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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

貴方と珈琲と宝くじ

作者: 宮野愛理

過去にアンソロジーへ寄稿したものを改稿しました。

テーマは「宝くじ」

 柿本 誠、二十八歳。

 年末恒例の宝くじが当たった。


 俺のことを一言で説明するにはまずそれになる。

 たぶん、それは大変な効率ですごい幸運なんだと思う。俺だって仕事が軌道に乗る前までは一攫千金を願っていた。しかし、長年の夢であったコーヒーショップが運営出来る状況になったタイミングでは、無用の長物でしかなかった。


「店長さん、宝くじ当たったんだって?」


 あぁほら、まただ。俺がたまたま買ってたまたま当たった三億円は、誰にも言っていないのに近隣の誰しもが知る情報となっていた。

 小さな町の小さな商店街の片隅で、延べ床面積は約二坪。目の前の道を通勤で行き交う人がふらっと立ち寄るだけの俺の城は、開口一番に不躾な質問を口にする自称〝お客様〟がたむろする場所と成り果てた。


「宝くじ……当たると良いですよね。コーヒーはどちらにいたしますか?」

「俺さ、実はパチンコでやらかしてさぁ……お恵みしてくんないかな?」

「……」


 パチンコで素寒貧(すかんぴん)だとしても、そんなことは俺には関係ない。


「おたくがまだ開店して間もない時に、コーヒー買ってやったじゃん」


 買ってやった、そんな風に恩着せがましく言う相手の顔なんて覚えていない。つまりはまぁ、そういうことだ。

 はぁ、と口からこぼれそうな溜息を飲み込んだ時……。


「おい、客じゃないなら退いてくれ。こっちは注文をしたいんだ」


 ピシャリとした硬質な声が〝自称客〟の背後から響いた。

 ちらりと見やれば、長身で威圧感のある男が一人。濃紺のスーツは皺もなく、スラックスの折り目はきちんと整っている。俺なんかには不要と思えるような、立派なカフスボタンにネクタイピンまでしっかりと装着していた。

 どこからどう見ても高給取りのイメージそのままだ。

 ほけっと俺とパチンコ男が見上げていると、眉間の皺を増やしたスーツ男が「それで? 退くのか退かないのか」と低い声を出した。


「あ、はい! すんませんっ!!」


 叫びながら、振り返りもせずにパチンコ男が逃げ出す。スーツ男は苦々しげに鼻を鳴らし、こちらを見やって「ブレンドを一つ」とだけ言った。その一連の動作もまた映画やドラマの一場面のようで、良い男は些細なところから良い男なのだなと感心してしまう。


「かしこまりました」


 そう言ってコーヒーの抽出へと移る。

 久しぶりの純粋なお客様だ。こんな人の口に合うものが淹れられるかなんて心配も胸によぎったが、それはそれでこれはこれだ。自分の思う一番を目指して、慣れた動作を進める。


「あぁいった客は多いのか」

「……前は違ったんですけどね、最近はちょっと。なので明日からは少しの間、店を閉めようと思いまして」

「ふぅん……?」


 宝くじに当たってからまだ一週間。それなのに、パチンコ男とのようなやり取りが続いていて、ほとほと疲れ切ってしまった。しがらみのない新天地で、また同じような面積の城を持つのも良いかもしれない。

 そう思いつつ、ブレンドコーヒーをお渡しして「ありがとうございました、良い一日を」と声を掛ける。久方ぶりのお客様に、出来る限りの笑顔を向けて……。

 そんなやり取りをして、店を閉めてから一ヶ月。それはそのまま、俺が狭いアパートに引き籠もっていた期間だ。

 必要最低限の外出はしているが、出歩けば誰かしらに声をかけられる。そして言われる台詞は決まっていた――『羨ましい』『なんで当たったのか』『それだけあれば』『商店街への寄付を』――だいたいそれの繰り返し。


「疲れた」


 家にいても電話は鳴り止まない。投資ビジネスの営業電話ならまだマシで、夢を追いかけ続けた俺を勘当した実家からもかかってくる。当時、それを取りなすでもなく放置していた親戚からは、詐欺まがいの儲け話や借金の申し込みばかりがかかってきて、面倒になってスマホの電源を切った。

