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[幕間劇]ティコと子猫と月夜の晩



 アンスカレット家近隣の大地は緑が濃い。その深い森の奥には、豊富な木の実や果物などが生い茂り、そこにはたくさんの草食動物が暮らしている。


 もちろん、その動物たちをねらう危険な動物もたくさん集まってくるのだが……それは、以前のことだった。


 この森には、もはや危険な生き物は存在しない。


 なぜならば、彼らにとってもっと危険な獣がこの森の近くに生息しているからだ。


 平原のハイエナとよばれ、かなり昔にとある執事を喰い殺しかけた火獣や、その火獣を主食とする鷹によく似た怪鳥たちすら恐れて近寄ってこない恐怖の魔獣。


 その燃えるような毛並みに、どこまでも見通す深緑の瞳。口元に覗く鋭い牙は、何者をも切り裂き、食いちぎり、蹂躙する。


 血のように赤い口元から漏れ出る恐怖の叫び声は『ニャー』。




 森の獣たちは耳を伏し、瞳をとじて聞いた。ただ震えることしかできない己をふがいなく思いながら……。


 彼の魔獣を呼ぶ、恐ろしき悲鳴。


 ああ、今日の被害者はいったいどこの森のだれなのか?




「ティコー。もうすぐ朝食の時間よ、タクミが探しに来る前に家にもどりましょー」


「ニャーオゥ」


 赤い魔獣をその手に抱き上げたのは、朝露に濡れた黒髪も美しいアンスカレット家の令嬢、レイドゥース・ドルス・フォン・アンスカレットという。赤い魔獣は彼女の弟のペット。その魔獣はティコと呼ばれた。




 ティコの今までの人生は、ある意味波乱に富んでいるかもしれないと自分自身でも思っている。


 まず、生後すぐにヒルコだったことから親に捨てられ、あとは同族か鳥の餌になるしかないというところを今の主人に救われたわけだが…、それがまた妙な種類の人間だった。


 なんと、その人間は獣ワールドでも噂に聞く珍しい存在。


 魔法使いだったのである。


 怪しげな鍋でごった煮にされること数時間、ティコはある意味生まれ変わった。


 そう、生後一日足らずでティコは…新たなる生を受けたのだ。


 その生とは『猫!』


 それ以来ティコは猫として生き、猫として主に仕え、猫として主に甘え、日々普通の猫たろうと努力を惜しまない日々なのである。


 ティコ自身、なんて猫らしい猫なんだろうと感心する日々だ。


 毎日、朝にはレイドゥースの散歩の護衛をしながら、マーキングを欠かしたことはない。縄張りに入り込むものがいれば、容赦なく排除した。まさに、猫だ。


 ネズミ(火獣)を見つければ必ず飛びかかるようにしている。それはもう、DNAに刻まれた本能のごとく、飛びかからずにはいられない条件反射となってっているのだ。まさに、猫である。しかし、そこは自分も子爵家の猫。得物をその場で租借するようなことはしない、物陰で口元を隠しながら美味しくいただき、その後、口元を濯ぐのは基本中の基本である。


 もちろん、毎日、爪を研ぐことも忘れない。キッチンに忍び込み、煮魚を一匹失敬しつつ、包丁研ぎで念入りに磨き上げ、その鋭さを確かめるためにルクスに飛びかかる。これは重要だ。ティコの主人タクミのもう一つの顔である、大商人グレフに恨みを持つものたちが送り込む刺客を片っ端から三枚に卸さないといけないからである。これも猫としての嗜みである。


 そして今、猫じゃらしを持参し構いに来てくれるにこにこ顔のレイドゥースに思いっきりじゃれつくことも忘れない。ここで重要なのは、猫じゃらしに夢中になりすぎてフルパワーを出してはいけないということだ。鋭すぎる爪をヒルコのからだで優しく包み込み、肉球の三倍気持ちいいティコ球でもってレイドゥースと戯れるのだ。


