[25]固まる執事①
5年間、来るか来るかと言われてきて、ついに来なかった開戦に若い騎士たちが皇都を解散となって二月がたった。
そんな時代の中で『開戦』という一報が東の大都市バルベスに届いたのはアンスカレット家に飛び込んだ早馬から少し遅れてのことだった。
城塞都市にして多くの貴族たちの邸宅があるこの街よりも速く情報が届くのはやはり皇国を守護してきた勇者たちの歴史のなせるものだろう。
しかし、アンスカレット家の私兵など皇国の大貴族たちの抱える兵力に比べれば微々たるもの。彼らだけで戦争を終わらせることが無理だということは子供にでもわかることで、もちろん、この城塞都市からも多数の兵士たちが戦線を支え、押し返すべく出兵していった。
二日以内には、皇都にいる皇軍も動き出すだろう。なにしろ皇軍の団長のひとりはレイドゥースの父親で現アンスカレット家の当主だ。娘の危険を察すれば、全軍を引き連れて飛んでくるのはまちがない。
「あ~あ、ついてないわねぇ。こんなことになるんだったら、食料品の先物取引にでも手をだしときゃよかったわ。今なら確実に天文学的数字が儲かるのに」
取るも取り敢えず、援軍を向かわせようということで最前線部のフェリックス要塞に集合令を受けた兵士たちがさながらアリの行列のように長々と列を作って行軍していた。
その中腹で馬の背に揺られながら天を見上げたのは戦場に向かうというには派手な装いをした女性だった。
「先物取引は危険ですよ。ミアン様、私の曾祖父もそれで大失敗してしまい、私の代でも返せるかわからないそれこそ天文学的な借金を背負ってしまったんですよ」
横に並んで馬を走らせていたトリアが朗らかに自分の不幸話を暴露した。
しかし、それを売りにしているというわけではないらしく、たんたんとした物言いだった。
そんなものを超越してしまったところにいるのが、このトリアという剣術の腕前だけは人より秀でた皇騎士の悲しいところだった。
「元金がないんだもん。一番手堅い麦と豆の相場はどっかの誰かさんが買い占めちゃってるみたいで一週間ほど前から市場から消えちゃったのよ。誰だか知らないけど事前に開戦のことを知ってたのかもね」
絶対失敗しない投資。
「皇都も見抜けなかった開戦を予めるような人がいたら、その人はもう人じゃないですね」
「まったくだわ。もしかしたら噂に聞く魔法使いって連中かもね」
よっぽど悔しいのか天を睨み付けながらミアンが唸る。
「そんな……魔法使いが俗世でお金儲けしてるっていうんですか?」
そんなミアンにトリアが可笑しそうにクスクスと笑った。
彼女の言う魔法使いのイメージは、杖を持った白い髭もじゃのお爺さんといったところだった。
「それもそうね」
クスクスと笑うふたりの声が東の空に高く響いていたとき、行軍はまだ平和だった。
突如、舞い込んだフェリックス要塞陥落の報が飛び込んでくるまでは……。
東の大平原は肥沃だ。
そこに住むすべての人間だけでなく、皇都のすべての人間を養えるほどの穀物を生産する大地。そこは昔からたくさんの国の憧れだった。
いろいろな国がこの大地を求め、奪い合い最終的に手に入れたのがソラステェルという当時は王国だった国だ。
餓えを覚えることのない大地。
そう長い間、言われ続けてきた。
「麦がないってどういうことだよ!!」
「あたしたちを飢えさせる気?!」
その幻想が崩れた。
バルベス上層部にあるいつもなら活気に溢れた市場が喧噪に渦巻いていた。
市民が開戦の報とともに食料の買い占めに走ったのだ。
しかし、ここに来て市民たちはやっと気づいた。
市場に、主食である穀物が消えていたことに。たしかに、数日間の蓄えならある、しかし先の見通しができないのが戦争だ。買い溜めに走るのは当然の心理であり、それができなかったことが市民たちの恐怖心を煽った。