 そうすると世界に切り離されたような心持ちになる。ぼんやりと考えていた閉店準備や、この部屋の引っ越しも頓挫している。

 俺はこのまま死ぬんだろうか。気付けばそういった暗い考えばかりが頭をよぎる。つらい、疲れた、もう嫌だ……でも死んだところで誰にも偲ばれず、通帳のなかの当選金だけが喜ばれるのだと思うと、このまま死んでしまうのも嫌なんだ。


 ――ピンポーン


 ぼんやりとそんな思想に染まっていた俺を、インターホンの呼び鈴が現実に引き戻した。また銀行の営業マンだろうか。

 幸い、この部屋には据え置きでモニタ付きの物が付いていたので、それで来訪者を確認することが出来る。

 しかし覗いたモニタにいたのは来訪者の顔ではなかった。


「ネクタイ……?」


 営業マンのそれとは違い、モニタ越しにもわかるような高級なものだ。


《すまない。きみに配達の依頼をしたいのだが、いいだろうか?》


 あぁ良い声だ――と認識して、スーツと相まってその持ち主が記憶の片隅に浮かび上がった。でもその人はこの自宅を知っているはずもなく、そんなまさかと自分の考えを打ち消す。


《急な話だが、是非きみにお願いしたい》


 これが電話越しで、その内容だけを聞いていれば配達の依頼とすぐに理解出来ただろう。だが自宅のインターホンとモニタを使用しながらの会話では違和感しかない。

 それまでの暗い思想や妄想が凝り固まって、さらに突飛な進化を遂げたのかと自分の神経を疑った。


《仕方ないな。――では、失礼する》


 そのまま去って行くのかと思ったら、ガチャリとドアの鍵が開いた。思わずポカンと見つめてしまうと、ドアの先にはあの時に店に来た男が立っている。

 相変わらず高級そうなスーツに、前回とは違う揃いのタイピンとカフス、光るまで磨かれた靴――賃貸の安アパートには不釣り合いな男は、ぼうっと見続けている俺に気付いてため息を吐いた。


「どれだけ外に出ていない」

「え?」

「いや、そんな状況になっているのも理解はしているつもりだ。だがこちらも喫緊なのでな。このまま家を出る準備をしてくれ」


 どこに? なぜ? そもそもなぜ鍵を開けられた? そういった疑問が次々と浮かんだが、男の圧倒的な雰囲気に気圧されて口から出ていかない。

 もたもたと財布と鍵を鞄に入れたところで、苛立った男に腕を引かれた。髭をあたる暇もない。


「あ、の……?」

「とりあえずそれだけあれば良いだろう。他に必要なものがあれば、こちらで用意する」


 そう言って、俺の言葉を待たずに部屋を出てしまった。一応鍵を掛ける猶予はくれたが、後はもう流れ作業だ。古いアパートの前にはこれまた黒光りした運転手付きの高級車――それに当然のように押し込められて、横に男が乗りこんできた。そしてそのまま目的地も知らされずに出発する。


「えっと……」

「先ほども言ったが君には配達を……いや、この場合は出張の臨時店舗だろうか。その運営を任せたい」


 目的だけを伝えるのはこの男の通常運転なのだろうか。俺はこの人の名前も、仕事も、何もわからない。ひとまず一番気になっていることを聞かなければ。


「その前に、えーっと……なぜ俺の家がおわかりに?」

「興信所……を使うまでもなかったな。商店街の人間からアパートの隣人まで、君のことを知らない人間はいなかった。宝くじ三億円に当選した男としてな」


 今までなら〝角のコーヒーショップの店長さん〟と認識されていたはずだ。どこまでの人数が男の言葉そのままに言っていたかわからないが、それでも過去の評価や評判などが全て消え去っている。わかってはいたことだけれど、酷く悲しい。


「先日飲んだ、きみのコーヒーが忘れられなくてね。……だがいくら待っても店が開かない。それで調べてみたらこれだ。あの安いアパートメントではこれから先、身の危険も考えられたのでな。臨時店舗の他、君の住まいも準備した」

