あじさいを食べる
母さんはわたしのことが嫌い。
中間テストの理科が100点満点じゃなかったのを隠していたから顔を叩かれた。
中学校に入って初めての定期テストは簡単だから全部満点を取れるよねって母さんと約束していたのだからわたしが悪いんだ。
「お母さんはね、こんなことしたくなかったのよ?菜穂子さんが嘘を吐いたからなのよ」
嘘だ。正直に話したって同じことをするでしょう?
でも、そんなこと口が裂けても言えない。何度もごめんなさいと謝って頭を下げた。
これ以上、母さんの機嫌を損ねてはいけない。
母さんはわたしの夏服のブラウスの袖をめくって、やわらかい二の腕の内側を長い爪でつねった。真っ青なマニキュアを塗った魔女みたいな爪。白い皮膚には三日月みたいな傷あとが二つずつ、わたしが悪いことをした数だけ残っている。反対側の二の腕もおなじ。つねられる度、今日は肉を引きちぎられるんじゃないかなと思ってしまう。
なんでテストの結果を知っているの?本棚の裏に隠していた成績表が見つかったの?
ちがう。今日の母さん、化粧が濃い。よそ行きのワンピースも着ている。母さんがおしゃれをして出掛けるところなんて学校しかない。昨日から担任の先生が気に入らないってイライラしていたから、怒るために学校に来たんだ。そのついでに成績を知ったのかもしれない。
「お嬢さんは2位でしただなんて大声で言われて、お母さん、恥ずかしかった。あの先生、子供がいないからあんなデリカシーのないことができるのね」
母さんはわたしをつねったまま、頭が割れそうなくらい大きな声で悲しそうに言った。
テストで間違えても満点じゃなくても怒らない担任の先生のことは好き。小さいことで褒めてくるからわざとらしいし、悪いことをした人を叱らないからちょっと変だけど、嫌じゃなかった。
でも母さんはそうじゃない。
「学校の先生ってね、学校を卒業してそのまま学校に入った人だから社会を知らないのよ。おまけに結婚もしてなくて子供もいないままおばさんになった先生なんて一番いけないの。貰い手がなかったから先生をしているんでしょうね。菜穂子さんもそう思うでしょう?」
わたしがなんて答えるか母さんは待っている。
母さんに嘘を吐いてはいけない。でも気に入らないことを言ってもいけない。
爪が食い込んだ二の腕からは血がじわじわにじんでいて、痛かった。
「あの先生は変な人です」
嘘だとバレたらもっと母さんを怒らせるのは分かっている。でもこういう時に本当のことを言ってしまうともっともっと恐ろしい事になってしまう。わたしはバカで要領が悪いから何度もそんな目に遭ってきたのだ。
母さんはぱっと二の腕を放した。
よかった。正解だ。
「そうよね。菜穂子さんは賢い子ね。大人のことをちゃんと見ているんだわ」
わたしが正解の答えを出して母さんは嬉しそうだ。
「あんなにお勉強したのに菜穂子さんの成績が悪かったのもあの先生のせいなのよ。今度校長先生にも注意してもらうようにお願いしておくわね」
こうして今日のお説教が終わった。母さんは機嫌を直しておやつの準備が始めているのを見てほっとしたけど、わたしのせいで先生がまた叱られるのだと思うと嬉しい気持ちにはなれなかった。
小さいときは母さんが絶対正解だと思っていた。母さん以外の答えを知らなかった。中学に上がったころから、前言っていたことと真逆のことを言っていたり、あからさまな嘘に気が付くようになった。さっきだって、テストのことを正直に報告しても怒られていたし、母さんは学校を卒業してすぐ結婚したから先生に自慢できるほど社会を知らないと思う。でも、それは母さんだって気づいている。母さんが間違えたことを言わせてしまうのはわたしの要領が悪くて母さんを怒らせてしまうせいなんだ。怒らせなければ母さんを興奮させておかしなことを言われることもないのに、わたしにはできない。
だから母さんはわたしのことが嫌いなんだ。
次の日の朝、天気は土砂降りだった。
母さんは雨が嫌いで梅雨の季節はほとんどイライラしていているから朝ごはんはいつもトーストと牛乳だけ。今日はものすごく機嫌が良くてに何品ものおかずを用意してくれた。炊き込みご飯に焼き魚、ゆで卵、浅漬け、目玉焼き、ウインナー、おひたし、トースト、野菜スープ、コロッケ、ヨーグルト。リビングのテーブルを埋め尽くすお料理。わたしは出されたものをすべて食べた。わたしも梅雨はあまり元気じゃいられなくて朝はいつも少なめに済ませるのだけどとにかく全部詰め込んだ。かあさんのために。
