31.詠唱は5000字を超えている
【前回までのあらすじ】
主人公、とりあえずこのままでは危ない。
(ならおれは、どうすりゃいい?)
生身への戻り方もわからないし、生霊として生きるのも無理みたいだ。
なんとなくロロさまを見ると、頭をもたげて横たわり、おれを目の端で観察しながら尻尾でぺしぺしとローテーブルを叩いている。
(おれは、どうすりゃいいんだよッ……)
とりあえずロロさまに人差し指を近づけてみると、鼻をクンクンさせて嗅いできた。
うーんかわいい。
「ヒトの体、無くすなんてもったいないよ。」
コハク先輩は世間話の軽さで言った。
「この世に存在するモノすべてが物理法則から逃れられなくて、ヒトだってそう、行動は環境や器質によってだいだい決定してる。ヒトが意志でやったと信じることのほとんどが、実際、物理法則の結果の後付けでしかない。でも――」
長い話がうまく聞けなくなってるのは、たぶんきっと恐らく、生霊が生身と離れているからに違いない。
おれはロロさまから視線を外せずにいた。
指をふらふらさせると、ロロさまは目で追ってくる。かーわいー。
「人体――脳・皮膚・五臓六腑……、これはあまりにも複雑な思考の機構。しかもそのひとつひとつが異なっていて、多様を含んで群を成している。意思決定がほかの生き物に比べてかなり遅いし、しかも過剰なほどの争いを招きさえする。でもだからこそ熟考し、自省し、懊悩し、判断・信条する。人体のままでは知覚できない真実を観測するために望遠鏡をつくり、顕微鏡をつくり、方程式や論理をつくり、仮説をつくっては崩しまた仮説をつくる。試行錯誤の果てに宇宙の真理を知覚しようとしている。コチを際限なく拡大し、エネルギーをありのまま目撃しようとしている。
……いつか、自由意志を達成し因果律すら破る日が来るのかもしれない。あるいはまだ観測できていないだけで、すでに破られつづけているのかもしれない。」
猫の手って、丸っこいんだな。
よく見ると筋肉がしなやかなのがわかる。
それがモフモフの毛に包み込まれているんだから、触ってみたくなるのも当然。
「まぁ現状、自由意志なのか因果律に従った結果か、どちらかはわからないしどうでもいい。どちらにせよ実際的に大切なのは、なにを知っているか、ということ。そして、なにをするのか、ということ。………………ちょっと聞いてる?」
ハ、とおれは先輩に注意を戻して、素早く手を引いた。
すると、ロロさまがつられておれの膝の上に飛び乗ってきた。かっ、かわいい。
「もぉッ。全然“説明”聞いてないから生身に戻れないんだよッ。」
先輩は怒りながらおれを責める。……ちょっと嬉しい。
「ごめんなさい。聞いてますよ。」
「じゃあ抜き打ちテストします。ニュは?」
「知覚……とか。」
「ォワア。」
「意識とか、思考。」
「ンナーン。」
「えー判断。と、……信条?」
「なら黄色は?」
「き、…いろ? えーっと、」
突然だったが、とりあえず、ロロさまの毛並みの黄色い部分を撫でる。
「この辺…の、色?」
もふもふ。
「そうだね。じゃあ、“愛”は?」
「あい?」
「頭になにが浮かんだ? 君の場合は、家族かな?」
そうだな。
食卓の、あの騒がしい夕飯の風景かも。
「人によっては、たとえば地球を連想するかもしれないし、たった1人の相手かも。温もりや、匂いかもしれない。」
先輩の目付きで、先輩が『たった1人の相手』を想っているのがわかってしまう。
先輩にはそういう相手がいるんだ。
寂しい……、ちょっとだけね。
先輩の視線が、おれに戻った。
「“言葉”は、カチとコチの重なりの深さを確かめるのに、ちょうどいいの。
『黄色』、あたしもその色だと思う。視ている色が本当には同じじゃないかもだけど構わない。重要なのは、意味が通じているかどうか、だから。
『愛』、あたしは、きっと君とは違うと思う。辞書に書いてあるような意味では一致してても、でも具体的にはきっと違う。でもそれで構わない。その曖昧は、多様性を受け入れるための寛容だから。
じゃあ『ニュ』は? 『ォワア』や『ンナーン』は?
