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皿のうえの夢 或は不幸な息子の噺(一夜限定スズナリの会)

作者: カラスウリ

錫 蒔隆さんへ贈る

  『 序 』


 卓上に並べられている写真は、どれもこれも皆ふるい。

 表面が妙にてらりとしていたり。逆に光沢を抑えて、ざらりとした手触りだ。白く縁取ふちどられた写真の角が、ところどころかけているものもある。アルバムに貼っていたものを、無理に剥がした時に破れた為だ。


 写真はあるプロジェクトの一五年間の記録である。

 五×三で年代順に並んだ写真の、最も古いものは一九七六年。裏にそう明記されている。

 その年の写真には、五人の男たちが横一列に並んで映っている。

 一五枚の写真に映る男たちは、ある時は人数が増え、ある時はたった二人になる。

 最初から最後まで、この二人は必ず写真に映っている。


 ひとりは痩せぎすの、五十代半ばと思える男だ。

 しゃんと背を伸ばし、直立不動でしかめっ面をしている。うしろへ髪を撫でつけて、きっちりとした衿付きシャツにスラックス姿だ。

 七六年の頃は生え際の部分に多少のしろがあるばかりで、まだまだ黒がまさっている。それが最後になると、白に黒が僅かに混じる。生え際もぐっと後退している。年を重ねる度に、顔の皺は確実にふかくなっている。


 一方もうひとりの男はといえば、痩せぎすの男性よりかなり若い。

 二十代後半から三十代初めであろうか。おどけた様子で子どものように、ピースサインをしている写真もある。 

 釣りズボン姿の彼のウエストは、最初と最後では明らかにおおきく横に広がっていく。太り過ぎだ。つやつやと血色の良い頬に、今にも笑い出しそうな口元をしている。


 この二人を中心に、他の男たちは写真上に現れては消えていく。

 二人の他に変わらぬものは、撮られた場所だ。

 男たちの背後には、幾重もの樹々が連なっている。森のなかであろうか。濃い緑は、時には男たちの顔に鬱蒼と陰をつくる程だ。

 彼等の足元は黒ぐろと湿った大地だ。

 大地には花が咲き乱れている。一見花には見えない形状ではあるが、彼は決まってそれを「花」と呼んだ。鮮やかな花に囲まれて、男たちは時に笑い。困惑の色を浮かべ。或はしかめっ面を崩さずに、古い写真のなかにいる。



  『 故 吉村安伴が息子の話し 』


 幼い頃。

 ちいさな山村に母と住んでいた。ぐるりを山に囲まれた。世間からひっそりと隠れるようにしてある村であった。

 父はなく。母と祖母と三人暮らしであった。

 家は裕福ではなく。わずかの畑と、バス停の側で営む雑貨店で生活をまかなっていた。

 

 さて。

 死んだはずの父から、先日手紙がきた。


 死んだ。と、いっても実は家族皆、父の死に際を見たわけではない。

 俺が幼い頃。

 母と祖母は畑に出かけ、普段は祖母がしている店番を、風邪気味の父が変わったそうだ。俺は父とふたりで家に残っていた。

 父は絵がたいそう得意で、俺が強請ねだったものは、それが馬でもカブトムシでも。いっそ怪獣でも空飛ぶ円盤でも。何でも描いてくれた。

 俺は父が大好きで、父が居るなら自分も残ると家に居た。


 さて。母と祖母が昼に帰って来ると、父の姿はない。父の布団のなかで寝入っていたのは、俺一人であった。俺の片手には、くちゃくちゃになった紙が握られていた。紙にはトラとゾウが描かれていた。父が描き、俺が色を塗ったものだ。未だに母は捨てずに持っている。

 母に揺り起こされた俺は、父にお客が来たと言ったらしい。

 お客は見た事もない女で、父は女をバス停まで送るから。そう言って出て行った。

 そのやり取りの記憶は既にない。ただ母の、やたら切羽詰まった顔付きと、いつもよりずっと堅い声だけは今でも記憶の片隅にある。


 そのまま待てど暮らせど。父はとうとう帰って来なかった。

 無論。在所ざいしょの交番に母は届けでた。

 しかし当時は社会人の蒸発が、新聞でも盛んに取り上げられており、対応はおざなりであったらしい。

 父が生粋の村の者ではなく。流れ者であったのも、いまいち親身になってもらえなかった要因だと、後日母はこぼしていたものだ。

 小学校にあがる前に祖母が死ぬと、母は店を畳み、畑をひとへと譲り、生まれ故郷の村をでた。小学校に一緒に入学するはずであった友と別れる日。俺はぐずって、母の手を煩わせた。