「は?」

「私たちと入れ違いで、きみの部屋には業者を入れる手配をしてある。あの店舗も。その解約手続きなど、これは君のサインが必要なので後で契約書を持ってこさせよう。先ほども伝えたが、必要なものがあれば都度教えて欲しい。こちらで全てを受け持つ」


 店の移転を考えていた俺にとっては渡りに舟でしかないが、この男の目的がわからない。


「……身代金目的、ですか?」

「なぜそういう思考になるか判断に迷うが、それは否定する。そういえば自己紹介もしていなかったな。私は白須賀勇一郎という。――白須賀グループという名前に聞き覚えは?」

「えーっと、家電とか不動産とかホテルとか……を、手広く扱っている会社?」


 俺の乏しいボキャブラリーに白須賀さんは少しだけ呆れたような顔をしたが、ひとまず間違ってはいなかったらしい。ただそれ以上に手広く商っているのだろう。

 念押しなのか手渡しされた名刺には〝白須賀グループ 代表取締役社長 白須賀勇一郎〟と書かれていた。町の小さなコーヒーショップでは見掛けないような漢字が並んでいて目眩がした。

 確かにこの役職の人が身代金目的の営利誘拐なぞをする必要がない。しかしそれに納得すれば、今度は次の疑問が頭をもたげてくる。


「出張の臨時店舗? それに、衣食住付き?」

「まぁ新規の店舗については追々になるだろう。君はまず、自身の健康的な生活を取り戻したほうが良い」


 それだけ言って、白須賀さんは腕を組んで目を閉じた。つまりこれ以上の会話をするつもりはないと言うことだ。俺だって寝る姿勢に入っている人間にあれこれと話しかける趣味はないし、何か話そうにも思いつくことだってない。

 疑問はまだ尽きないが白須賀さんのこの雰囲気では決定事項で、反対などしても押し切られることは明白だった。

 なんで俺が――三億円が当たってから環境がめまぐるしく変わっていく。同じように移り変わっていく窓の外を眺めながら、そっと息を吐いた。


 ***


 そうして始まった新生活だが、あっと言う間に半年が経った。

 高級車の移動した先には白須賀グループが管理している高級マンション――その最上階のワンフロア全てが、白須賀さんの個人の持ち家の一つ――一般庶民からすると意味がわからない。


「……白須賀さん、またいらしたんですか!?」


 俺の仮住まいと言われたその瀟洒(しょうしゃ)な家に俺の叫びがこだまする。

 他にも何軒か同じような物件を持っていてこの部屋の利用率は高くないという話だったが、気が付いたら毎週末のようにこの部屋で寝起きをされている。

 別にそれは構わない。構わないけれど、俺用にと割り当てられた部屋のベッド――これも引っ越しの際に問答無用で購入された上等な物だ――で寝ているのはどういった了見なんだろうか。

 まぁベッドは貰い物だし、ダブルサイズだし、寝苦しいなんてことはないけれど。

 とはいえ、いくら熟睡しているとしても、ここまでされて起きない俺は一体全体どんな図太い神経をしているのだろうか。


「……んん」

「白須賀さん、今日は何もご予定はないんですか? 嫌ですよ、また秘書の方に小言を言われるのは……」


 こちらのほうが言いやすいからだろうが、何かあると俺に連絡が来る。言っても仕方のないことと思われているから、責任問題などと問い詰められることがないだけで。


「ない……」

「本当ですね? あぁもう、疲れていらっしゃるんですから、ご自分のベッドで寝てくださいよ!」


 白須賀さんの部屋に置いているベッドならロングサイズだから高身長でもしっかり休めるというのに、何度言ってもこのベッドに潜り込んでくる。そして俺を抱き枕のように抱きながら、丸まって寝るのだ。

