[11]隣に立つ人②
タクミ。
平原で出会った、ワタシの不思議な弟。
「お仕事って……どこ行っちゃったのよ」
タクミは昨日から家にいない。
「ちょっと仕事で外に出てきますね。……ボクがいない間に危ないことしちゃいけませんよ」
そんな軽い言葉で、タクミはレイドゥースの前から消えてしまった。
「あれじゃ、すぐ帰ってくると思うじゃない」
お気に入りの陽のあたるテラス、いつもなら隣にタクミが居てくれて視線を上げれば笑ってくれて……。
それなのに、今は誰もない。
ハーーーっ
レイドゥースは丸テーブルに突っ伏すようにしながら息を吹きだした。
おでこを冷たい木のテーブルにくっつけて、そのままジタバタする。
つまらないなぁ。
顎を上げて机に引っ掛けるように置く。
伸ばした手の先、広げた指の間に見える彼女の大地。
コンクリートと鉄の街、バルベスにはない緑の大地。
美しい眺めだと十人が十人とも言うだろう。感銘を受けた画家がこの地に住み着いたという噂もある。
しかし……
「……退屈だわ」
タクミがいないとワタシはダメらしい。
レイドゥースの愛する大地もこの空虚な気持ちを埋められないらしい。
レイドゥースは一日でそのことに気がついた。
「シド爺」
親しみを込めた声で呼びかけられてシドはゆっくりと振り返った。
相手は解っている、シドをこの名で呼ぶ者はすくない。
「レインお嬢さま。どうなされましたかな?そんなに息せき切られて」
早歩きしてくるレイドゥース、彼女にいつものスッと空気が斬れるようにして動く空気はない。驚いたことにパタパタと足音を立てていた。
それを見て取り、シドはレイドゥースが自分に声を掛けてきた、だいたいのところが解った。
「あのねぇ、シド爺。……タクミがいないの」
やっぱり。
「あのね、朝に起こしに着てくれなかったし…それにご飯のときにも居なかったのよ」
「お嬢さま。タクミは昨日に御屋形さまの名代で屋敷を出ておりますよ。……出かけに聞きませんでしたか?」
とっさに主の名を出してウソをつくシド。
タクミが言わないなら、それは自分が言うことではないというのがこの老齢の執事のポリシーだった。
その場合、シドの主であるランドルフの名を使うことも余り気にしない。
「お爺様の?」
それを聞くと、レイドゥースはフワリと笑った。
レイドゥースにとっての師でもあり、もっとも頼りになる人物である彼女の祖父がタクミに重大な用件を任せることは彼女にとって大きな喜びだったからである。
「何時頃、帰ってくるかな?」
先ほどの不安そうな顔から一変して嬉しそうにレイドゥースが聞く。
しかし、シドはレイドゥースの問いに対する答えを持っていない。
タクミは昨日に急に用事があるといって、フラっと出て行ってしまったのである。
もちろん、ランドルフに断ることもない。
誰に言われるまでもなく、先に動くのがタクミの良いところだとシドは思っているがこの失踪癖にはとても困っていた。
レイドゥースは皇都に居たので知らないがタクミはよく消える男なのである。
ただ、タクミは屋敷内の者達に細やかな指示と気配りを残すので、あまり迷惑になっていない。
「さて、あちこちの国を回っているでしょうから。……一週間以内には帰ってくると思うのですが」
最後の言葉は言わなかったほうがよかったと、後になってシドは後悔した。
「……一週間……?……そ、そうなんだ。ふ~ん、いっぱい回るんだね」
レイドゥースの微笑がどこか固まったモノになっていた。
本人は気づいていなかったかもしれないが、あれは子供が大好きな友達と別れなければならないときにするどこか泣きそうな目だった。
「……そっか。……お使いなんだ」
小さく呟きながらレイドゥースはシドに礼を言い下がっていった。
後姿がシュンとしていた気がしてシドはなんとなく気まずい。
「タクミ。貴方の想い人が寂しがっておりますよ」
シドは小さく呟き、言葉と一緒にため息を吐いた。
暫くは、レイドゥースのあの物憂げな顔で毎日、質問されるだろう。
「ねぇ、シド爺。タクミから連絡ない?」
胃が痛くなりそうですよ。タクミ。
ああ、タクミが出かけてからまだ一日と半分、シド爺にタクミが他国に出てことを聞いてからならまだ半日のに……ワタシはとても暇だった。
時間だけが無駄にあまっているような気がする。
「実際、あまってるよ」
やる事がなく、ゴロゴロとしている時間はすごいスピードで過ぎるというけど、やりたい事というか、共有したい時間があるのにそれが出来ないときのゴロゴロはゆっくり過ぎるらしい。
「剣でも振ろうかな」
素振りを二千本ほどやってみようか?疲れたらぐっすり眠れるかも知れないし、それを繰り返したらタクミが起こしてくれるかも……。
うん。
レイドゥースは自分の考えに満足して、いそいそと庭に下りていった。
振り棒用の普通の剣よりずしりと重い剣を正眼に構えて、吐き出す呼気と共に振り下ろす。
風を斬る音に一歩先んじて落ちる長剣が芝生の上で止まる。
酸素を吸うと共に剣を振り上げる。
レイドゥースの剣はこの状態から振り上げながら突く型も有るのでただの振り上げにも棘があり、この連動する二つの単調な型すら緊張感があった。
しかし、いつもなら祖父の組んだ剣技の真髄にすぐさま没入するはずなのだが、今日はどうも乗ってこない。
裂帛の気合を込めて型を行なっているのに、頭にはタクミばかりが浮かんできた。
タクミ、ワタシの不思議な弟。
平原で倒れているのをワタシとお父さまが見つけたのは、ワタシが今のタクミと同じ年のとき。
血の匂いに群がってきた獣たちの真ん中でタクミはたった一人でいた。
あちこちに噛み傷があり、出血が酷くて顔も青ざめてた。
でも、開いた瞳だけがギラギラと光ってて、でもその瞳の中に陰りが見えて。
差し出した手に触れると泣いてた。
痛みで泣いてるんじゃないってわかった。タクミはもっと他のものに泣いていたんだろう。
タクミは泣きながらワタシの名前を聞いてくれた。
どこかに無くした何かを手に入れたように、安心したように、ホッとしたようにタクミは思い切り泣いていた。
泣きながらタクミは意識を失ったけど、それでもワタシの伸ばした指をタクミは離さなかった。
血にまみれたタクミをお父さまが背負おうとしたけどワタシはそれを断った。
タクミが意識を戻すまで、この繋がった指を放そうとは思わなかったから。
ねぇ、君はなんで一人だったの?