 ああ、なんて気の付く猫なんだろう。自分の有能さを再認識する瞬間だったりもする。


 楽しそうに遊ぶレイドゥースを見つめるタクミの優しげな顔。頬が緩んでいるところを見るとティコの仕事は成果を上げているらしい。間違いない、あとで褒めてくれるだろう。今夜の夕食は鯛のお頭が付くかもしれない。


「にゃ~」


 満足げな泣き声は意図しないでも漏れてくる。間違いない、自分は今、猫だ。






 そう、ティコの今までの人生は、猫になりきることだったと言ってもいい。


 自分について不思議に思うこともなく、アイデェンティティは猫!と言い切る。それだけでよかったのだ。


 そう、今の今までは。


 自分が雄なのか?それとも雌なのか?という命題を抱くまでは……。




「にゃ~にゃ~にゃ~」


 ティコは自分以外の「ニャ」という音に眠りの世界から引き戻された。


 いったい何事かと窺えば、目の前に真っ白な子猫がいた。自分のような生き物がそんなにたくさんいるとは思えないので、たぶん外見どおり猫なのだろう。


 鼻面を押しつけてくる子猫を寝ぼけ眼で、珍しいこともあるものだと見つめた。


 ハッキリ言って、ティコは動物たちに恐れられている。それは当然のことだ、自分の正体は図鑑で調べたところ北方の無重力地帯にのみ生息する龍という生き物らしいし、なにより主の血を受けて遣い魔となった身だ。


 いくら何でも体臭まで猫と同じにすることは出来ない。漏れだすのは龍と魔法の匂いだ。


 その匂いだけで小動物たちは脅えて森の中に逃げ込んでしまう。


「にゃ~にゃ~にゃ~」


 それなのにこの子猫は自分に鼻を押しつけてくるのだ。


 ティコはその子猫をジーッと見つめていたが、三十分ほどニャーニャー鳴かれて、やっと気づいた。


(これは…もしかして…乳がほしいのか…)


 見ていると子猫は自分のお腹の辺りに鼻面を押しつけまくっている。


 もしかしなくても、お腹がすいているのだ。


(まったく……母親はどこへ行った?)


 と、思って愕然とする。この子猫はいったいどのくらいの時間、自分に体を擦りつけていたのだろう?


 クンクンと鼻を鳴らして、ティコは己の間抜けさに呆れた。子猫にはきっちりバッチリ自分の匂いが移っている。これでは、森に返したところで母親は現れまい。


「ニャフー」


 怪しげな猫語が口から漏れてしまった。


 しょうがないなぁ……自業自得と諦めて暫く面倒見てやろう。どれ、乳でも出しますか……。


 あれ?あれ??


(そういえば、私って雄なのだろうか?それとも雌?)


 初めて抱いてしまった自分に対する疑問は、ティコを激しく揺さぶった。




 毛皮は雄のものだった。だから、ティコは自分はなんとなく雄なのだろうと思って生きてきたのだが……子猫が乳を欲しがったとき…意外なことに……乳を出せるんじゃないかっと思えたのである。




 1分だったのか、それとももっと時間がたっていたのかティコにはわからなかったが、とにかく暫く静止した。まだ目の開ききっていない子猫はいよいよ腹を空かせたらしく、盛大に泣き出した。






 ヒョイッと小猫の首の上の毛皮を軽く咥えて、吊り上げた。


 ブランブランと体を揺らせながら小猫は相変わらず泣き止まない。


 スクッと立ち上がると、後ろ足を撓めて、軽く弾んでみる。フンワリとしたまったく力学に当てはまらない動作で、二十メートルほどの高さのお屋敷の出窓に音もなく降り立った。