 母は新しい土地でも随分父を待っていた。休みになると母に手をひかれ、父を探そうとあても無く街を彷徨さまよった。母が新生活に選んだ土地は、父が生まれ育った街だった。

 それでも父が姿を消してから十数年がたつ頃には、流石に諦め母は失踪を申告した。


 俺は中学生になっていた。


 失踪宣告の申し立てから時を経て、書類上父は死亡となった。

 村に残された先祖代々の墓には父の名が刻まれて、戸籍謄本にも明記されている。

 その父から手紙がきたのだ。

 当然だが俺は動揺した。

 これは父であるのか、否か。否だとしたらこんな茶番をする意味が分からない。では死んでいなかったのか。

 それならば。どのようにして、生き別れとなっている息子の現住所を知っているというのだ。

 可笑しいではないか。

 考えられるとしたら、親族である。だが祖父母はとうに亡く、父に兄弟はいないと聞く。

 残るは母だ。

 市営住宅に一人暮らしをしている母に電話をして、手紙について聞こうかと思ったが止めた。母はずっと苦労続きの人生であった。

 おぼろな記憶だが、父のことで祖母ともよく喧嘩をしていた。

 夏休みやクリスマス。父親がいる家族を見ては俺は惨めな思いを抱いた。母だって同じだろう。ならば今更。こんな茶番に付き合わせる事はない。


 後日見知らぬ男が訪ねて来た。

 父だとは、どうにも判断がつかなかった。物心ついて以来会った事がないのだから、当たり前といえば当たり前であるが、これは酷い。酷すぎる。なにせ夜半に訪ねて来た、男の首からうえはナニも無い。


 男は、首なしであったのだ。



  『 槙野家T嬢と、そのお友達について 』


 叔母の家には鳥籠があります。

 真鍮製の華奢な造りの鳥籠です。

 叔母がまだ若かりし頃。言語学者であったお爺さまの国際学会について行き、途中立ち寄ったイギリス北部のちいさな街で手にいれたアンティークだと言う話しです。

 わたしは眉唾ものだと睨んでいます。

 なにせ叔母というひとは、滅多に外にでません。五十代の叔母は根っからの家虫で、二十年以上引きこもっているのです。

 その叔母が、祖父と半日程も飛行機にのって、遠い外国(ヨーロッパ)へ行く姿など想像もつきません。

 そう言うと、叔母は奇麗に整えた眉をきゅううとしかめます。


「私だって、貴女くらい若くて行動的だった時があるのですよ」

 叔母はご不満らしく、唇を尖らせそう言うのです。

 ええ、確かに。叔母にも若い時があり、それなりのロマンスやハプニングがあったのでしょう。


 現在いま。叔母は生まれ育った生家に、ひとりで暮らしています。

 三十路までは親族もあれこれ世話を焼き、結婚話しを持ち込んだらしいのですが、いっかな興味を示さず、独り身を貫いています。

 かつて結婚の約束をした男性にふられて以来、叔母の人生は変わってしまったのです。そんな事ってあるのでしょうか? たった一人の男性の為に。たった一度の失恋の為に、人生が酷く寂しく惨めになるなんて、わたしには想像もつきません。


 独り身の叔母が日々の生活の収入源をどうしているのか、誰も知りません。

 叔母に聞いてもはぐらかしてばかりです。

 叔父などは、姉さんは資産家であった父さんの骨董品を勝手にうりさばいているに違いないと、陰で散々言っているようです。けれど独り身の孤独な姉に、面と向かって言う程面の皮は厚くないようです。

 わたしの意見は叔父とは違います。

 叔父の言うようにして、叔母があぶく銭を稼いでいるとは思えないからです。少なくとも、たまにわたしが顔をだしても、叔母の生活に荒れた様子はありません。壁に飾られた絵画も、古伊万里こいまりの茶器セットも。みなそのまま以前の姿を保っています。

 

 さて。偏屈で孤独な叔母には、おともだちが一人います。

 とっておきの、おともだちです。


 おともだちは中年男性です。

 叔母は奇麗な顔立ちの俳優を好みますが、おともだちは、どこからどう見てもむさい男なのです。

 世間に背を向け、親族からも遠巻きにされ、一人ぼっちを選んだ叔母は、おともだちをそれはもう大切にしています。母も叔父も。おともだちの存在をしりません。わたしと叔母だけの秘密です。

