転生ジュリエットはメリバを回避したい
朱里せんぱぁい、と月曜日の気怠い空気を裂いて聞こえてきた弾む声に、御堂朱里は、少々うんざりした様子を眉を動かすにとどめ振り返る。
ビル一棟が全て勤務する彩商事の持ち物で、フロアを歩く人達も見慣れた光景なのか、一瞥するに留まっていた。
「みちるちゃん、会社ではもうちょっとトーンを抑えてね?」
「えへへ、ごめんなさい先輩。朱里先輩見かけたら、どうしても嬉しくて」
今年入社してきた安西みちるは、会社の後輩であると同時に、高校時代の部活の後輩でもあった。高校は二学年差だったものの、朱里は短大卒、みちるは四大卒の為、社会人としては四年ほどの違いがある。
だからと言って声高々に呼ばないで欲しい所だ。
てへっ、と小さく舌を出す姿は、肩先までのふわふわした髪型に丸い瞳が相まって、庇護欲をそそるのだけど、流石に会社員としては問題ありありでしょ、と言いたい。
きっとそう言えば「ごめんなさぁい」とウルウル涙目で見てくるだろうから、もう私は諦めるように嘆息を零しては、気をつけてねと言うしかできない。
ですので、周囲の皆さん。私は後輩いじめをしている訳ではありませんので、咎めるような眼差しで見るのは勘弁してください。お願いします。
「それにしても、今日はご機嫌ね」
「はいっ、昨日観に行ったミュージカルがとても良くって!」
「ああ。ロミジュリだっけ?」
いじめではない。決していじめてませんよを周りにアピールしようと、みちるの跳ねるステップを眺め口にする。彼女は『ロミオとジュリエット』という古典文学が大好きで、かなりヲタクな部類に入ると認識している。
「そうなんですよぉ。お家が敵同士なのに、運命の恋に落ちる二人とか素敵ですよね」
(素敵っていうか、恋は盲目すぎて周りが見えてなかっただけだと思うんだけど)
「引き裂かれる二人が手に手を取って逃避行とかロマンティックですよね」
(あれは単に別の男──しかも親子位の年齢差のある人に嫁がされそうになっただけなんだけど)
「しまいにはすれ違った二人が死をもって結ばれるとか、もうキュンキュンしますよね」
(ああ、あれね。勘違いしたせいで自害とか、死んだら意味ないじゃないって、何度ロミオを殴りたいと思ったことか)
隣で喜々として語るみちるちゃんに、私は心の中でツッコむ事しかできない。何故なら──私の前世は、かの有名な恋愛悲劇『ロミオとジュリエット』のジュリエットだったのだから……。
朱里がその事実に気付いたのは十歳の頃。
置かれていた環境が社長令嬢という、妙に前世と似通った現実に打ちひしがれながらも、両親と兄を説き伏せ、短大卒業後は家の事業とは関係ない会社へと入社し、一人暮らしを始めた。
同じ轍は二度と踏まない。今度こそ家に関係ない人と幸せに結ばれたい。
ロミオが転生しているか分からないが、朱里の地味な容姿──長い黒髪をうなじ部分で留め、黒縁のもっさりとした眼鏡の女に転生アラサーなんぞ、幾ら運命の人と甘い囁きを重ねてきた彼でも、一気にドン引きしてしまうだろう。
「朝から金曜日の残業並に疲れた顔をしてるな御堂」
「藤倉主任」
「真玖さんおはようございますぅ」
「みちるも今日も元気だな」
みちるの『ロミジュリ講座』を右から左に流していると、丁度喫煙室から出てきた上司の藤倉と出くわす。ちなみに後輩みちるの婚約者でもある。四十二歳の藤倉と二十二歳のみちる。ちょっと犯罪臭するが、二人がラブラブならば問題ないとスルーする。
「あ、御堂に頼みたい事があるんだ。みちるは先にオフィスに行って準備しておけよ」
「はぁい! じゃあ、朱里先輩またあとで」
みちるが元気よく手を振ってオフィスに向かうのを、「俺には何もなしかよ」とのたまう上司を無視し、
「もうちょっと可愛い婚約者様の管理をして戴けませんかね主任」
唇を尖らせて抗議する朱里に、
「管理なぁ。アレのロミジュリ病は慢性だからな、諦めに徹するしかないだろ」
俺はもう諦めてる、と肩を竦めて返す藤倉に、朱里は軽く殺意が芽生える。歳下の婚約者に今から尻を敷かれてどうする、と蹴飛ばしたい衝動を抑える。
「そうですか、そうですか。みちるちゃんのロミジュリ講座で疲労困憊なんですよね、私。このまま疲労で帰ってもいいなら何も言わなくてもいいんですけどね。あ、そういえば土日で結構沢山の伝票データ届いてますよねぇ。私帰るので主任におまかせになりますがいいですよね。婚約者を放置してる主任の監督不足ですもんね。ああ、これはたいへんだぁ」