ヒトの言葉との微妙なニュアンスの違いはあるけど、猫の言葉を君が知ったということは、猫の文明や思考体系を君が知ったということ。
“言葉”っていうのは、これこそが“約束”で、つまり一種の社会契約――カチを重ねてコチを作るものだから。
エネルギー、即ち自然のすべて――宇宙から、ヒトの営みの必要に応じて意味を押しつけて、“言葉”にして取り出す。たくさんの“言葉”がさまざまな生活様式に準じて生まれ体系を成し、そして体系から新たな生活が紡がれていく。文化と秩序が形成される。それは言語体系を持つすべて群に言えること。もちろんここにも。
あたしが“説明”すればするだけ、君が理解すればするほど、君の信条が変わって、君のカチがあたしのカチに近づいたから、君はもう新しいコチを知覚しているはずだよ。」
先輩が話しているあいだ、ロロさまは無抵抗に撫でさせてくれる。
しかも腹を向けておれの手を弱いパンチで殴ってくださる。
「早く言えば、“説明”は世界を変える魔法・呪文・詠唱――そういうもの。」
詠唱? なっが。
5000字超えてるのでは?
「君は充分に理解してくれたと思うけど、駄目押しでもうちょっとだけ近づこう。」
先輩が物理的に近づいてくる。
太ももが触れて、先輩の腕がおれの腰に回る。
やらわけー。
「いーい? あたしの望みは君の意味、あたしの言葉は君の約束、あたしの知覚は君の知覚……、ねぇカチを合わせて、もっと近づいて、
ほら、――ぴったり。」
先輩はロロさまの腹を撫でながら、おれの耳元でささやく。
「さぁ、準備はいいね?」
万端です! って叫びたいところだけど、……でもおれが辛うじて理解したことといえば、女の子に体を押しつけられて、耳に熱い息を吹きかけられて、ロロさま越しだけど股間に刺激を与えられて、それでもおれの下半身の局部が変身せずに助かった、――ということだけだった。
ロロさまの越しに自分の股間を見つめながら口のなかで問いかける。
(……ぐっぼいぐっぼい Little SANEYUKI. ……でも、why?)
普段は制御の利かない荒くれモノなのに、Little SANEYUKIはしおらしくしている。
ん?
…………『リトルサネユキ』?
……“さねゆき”……?
彼がリトルサネユキならば、…………このおれは?
おれは、
おれが?
(実幸だ。)
こうしてやっと、おれは自分の名前を思い出した。
コハク先輩の手が柔らかく目元に触れて、世界は真っ暗になる。
そして先輩は、詠唱の最後の言葉を唱えた。
「君はもう、目覚めている。」
【コハク先輩から読者各位へ一言】
君はもう評価ボタンを★★★★★にしているッ!
【注釈】
なんちゃって。
御路々教の教え(カチ/コチ 他)については本作の世界観のためにでっちあげたものなので、もちろんフィクションですから信じないようにお願いします。
神経科学だとか物理学だとか言語学めいたことも書いていますが、本作の整合性を優先したために、仮説にすぎないものを真実として採用していますし、門外漢である私の無知のためにそもそも間違った解釈に基づいて述べている可能性もあります。
ですから例えば物理学ガチ勢の方には噴飯ものの部分もあったかと思います。フィクションということで勘弁してください。
そんなわけで、コハク先輩から一言ありましたが、評価については皆さまご自由にどうぞ。
この窮屈な世界で数限られている自由を、どうぞ満喫してください。
【次回予告】
化け猫がしたかったこと。
主人公――三善実幸がしてしまうこと。