 まあそれはそうでしょう。

 いくら親族きっての異色の存在である叔母であっても、マトモな神経をもってすれば、あのおともだちはいただけません。


 けれどわたしは違います。

 わたしはあの不可思議なおともだちに、たいそう興味を抱いているのです。



  『 小貫正太郎博士談 』


 青銅色の鱗屋根うろこやねが目印の「マイマイカブリ」は、雑木林がまばらに残ったY市の郊外に、ひっそりと佇むレストランである。


 経営者であり、自らコック長として厨房にたつ工藤くんは、素敵に美味しい料理を造る。

 工藤くんの料理ときたら、どれも特別に美味しいのだけれども、なかでも天下一品といったらこれしかない。彼でしか造れない。唯一無二の御馳走だ。


 閉店後のマイマイカブリにいるのは、私ひとりだ。単なる上客だからではない。秘密を共有する私だからこその、至福の時間というわけだ。

 時刻は夜のとばりのおちた二十四時。女給もソムリエも帰った後の店内は、一日の饗宴を終え実に静かである。だからといって私の胸の内に渦巻くパッションは、店内に流れるGlenn Gouldの奏でるPartitaに誘われて否が応にも盛り上げる。


小貫先生こぬきせんせい。お待たせ致しました」


 工藤くんが私の背後にそっと立つ。実にエレガントな動作である。工藤くんは料理の腕前だけではなく、男性としても第一級品だ。

 三十路の彼の、ギリシア彫刻のごとく丹精な顔立ち見たさに、ここを訪れるご婦人やうら若き令嬢も多いと聞く。しかし工藤くんは色を好まぬたちらしく、いっかな彼の醜聞を聞いた試しがない。

 工藤くんに言わせれば、たぐいまれなる食材以上に、彼を興奮させるものはないらしい。

 なんとも奇特な人物である。そして私は大いに彼に共感する。


 私はナプキンをひろげ、待ちに待った一皿を出迎える。

 白地に細い蒼線で、レーテ模様が描かれているのは、GinoriのMu Geo Classico。私のお気に入りの皿上には、たおやかな一片がしらじらとした身を横たえている。

 これこそが至上の一品。

 幸福な時間の権化と言える料理ーー神さまのパンと呼ばれる幻の品である。


 焼き色がうっすらとついた表面は、ゆるやかなカーブを描いている。その形だけ見ると、雲形定規くもがたじょうぎによく似ている。ただし定規とは違い、ふっくらとした厚みがある。もし指で押してみれば、もっちりとした感触を楽しめるはずだ。無論紳士を自任している私は、レストランでその様な礼儀知らずの行為はしない。

 

「小貫先生。今宵のお相手は……」

「いや、待ちたまえ」


 工藤くんの言葉を、私は片手をあげて静止する。


「君に言われなくとも大丈夫」

「これは、とんだ失礼を」


 一礼をして工藤くんは厨房へと戻っていく。

 もはやここにいるのは、私と彼女だけである。


 私は神さまのパンに、銀のナイフをかろくいれる。

 力などいれなくとも、ナイフは重力に導かれ、すううっと落ちていく。

 途端。

 この奇跡の食材にたっぷりと絡みつく、バタの黄金の汁気が左右に別れる。

 切り取られた神さまのパンへ、さくりとフォークを突き立てる。

 ますます溢れ出る汁気。

 否が応でもわき上がる興奮と期待を抑えつつ、私は口中へ迎え入れた一切れを、ゆっくりと噛み締める。

 鼻へ抜ける秋の森を思わせるかぐわしい匂いと、なんともいえない柔らかな弾力。早乙女さおとめの肉をんだら、或はこのような食感かもしれぬ。

 そう思わせる、背徳感にも似た恍惚が、口いっぱいにひろがる。


 ああ、これこそが真の食物マナ。ハレルヤ。ハレルヤ。神さまありがとうございます。

 私は神へと感謝の念を捧げる。

 工藤くんに料理の才をお与え下さり感謝致します。

 私にこの場にす機会をお与え下さり感謝致します。

 私と工藤くんをこの女神に引き合わせてくださりまして、誠にありがとうございます。

 私は目を瞑り、至宝の一切れを嚥下する。

 Bachの調べも、もはや私の耳には届かない。私はまるで、ひとつの閉じたる円のようになる。この恍惚の時間以外のすべては、私という一個の生物の上を、つるつると滑り消えていく無序に過ぎぬ。



