誇り高き奴隷は伝説の商人に飼われる
一月の十三日、オクタウィアヌスという名の男がローマの第一人者となった。
ギリシャを、カルタゴを、エジプトを降し、地中海世界を支配する巨大な「帝国」がいよいよ目覚めつつある――
* * *
「属州ガリア生まれの少女! どうだい、この輝く金髪! まずは九百から!」
「千!」
「千と、百!」
各地で売られ、あるいは捕らえられてローマに連れてこられた人間たちが、台の上に立たされ、次々と競り落とされてゆく。
「最後は、ギリシャ人だ! まずは千から!」
競り人が調子よく声を張り上げ、一人の若者が台上に引き出された。
客たちのあいだから、先ほどの少女のときとはまた違ったざわめきが起こる。
背が高く逞しい若者だ。
さらされた素肌は、戦傷とおぼしき傷痕だらけ。
短い黒髪の下のひどく反抗的な顔つきは、人に馴れない野生の獣を思わせた。
「そいつは、ギリシャ語の読み書きができるかね!?」
「お客さん、そりゃ、ライオンをつかまえて『よく犂をひくか』とたずねるようなもんだ!」
客の声に、競り人はおどけた調子で返した。
「この体格を見てくれ。力仕事なら何でもこいだ!」
肉体労働をさせるための男奴隷を求めにきた客たちは、ふうむと唸って考えこんだ。
確かに、力はありそうだ。だが――
「何だか、肌つやがよくないようじゃないか?」
「病気じゃないのか」
「とんでもない。うちじゃ、病気の奴隷を売ったことなんざ、いっぺんもないね!」
客の囁きを聞きとがめ、競り人はべらべらっとまくし立てた。
――確かに、病気ではない。
この奴隷は、買い取ってすぐに暴れ出し、手がつけられなかった。
そこで手枷足枷と猿ぐつわを嵌め、しばらく水しか与えずに弱らせておいたのだ。
ようやくおとなしくなったので売りに出したが、二本の足で立っているのもやっとだろう。
さっさと売りさばいて厄介払いをしなくては。
「何てったって、こいつは、あのスパルタの生まれだからね! 体の丈夫さは保証つき!」
「へえ、スパルタ人か」
その言葉をきいて、客たちの反応が変わった。
「千と二百!」
「三百だ!」
「そう来なくっちゃ! お目が高い。さあ、スパルタ人奴隷が千三百! 他に」
笑顔でそこまで叫んだ瞬間、競り人の姿が台の上から消えた。
いや、落ちた。
前のめりに吹っ飛んで、客たちのど真ん中に突っ込んだ――
「奴隷ではない!」
体当たりで競り人を突き落とした若者が、牙を向くような形相で怒鳴った。
「戦争捕虜と言え! 奴隷と呼んだことを取り消せ!」
若者はなおも叫びながら暴れようとしたが、すぐさま台上に駆け上がった用心棒たちが数人がかりで若者を引きずり倒し、棒で散々に打ちすえた。
「やめろ、このボケカスどもがァ! 商品をキズモノにする気か!? ……どうもすみませんね、皆さん」
騒動の中、何とか立ち上がった競り人が用心棒たちを一喝する。
唖然としている客たちに向き直った競り人は、完璧な営業用の笑みを浮かべ、
「この通り気は荒いが、そこがいい。どうです、剣闘士奴隷として、死ぬまで戦わせるとか」
プロの根性で薦めたが、客たちは無言のまま、押し伏せられて唸る若者を眺めるばかりだった。
「ですよねー……」
競り人は笑顔のままで片手を振り、若者を台から降ろさせようとした。
損害になるが仕方がない。
この競りが終わったら、裏で死ぬまで殴って思い知らせよう――
「千と、四百」
不意に、客たちの中から声が上がり、その源に全員の視線が集まった。
「気に入ったぜ。ずいぶんと躾けがいのありそうな奴隷じゃねえか?」
腕を組んでにやつきながらそう言ったのは、痩せて小柄な中年男だった。
服装は質素で、金持ちにも、高貴な家柄の出にも見えない。
単なる慰みで奴隷を買う余裕がありそうには思えなかったが、買うというからには、金はあるのだろう。
他の客たちは眉をひそめ、ひそひそと囁き合った。
「誰だ、あれは?」
「さあな。物好きな……」
「寝首を掻かれても知らんぞ」
「千と四百、他には!? ……はい、そちらの方に、千四百で!」
競り人がやけくそのように叫び、黒髪の若者は痩せた中年男に買い取られた。
契約書の取り交わしと支払いをすませ、若者の首輪を繋いだ縄を受け取ると、中年男はにやにや笑った。
「さてと、そんじゃ行きますか。この先に、おまえを待っ――ておい、マジかよ!?」
中年男が思わず叫んだのも無理はない。
足枷を外された黒髪の若者は、一瞬にして男の手から縄を引きむしると、そのまま脱兎のごとく通りを駆け出したのである。
