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スパイ、奥の細道を往く

 勇ましい掛け声。

 床板を踏み鳴らす音。

 打ち合う音。

 普段なら喧しい物音が、風が揺らす葉擦れの音に交じって柔らかく聞こえてくる。


「道場の音も、ここまで遠ざかると雅びに聞こえるものだなあ」

 誠志郎は呟いた。


 彼が歩いている一角は、竹藪もとい竹林になっている。

 引っこ抜かずにおいた理由について、武術で荒らぶった心を平らかに戻すためと訊いている、が。

「職人に払う工賃が押しくなったのだろう」と誠志郎は踏んでいる。


 意図はともかく、筍には不自由したことがない。生える時期には、近くの農家と物々交換をしているほどである。

 立派に育った竹の本体は、風流人の家を飾る建材として売るときもあり、道場にとって貴重な収入源となっていた。


 誠志郎が向かおうとしている庵は、竹林の中にある。

 道場が完成するまでは職人の休憩所として使われていた。

 にじり口を取りつけ、炉を切って「休庵」などと称しているが、実際は掘っ建て小屋である。蚊も多く、昼寝には向かない。


 来客がこんな処に押し込められて「うむ、風流である」などと悦に入っているのかと思うと、誠志郎はおかしくて仕方がない。


 ……客は誠志郎に大事な話があって、わざわざ道場まで足を運んできたのだという。

 どこぞの大身の娘に見初められ、婿養子に入らないかという話かもしれない。

 誠志郎はにやけそうになる顔を、なんとか引き締めた。




「桐谷 誠志郎、参りました」

 にじり口の前で中に声をかける。


「入るがよい」

 茶室の中で誠志郎を待っていた客が応えた。


「失礼いたします」

 誠志郎はすらり、と戸をひいた。大きな躰であるが、小さなにじり口からするりと中へ入る。


 座して対峙してみたら、誠志郎のほうが男より頭一つ分くらいは高く見える。立ってみれば、誠志郎は四尺四寸七分(約一七〇センチ)くらいあるかもしれない。

 客は、圧迫感と誠志郎から漂ってきた汗の匂いに、露骨に眉をしかめた。


 まずは誠志郎、平伏する。

 この手の輩は傍若無人に振る舞うくせに、相手の礼儀作法にはやたらとうるさいと相場が決まっている。


「申し訳ありません。急ぎ、水を浴びたのですが」

 誠志郎は不調法を詫びた。

 悪びれた様子もなく、誠志郎は男を見上げる。

 誠志郎の顔からは、いまだ汗が顔から滴っている。緩めた口元から白い歯がこぼれる。


「よい。剣術の稽古をしていたのであろう、邪魔をして悪かった」

 男は鷹揚に言うが、ちっとも悪いと思ってはいない。傲慢さが感じられる声である。

 男は、あらためて誠志郎をじろじろと見る。


 日に焼けた肌。

 着物の上からでもわかる、厚みのある肩や胸。なよなよしている侍と一線を画している。

 着ているものは粗末な木綿物であるが、丁寧にツギをあてている。

 太い眉の下は、なかなかの男前である。全体として、品は悪くない。


 対して誠志郎が見たのは、頭巾をかぶって正体を明かさないようにしている男。

 抜いたことのなさそうな大小の(こしら)え。渋い艶を放っている着物。どちらにもたっぷりと金がかかっている。高い身分なのであろう。


 頭巾から見えるのは目の周りだけであるが、冷徹さや意地の悪さが透けているようである。

 仕官の話かもしれないと勇んで来たはいいものの、違ったようだ。


(お大尽が、貧乏道場にどんな厄介ごとを持ち込むのやら)

 誠志郎は辛辣な感情を、穏やかな表情の下にしまいこむ。


「誠志郎、そのほうを見込んで頼みがある」

 前置きもなく切り出された言葉に、誠志郎は目を見開いた。

 伝手(つて)も不明な人間に、なにをどう見込まれたというのか。正体を明かそうとせぬ男からは、きな臭さしか漂ってこない。


「江戸から遠ざかる程に、上様の御威光は届かなくなる。西もだが、最たるものは北よ」

 頭巾の男が低く呟いた。

 声の調子からして、北の大名家をよほど毛嫌いしているか、警戒しているらしい。


「不穏な動きもあると聞く。が、御用繁多な我が身では、行くことかなわぬ」

 口惜しそうな声だが、わざとらしさを感じてしまうのはなぜだろう。


「そのほうも、こんな処でくすぶっているのは辛いであろう」

(余計なお世話だ)

 頭巾の男の言葉に、誠志郎は心の中で悪態をついた。とりあえず、人なつこい笑顔を浮かべてみせる。

 都合よく勘違いしたものか、頭巾の男は膝を近づけてきた。


「見聞を広める、いい機会だ。どうだ。我が目となり耳として、陸奥(みちのく)へ行ってはくれぬか」

 頭巾の男は誠志郎の目を見ながら言った。……頼む体裁をとってはいるが、断られるとは微塵も考えていない口ぶりである。


 誠志郎は現在、無職・無禄である。が、ふらふらしていられる身分ではない。せめてもの食い扶持として、世話になった道場で剣を教えている。


(厄介事に巻き込まれるのはごめんだ)