「わ、分かった! ちゃんと管理するから! だから帰るとか言わないでくれ!」
俺が労働過多で死んでしまう、と悲痛な叫びが隣から聞こえてきて、朱里の溜飲が少しだけ下がったのは言うまでもない。
じっとりと目を眇めてみれば、主任は顔を青くしてコクコクと頷く。私が本気であるのを悟ってくれたようで結構、と朱里も同じように頷く。
月曜日は我が社では地獄の始まりの日なのだ。土日で溜まりに溜まった仕事が一気に雪崩込んでくる上に、やれ会議だやれミーティングだと、仕事の中断を余儀なくされるのが週の始まりの出来事である。
だからこそ中堅社員が一人でも欠けると、阿鼻叫喚な状態になるのを知っての発言なのであった。
あー、ちょっとスッキリした。
「ところで、私に用があるのは本当なんですよね?」
いつまでも遺恨を残さない朱里が、藤倉にそう尋ねると。
「お、そうだった。御堂悪いんだが、今日付でもう一人主任が着任するから、庶務に寄ってそいつのID発行メモとかを貰ってきてくれないか」
「庶務って二階じゃないですか。また降りて行け、と。しかも、今日着任とか聞いてませんよ」
「俺だって出勤して課長に言われたんだよ。なんでも決まったのが金曜の遅い時間だったらしくて、ギリギリになって申し訳ないって課長も半泣きだったぞ」
「なんですか、そのはた迷惑な人事は……」
「ホントソレだな」
げんなりする朱里に、藤倉もうんざりと溜息を吐く。
「まあ、いいですよ。来るのは決定なんですよね。席は私の隣の空席でいいんですか?」
「そうだな。みちるの指導中で悪いんだが、しばらくは新主任のサポートも頼む」
「はいはい。一人増えても二人増えても変わりませんからね。今度ランチ奢ってくれたらいいですよ」
「おー、ちょっとお高い店のをご馳走するから頼むわ」
二階の庶務に行くなら早い方がいいだろう。余りここでごねてたら業務に支障がある。朱里は藤倉と別れて出勤組の流れを遡り、なかなか来ないエレベータに乗って庶務へ行くと、既に藤倉から連絡を受けていたのかスムーズに受領の手続きを取り細々とした物が入った封筒を受け取り、今度はギュウギュウ詰めの箱を上って、早足でオフィスへと向かう。オフィスワークで弱った足腰を酷使して、二階から八階まで階段を昇る気はさらさらございません。
「それにしても、はた迷惑な新しい上司様の名前は、遠坂……澪さんって言うのか」
始業前のさざめく廊下を歩きながら、朱里は手にした封筒に書かれた文字を言葉にする。
名前の雰囲気からすると女性のようなので、少しでも仲良くできたらいいな、と願うばかりだ。
と、阿呆な思考になっていた二十分前の自分を殴り飛ばしたい。
「えー、急な話ではありますが、本日より遠坂主任が着任しました。先の藤倉主任のサポートが主な業務となります。では遠坂君、挨拶をお願いします」
普段はのほほんとした課長がやけに緊張した面持ちで、隣に立つ青年に続きを促す。
すい、と長い足を半歩程前に出した、柔らかそうなこげ茶の髪を後ろに撫で付け、主任というには高級そうなスーツを纏った長身の男性が、周囲の女性同僚がとろけそうな顔で見守る中、ゆっくりと口を開いた。
「おはようございます。ただ今紹介に預かりました遠坂澪です。中途採用の為、至らない部分が多々あるかと思いますが、どうぞ皆さん助けて戴ければ嬉しく思います」
深々と頭を下げた遠坂主任は、麗しい笑みを湛えている。だが私は新しい主任が女性ではなく男性だった事よりも、さっきから周囲の視線を集めているにも拘らず、黒い双眸がじっとりと私を見つめている事の方に恐怖を憶えていた。
当時の彼の彼とは容貌は全く違う。それなのに、あの病的なまでに朱里を見つめる眼差しや、何を考えてるのか分からない微笑には、記憶の彼と寸分違わず一致するのはなぜだ!
できることならば、今すぐ辞表を叩きつけてハロワに駆け込みたい。
それ以前に相手を確認せず、どうして新主任のサポートを引き受けてしまった私。
(逃げたい。できることなら今すぐトンズラしたい。むしろこのまま倒れてしまいたい!)
藤倉主任と顔合わせをした遠坂主任は、次第に朱里へと向ける笑みがじっとりと深くなって近づいてくる中、
「はじめまして……じゃないね。ずっと逢いたかったよ。僕の運命の人」
周囲の悲鳴が聞こえてくるも、同じセリフを十六歳のロミオが言ってたなぁ、なんて明後日な現実逃避をしていたのだった。




