5.腕枕する
【前回までのあらすじ】
夕飯ごとに、家族が1人ずつ減っていく――そんな怪現象も終焉間近。
長男と末っ子だけが残された。
夜、おれが寝室にしている仏間の板戸が、静かに開いた。
小さな影が布団の中に入ってくる。
しなやかで、慣れた動作で、おれの肩に小さな頭を乗せた。
最後に残った妹だ。
頭を撫でてやりながら、呼吸が寝息に変わるのを待った。
古い掛け時計の秒針が「カチ コチ カチ コチ」と時を刻んですこしうるさい。
「おにいちゃん。」
おれを呼ぶのに『おにいちゃん』と言うのが可愛い。
下の子はみな、すくなくとも中学に入るまでには、『お』がとれて『兄ちゃん』になり、なんなら『兄貴』になったりするのだ。
この子も将来単に『兄ちゃん』と呼ぶようになると思うとちょっぴり寂しい。
「どうした? おしっこ?」
この子はまだ夜が怖い。
だからよくおれの布団に入って来るし、夜に1人でトイレに行けない。
「ちがう。」
小さな手と足を使ってしがみついてくる。
怖い夢でも見たのかな?
現実と空想の区別がまだついていないから、よけい怖いんだろう。
しかしこんな奇妙な状況に置かれている今、この子の見ている世界をただの空想だと断言はできない。
「兄ちゃんがいるから、もう大丈夫だぞ。」
「おにいちゃん。」
「んー?」
「ぼたんのプリン食べていいよ。」
――牡丹!
牡丹だ。
危うく忘れるところだった。
この子の名前は牡丹。
(ぼたんぼたんぼたんぼたん――)
二度と忘れないように、頭の中でなんども繰り返す。
牡丹、1人目。
あと5人。
ほかの家族の名前は……、顔は……、
「プリンいらない?」
おれが応えないから不安になったんだろう、牡丹がか細い声で尋ねる。
「だめだぞ。そんなに優しくしていると生き残れないぞ。」
育ち盛りしかいない家ではとくに。
「おにいちゃんも、生きのこれないの?」
「なんで? 大丈夫だよ。兄ちゃんは強いからな。」
「でもごはん食べてない。」
この優しい子は気づいていたのだ。
おれがずっとなにも食べないでいたことを。
「あぁ、それは、……。兄ちゃんが間違っちゃったんだ。作り忘れちゃって。」
「おかあさんがいなくなったときは、1人分おおく作っていたのにね。」
「そうだったっけ?」
「うん。」
なにも思い出せない。
あの頃は家事やら幼い弟と妹の世話やら受験やらに必死になっていて、とにかく忙しかった記憶しかない。
でも、牡丹は憶えているのだ。
だからおれは、訊いてみることにした。
「なぁ、牡丹。おれたちは、7人だよな。」
「うん。」
「ご飯足りなかったよな。……兄ちゃん、最近おかしいんだよな。ごめんな。変なこと訊いて。」
「今日はたりなかった。」
牡丹は平然と言う。
「あの、今日はって、いうのは……」
「いつもはいないけど、今日はかえってきてるから。」
金縛りにあったように全身が緊張した。
牡丹がなにを言っているのか、理解できない。
「牡丹、……。兄ちゃん、ごめんな、最近忙しかったせいか、ちょっとぼんやりしちゃって、……。あの、それは、誰だっけ?」
牡丹を不安がらせないために、この記憶違いがよくあることのように、平静を装って尋ねる。
「おにいちゃん。」
牡丹に“おにいちゃん”は、4人いる。
「……名前は?」
「さねゆき。」
「あぁ、そうだった。……そうだった。」
さねゆき…
……サネユキ?
ダメだ。
思い出せない。
(ごめん、ごめん『さねゆき』……。ごめん。)
恐らくだが、牡丹とおれは異なる現象を経験している。
おれの世界では家族が1人ずつ減っているが、牡丹にとっては普段はいない家族が増えているのだ。
なんだこれは。
いったい何が真実なんだ。
牡丹の頭をなでる。
暖かくて、重たくて、儚い。
アリを誘うような、ミルクっぽい甘い匂いがする。
髪が艶やかで細くて、その奥の頭蓋骨は小振りで堅い。
尊い。
牡丹の軽い重み。
この感触だけが信じられる真実のすべて。
心の支えだ。
「おにいちゃん。」
「ん?」
「ぼたんが生まれるまえにも、せかいはあったの?」
「そうだよ。」
まだ小さい頃に、同じように考えたことがある。
おれは笑う。
「もし兄ちゃんが死んじゃっても、世界はあるよ。」
【次回予告】
そうして、最後の妹さえ消えた、たった1人の世界がはじまる。