それ見たことか、と周囲の客たちは冷笑を浮かべたが、
「ざけんなっての」
呟いた中年男の動きに、一同、思わずあっけにとられた。
男は瞬時に、そばにいた用心棒の手から棍棒をむしり取り、
「金だけ払って、品物に逃げられたなんてなァ」
猛然たる助走をつけて、思い切り振りかぶったと思うと、
「ンなダッセェ報告、お嬢に上げられるかってェのッ!」
ぶおん! と凄まじい剛腕で投げつけた。
棍棒は激しく回転しながら空を裂いて飛び、逃げる若者の後頭部を直撃して、その場に昏倒させたのだった。
* * *
体が、動かない。
頭が痛い。
どこかの部屋の中だ。
すぐそばで、誰かが、ギリシャ語を話している。
「すんません、お嬢。お嬢の財産に傷を……」
「ギュゲスが謝ることないよ。買ったその場で逃げられたんじゃ、ぼくが困るし」
急激に覚醒する意識の中で、若者は衝撃を受けた。
一方は、あの中年男の声。
もう一方は、若い娘の声だったからだ。
「しかし、お嬢、本当にこいつでよかったんですかい? 目が覚めたら、また暴れやがるかもしれませんぜ」
「スパルタ人の誇り高さは有名だからね。それに、彼らは死を恐れない。知ってるだろ? レオニダス王と三百人のスパルタの戦士たちの物語を。彼らは、死ぬと分かっていて、ペルシャ帝国の大軍勢にぶつかっていった」
「そんなもん、大昔の話じゃないですか。スパルタなんて、とっくにローマの属州になっちまって、今じゃただの田舎町だ」
「何百年も伝わる物語には、強い力がある。その力は、人の心を動かす。人の心が動けば、そこに商機が生まれる……」
そこまで言った娘の声が、笑った。
「あとは、彼が、ぼくの経営方針に賛同してくれるかどうかだね」
手足を厳重に縛りあげられたまま、若者は床の上で転がり、そちらを向いた。
ぐるりと巻いた革の鞭を片手に「起きていやがったか」と舌打ちする中年男。
その隣に一人の娘が立ち、こちらを見つめていた。
歳のころは十五、六か。
何とも愛嬌のある顔立ちをした、金髪の娘だ。
「おまえは……」
「この野郎!」
思わず呟いた若者を、中年男が鞭で打った。
鋭い痛みが走ったが、若者は息を詰めて声を上げなかった。
「ギュゲス」
「止めねえでくだせえ、お嬢。こういう野郎は、最初にきつく仕込んどかねえと付け上がりますぜ。……おい、てめえ」
中年男がずかずかと近づき、若者の顎をつかむ。
振り払って指に噛みつこうとしたが、中年男の力は、それを許さないほど強かった。
「『おまえ』とは何だ、ああ? お嬢になめた口きくと容赦しねえぞ。今のてめえの立場は、お嬢の財産なんだよ。てめえをどういう扱いしようと、お嬢の胸ひとつなんだからな!」
「アルテミス女神の祭壇で、若者たちは鞭打ちの儀式を受ける……」
不意に、娘が歌うように口ずさんだ。
ギュゲスは眉をひそめ、若者は、はっとした表情になった。
「彼らは血にまみれても、声を上げることもせず、快活に耐える。そして、誰が最もよく苦痛に耐え得る者であるかを競い合う……」
「アルテミス・オルティアに捧げる神事だ」
若者がぽつりと呟くと、娘は頷いた。
「そう、君の故郷の風習だね」
彼女は手を振って中年男を下がらせると、若者の顔のすぐそばへ来て、しゃがみこんだ。
「さっきも言った通り、ぼくは、スパルタの物語を現代によみがえらせようとしてる。そして、それを金に換えようとしてるんだ」
「金に……?」
「知ってるよ。君たちスパルタ人は、金銭を軽蔑してた。でも今となっては、金こそが全ての土地と人間を結び合わせる絆だ。……ぼくは、君に、ぼくの商売のために働いてもらいたい」
この娘は、いったい何者なのか。
女の身でありながら、まるで男のように、ひとかどの商人のように話している。
『ぼくの商売のために働いてもらいたい』などと――
かつて、こんな言葉を、女が男に向かって言ったことがあっただろうか?
「嫌だ、と言ったら?」
「損益は最小限に留めたい。さっそく転売して、闘技場で野獣の餌にでもなってもらうしかないな」
言って、娘は小さく肩をすくめた。
脅しではない。こいつは本当にやるだろう。
そう思った。
だが、それとは関係なく、興味が生まれている。
この娘は何者なのか。
いったい何をしようとしているのか。
そこに、この自分は、どう関わることになるのか?
そんな思いを読みとったかのように、娘が笑った。
「ぼくが付けてもいいんだけど、君に訊くよ。名前は?」
迷いは、ある。
だが、決断した。
「……リュサンドロス」
「ぼくはレアイナ。さっそく、仕事の話を始めよう!」




