ヴァンピール(吸血鬼)は忘れ去る
「おはよう、りゅーくん」
朝、保育園について、制服の上着をハンガーに掛けると、すぐに流斗が走ってきた。
「お、おはよう、ぴかりん」
そして、ひかりの手を引っ張って、自分の落書き帳を広げたスペースへと連れて行き、昨日から描いていた絵を見せた。
「昨日のトリケラトプス完成した」
「すごいねえ。上手ね。今描いてるのは?」
「フタバスズキリュウ。こっちはね…」
「りゅーくん」こと虎倉流斗と「ぴかりん」こと三上ひかりは、0歳児からの付き合いで、毎日会うのが当然の友達だった。
あと5ヶ月足らずで、保育園生活も終わる。家はそれほど離れていなかったが、校区が違うので、小学校は別々になる予定だった。
そのつもりで過ごしてはいたが、ある日、急にひかりの母の転勤が決まり、ひかりの家は隣の市に引っ越すことになった。
新しい家の近くの保育園にすんなりと入園が決まり、練習していたクリスマス会の出し物も、作っている途中のとんがり帽子もそのままに、保育園を変わることが決まった。
最後の登園の日、友達からたくさんのお手紙をもらった。折り紙ももらった。
いつも言ってる「さようなら」なのに、先生が泣いている。
流斗は、父が迎えに来てもひかりの手を離そうとしなかった。泣くのを我慢しているけれど、今にも泣きそうだった。
「またね」
笑ってひかりから、手を離した。
ふと、流斗の父の目が青く光ったように見えた。ひかりの他は誰も気がついていないようだった。
ベランダから見下ろした流斗は、振り返ることなく家へと帰って行った。
「バイバイ…」
後ろ姿にそっと手を振った。
次の日、母に連れられて登園した流斗は、手が求める相手がいないことに戸惑いを覚えた。
いるはずの誰かがいない。
毎日会って、おはようは必ずその子が一番だった。
組み立てていたブロックも、書いたお絵かきも、必ずその子に見せた。いつだって褒めてくれた。なのに…思い出せない。
クラスの友達の手を握った。
違う。この子じゃない。こいつでもない。
登園してくる友達、みんなの手を握った。
隣のクラスにも行った。赤ちゃんのクラスにも行って、朝の準備に忙しくしている先生や親の横をかき分けて、握ってみた。
違う。
不安ばかりが広がった。
「今日から、お母さんに触れては駄目だよ」
ある日、父が突然そう言った。
「どうして?」
「赤ちゃんができるんだ。お母さんは、おなかの中で、赤ちゃんを育てなければいけないからね」
流斗には赤ちゃんを育てるのと、自分が母に触れてはいけないことの因果関係が判らなかった。
伸ばしかけた手を、困った顔をしながら母が避ける。
きつくはない口調で父から叱られる。
行き帰りの抱っこも、転んだ時に引き上げてくれる手もなかった。
我慢できず、3日目には大泣きして、保育園でもずっと泣いていた。
そんな時、先に登園していた○○が、自分の手を引いて、花壇に連れて行ってくれた。
花壇の前にしゃがんで、母に触れてはいけないと言われたことを話すと、
「大丈夫だよ。泣かなくていいよ」
そう言って、繋いでいるのと反対の手で頭を撫でてくれた。
他の友達も、みんな励ましてくれた。手を求めると、みんな握手してくれたけれど、長い時間になると、みんな煩わしくなって、嫌がった。
そんな中、○○は少しくらい長くなっても、手を握り返してくれた。いつもそばにいてくれた。もう1年近くもそうやって、ずっと一緒にいた○○…
姿が思い出せない。名前も、毎日呼んでいたのに、出てこない。
あれは誰? 誰だった??
違う。この子じゃない。先生じゃない。違う、違う、違う!
全ての教室を回って、それでも見つからない答えに、癇癪を起こして大泣きした。
興奮しすぎたせいか、そのまま熱を出し、その日は早退することになった。
父が流斗の部屋にきて、どうして母に触れてはいけないのかを話した。
それは、本当なら、もう少し大きくなってから伝えようと思っていた、生まれに関する秘密だった。
父と自分は人間じゃない。
人の血が必要な、モンスターに近い、吸血族。
一族でも珍しい力で、流斗は手からも人の血を吸い取ることができていた。
そのため、母に触れると、母にも赤ちゃんにも悪い影響を与え、下手すると死んでしまうかも知れない。
探し回っていた友達も、血が少なくなって、体を壊すところだった、と聞いた。
だから、去ってしまっても、追いかけてはいけない。忘れたまま、思い出してはいけない。例え、どんなに好きだったとしても。
流斗は父の言葉に従うことを決めた。
次の日、保育園で、二度と触れられない○○を思った。
でも、もう泣いてはいけない。忘れよう。
流斗は知らない間に、自分だけでなく、保育園にいたみんなに、名も思い出せない友達を忘れることを「指示」していた。吸血族の持つ人の心を操る力を、その時初めて、意図せず使っていた。
流斗の父の力によって、流斗とひかりが仲良くしていたことを「忘れた」友達は、さらに流斗により、ひかりのことを忘れてしまった。
誰もひかりのことを思い出すことなく、ロッカーの名前は剥がされ、出し物の役は誰かが補い、クリスマスも、お正月も、豆まきも、発表会も、そして卒園式も、友達の一人がいなくなったさみしさを感じることはなかった。
ただ、繋ぐ人を失った手だけが、誰かと少しだけ手を繋ぐたびに、「違う」と思わせるだけだった。
ひかりが転園した先の保育園では、卒園まで5ヶ月を切る今の時期の新入生に少し戸惑ってはいたが、みんな仲良くしてくれた。