 誠志郎はこっそり考える。


 代稽古がない日には、出稽古がある。

 長期にわたって弟子を放り出すなど、出来るはずもない。

 ついでに言えば陸奥まで出かける路銀など、とてもではないが用意できない。


「おこと」

「路銀も手形も必要なものはこちらで用意しよう。安堵いたせ」

 わりいたします、という前に機先を制されてしまった。


「無論。働き次第では、そのほうに仕官の口を世話もしてやろう」

 頭巾の男は含み笑いをしながら言う。足元を見られていることに、誠志郎は屈辱を感じた。


「留守をして支障ないか、確認してからお返事をいたします」

 誠志郎は即答を避けようとする。せめてもの抵抗だった。

 が。


「そのほうの気掛かりはもっともである。門下生に稽古をつけられる者を手配した」

 上機嫌で頭巾の男は言ってのけた。


 内心、誠志郎は唇を噛みしめる想いである。外堀を埋められてはどうしようもない。

 おそらく呼びつけられるまでに、段取りは済んでいたのだろう。

 黙り込んでしまった誠志郎に、頭巾の男は勝利を確信した。


「誠志郎。そのほうには、松尾芭蕉として旅をして貰う」

 頭巾の男の声に、相手を屈服させた愉悦が滲む。

 

(誰だ、それは)

 誠志郎は要領を得ない顔になった。

 知っていなければならない有名人のようであるが、聞いたことがない。


 頭巾の男は、おや、とでもいうように片眉を上げてみせた。


「そのほうの実の父だ」

 誠志郎はぎくりと躰を強張らせる。

 己が養子であることは知っていたが、実父かもしれない人物のことを聞いたのは初めてだ。


 頭巾の男が、なぜ己の父親を知っているのか。どうして松尾なる人物は、誠志郎を養子に出したのか。

  誠志郎は衝撃に耐えるのが精一杯である。


「知らなかったのか? そのほうの養父は奴の弟子であるというのに。……まあよい」


 無芸無趣味に見える養父がどんな芸事を習っているのか、誠志郎は知らない。


 頭巾の男によると、松尾なる人物は俳諧師。

 誠志郎には俳句だけで食べていけるのか疑わしいが、町人はもとより武家にも弟子を抱えているのだという。


 男の言葉が飲み込めてくると、誠志郎は腹の中が冷えていくような心地になった。


(なるほど、確かにその人なら大名家にも潜りこめるんだろう。……そこまでさせて、ただの視察で終わるはずがない)


 標的にさだめた大名家の転封、もしくは改易を狙っているのか。

 誠志郎は、いよいよ抜き差しならない事態であることを悟った。


 おそらく松尾なる人物は、今までも幕府からの命をうけて諸国に潜入してきたのではあるまいか。

「子」である誠志郎は、都合のいい替え玉。あるいは捨て駒なのだろう。


(言いつけられた仕事を無事果たせたとしても、江戸の地を生きて踏めるのかわからない)



「私は、俳句をたしなんでおりません」

 誠志郎は必死に言った。

 松尾芭蕉なる人物が有名であるほど、誠志郎の化けの皮は早晩にはがれる。


「これからたしなめばよい」

 無責任なことを言う頭巾の男に、誠志郎は腹が立った。勝手なことを言うな、と怒鳴ろうとしかける。


「そのほうが陸奥に旅しているあいだ、芭蕉は我が別宅に逗留して貰う。ゆえに、俳聖が二人いるなどという事態にはならぬ」

 頭巾の男が舌なめずりをするような声を出す。


(有名な人物を、宅内に留めおく。……この御仁には、それほどの権力があるのか)

 誠志郎は、蜘蛛の巣に絡めとられていく羽虫のような心地になる。


「おお、そうだ。別宅だけではなくそのほうの養家も、手の者に見回りさせよう。これで、安心して旅が出来るであろう?」

 今、思いついたといわんばかりの言葉である。


 親切な申し出のようであるが、『返答いかんでは、お前の大事な者たちの命の保障はしない』と言っているのだ。


 誠志郎には、男が頭巾の下で残忍な笑みを浮かべているのが見えるようである。

(どうしても、この男は自分を引きずり込みたいのだ)


「……承知つかまつりました」

 誠志郎は絞り出すように呟いた。うむ、と頭巾の男は満足そうに頷く。


「『思い立ったが吉日』だ。本日、旅立つがよい」

 頭巾の男は目的を達したとばかりに腰を上げた。誠志郎の傍をすり抜けてにじり口から出て行く。


「随行の者に旅支度も用意させてあるゆえ、なんなりとその者に申し付けるがよい」

 ……己の監視役。そして頭巾の男との連絡役なのだろう。


「は」

 誠志郎は改めて平伏するしかなかった。



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