なぜ、今まで気づかなかったのか?それは、戦争が始まる今まで市場に穀物がなくなりそうになるとほんの少しずつし物資を市場に流している人間がいたからだ。
彼らはバルベスの地下に潜み、この時をずっと待っていたのだ。
「上が騒がしくなってきたねぇ」
遙か上層に微かに見える太陽の光を眩しそうに見つめながら口元が綻んでいた。
「嬉しそうね。ドキー母さん」
ステフはドギーを見て微笑んだ。
表情を表せないドギーの顔だったがステフには母が微笑んでいるのがわかった。
「ああ、楽しいね。こういう大きな仕事をやるのは何年ぶりかわすれちまうくらい昔のことだからね」
ドギーもリシトの呪いを喰う前までは商人として生きていたのだ。女だてらにと言われつつもそれなりに立派な門構えの商家を持つに至っていた。
ギシラ王国没後は、その富を流民たちに無償で分け与え、なんとかあの地獄のような戦場から逃げ出してきたのだ。
「頼りにしてるよ。これからは表舞台で商売人としてのタクミさまを支えるのがドギー母さんの役目なんだから」
「この勝負はまぁ、リハビリにはちょうどいいさね。バカがやったって儲けをださないようにするのが難しい。これで感も戻るだろうさ」
当時、金融街の嵐とまで言われた凄腕トレーダーのドギー。波のように移り変わりの激しい金の流れを自在にコントロールしていたのである。
「がんばってよー。今日がグレフ商会の立ち上げの日になるんだから」
グレフ、商会。
東の平原に住まう獣の王は火獣ではない、真なる王はその空にいる。グレフと呼ばれる肉食の巨烏、群れを作ることなく一匹で空を飛ぶこの雄大な鳥は時には二メートルはある火獣をそのかぎ爪で空へと攫っていく。
タクミは翼を広げたその鳥の力強さを酷く気に入っていた。自由に空を飛ぶ姿が好きだった。
そして、もう一つ。
自分の本名。鷹谷拓己にある一字。
鷹。
グレフはその外見が鷹によく似ていた。人のものではない、鋭く厳しい瞳の色、油断を持たない嘴と鉤爪の鋭さ。その何もかもが、タクミの「強さの憧れ」と合致していた。
そこから商人として名乗る偽名を取ったのだ。
しかし、今まではタクミはほとんど一人で動いてきた。もちろん、端々の些事は他の者たちがこなしていたのだが、実質はタクミひとりだった。
だが、一人で出来ることには限界がある。
皇国でも他国でも、商人グレフの名前は知るものは知るといったところまで来ていた。
そろそろ、会社として動き出しても良い頃合いだったのだ。
もちろんトップはタクミ、そこからかなり下がったところにルクスにドギーが付き、他のみんなが続くわけである。
まぁ、そのためにはドギーたち『崩れた人間』が皮膚病を治さなければいけない。なぜなら、彼らが働いているというだけで酷いマイナスイメージとなるからだ。
「あたし母さんの表情が早く見たいわ」
「見せてくれるさ。タクミ様がね」
頭をあずけてきたステフをドギーがギュッと抱きしめた。
「長ぁー!!相場見てきたんじゃが、飛びまくっとってすごいぞい。生鮮食料品で5倍、保存利くやつは12倍じゃったぞい」
嬉しそうな声をあげて長老の一人が飛び込んできた。荒れた皮膚の上で相好を崩しているのはドギーとも国を脱出してきたときからの付き合いの男だった。
「しかも、今、貴族が買い占めに走っとるらしい、軍隊に送る備蓄もあるんじゃろうが……まぁ、ちょっとした危機感を覚えた小心者の行動じゃね。おそらく、金に糸目をつけんじゃろ。こりゃまだまだ、上がるぞい」
「そりゃ、良い感じに動いてきたねえ。でもね、ハスラ。あんまりはしゃぐんじゃないよ。あたしらは目立つからね~」
ドギーの諫言も耳に入らないのか、脚の不自由なハスラは、常に携帯している杖を子供のようにぶんぶん振り回した。
嬉々としたした様子に、ステフとドギーも仕方ないねぇ、と言った笑いを浮かべた。
実際のところ、ハスラのようにみんなが心躍っているのだ。
