咲いた、咲いた。通り雨、咲いた。
ぽつぽつと落ちて来た雨粒が地面に染みて、灰色の花を咲かせた。
やがて土の匂いがむせ返るくらいに立ち上って、僕の鼻腔をくすぐる。
降りしきる白雨は辺りを覆いつくしていき、一向に弱まる気配がない。濡れて張り付いた服が、どんどんと体温を奪っていく。僕は近くの神社に足を運び、時間をつぶすことにした。
「おや、少年も雨宿りかい?」
先客がいた。この島では見かけたことのない、美しい女性だった。
立てた右膝に頬杖をつき、左足は軒下から放り出している。濡れた長い黒髪が、雲の向こう側から弱々しく照らす日の光を浴びて、鈍く輝いていた。
「どうした? 早く入りなよ」
自分の横を軽くたたいて、彼女は薄く微笑んだ。
引き寄せられるように隣に座る。
「はは、濡れ鼠じゃないか。よーし、お姉さんが拭いてあげよう」
どこからか取り出したタオルで、お姉さんは僕をわしわしと拭いた。
「……お姉さんも、びしょ濡れですよ?」
白いワンピースがぴったりと体に張り付いて、豊満な胸と艶めかしいくびれを露わにしていた。思わず目を背ける。
「私はいいのさ。雨が好きだからね」
「変わってますね」
「おや。少年は嫌いかい?」
「……どう、なんでしょう」
好きとか嫌いとか、そういう次元の話ではない気がした。
生まれてから十四年。僕は雨と付き合い続けてきたのだから。
「どちらかと言えば……嫌い、です」
「ほう。どうして?」
「僕は、忌子なんです。雨を降らせるから」
僕が生まれた日、島に巨大な台風が接近していた。漁に出ていた父さんは、そのせいで死んでしまったそうだ。
それから毎年、僕の誕生日には大雨が降る。それだけではない。僕が大声で泣いた日や、大笑いした日、誰かと大喧嘩した日にはいつも雨が降るのだ。
「……くだらない。たった一人の人間が気候を左右するなんてこと、あるはずないじゃないか」
「あはは、そう思いますよね。普通なら」
だけど、僕が生まれた年にはあの出来事があった。
「東京で起こった大災害。お姉さんも、知ってますよね?」
十四年前、東京都で大規模な地盤沈下とビルが倒壊する事件が相次いだ。原因は未だ不明だが、不可解なことに、複数の人間が同じ証言をしているのだ。
『巨大な妖怪が暴れていた』と。
以来本土では、妖怪の類の仕業と思われる事件が頻発しているという。
現実世界と妖怪の世界が交わってしまった、とさえ言われているそうだ。
「だから僕もこう思われているんです。僕は――甘鳥怜は、雨降小僧の生まれ変わりだって」
通り雨を降らせ、困っている人を見て楽しむ妖怪、雨降小僧。ぼろぼろの和傘を被った、小さな妖怪だ。
畑で農作物を育て、海で漁をし、半ば自給自足で成り立っているような、こんな小さな島では、この噂はいつしか真実のように広まって……やがて僕は島中の人から白い目で見られるようになった。
「って、こんな話つまらないですよね。ごめんなさい。島の人にはこんな話できないから、つい……。お姉さんは、島の外から来たんですか?」
「少年」
「はい?」
お姉さんは、ほっそりとした手で僕の頭を撫でながら、静かに呟いた。
「私は、雨の日には必ずここにいる。丁度、話し相手を探していたんだ」
また、来てくれるかい?
