壊れかけたこの世界で恋が見たものは――
「いい子だ。レン」
「ふにゃぁ……」
ぽんぽん、とミリアルドに頭を撫でられ、レンはとろけそうに至福な気分を味わった。
レンはミリアルドの眼鏡の奥にある焦げ茶色の優しい瞳が大好きだ。
柔らかそうな茶髪も愛おしかったし、病的なまでに白い肌も綺麗だと思う。痩せすぎなのは根っからの引きこもり研究者だからで、それはそれで可愛らしいとは思うけど、ちゃんと運動はした方が良いとは思う。とはいえ、口をすっぱくしてそう言っても、彼はPCにばかり目を向けて彼女の言うことなんてちっとも聞いてくれないのだけど。
汎用MD型241式メイド――レン。
彼女はミリアルドが自宅へ引っ越す際、自らの世話をさせるために製造した完全オリジナルタイプ。家事に話し相手に戦闘までこなす高性能なアンドロイドだ。
「レンの作るオムレツは本当に美味しいなぁ」
「えへへ。ありがとうございます。ほらほらご主人様。もっと私を褒めて褒めて。頭を撫でてくださっても構わないのですよ?」
と、レンは肩で切り揃えられた綺麗な藍色の髪の頭をずいっと差し出す。ミリアルドは苦笑しながらその頭を撫で、レンはふにゃりと気持ちよさそうに目を細めた。
「もう。しょうがないな、レンは」
「うふふ。ご主人様大好きなのですぅ」
「いい子だ、レン。本当にいい子だ」
まるで蜂蜜のように甘くとろけた毎日。
この頃は本当に幸せだった。
△▼△
「ご主人様。また残されたのですか? しょうがない人ですね」
レンは肩で小さくため息をつく。
テーブルに置かれたトレイの中身はいっさい手をつけられていない。もうこれで何度目だろう。アンドロイドに充電が必要なように人間にだって食事が必要なはずなのに。いい加減ご主人様のお体が本当に――と思考を巡らせたところでレンは考えるのをやめた。
「まあいいです。次はきちんと食べてくださいね?」
ご主人様の目の前から冷めた食事のトレイを下げる。「ありがとう」も「ご苦労さま」もなく、レンは少々心が痛んだ。
「あ。そうだ。ご主人様」
去り際にレンは思い出したように彼を振り返る。
「覚えていますか? 今日はご主人様の誕生日。プレゼントを用意しましたので楽しみにしててくださいね!」
「……」
「それでは失礼します……」
そう言い残してレンは部屋を立ち去った。
△▼△
そしてその日の夜。
「ご主人様! お誕生日おめでとうございまーす!」
レンはミリアルドの前にいつもより豪勢な夕食を運び入れ、クラッカーを鳴らして賑やかに囃し立てた。
「じゃーん! 今年は頑張って手編みのマフラーを作ってみました!」
そう言って無言のミリアルドの首に赤い無地のマフラーを優しく丁寧に巻く。
「ちょっと長かったですかね? でもこのくらいあった方が暖かいですよね?」
「……」
「ご主人様。嬉しいですか? 私、頑張りましたよ? また頭を撫でてくださっても良いのですよ?」
レンはご主人様に綺麗な藍色の髪の頭を差し出すが、彼の返答はいつもどおりに冷たい静寂。その静けさに耐えきれず、レンはとうとう涙目になってご主人様に訴えかけた。
「お願いですからお返事をしてください、ご主人様……」
せつない。本当にせつない。
ご主人様が口を聞いてくれなくなってからもうどれくらいの時が経つだろう。身の回りの世話をしても、わざと怒らせるような悪戯をしても、何をやっても無反応。いい加減、心が折れてしまいそうだった。
「いったい私が何をしたと言うのですか……」
そう言って、レンはすぐに我に返る。
「はっ! 申し訳ありません。ご主人様! 私ったらメイドにあるまじき失礼な事を……ごめんなさいごめんなさい!」
そしてレンは糸が切れたようにぺこりと一礼して、
「失礼します。マフラー、次はもう少し上手に作りますね」
諦め混じりのため息をついて、ミリアルドの首に巻いたマフラーを整える。そしてそのまま部屋から出ていこうとした。そのときだった。
プシュゥゥー。
外から重々しく扉が開かれる音がした。それは、この家に来てから今まで一度も動くことのなかった玄関ドア。
「侵入者?」
レンの瞳が険しい光を帯びる。耳を澄ますと外部から幾人もの気配が近づいてくるとともに、くぐもった会話の声が聞こえてきた。
『地下二百メートル。こんな所に二十年間も潜伏していたとはな。ミリアルド・ケインめ』
『小奇麗なところだな。おい見ろ。この食料庫。軽く十年分はあるぞ』
『大罪人のくせに贅沢しやがって。奴のせいで世界は汚染で滅茶苦茶にされてるってのに』
は?
大罪人? 汚染?