ねぇ、君からはどうして知らない匂いがするの?
ねぇ、君はどこから来たの?
ねぇ、君はどうしてあの時ワタシに泣いたの?
お家へと、取って返す馬車の中、ワタシは揺れる車内でタクミの小さな身体を抱いていた。
振動だけでも苦しそうなタクミを少しでも守るために。
腕の中のタクミは苦しそうだったけど、とても安らいでも見えた。
ワタシはタクミに心の中で質問する。
ねぇ、君はどうしてワタシの心に一瞬で住み着いたの?
ワタシは十八才で始めて人を助けるためにこの手を汚した。
火獣に引きづられるモノを見たときだろうか、それとも名前を聞かれたとき?
そうじゃない、たぶんワタシが何者かを見通そうとした、あの鋭くて雄雄しい瞳に射られたときだろう。
ワタシは動けなくなりそうだった。
あんなに弱さを内包した鋭い敵意に晒されたことはなかったから、でもあの子の弱さに触れてしまうと何時の間にか離せなくなっていた。
一番の不思議は人一倍、人見知りの激しいワタシがタクミを放さなかったこと。
タクミ。
ねぇ、貴方はワタシの………なんなの?
「……気の抜けた稽古じゃのう」
三階の自室から剣を振るレイドゥースを見ていたランドルフは嘆かわしげにため息をついた。
いつのまにか、レイドゥースの剣速は視認の限界くらいまであがっていた。
剣の残像が絶えず、振り上げの瞬間、振り下ろしの瞬間、そして中段への突きの瞬間に現れつづけている。
風斬り音が低音になってきている。これ以上のスピードが出れば大気が斬れて真空が発生するだろう。
異様な音が響く中庭に屋敷の者達が不安げに出てきた。
音の発生源を見ればそこには彼等の主家の娘がいる。
なるほど、これは稽古なのか!と思っても、頭が痛くなる音を発生しているレイドゥースの異様な稽古に止めるべきなのか、見守るべきなのか、彼等は悩んだことだろう。
周りも見れないほどに没入していると回りの者達には見えていた。
しかし、
「ワシの型も、大した事がないのう。タクミの残姿すら斬れんとは」
ランドルフの目にはレインの目の前に立つタクミがしっかりと写っていた。
まったく、あの若造は我が孫をよくぞここまで引き付けたと思う。
決意を秘めた者、それだけがランドルフが初めてタクミを始めてみたときの観想だった。
死にかけの重傷者を息子が拾ったからと言って興味を惹かれるランドルフではない。
しかし、死んでいるはずの身体を己の意思で活かしているタクミにはほんの少し興味を引かれた。
眠るタクミの横に孫娘がずっと詰めていたことが気にはいらなかったが………
さらに、タクミがその身ひとつであることも気にいらなかった。家柄などしか見ない男ではランドルフは決してなかったが、家柄と言うモノがひとつの力であることもよく理解していた。
もちろん、家柄が良いと言うだけで孫娘の隣に立たせようとは思わないが、当時のタクミにはランドルフを納得させられるだけの凄みも余裕も、そして力もなかったのである。
今では、手に余るほどに小憎たらしい男になってしまったの。
しかし……っと、ランドルフは思う。
「タクミよ。急がねばオマエの宝がその手から落ちるぞ」
ニンマリと笑いながらランドルフはレイドゥースを見つめる。
彼女には、ランドルフの決めた婚約者達がいる。タクミに一歩、先んじた者達が。
「やはり、剣は叩いて磨き上げてこそ本物となるからの」
ほっほっほ、ランドルフの楽しげな笑いがテラスに響いていた。