  『 マイマイカブリ店主 工藤君語り 』



 僕の朝は、彼女たちの世話からはじまる。


 柔らかな瑞々しいアーティチョーク。アンゼリカ。エルダー。エキナセア。オリーブ。オレガノ。キャラウェイ。クレソン。ジャスミン。シソ。セージ。タイム。チコリ。バジル。フェンネス。ベルガモット。ミント。レモンバーベナ。レモンバーム。ローズマリー。ローリエ。ワイルドストロベリー等々を季節や各自の好みに合わせて調合して食べさせる。


 これがまた一苦労だ。なにせ彼女たちときたら、自ら食べようとはしない。

 皆がみな。決まってその朱色の唇をぽっかりと開けて、まるで餌を強請る雛鳥のように、僕の与える食事を待っている。手間がかかること、このうえもない。

 食事中。彼女たちは勝手気侭にしゃべってばかり。そりゃあもう姦しい。

 朝から晩まで。

 ぴいちくぱあちく。忙しなくさえずっている。

 しかもその言葉のほとんどは、ナニをしゃべっているのか分からないときている。

 まるでもう、小鳥のさえずりそのものなのだ。

 遠く海を渡ってきて、この地に根付いて長いというのに今だ日本語を解しない。いや、そもそも覚える気さえないとみえる。

 だからといって、僕は決して彼女たちを邪見に扱ったりはしない。

 彼女たちこそが僕がしんに追い求める女神ミューズであり、恋しい存在だからだ。


 彼女たちに新鮮な朝食をたっぷりと与え、室内の温度湿度を確認し、僕は店へとはいる。

「マイマイカブリ」のランチメニューの食材の確認をし、雇ったばかりの下っ端コックの手際に目を光らせる。

 フロアスタッフより一時間遅くやって来る、ソムリエの武藤さんとワインの打ち合わせをする。

 馴染みの魚市場。自家製農園の人々と、旬の食材の買い取りについて連絡を交わす。

 僕は常にここで慌ただしく過ごす。そうしなければ、店はまわらない。


 壁時計を見ると、はや十一時。店はお腹を空かせたお客さまたちで満員御礼だ。

 皆ランチメニュー片手に、どれにする、これにする。ではこれでと注文をくり出していく。フロアスタッフは、揃いのスカートの裾をくるりくるくるひるがえして、店内を縦横無尽と闊歩する。


 一方今頃僕の愛おしい彼女たちは、小貫先生のお世話を受けているはずだ。

 七十代の小貫先生は、H大学の名誉教授である。大学に顔をだすと目下の弟子たちに、やたら愛想よく迎えられ、その後いないものとして扱われているらしい。

 つまりは居ても居なくとも彼の生活には、何の支障もないらしい。金に困っていない先生は、彼女たちに費やす時間と知識だけは、たっぷりとある。


 異国の山深い集落に、ひっそりと暮らしていた彼女たちを保護したのは先生方だ。

 小貫先生が人買いよろしく、彼女たちを連れ帰ってくれなければ、僕の料理人としての人生は今ほど充実していなかったであろう。

 それを僕は感謝の念と共に、忸怩じくじたる思いで考える。

 出来る事ならば店を放り出し。僕自らが二十四時間彼女たちの世話をしたいのだ。しかしそれは叶わぬ夢物語である。

 なにせ彼女たちには金がかかる。

 その為にも店を手放すわけにはいかない。


 マイマイカブリのオープンは一九九二年。

 僕にとって記念すべき年である。

 昭和初期に建てられた和洋折衷二階建ての建物は、住むには少々不便ではあるが、何ともいえぬおもむきがある。

 裏手に広がる雑木林が、まるで別荘地のような雰囲気を醸し出している。林のなかには、彼女たちのちいさな。けれど快適な家もある。できれば二階の自室ではなく、僕は彼女たちと寝食も共にしたいのだが、それは先生から止められた。


