔法使い、しかも能力的には他の魔法使いを圧倒するほどだったせいで、かなりやっかまれる部分もあったのだ。
まぁ、彼らの嫌がらせにタクミが痛痒を感じていたかどうかと訊かれれば、歯牙にもかけていなかったのではあるけれど。
「まあ、煩いのが居なくなるのは嬉しいですけどね」
と、素っ気無く返しながらも、内心で笑いを堪えていた。
年寄りといっても、ユーリさんの半分くらいしか生きてない人たちじゃないか。年齢的に、彼女が年寄りなんて云える相手は、それこそ悠久を生きる神くらいのものだ。
とは云え。
もちろん、ユーリさんは年を感じさせるところなどまったくない若々しい活力に溢れた人だけど、それはたぶん一緒に生きる相手、つまりは練磨センパイのお陰だろうとタクミは思っている。
「さあ、先輩の所に戻りましょう」
「わらわはずっと夫と共に居るぞ」
そうだった。こちらに来ている分身のさらに精神の一部だけがベレッタに憑依していたのだ。愛弟子であるタクミももちろん、彼女にとっては大切な存在なのだろうが、もっとも大切な、無二の存在は彼女の夫だ。
戦う夫を放って、弟子の様子を見に来るはずもない。
タクミはユーリの言葉に静かな笑みを浮かべ、その小さな体を抱き上げた。
「とりあえず、飛びますよ」
「うむ」
可愛らしく童女が頷いた瞬間、タクミの瞳に写る景色が変わり、耳に痛いほどの金属音が飛び込んできた。
眼前で、火花を散らす剣戟の嵐。人智を超えた者たちの争いの余波は衝撃波となって、魔女の騎士と軍神を中心に広がっている。
「妨げろ」
タクミは眼前に迫る不可視の、それでいて凶悪な威力を秘めた衝撃波に向かって、命令した。
物理の法則に沿って飛んでいた衝撃と言う名のエネルギーがまるで意思あるもののように急停止して弾けた。
その威力はまだ微かに形を残していた家屋が崩壊するほどだ。そうだと云うのに、タクミには微風すら届かない。
意思のない衝撃という名の波は、魔法使いの言葉を忠実に守ったのだ。その結果にもタクミは満足を覚えていた。
これも以前には出来なかったことだったからだ。
「いいようじゃな」
振り向くと、日傘を優雅に差した淑女がいた。場違いなこの女性はユーリことユレイリア・フォン・クレア本人の分身だ。漆黒のロングスカートの裾が衝撃で微かに揺れている。鋭すぎる朱瞳の目尻が心なしか下がって見えるのは、目の前に彼女の夫がいるからだろう。なんにしても、魔性を深く宿した女性だ。
「はい。少しずつ、出来ることが理解できてきますよ」
にんまりと外道の師弟が笑った瞬間、タクミの腕の中で、カクンっとベレッタの首が下がった。……憑依が解けたようである。
並んで人外の戦いを観戦するタクミとユーリ。アデューとレンマの戦いはより一層熾烈を極めてきた。瓦礫の上で二人の男が凌ぎを削る。片方は喧嘩、もう片方は極めた剣術。軍神は剣術の祖でもある、つまりアデューは剣神でもあり、普通で考えたならば、如何に今の彼がただの人の身を間借りしているにしても剣を用いての勝負で負けることはない。
しかし、アデューの相手にしている男はその普通に当てはまらない。
「センパイが勝ちそうですね」
「当然じゃな」
剣での勝負を眺めているには呑気な二人である。この男が負けることなどありえない、っと疑うことすらないのだ。
目の前で繰り広げられているのは、命の取りあいだ。自身が竜巻のように身を回して繰り出す横薙ぎの斬撃、膂力と速度で獰猛に迫るレンマ。その力を、嘘のように殺し、あるいは反らして、鋭い反撃につなげるアデュー。
大気が焦げるほどの打ち合いを演じたレンマが、後ろにパッと飛んだ。軽く飛んだように見えても、その跳躍力は脅威だ。真後ろに向かって滑るように、その身が浮かんで、路地の向かいの屋根に着地した。
しっかりとした足場を得ると、低く重心を落とし、鋭く息を吸い込むと左上段に構えた。厳しい眼光がアデューの昂揚した顔を睨みつけ、次の瞬間、吼えた。
「うおぅおらぁっ!」
同時に踏み込む。先ほど背後に飛んだときの跳躍も人間離れしていたが、今の踏み込みはそれとは比べ物にならない。
アデューとレンマの距離が一瞬で零になる。タクミが使う本物の瞬間移動とは違うが、その場にいた者には、レンマの身が消えたように見えた。