そわそわと、みんなが落ち着かない様子で歩き回り、頬を紅潮させている。
「そうわ言うがな、こういう心躍るイベントは今までなかったんぞい。さっきから心臓がうるさいくらいに鳴っとる」
「ハスラ老、あんまりハッスルすると商売始める前にコロッと逝っちゃうよ」
「なにを言うか、嬢ちゃん。これから、やっと人生が面白くなってきそうじゃなのに、こんなところで死ねんぞい!」
「まったく、その通りだね。……あの子たちも無事に姫様をお守りして帰ってくると良いけど」
症状の軽い若者たちはみんなが武器を取って出撃していた。もちろん、戦争に参加しに行ったわけではない。
もしもの場合を考えてレイドゥースを守るためだけに向かったのである。
バルベスに残っているのは女たちと重度の皮膚病者たちだけだった。
「息子のバレルが指揮しとるんぞい!?あの子はギシラの民軍の将軍じゃったこじゃ、心配なんぞせんでもちゃんと姫様を守ってかえってくるぞい」
姫様とはもちろん、主人の思い人であるレイドゥースのことだ。
ハスラがそう呼び始めてからは、いつの間にかその敬称が広まってしまった。
いつか、タクミのことを王子様と呼び出しかねない様子である。
「まぁ、悪知恵の働くルクスもいっしょだし、直接先頭に姫様が加わることもないでしょ」
「ま、何かあったらタクミ様が怒り狂うことも目に見えてるしねぇ、そんなことになることをみすみすさせる男じゃないわね」
タクミの副官的人物、ルクス。
一番の腹心たる彼はタクミについてとてもよく知っている。
タクミがどれほどレイドゥースに執着しているかも。そして、それに危害が及んだときの反応も。
ねぇ、ルクス?もし、もしだよ。レイドゥースさんのお散歩コースにでっかくてよく目立つ石がおちてたとするじゃない。君なら、その石をどうする?
当然!砂になるまで粉砕するね。
どうして?
決まってるじゃないか?!もし、お嬢さんがそのどー考えても蹴躓きそうもない石ころにだけどさ、なんかの間違いですっ転んだとするだろ?!!んでもって、膝を小さくすりむいたとするだろ?!!!
そしたら、どうなると思うんだい?
どうなるの?
ボスが大地を腐らして、なにもかも砂に変えちゃうね。お嬢さんが二度と転けないようにね。そのときの、ボスの恐い顔と言ったら洒落になんないよ。怖いぞ。怖いぞ。なーんにも悪いことしてなくても、見つめられるだけで平謝りしたくなるんだ。っていうか、三秒以上見つめられたら心臓が痛くなる。
こう、キリキリと差し込むような痛みがくるんだよ。
一分見つめられたら、心臓止まるんじゃないかな?試したことないけどさ。
まぁ、そんなわけだからだね。オレは、ボスのウィークポイントというか、オレにとってもウィークポイントみたいなお嬢さんの安全は全力で守るよ。
オレ自信のためにね☆
今回だって、いろんな作戦を練ってお嬢さんが現場に出なくても良いように考えてんだよ。
騎士たちの隊長カジマは、ボスの怒ったときの怖さを知ってるはずだから、できるだけノロノロ行軍するだろうし、前線にはいろいろと理由をつけて戦力を集めてあるんだわ。
厚みを作った戦線ならお嬢様も一番前には出てこないでしょってワケ。もともと、血の気の多いって感じの人じゃないしさ。
頭いいよね?さすがオレって感じ。
って………………それなのに。
「なんで、ここにお嬢さんがいるんだぁぁあーーーーー!?」
ルクスは戦場で呆然と立ち尽くし、目をまん丸にして絶叫をあげた。
視線の先は地平の向こうに微かに見える砂埃。ルクスのよく見える目に写っているのは、ここにはまだまだ現れないはずだったもの。
膠着した戦場のはるか後方にアンスカレット家の家紋を飾った旗が怒濤の勢いで迫ってきていた。
夜刃の神さま、ヘルプ。ボスに殺されそうになったら助けてください。……死神の神さまってこんな願いでも聞いてくれるのかな?