 人の寝静まった深夜である。出窓はもちろん、きちんとロックされていた。タクミの率いる使用人たちだ、カギのかけ忘れなどあるはずもない。


 ティコは両の前足で器用に小猫を挟むと、その小さな猫の顔をべタっと窓と窓の間に押し付けた。


 グググッと押し付けると、向こう側からそうとうに不細工な猫面になっているのだろうが、ほんとうの驚愕はここから始まる。


 幅が一ミリもない両開きの窓と窓の隙間、そこから赤いものがニュニュニュ~と漏れ出してきたのだ。


 一定量の赤いものが室内に移動するとポンッと膨れてティコの顔が出来上がった。


「ニャオ~ン」


 この移動方法、フッまさに、猫だね。とティコ自信は思っているのだが、いくら猫でもこの隙間は通れない。


 内カギをを器用に外すと、静に扉を開けて、自分の下半身とそれに抱かれた小猫を招き入れた。


「ティコ何つれてきたの?」


 誰もいないと思っていた室内から突然の声。


 暗がりからルクスが月明かりに出てきた。闇に潜むこの男はティコの五感であっても捕らえるの難しい。昼と夜では、その能力にかなりの開きがあるというのもティコが生まれた次の日からの付き合いである、それなりに知っていた。


 昼間なら、この男をおちょくり倒すこともできるが、夜の間はちょっと自信がないというのがティコの偽らざる本心である。


「ニャコ」


 単語を1つだけ返す。


「猫?」


「ニャ」


 イエスという風にコクンと頷いた。


 ぶら下がっている小猫を確認してなんでこんなものを?といった風にルクスが首を振る。


「食べるのかい?」


「チニャウ!!」


 否定の絶叫といっしょに思わず、猫ビームを発射してしまったが、ルクスの纏った濃密の闇にあっさりと掻き消されてしまった。


 ううむ、やっぱり夜は手強い。


 日が昇ってから仕返しをしよう。


「おいおい。危ないなぁ、俺が避けてたら壁に大穴空いて屋敷のみんなが飛び出してきてるぞ?そうなると、ボスの機嫌もわるくなっちゃうよーん」


「ニャウ?」


 なぜ?主人の機嫌がわるくなるのだ。


 タクミがそんなに狭量ではないことをティコはよく知っている。


「今ねぇ。お嬢さんの部屋で夜更かし中、って言ってもカードで遊んでるだけだけどさ」


 ニヤニヤと笑うルクス。


 しかし、それを聞いてティコは悩んだ。


 一刻もはやく、自分の正体が知りたいのに!


「ニャーニャーニャーニャー」


 空腹に耐えかねた小猫がより一層の大声で鳴き出し始めた。


 知りたい!でも、主人の至福の時間は邪魔できない!でもでも知りたい!


 世にも珍しい葛藤する猫を見てルクスが大笑いしたがティコはそれに気づきもしなかった。




 深夜零時のレイドゥースの部屋。


 この部屋に入ることが出来るの男はほんの数人に限られているが、その中でも日が暮れてから入れる男性は1人しかいない。


「ああ!またジョーカー引いちゃった」


 ムゥーッと恨みがましい視線をタクミに向けているレイドゥース。


 お酒のちょっと入った瞳はすこーしだけ潤んでいる。


「ほぼ100パーセントの確立で引いてますね…くっくっ…ジョーカーがどれかわかるのでしたら、それを避ければいいじゃないですか?」


「むーっ…笑わないでっ!…私だってそのくらい考えてますー。でも、考えた据えの無難な一手が、なぜか裏目に出ちゃうのよ」


 眉根をよせて頬を脹らませるレイドゥースの様にタクミに小さく笑う。


 こちらも彼女の相手をしていたのですでにかなりの量を開けているタクミ。しかし、致死性の毒薬を飲んだところで死に到る前に毒の成分を分解してしまうような躯ゆえ、タクミが地下のワインセラーか選んできたレイドゥース用の上品なお酒ではまったく酔えていなかった。