 疲れているだろうからもっと広々と寝て欲しいのに……このようにして寝ていたら、疲れだって取れないだろう。


「君が、私の……ベッドで…………コーヒー、砂糖に合う、やつ」

「……はぁ。ミルクはどうされますか?」

「今日は、いらない……」


 完璧超人のような白須賀さんは寝起きが大層悪い。先ほどの俺の叫びでも飛び起きないし、ぽつぽつと繋がる会話も途切れがちだ。

 寝ぼけながら抱きしめていた俺を放してくれたが、それだって俺を手放さなければコーヒーが出てこないからでしかない。そうじゃなければまだ俺を抱きしめたままダラダラと寝ていたいんだろう。実際、まだはっきりと起き上がるまでは出来ないらしい。

 今日は朝の掃除をしてから、このタワーマンション併設のジムへ行こうと思っていたけど中止だな。

 広々としたリビングルームに脱ぎ捨てられたスーツを拾ってハンガーに掛ける。同じように、机の端っこに無造作に置かれていたタイピンなどは机上に置かれたトレイに載せた。その際に欠けや曇りがないかもチェック。問題がないことを確認してから、これまた広いアイランドキッチンに置かれたコーヒーメーカーに豆をセットした。

 恐ろしいことに、このキッチンにはあの店で使用していた業務用の機材がそのまますっぽりと収まっている。豆も以前から使用していた取引先のもの。移設費も含め、全て白須賀さんが負担してくれた。多分だけど、あれこれ他に欲しい豆を言えば準備してもらえるだろう。店舗を運営するにあたって利益度外視で豆の選定、焙煎、挽き具合までをこだわることが出来なかったから……とはいえ、飲むのは白須賀さんしかいない。

 俺の今の現状は、白須賀さんの専属バリスタ兼家政夫のような状況だった。あと、結構な頻度での抱き枕か。


「でも、これで良いわけがないよなぁ……」


 衣食住完備で、買い物も全て白須賀さんが請け負ってくれる。旧店舗の撤収やアパートの解約手続き、引っ越し、悪質な営業電話を繰り返していた企業への制裁まで――実際は秘書の方々が尽力してくれたのだと思うが、その音頭を取ったのは白須賀さんで間違いない。

 そのお礼に出来るのが、白須賀さんにリクエストされた時に淹れるコーヒーというのは駄目だろう。給与も出すと言い放たれて、過剰だと言い返したのはこの生活が始まって最初の頃だった。


「……おはよう」

「おはようございます。ちょうどコーヒーが入りましたよ。ご飯はどうしますか?」

「……」

「食べたくなくても食べてください。ホットサンドでよければ有り物で作りますから」


 俺に健康的な生活を送らせようとするのに、白須賀さんは自身の健康には無頓着だ。会食などで遅い時間に食べることもある代わりに、日中は何も食べずに仕事をしたりする。口にするとしてもコーヒーのみとか。俺より三つ年上の三十一歳、今は乗り越えられても先々で絶対に体を壊す。

 自宅で使っていた電動のホットサンドメーカーに、白須賀グループのホテルで作られている食パンを載せる。このパン、一斤で千円近くするんだよな……と思わず考えてしまうが、定期的に届けられるから俺も食べるしかない。おかげで舌が肥えてしまった。

 パンの上にツナとチーズ、それにレタスとトマトも載せて塩胡椒を振る。あとは自動で、焼き上がるまで放置すれば良い。


「コーヒー、お代わりはいかがしますか?」

「ブレンドで。次は砂糖なし、ミルクあり」

「かしこまりました」


 出来上がったホットサンドと、追加リクエストのコーヒーをダイニングテーブルに並べれば、それまで黙々と新聞に目を通していた白須賀さんがこちらを向いた。寝起きのぼんやりした表情は消え去り、いつも通りの大層な男前だ。毎度のことながらすごい変わり身だと感心してしまう。


「何度も言うが、君は家政夫ではないのだから座って一緒に食事をしなさい」

「はぁ……」


 バリスタとしても家政夫としてもおかしな話だが、なぜか同じ席に着くことを強要される。断る前に、さっさと動いた白須賀さんが新しい皿にホットサンドを半分載せ、 コーヒーも新しいカップにたっぷりと注いで渡してくれた。