そして、やっぱり気持ち悪くなった。喉の奥で胃液がゴポゴポ音を立てて口いっぱいに苦くて酸っぱい味が広がる。だめ。家では絶対にだめ。3年前の誕生日に母さんの作ったケーキを食べたあと全部床に戻したせいで、戻したものをまた食べさせられそうになったことがあるのだ。わたしのためにせっかくがんばって用意してくれたのだから当たり前だ。今朝も早起きしてわたしのために作ってくれたんだ。出来損ないのわたしのために。
我慢して、我慢して、学校の和式トイレで全部吐き出した。
全部出したと思っても匂いでまた吐き気が繰り返す。ごめんなさいと泣きながら便器に出した母さんが作ってくれた朝ごはんだったものを流した。
昨日の二の腕のつねられたところが痛い。
予鈴が鳴った。もうすぐ授業が始まる。教室に行きたくない。だってわたし、涙が止まらなくて、体から胃酸の匂いがする。でもこのままずっとトイレにこもっていると先生たちが探しに来るかもしれない。かあさんに連絡が行ってしまう。
こんな姿見られたくない。
トイレを飛び出して、校舎を飛び出して、校舎裏の花壇のあるところに逃げた。外はまだ雨が土砂降りで上履きも履いた傘をさしていないわたしはすぐにずぶ濡れになったけど泣いているのが分からなくって良い。雨水が二の腕の傷にしみる。不良の子がここで授業をさぼっているのを見たことがある。今日はさすがに誰もいない。その代わりに、あじさいの株がならんで花を沢山つけていた。ときどき、雨に打たれて葉っぱや花が揺れる。
あじさいには毒があるらしい。図鑑で読んだことがある。
さっき全部吐き出したせいでなんだかお腹が空いてきた。
わたしは目が痛くなるくらい真っ青なあじさいの花をむしって口に入れた。紫、水色、ピンク、白、たくさんのあじさいの中で真っ青な花が一番きれいで毒がありそうだった。毒と言うものはとびきり苦いのだろうと思っていたら口の中には胃酸が残ってて味はよくわからない。別にいいや。とにかくたくさんちぎって全部口に入れた。
学校の花を勝手に摘んで食べてしまうなんて、なんていけないことなんだろう。なんて楽しいんだろう。
小さい時、デパートで色とりどりのマカロンが売られているのを見て母さんが「ああいう不自然な色のものは体に毒なのよ」と教えてくれたのを思い出した。花は自然のものなのに勝手に不自然だと決めつけるのはおかしいけど、もうどうでもいい。
「なにをしているの?」
反射的に振り向いた。
男子が一人、ビニール傘をさして立っていた。
「あっ」
背は低くて髪はクシャクシャでメガネをかけていて、制服のワイシャツは少しぶかぶかだった。知ってる。隣のクラスの、園芸委員で、理科のテストで満点だった、学年一位の男子だ。
「あじさい、食べてたの?」
どうしよう。見られた。
なにも答えられなくてどもった口から花びらがこぼれる。
「毒があって危ないよ」
わたしを待たないで彼は続ける。
「死にはしないけど腹痛や吐き気やめまい、時には昏睡してしまうことがあって2年に一回くらいお店がお客さんに間違えて出して食中毒事件が起きるんだって。でもあじさいの毒の成分はまだ分かってないんだ。品種や個体によっても成分がバラバラで、そりゃそうだよね。土や肥料でこんなにも色が変わっちゃうんだもん。その青はね、肥料にミョウバンをいれたって用務員のおじさんに教えてもらったんだ」
彼の話は止まらない。
朝礼のチャイムが鳴る。
「ごめんなさい」
走ってそこから逃げ出した。花をむしって食べていたなんて、言いふらされたらどうしよう。でも一人で勝手に喋りだすような彼の話を聞いてくれる友達はきっと少ないかもしれない。
「僕もあじさいを食べたことがあるよ」
わたしは立ち止まった。
この人は、あんなに花の特性を知っていてあえてあじさいを食べたの?
「たぶん、君と同じ理由だと思う」
その時、急に苦しくなってきて、さっき食べた花びらが胃からこみ上げてきた。そして吐いた。
骨の浮いた手で背中をさすられて全部吐いた。