魔法使いとして超常の力をもっているタクミとユーリはもちろん、軍神であるアデューにすら突然眼前に現れたように見えた。まさに神速。アデューも神速で剣を振ることは出来るが、それらはハンドスピードに過ぎない。体ごと消えられるような脅威的なポテンシャルの持ち主はレンマだけだろう。
唐竹割りの一撃が振り下ろされる。アデューだけでなく、空も大地もすべて斬れよ。そんな気迫が篭った斬撃だった。いかに、軍神の業をもってしてもこの一撃は、受けようがないと判断したらしい。
あえて、剣を引き、致命傷を避けて体躯で受けた。軍神の神気をおろした人間の二の腕が、レンマの神無しの剣に、まるでバターを切るように裂かれていった。
勢いの止まらない剣はそのまま、足元の瓦礫を爆砕させた。見守る魔法使いたちの紅眼から、立ち上る猛烈な灰塵がレンマとアデューの身を覆い隠した。しかし、次の瞬間、吹き飛ばされたかのようにレンマの身がその灰塵を突き破ってきた。何本もの赤い糸がその身を追って、宙を飛んでいる。
その赤い糸は、次いで飛び出てきた片手の神の剣先に続いている。
勝機と見たのか、喜悦を含んだ笑みを浮かべたアデューは、今までにない強引さで疾走した。
もんどりうって瓦礫に埋まっていたレンマが、その瓦礫を吹き飛ばしながら跳ね起きると同時に大剣を跳ね上げた。切っ先がアデューの胸に抉りこむように伸びる。が、今までの凶暴な速度がなかった。急所を何箇所も刺し貫かれたのが効いているのだろう。
ぬるい剣が、軍神に届くはずもない。
レンマの攻撃を抜けて届くアデューの鋭い刺突。閃光のように凄まじい速度で伸びてきた剣先は、レンマの首の皮を破った。
しかし、それを見ても二人は笑っている。
それどころか彼らはレンマの変わりにこう云った。「もらったな」と。
完璧な一撃を繰り出しつつ、アデューは二人に訊いた。
「なにをだね?」
言葉を吐き出した瞬間、この甘美な時の終焉を告げる肉を割る音が耳に届いた。魔法使いたちを視界に収めると、意外なことに彼らは、未だに笑っていた。この男と彼らの結びつきは強いように思えていたのだが、意外に淡白な関係だったのだろうか。と、不可解に思った瞬間、仕留めたと思った相手がしっかりとした声を掛けてきた。
「俺の勝ち、だっよ」
「ぬぅ……まだっ!?」
振り向いたアデューが見たのは、獣のように歯を剥いた男の鋭い眼。剣を返そうと思ったが、肉に食い込んで抜けない。剣神としての意地がアデューに、剣を手放すことを拒否させた。迫り来る鉄色の嵐。
レンマの大剣があっさりと神の首を落とした。
中空へと飛ばされた首は無造作に伸ばされたタクミの掌に収まった。胴体の方は、ゆっくりと後ろに倒れ伏した。目の前の光景は、人が神に勝った瞬間という一枚の絵。
「お見事です。センパイ」
滝のような汗を流しながら、剣に体をあずけて荒い息をつく男。彼はほんとうにただの人間に過ぎない。
僕のように他の存在から力を得ているわけでもない。
そんな男が、神を斬った。
誇らしげな気持ちで、レンマに歩み寄った。そんな僕に先んじて、ユーリさんが走り出した。
「どうよ?」
ニィッと屈託のない笑みを浮かべるレンマ、その首筋にユーリが飛びつく。
「ユーリ……どうした?」
傘を放り出して、ギューッと抱きついているユーリさんにタクミはこれ以上近づくのを遠慮した。
「別にたいしたことではない」
「……?」
小首を傾げたレンマに、ユーリが微笑んで囁いた。
「ただ、わらわが汝に惚れ直したということよ」
耳朶に口付けし、そして頬をなぞる様にして、ユーリの唇がレンマのそれに重なった。
「あつあつだね」
生まれて初めて生首に話しかけられた。少しだけ、頷きながらも、ゾッとしないものだなっと苦笑する。
慣れというのは恐ろしいもので、恐らく自分はこれから一生、怪現象には驚かないだろうと思う。何しろ世の中の怪現象のほとんどは、自力で起こすことができるだろうからね。
もう、生首が喋る程度では驚けないのだ。ただ、ポタポタと血が垂れてくるのが、気になった。片腕に抱かれたまま眠っているベレッタの身に掛かってはかわいそうだ。
せっかく、こんな可愛らしい服を着ているのに。
タクミは、足元の瓦礫を見つめ、スッと眼を細めた。不可視の力が働き、瓦礫の山が盛り上がる。盛り上がって浮き出したのは、子供用の小さな寝台。あちこち圧壊してはいたが、まだ何とか形を残している。