「いただきます」


 きっちりと手を合わせて「いただきます」と言われてしまうと、俺も手元の皿を消費するしかなくなった。

 いつもこうやって、逃げ道を塞がれてしまう。白須賀さんの思うとおりになっている。でも今日はこの流れに一石を投じよう。立ち消えになっている新しい店舗、白須賀さんがオーナーになるなら雇用契約に、俺の新しい住居の準備。今までにも話そうとしたのだが、そのたびに議論の矛先を逸らされてしまっていた。

 でも、それでは俺が、もう……。


「白須賀さん、今日こそ今後の話をさせててください」

「君がこの家で変わらずにコーヒーを淹れてくれる、以上」

「半年前に仰っていたことと変わっています。新店舗の話はどうなったのですか? 俺の住居は? あの場所から逃がしてくれたことは感謝していますが、もうそろそろ次の段階へ進まなければ……ご婚約、されたんでしょう?」


 出来れば自分の口から言いたくはなかった。しかし、言わなくてはならない。

 白須賀さんのお相手が噂されているような、両家の利益が絡んだ政略結婚だとしても……別邸とも言えるようなこの家に、経歴不詳・無職・住所不定の男が住んでいるのは嫌だろう。給与を辞退した身で言うことではないが、せめて家政夫や管理人として置いてくれれば良いのに、白須賀さんはそれをよしとしてくれない。


「婚約はしていない。君はワイドショーの話題に振り回されているだけだ」

「でも! そうだとしても……俺がこれ以上、白須賀さんのご厄介になる理由にはならないじゃないですか……」


 何より、俺自身が辛い。

 この傲岸不遜が服を着て歩いているような男がこの家で見せる姿を、俺のベッドで子供のように無防備に寝る姿を、見続けるのが辛かった。

 言ったところで理解されないこの感情を、降ろす先がない。


「せめて通いにさせてください。この近く……は、ちょっと家賃の関係で無理ですけど、通勤圏内で部屋を探します」

「通勤時間が無駄だ」

「俺一人を、このまま無意味に養うほうが無駄でしょう!!」


 思わず大きな声を出してしまったが、白須賀さんは淡々とこちらを見据えていた。あくまでも変わらない姿勢に思わず涙が零れてしまう。


「なんで、貴方は……そこまで……」


 俺に執着するのか。同居生活の最初の頃、淹れるコーヒーの味が好きだと言われた。世界を股に掛けるこの男が更なる理想の味に出会う可能性だってある。その時にいきなり放り出されるくらいなら、地盤を固めた上でビジネスパートナーとして距離を置きたい。


「君が好きだからだ」

「俺の淹れるコーヒーの味が、でしょう?」


 交わらない平行線に、とめどなく涙が溢れる。それを見て焦り始めた白須賀さんだったが、一度目を閉じて意識を切り替える――ことが出来ずに、珍しく頭を抱えた。


「え……?」

 長いようで短い生活でも、ここまで煤けた白須賀さんを見るのは初めてだ。心なしか、頬や耳の先が赤くなっているのが見える。


「まさかここまで伝わっていないとは……勿論、最初に好んだのは君の淹れるコーヒーの味だ。あの日偶然飲んで、次に店舗が開くのが待ち遠しく、君の状況を調べてそれならいっそ連れ帰って専属にしようと……まぁ安易に考えたのは間違いない。しかし、それ以降は違う場面でも好ましく感じたんだ」

「た、……たとえば?」

「たとえば、そうだな……。まず、君は急な大金に振り回されたわけだが、気を大きくさせて愚かな真似をしなかった。そしてかなり窮屈な生活を強いているのに、悲観せずに出来るところから役に立とうとする謙虚な心を持っている」


 窮屈な生活をさせている自覚はあったのか……。

 一人で部屋にいて塞ぎ込むより、出来ることを自発的にやるほうが性に合っていただけだけれど、白須賀さんからすれば違うらしい。そんなふうに捉えられていたと知って、むず痒い気持ちになった。