その言葉に、なぜか僕は、一も二もなく頷いていた。
お姉さんの頬から垂れ落ちた雨粒は温かくて、少しどきっとした。
それから僕は、雨が降る度に、お姉さんに会いに行った。不思議なことに、お姉さんとは晴れた日には会えなかった。
お姉さんは決まって古びた神社の軒下に腰掛けて、濡れた髪を頬に貼り付けながら「やあ、待っていたよ」と笑顔で手を振ってくれる。
お姉さんとの話は楽しかった。
ある時は僕の母さんの話をした。島中の人が僕のことを毛嫌いしていても、母さんだけは僕のことを見放さなかった。「雨を降らせるなんて、すごいじゃない。誰にでもできることじゃないわ」と、母さんはいつも僕に優しく微笑んでくれる。良いお母さんだなと、お姉さんも褒めてくれたから、僕はとても嬉しかった。
ある時は僕の宝物の話をした。
僕の家は決して裕福とは言えないから、娯楽品は持っていない。だから廃品置き場で拾ったラジオだけが、僕の退屈を紛らわせてくれた。
「こうやって適当にツマミを回すと、たまに人の声が聞こえてくるんです。今も……ほら!」
【臨時――ュースを――します。――町の失踪――に関する情報は、未だ――】
【警――庁――ますと――亡し――に上り――未曾――】
「へぇ、本土の電波を拾っているのか。面白いな」
「ですよね! 調子がいい日は、雑音も混じらなくて、よく聴こえるんです!」
「少年はどの番組が好きなんだ?」
「んー、全部好きですけど……歌が聞こえてくるときがあって、それが――」
そんな風に、とりとめのない話を沢山した。
お姉さんと話すのが楽しかった。
毎日会いたいと願って、雨が降る度にわくわくした。
雨がどんどん好きになった。
まるで僕の気持ちに応えるように、雨は毎日降り続けた。
雨が降った。
次の日も降った。
次の日も次の日も、その次の日も。
降って降って、降って降って降って降って降り続けた。
やがて山の地盤が緩くなって、土砂崩れが起こった。
もともと伏流水なんかが多く流れていて、もろい山だったらしい。
そこに連日の雨が拍車をかけ、大量の土砂が街を襲った。
母さんは、それに巻き込まれて――死んだ。
母さんが死ぬと、僕を守ってくれる人はいなくなった。
母さんが、僕の知らないところでどれくらい罵倒を受けていたのか、僕は知らなかった。
そんな中でも、僕に毎日笑顔を向けてくれていた母さんの強さを、僕は知らなかった。
何も知らなかった僕は、親戚のおじさんに引き取られ、ひどい扱いを受けた。
暗い納屋に閉じ込められて、ろくに食事も与えられずに毎日暗闇の中で震えて過ごした。
時折けたたましく納屋の扉が開いたかと思うと、雨を止めろと殴られた。そんなこと、僕にできるはずもないのに。
雨は降り続いていた。
すっかり涙も枯れ果てて、嗚咽を漏らす体力もなくなっていた。感情は干上がって、それでも雨は降るのだから、やっぱり僕は関係なかったのだと、ぼんやりと考えた。
お姉さんに会いたいなと、かすれた視界をこすりながら思った。
もう何日も神社に足を運べていない。
心配しているだろうか。僕を、待ってくれているだろうか。
「……まさかね」
そんなことあるわけがない。土砂崩れが起きた島に、長居はしないだろう。きっともう、本土に帰っているはずだ。彼女には帰る場所があるのだから。
だから
「――年」
こうして聞こえてくる透き通った声は、きっと幻聴だ。
「少――」
だってお姉さんがここに居るわけが――
「少年! しっかりしろ!」
「お姉、さん」
「よかった……来るのが遅れてしまって、本当にすまない」
お姉さんは僕の体をきつく抱きしめた。濡れて冷たい衣服の向こうに、確かなぬくもりを感じた。
「どう、して……?」
まだここにいるんですか?
どうして、探しに来てくれたんですか?
どうして、僕が居て欲しい時に傍にいてくれるんですか?
色々な気持ちが混じり合った僕の弱々しい言葉を、お姉さんは一蹴した。
「少年、私について来い。この島から、一緒に逃げ出そう」
「お姉さんと、一緒に?」
「あぁ、そうだ。ふふ……まぁ君に拒否権はないけどな。嫌だと言ったら気絶させて連れて行く。いいよと言ったらお姫様抱っこで連れて行く。さ、どちらが好みだ?」
お姉さんの力強い言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
そうだ。陰鬱とした雨を、べっとりとした湿気を、すべて好きになってしまうような……そんなお姉さんの静かな輝きに、僕は心惹かれていたんだ。
「……自分で、歩きます」
だから僕はそう言って、そう強がって。彼女の目を見て答えた。
「分かった」
お姉さんは、笑って答えた。
人の気配のない、とても静かな夜の島を、僕はお姉さんと歩いた。
島の外に出るのは初めてだけど、お姉さんとならどこまででも行ける気がした。
雨はまだ、降り続ていている。
◇◇◇
二人が島を出てから三週間後。
【ザザッ……ザザ……ニュース――お伝――――ます】
神社の片隅に転がったラジオが、突如音を発した。
【神威島で起こった島民失踪事件について、続報が入りました。三週間前、神威島の島民全員が一夜にして失踪する事件が発生しました。大規模な失踪事件が確認されたのは今年で三度目ですが、神威島の人口は三千人を超えており、近年まれにみる大規模な失踪事件であるとして、警視庁は特別捜査本部を設立し――ザザッ】
【ザザッ――この事件は、過去に起こったロアノーク植民地の失踪事件やオエル・ベルデ村の大量失踪事件に酷似しているとの見解が――】
【速報です! 神威島の崩れた民家から生存者が発見されたという報告が、たった今入りました! 生存者は錯乱しており、『鬼』『食われた』など意味の分からない言葉を口にしていますが、『甘鳥怜が逃げた。彼だけが逃げた』としきりに繰り返しており、警察は『甘鳥怜』を重要参考人として捜索する方針です。本日より海上、港などを中心に捜査網が――ザザッ――ザザザザザッザザザザ―――――――ブツンッ】