ベレッタを優しくその寝台に寝かしつけると、タクミは視線を生首へと戻した。
生首を回転させて、目線の位置まで持ち上げると、軍神が器用にウィンクしてきた。
「やあ、おめでとう。共犯者殿、見事にリシトの力を取り込んだようだね。私の神眼には、君の体が輝いて見えるよ」
「契約は完了したと思っていいのかな?僕の共犯者さん」
「ああ、もちろん。あの娘は寵愛者から外す」
「外す?」
軍神の物言いにタクミの眉がピクリと動いた。
「いや、失言だ。外した、外したよ。共犯者殿」
冷たい視線に突き刺されても、軍神は痛痒を感じていないらしい闊達に笑っている。
「ならば、良しだ。これ以上、レインに付き纏うな、ただの肉の器が欲しいなら他を探せ。僕と僕の愛する者たちの見知らぬ誰かなら、僕はおまえと敵対はしない」
朱の瞳が冷たく光る。鉄面皮となったタクミの全身から威圧感が噴出した。並の者なら、気を保つことも出来ない圧力だ。
「敵対っか。なるほど、確かに今の君なら、この私と敵対することも可能だな。それだけの力があることは認めよう。だが、私がレイドゥースをすこし可愛がることくらいはいいだろう?あれも我が大地の娘であることは変わりないのだ。可愛い娘を思いやる父の気持ちを汲んでくれまいか」
「そんな必要はない。レインを守る力は僕が作り出したもので十分だ。神などあてにはしない」
軍神の謙った申し出を、切るような鋭さで魔法使いが拒否した。
そして、遥か彼方の戦場の方角を伺うと、何かを見定めるように瞳を閉じた。頭の中に広がる真っ黒な空間のイメージが、ぐんぐんと加速して知覚範囲を広げて行き、地平の彼方にタクミの使徒であるルクスとティコを示す赤い点が見えた。そしてそのそばに一際強く感じる指標がある。タクミが生み出した魔剣だ。そしてそこにはレイドゥースがいる。陣の奥深くに味方に守られているだろう彼女のイメージがタクミの中で沸いた。
練り上げた計画は、まったく隙がないはずだ。彼女に危険は及ばない。
でも、不安で震えてるかもしれない。
なにしろ、彼女にとっては初陣だ。
そんな彼女の近くに早く行って上げたかった。「大丈夫ですよ。僕がお守りしますから」と云って肩を抱いてあげたい。
そして、今の僕には、レインのそばに一瞬で行けるだけの力がある。
いっぱいの愛情をこめて、タクミが魔法を練った。
「今すぐ、僕をレインの元へ」
タクミの体がだんだんと透けていく。
支えを失った生首が瓦礫の上に落ちる。ごろごろと転がり、表情のある方が上になって漸く止まる。
「そうは云うがね。我が共犯者殿。盾は多い方が良いとは思わぬかね?例え、それがどのような材質で出来上がっていようとも、今、確実にレイドゥースは守られているのだらかね」
面白そうにタクミを見上げて軍神は云った。
「守られる?……彼女は前線にはでないはずだぞ」
「行って見ればわかるさ…………ああ、そうだ。云い忘れていたがな、共犯者殿が手にしたのはリシトのほとんどすべての力だ。残った意識の方とカスのような力は、今、戦場で、肉を得たぞ」
なに!?
「神喰い、の最期にすこし間を置いたろう?あれがいけなかったな」
鉄面皮が崩れそうになった瞬間、僕はエティマから戦場に転移し、こんどこそ驚愕の表情になり、大声で叫んだ。
「なんで、レインが斬り込んでるんだーーーーー!!!」
なぜか、ソラステェル全軍の先頭に、僕の一番守りたい人がいる。
なぜか、彼女は、残りカスのような力しか持っていないとは云え、受肉した悪魔に向かって突撃している。
なぜか、彼女はやる気満々だ。
タクミの瞳に送られてくる情報の中の彼女は、すこし怒っているようでもあり、何かを心配しているようでもあり、ほんの少し嬉しそうに見えた。
レイドゥースが剣を頭上でぶんぶんと振りながら、口唇を開いた。何か叫ぼうとしているのか、僕は魔法で集音した。耳にレイドゥースの声が響く。
「いい加減に、私をエティマに通しなさい!!もし、タクミが泣いてたら、あなた、後で酷いわよ!!?」
瞬間、すべてが理解できた気がした。
「ルクスの奴。口を滑らしたなぁ……」
っと、なんとか口に出して呟けはしたのだが、あまりにも可愛く、そして予想も出来なかった暴走にドッと疲れが出てきて、僕は口を明けたまま…………固まったのである。