「私の食生活を心配し、ささやかでも食べやすいものを作ってくれた」

「ささやかに見えて、材料費は高い食事ですけどね。今日のぶんも含めて」

「私のために、私のことを思って作ってくれた食事だろう。私はまぁ……お察しのとおり、そういう食事とは縁が薄くてね」


 秘書の方々が私生活の注意をしていたはずだが、それは仕事であってなにか違うと思っていたそうだ。その役職でも思いやりをもって意見を言っていた人だっていると思うのに……。

 他にも色々と伝えてくれたわけだけれど、それ全部ひっくるめて〝好き〟という感情に帰結したらしい。性愛込みの。


「……下世話な話をしますけど、よくそれで俺のベッドに潜り込んできましたね?」

「あれは麻薬のようだな。手を出してはならないのに、潜り込まないという選択肢はなかったんだ。短い時間でもしっかり休むことが出来る」

「ついでにお聞きしますけど、昨夜の帰宅時間は?」

「……三、いや、四時に近かったか」

「寝ましょう!」


 寝起きが悪いと思っていたのが単なる寝不足だとは思わなかった。性愛込みで好意を拗らせていても、疲れが溜まっているせいで眠気のほうが勝ったのかもしれない。

 俺が二十一時には就寝をして、そのまま覚醒することなく朝七時前に起きる生活をしていたから、全く気付いていなかった。


「寝たくない」

「いや、よく見たら隈も酷いじゃないですか! あ、仕事ですか? それなら仮眠として、その時間に起こしますよ?」


 出来れば休んで欲しいが、グループ企業の運営にはあれこれと仕事があるかもしれない。そう思って確認すると「今日は休みだ」と、これまた珍しい言葉が返ってきた。


「ならなおさら、寝てくださいよ!」

「……もう、出て行くなんて言わないか?」

「それとこれとは別の……」

「君がこの部屋にいてくれるのが、私の癒しだとしても?」

「うっ……」


 白須賀さんの見せた弱さに胸がキュンと……なっては駄目なのに、嫌ではない自分がいる。恐ろしい。さっきまで宙ぶらりんな片想いに苦しんでいたはずが、両想いとわかった途端に辛くなくなった。


「と、とりあえず今は寝てください。そして、起きたらこれからのことを話しましょう。ね?」

「……」

「えーっと、今なら……今なら添い寝! サービスします!」


 そう言った瞬間に浮遊感を感じて、自分が白須賀さんの腕の中に収まっていることに気付いた。早すぎて抱き上げられるのを抵抗する暇なんてなかった。

 さっきとは別の、普段は使われていない白須賀さんの自室へと運ばれて、俺のベッドよりも更に広いベッドに寝かせられて、目を白黒させているうちに抱き込まれる。


「あの……白須賀、さん? これは添い寝というより抱き枕ではないですか?」

 そんな俺に頓着せず、満面の笑みを浮かべた白須賀さんはひと息吐いてから目を閉じた。


「おやすみ、誠」

「へ?」


 初めての名前呼び……しかも、呼び捨て。かなりの破壊力に叫びそうになったが、その一瞬で眠りに落ちた白須賀さんのことを考えると叫ぶことが出来ない。ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、寝入ってしまった白須賀さんに少しだけ身を寄せる。


「俺も……好きですよ、勇一郎さん」


 ひっそりとそう呟くと、俺を抱きしめる腕の力が少しだけ強まった気がした。聞こえていないはずなのに。


 こうして……三億円をたまたま当ててしまった俺は、三億円なんて目じゃない男に囲われることになった。いや、囲われるという言い方は語弊があるので、恥ずかしながら〝恋人〟だ。

 心身共に勇一郎さんのものとなってからようやく許可の出た臨時店舗は、白須賀グループの本社ビルの目の前。出入り口すぐの場所に移動式のキッチンカーを置かせてもらうことになった。まぁそのキッチンカーも、白須賀さんが系列の会社から引っ張ってきたんだけれど……そこには以前のような決まったメニューや軽食が並び、休憩時間にはビルで働く人々が列を作るようになった。

 そして家では、勇一郎さんのためだけに特別なコーヒーを淹れて過ごす。あふれんばかりの愛情を、カップにたっぷりと注ぎながら――……。

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