それでも、6年近くも過ごし、家のようになじんでいた保育園とは違った。クラスの中もみんな長年一緒にいた友達ばかりで気心が知れているらしく、ひかりだけが「よそ者」のような、ちょっとした違和感を拭うことはできなかった。
同じ小学校に通うことになる友達もいて、やがて少しづつ、新しい暮らしにも慣れてきた。
いつも朝一番に握っていた手を、時々思い出した。
もう泣いてないかな。
少し心配になって、母にお願いして住所を教えてもらい、年賀状を出した。
しかし、返事が返ってくることはなかった。
小学校に上がったことを伝える手紙、そして夏休みにも手紙を書いた。
返ってこない返事。自分がいなくても、きっともう大丈夫なんだろう。もしかしたら、自分の手紙は迷惑なのかも知れない。
さみしさを覚え、手紙を書くのをやめた。それでも住所のメモを捨てる気持ちにはなれず、ノートに挟んでしまっていた。
夏になると、保育園から卒園生に夏祭りの案内が送られてくる。
ずっと母の仕事の都合がつかず、参加することができなかったが、三年生の時、たまたま同じ日に母が昔住んでいた家の近くに用事があり、2時間程度であればお祭りに参加できることになった。
みんなどうしているだろう。大きくなって、顔が判らなくなっているかも知れない。
駐車場で車から降り、少しドキドキしながら一人で保育園の受付を済ませた。
中は変わっていなかった。でも自分がいた教室じゃない。他の誰かに引き継がれた教室。
屋台を少し回って、そのうち、顔なじみの友達が4、5人集まっているのが見えた。
「わーちゃん、元気だった?」
「うん。えみ、背が伸びたね」
知っている友達だ。近づいて声をかけると、返ってきた返事は、
「…誰?」
だった。
そして、すぐに視線が外れて、他の子達で話題が盛り上がる。
それ以上、声がかけられなかった。
聞こえてくる話は、今の学校のことから、昔の懐かしい話に移る。
カラスにおやつを取られた「りょうくん」の話。自分も知っているのに、みんなは自分を知らない。
ビオトープの池にはまった「たっちゃん」の話も、知ってる。
「わーちゃん」が体育の先生が好きで追っかけ回していたのも、「えみちゃん」がピアノを上手に弾けたのも、ちゃんと知っているのに。
「りょうくん」も来た。「わーちゃん」と「えみちゃん」は「久しぶりー!」と声をかける。確か、私立の学校に行くと言っていた。「りょうくん」もみんなに声をかける。でも、ひかりには気がつかない。視線を向けられても、さっと反らされたそれは、「知らない人」だ。
どうして…?
もう、誰にも声をかけられなくなった。
遠くに、「りゅーくん」がいた。母親に抱かれている女の子。「りゅーくん」の妹、大きくなってる。そう思って見ていると、「りゅーくん」の母がひかりに気がついた。会釈されて、遠くから恐る恐る会釈を返した。覚えてくれている。しかし、母親が挨拶した先を「りゅーくん」が軽く目で追ったが、ひかりと目が合うことはなく、やがてどこかへ行ってしまった。
かつてお世話になった先生二人と話をした後、ひかりは早々に駐車場に戻った。そして、まだ待ち合わせまで一時間ある中、駐車場でひたすら母を待った。
母の車に乗ると、ひかりは我慢できなくなって、しゃくり上げて泣いた。
「みんな、忘れてた…。私のこと、忘れてたの…」
こんな忘れられ方をするなんて、思ってもなかった。
母は車を途中のコンビニで止めると、しばらくひかりを抱きしめた。そして、気持ちが落ち着くのを待って、一緒にアイスを買って家へと帰った。
以来、保育園に足を向けることはなかった。
ノートに挟んだ友達の住所も捨てた。
人は忘れてしまうものだ。小さい頃のことなら、尚更。
それでも、あんなに仲が良かった友達が、自分のことだけまるで初めからいなかったかのように、誰一人覚えていないなんて。ひかりは世界から自分を消されてしまったかのような恐怖を感じ、打ち震えた。
今、小学校で仲が良い友達も、ほんの2、3年であんな風に自分のことを忘れてしまうのだろうか。そう思うと、何とも言えない不安が湧き上がり、不確かな気持ちで心がざわついて、自然と涙がこぼれてきた。
現実にはそんなことはなく、小学校を卒業しても、別の中学に行った友達とスーパーで会えば声を掛け合えた。高校で小学校の時の友達と再会して、「おひさ!」とお互い笑って挨拶できた。
高校にも、保育園の時に一緒だった友達がいたけれど、自分もまたうっすらとしか思い出せなくなっているのに気がついた。人はそういうものなのだ。
やがて、保育園時代の友達の中にも、また仲良くなれた子がいた。あの時のことは忘れられていても、これから仲良くなればいい。怖がる必要なんてない。
あの時…、怖いくらいの寂しい気持ちを抱いていたのは、数日…、時々痛んだ胸も、数ヶ月。…でも痛みの記憶は忘れることはできない。
遠い昔に、毎日手を握っていた友達のことは、自分の記憶には残っていて、同じ高校にいることにも気がついていたけれど、向こうは覚えていない。
あの頃のように誰かの手を求めることもなく、普通に生きている。大丈夫、自分が心配する必要なんてない。その他大勢の一人として過ごせばいいだけ。
ひかりはそう自分に言い聞かせ、やがて見て見ぬ振りをすることに慣れていった。
そして、今日もすれ違う。お互い、振り返ることもない。
私の知っている、私を知らない人。