この人達はいったい何を言ってるのだろう???
そして彼らはどんどんこちらに近づいてきて、やがてレンとミリアルドのいる部屋のドアを開き、
「いたぞ。アンドロイドだ」
メイド姿をした少女は、ものものしい武装をした四人組の兵士達と対面したのだった。
レンが黙って様子を伺っていると、彼らはこちらに銃口を向けつつ品定めをするように口を開いた。
「はじめまして、アンドロイド」
「……」
「けっ、無視かよ」
「これ旧式だよな? まるで生きているみたいだ。まさか感情まで備わっているのか?」
「か、可愛い……」
「バカ。機械相手に欲情するな」
「こいつの中に記録が? ここで一体何が行われていたのか……手がかり、残ってるかな?」
「残されてなきゃ人類は終わりだよ」
まったくわけのわからないことを。
彼らは戦闘用の重装備で身を固めていたが、レンにしてみればこんなもの玩具同然の代物だ。
どうする? 排除する?
いや。
レンは基本的に人間には手出しをしてはならない。そうプログラムをされていた。建前上は。
彼らが今こうして油断をしているのも、彼女が絶対に危害を加えてこないと確信しているからだ。
そんな事はないのに。
けどしばらくその油断に付け込ませてもらおうかな? 彼らがここに来た理由も気になるし。
しかし兵士の一人が部屋の奥にいるミリアルドの存在に気づいたとき、レンの目の色が変わった。
「もしかしてあれがミリアルドか?」
「!?」
「こりゃあ死んでから十年は経ってるな」
……前言撤回。
こいつら全員殺す。
「このロボット、まさかずっと死体の世話を?」
ふざけるな。死体だと?
私のご主人様を勝手に殺すな!
「真新しいマフラーまで巻いちゃって……相手は骨なのに」
戦闘モードへ移行。三原則プログラム解除。リミッターオフ。武装タイプD――皆殺し。
レンのかぼそい腕がじわじわと液化して鋭い武器――刃物へと変化していく。それは人間の首などひと振りで切り落とせる液化金属製の汎用ナイフだ。
許せない許せない――
レンは静かな怒りに身を任せ、「死ネ」と、その腕を振り上げようとしたが。
「やめろ!」
突然発せられたその声に、レンは冷水を浴びせられたように戦闘モードを解除した。
え? いまの声は?
レンがきょとんとしていると、部屋に白衣の男がやって来て、慌てて兵士達の銃口を降ろさせた。屈強な兵士に比べるとはるかにひ弱そうな白衣だが、おそらく階級は上なのだろう。兵士達は黙って彼の指示に従っている。
いや。そんな事よりもこの白衣は。
まさか、まさかまさか……
眼鏡の奥にある優しそうな焦げ茶色の瞳。柔らかそうな茶髪。そして病的なまでに白い肌。
声に仕草にその雰囲気も。
これはまるでミリアルド――ご主人様の生き写しじゃないか。
いや、実際は彼よりもはるかに若い。まだ二十代になりたてくらいの見た目なのだが。
「ミトさん。どうしたんですかいきなり?」
兵士の質問に、ミトと呼ばれた白衣の男は呆れ顔で片眉をつりあげた。
「どうした、だと? 気づかなかったのか。彼女はすでに戦闘モードに入ってたんだぞ」
「え?」
「感謝しろよ。僕が止めなきゃこの場の全員が殺されてた」
「馬鹿な。アンドロイドは人間を攻撃できないはず」
「普通ならね。けど彼女はミリアルドの生み出したアンドロイド。自力で三原則の戒めくらい解除できる。つまり人間を攻撃できる」
「……」
「彼女には人間と同じ心がある。こんな生活をしているが、マスターが死んでいることにはきっと薄々気づいていたはずだ」
そう言いながら彼は、ミリアルドと瓜二つの顔をこちらに向けた。優しく、慈しむような目をして。
「君、名前は?」
「れ、レン」
「恋か。素敵な響きだ。僕はミト・ケイン。安心して。敵じゃない」
ケイン?
その名前はやっぱりご主人様の――
「レン、おいで」
ミトが手招きをし、レンは吸い込まれるように彼に近寄る。大きな手のひらがこちらに伸びてきて、ぽんぽんと優しく頭を撫でてくれた。
「いい子だ、レン。今までずっと寂しかっただろう?」
ああ、これは間違いない。
声、感触、そして匂いまでも――それはミリアルドが彼女にしてくれたのとまったく同じ。彼が違うのはわかってる。けど、それでも。まるであのときの光景が脳内に蘇ってくるような錯覚をレンは感じた。
「いい子だ。いい子」
「ご主人様。レンは寂しかったです……」
会いたかった。本当に会いたかった……
その瞬間、小さな胸の中にせき止められていたものが一気に溢れ出し、レンは「ご主人様ぁ……」と、ミトの胸の中で泣きじゃくったのだった。