 途中からは、自動機械に入れればエンジンが動くのではないかと思われるほどのキツイ酒をロックで呑んでいた。


 咽の焼け付く感触と辛口のわりに、スッと口の中で切れるこの酒がこのごろのタクミのお気に入りであり、「ガソリン」という愛称が与えられていた。


「ねっ……タクミ。ちょこーっとでイイから、そのお酒の味見さしてくれない?」


「いいですけど…ほんの少しだけですよ?舌先をつける程度にしたほうが…」


 了解すると、説明するようリ先に、キラキラと光る黒い瞳がタクミに近づいてきた。内心で慌てながら、何事かと身を引いたのだが、レイドゥースが顔を近づけたのはタクミの唇へではなく、その口元に置かれていたグラスの中身だった。


 テーブル越しに身を乗り出した彼女はタクミの手首をぐいっと引っ張り、筋の通った鼻梁を可愛らしくヒクヒクとさせた。


 って……レインったら胸元が際どいよ。


 二人で飲んでいるときのレイドゥースは自分の限界が普段よりもかなり早くなってしまうらしい。この程度の酒量で、こんな貴族の娘あるまじき態度をすることは普段はぜったいないことなのであるが。


 まぁ、それだけ安心してくれてるってことだよな。


 心の奥でほんの少しだけ、安心されていることが男として『イイこと』なのか『ワルイこと』なのか、考えてしまったが、舌先を伸ばしてペロペロと猫のようにガソリンを舐めているレイドゥースの色っぽい姿を見ていると、そんな思考はどこか心の中のどうでもイイ場所へと消えていってしまった。




 お酒と談笑と相手の存在を楽んでいた二人が、漸く「二人ババ抜き」が恐ろしく不毛なゲームだと気づき始めた頃、どこかで元気に鳴いている猫、それも恐らくは小猫の鳴き声が聞こえてきた。


 抜いてしまったジョーカーのカードを手持ちの四枚のカードのいったい何番目に並べようかと苦心していたレイドゥースが、その手を止めてその声のありかに聞き入った。


「珍しいわ。ティコ以外の猫の声をこのあたりで聞くなんて」


「屋敷の周りの動物達はとても静ですからね」


 朝に森を散策するレイドゥースにはいつもティコが引っ付いているのだから、他の動物が息を殺すのは当然だったが、そのことは教えずにタクミも相槌をうった。


 ニャーニャーニャーと騒ぎだてる声は収まることもなく、さらに大きくなってきている。


「あら?近づいてきた」


 耳を澄ませて嬉しそうに微笑む。


 ピコピコと尖りぎみの耳が反応してゆれているのが可愛い。


 タクミは扇状に開いたカードを丸テーブルに放って、目を瞑って音を追うレイドゥースを見ていた。




「あっ!」


 鳴き声に聞き入っていたレイドゥースが突然、手を打って頷いた。


「タクミ、もしかしてこの小猫ってティコの子供じゃないかな?」


 嬉しそうに云うレイドゥースにむかって、いえいえ、そんなことは生物学的にはありえません。などとはもちろん云わない。


 ニッコリと微笑んで、そうかもしれませんねっと答えるのは当然のことだった。


「でも、ステディのところに通ってた様子も、身篭った様子もなかったから……迷子猫かもしれませんよ」


「そっかぁ……残念だなぁ。ティコの小猫見てみたかったな……んん??あれ?」


 小首をかしげて頭の上にクエッションマークを浮かべた。


「ねぇ……ティコって女の子だったかしら?それとも男の子?」




 アルベルン北方の無重力地帯に発生している巨大な蛇に似た獣、龍。


 その生体は未だ謎な部分が多いが、特異的な彼らの子孫の残し方はそれなりに知られていた。


 彼らには、最初性別は存在せず、時が来たとき、群れの中で一番大きな成体が雄となり他はすべて雌となって優良な子孫を残すのだ。


 つまり、現段階ではティコは未分化であり、性別はない。




 ……んだけど、それをどうやって説明しようかな?


「ねぇねぇ?どっちなの~?」


 内心、ちょっとだけ焦りぎみのタクミ、ティコに関する新たなプロフィールを高速で脳内に組み立てている間も、レイドゥースはタクミの体を激しくゆすりつづけていた。







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