労働の最適時間から人間の生きる意味へ
現代の国々では一週間は七日であり、その周期によって人間の生活が決められている。日本人の場合、月曜から金曜まで働き、土日を休むのが多いだろうか。ただ土日も働いたり、月から金まででどこか休みを入れたりと労働環境によって変わるものがあるだろう。しかし本当にその働き方が最適であるのかを、考えている労働者はどれほどいようか。そもそも最適な労働とはなんなのか。
私がまず疑問に思ったのは最適な労働よりも一週間が七日の周期がそもそも人間に合っているのかという点である。日付などの管理においては七日周期のほうが便利かもしれないが、それが人間の身体や精神において最適であるとは保証されないだろう。そもそも七日というのは配列が偏る性質を持つと私は考えている。
一日目、二日目、三日目・・・、その労働がある日を〇とない日を×と置いて表してみる。(〇,×,〇,×,〇,×,〇)ならば一日目は労働があり、二日目は労働が無く、三日目は労働がある・・・という風な感じだ。その要素の個数は合計七個。そして例えば一日目が月曜日と置くならば、月曜は働き、火曜は休み、水曜は働き・・・という風に表すことができる。こうして労働の周期を可視化できるのだが、こうしてみるとやはり組み合わせは決まっているということがわかるだろう。そしてその組み合わせの中で、「嫌だな」と思うものもあるはずだ。
さて(〇,〇,×,〇,×,〇,〇)はどうだろうか。週五日働くとしてこのような配列として、これはどうだろう。きっと嫌だと思うはずだ。そうでなくとも私はこの配列が大嫌いである。
二日働いて一日休んで一日働いて二日働く。時折に休みがあり、働いているように見えるだろう。ただこれを六日目から並べ替えると(〇,〇,〇,〇,×,〇,×)となる。四日働いて一日休みまた働き一日休み四日働く。これは最低だ。特に職場にストレスが多いならば、自殺したくなるほどだ。
今の例は個人的に最悪な周期と思うところであり、もしも読者もこの意見に共感できるならば、やはり労働の周期は決まっていると私は思う。ともなればこうは言えるだろう、最適な労働の周期は決まっているかもしれないと。
もちろん個人差はあるかもしれない。だとしても自身の身体や精神によってそのバランスが決まっているのは納得いくだろう。それが重要なところだ。自身にあった働き方がそこにはあるということだからだ。
ここで今の形式を少し複雑化する。といっても一般的に使われる形式である。つまりは〇と×を労働時間に変えるのだ。例えば(8,8,8,8,8,0,0)ならば一日目から五日目までは八時間労働であり、その後は二日休みのように表すことができる。先ほどは労働の周期について表したが、これは労働の時間を表すものである。
七日周期ならばその要素数は七であり、労働時間の上限はその要素の和である。こうなると全ての曜日で働かせるといった所業もできそうだ。またこの形式をグラフに変えることによって、より見やすくなるだろう。人間の労働の最適解はその場合、波形によって示されることになる。
ここでは私は無知であるが故、その適切な波形を特定することはできないが、一人一人がそれを知らなくとも、この波形が自分には合いそうだと考えることはできるだろう。結局は波形が人と違おうが、自分に合うものを選ぶだけなのだから、現時点ではそれでもよいと思われる。ただ労働の最適解や因果関係が決まったとき、私たちはそれに従うのが正しいと、効率的だと認めなくてはならない。そうなれば労働の自由度も狭くなることだろう。
さて労働の目的とはなんだろうか。お金を稼ぎ、経済を豊かにすることか。それとも働くことそのものだろうか。私が思うに働くとはお金を稼ぐ以外には必要ない。というかそう区別した方が社会として管理がしやすいのだ。
最適な労働の波形が決まっているとして、それが各々の能力によって決まっているのならば、その生まれや環境によってどの職業とどう働くかは決まっているだろう。そう言われたときに、つまらないと感じたのならば間違いなく君は社畜である。ただこう決まっていたほうが経済を豊かにするという面では効率的なのだ。
私が言いたいのは労働とは労働でしかないというところである。いわば基本として作業なのだ。それ以上を期待するから人々は絶望し、むしろ労働の効率が下がり、休息と自由な時間が無くなり、そしてまた絶望する。働き甲斐など必要ないのだ。
よく社訓などと精神を主義として社員を縛り付けるものもある。もしもそれが過激であったりすれば、むしろそれは自社の首を絞めるだけである。精神の前に労働環境と労働者自身が冷静な判断ができているか、健康的であるかのほうが大事なのだ。そしてそうあるためには効率の良い労働が必要であり、実のところ労働そのものに精神など不必要である。精神にエネルギーを使う分、疲れるだけなのだから。
そしてこうしてみると休息も必要だとわかるだろう。むしろ労働環境が悪い分、休息をしなければ健康は保たれない。本当に精神を大事にすると考えているならば、休息を増やすのが手っ取り早い。偏った思想によって判断が鈍ったとしても、休み、冷静に考える時間があるのならば関係ないのだ。適切な判断をするためには、冷静でなくてはならず、そのためには休息と遊びは必要だ。これは身体の性質だと私は考えており、これに抗おうと精神などと馬鹿をすると、自殺する。
私が言いたいことは精神は労働の効率に悪影響だというところだ。何を作るのか決まっていれば、その技術されあれば、誰にだって作れるというところである。ただ注意しておきたいのは、それが芸術などだとかなり難しいだろうというところだ。非常に繊細な感性がそこには必要であり、それは才能と精神性が含まれてしまうものだからだ。それが本当の芸術であれば。
もしも人類がこの世の全ての法則を知ったとき、それには最適な労働の学問が完成されているはずだ。そういった場合、人間は働く時間よりも暇のほうが増えるだろう。むしろ私が先ほど言った通りで分かると思うが、暇こそが人生のメインなのだ。労働は機械的であるというのが私の主張であるから。
そういった暇な時間が人間に訪れたとき、それは非常に健康的なことだろう。そして非常に無意味に感じやすいかもしれない。ただ、働きすぎて不健康になり死んでしまう日本の現在やそれに伴わない経済発展も大概だろう。ならば労働とは暇を支える基盤でしかない。私はそう思う。
そして人類が全ての法則を知ったとき、人類はその法則を応用して様々なものを作るしかなく、そこには利便性はあるだろうが、それにも限りがあるだろう。その解は決まっているだろうから。こうなったときに最後に残るのは、その法則、すなわち知恵と人間の感性を合わせた芸術だけだろう。
ならば芸術こそが人生の大部分であると至るのは、この現代では受け入れがたいかもしれない。いや、実際のところは日本ではそうだろうか。労働に蝕まれながらも芸術を重んじていることだろう。