「彼女たちにストレスを与えてはいけない。とても。とてえもデリケートな存在だ」


 小貫先生はしたり顔でそう言うのだ。

 だが先生こそチャンスがあれば、彼女たちの寝所に忍び込みたいはずだ。

 だがまあいい。僕は彼女たちを育て、調理する。その栄誉があればそれで良い。



  『 幕間 』


 一五枚の写真のなかにあの人がいる。

 よく日に焼けた朗らかな顔をしている。

 写真の裏にはマジックで、一九八七年と記されている。あの人が映っているのは、これ一枚きりだ。

 当時あの人は博士課程の学生であった。担当の助教授に大層目をかけられ、研究グループの助手として調査隊に参加したという。


 たった一回こっきりだ。


 たった一回で、あの人は発病した。

 発病したあの人に、小貫助教授は羨ましいと言ったそうだ。

 羨ましい。私が変わりたいくらいだと。

 なんと無責任で残忍な言葉であろうか。あの人はそう言っては、よく夜中に涙していた。あの人の嘆きは深く、救われる道など今にして思えばどこにも無かったのだ。


 調査隊が「Hostiaホスチア」と命名した花の名は聖体を指す。

 キリストの躯になったパンの名称だそうだ。ラテン語で「生け贄」の意味を持つ。

 命名者は槙野教授だ。教授は「聖なる花ーーホスチア」の栽培に心血を注いだ。

 帰国後発病したあの人を、教授は「雄株候補おかぶこうほ」と呼んだ。

 現地でホスチアを食し「雄株」となった発症者は、ホスチアの群生地に生きたまま埋められたそうだ。

 あの人は槙野教授を。小貫助教授を恐れた。

 自分の行く末を恐れた。あの人は皆に隠れるようにして大学を去った。

 築き上げたキャリアも。未来も。全てを捨てて、それでもひととして生きたい。あの人の望みは、そんな当たり前のものであったのだ。


 写真と共に一冊のスケッチブックがある。あの人が現地でホスチアのスケッチをしたものだ。

 植物分類学を専攻していたあの人の絵はとても精密だ。まるで写真のように、ホスチアの細部までを描写している。スケッチブックには、絵の他に走り書きもある。

 大抵は研究に関する記述だが、一箇所だけ研究内容と全く関係のない言葉が羅列されている。


   やってくる。

   赤い糸がやってくる。ニゲネバナラン。

   ニゲネバ。ニゲネバ  ニゲネバ

   ニゲネバ、ニゲ……


 字はたいそう乱れている。



  『 マイマイカブリ店主 工藤君語り 』 


 温室から戻って来ると、小貫先生が僕を呼ぶ。


「これは絢子さんでしょう」


 先生はバタでてらてらと輝く口元を、ナプキンでぬぐっている。本日の特別メニューの乗ったジノリの皿は、奇麗にからっぽだ。先生の旺盛な食欲は、料理人である僕のこころを常に満足させる。


「ご名答です。流石ですね、先生」

 先生の回答に、僕はふかく頷く。


「私もだてに、彼女たちの世話をしているわけではないからね」


 僕の言葉に先生は、誇らしげに胸をはった。その姿はまるで絵本にでてくる子豚ちゃんだ。

 先生は毎年まいとし丸くなっていく。

 僕は先生の本当の望みを知っている。

 しかしそれは先生が求めても、もはや得られぬ望みである。

 僕は知っている。

 先生だって知っている。なのに知って尚、先生は飢えた獣のように、彼女たちを食べずにはいられないのだ。


「ちなみに決めてはなんだったのでしょう?」

 僕の問いかけに先生は、「愛情さ」そう言って片目を瞑ってみせるのだが、これがどうにも粋に見えないのはご愛嬌だ。


「それはそれは。愛情のなし得る力ですね。しかし先生の一番のお気に入りは、小夜子さんだと思っておりました」


 僕が目下先生お気に入りNo.1の名を口にだすと、

「おっと。大声でそんな事を言うものじゃあない。どこで誰が聞いているとも知れんのだ。君、気をつけてもらわなくっちゃいけない。第一彼女たちに捧げる私の愛情に、誓って嘘偽りはない。ただちっとばかり、そこに好みの問題がはいるだけだ」


 そう言うと先生は、僕の手元の籠を覗き込んだ。

 そこにあるのは、ふくふくとした神さまのパン。奇跡の食材である。

 たった今とってきたばかり。調理する前の神さまのパンは、独特の形をしている。雲形定規というよりも、切り取られた人間の耳にそっくりなのだ。いや、いっそ耳そのものだと言って良い。


 気の弱いご婦人などが目にしたら、きゃっと叫んで倒れるかもしれない。警察に通報される覚悟は必要である。だがここには僕と先生しかいないので、その様な心配など無用というものだ。


「これは……明日の分かね?」

「そうです。これから下ごしらえをするんです」


「ふううむ。どうかね、その。とれとれを生で、少しばかり食べてみたい気もするのだが。レタスと胡桃をあえてみたら、素敵なサラダになると思わんかね」

 先生がよだれをたらさんばかりの勢いで聞いてくる。


「困りましたねえ。まだ食べ足りないのですか」

「無論そうとも。三百六十五日。私は三食でもかまわないくらいだ」

「御馳走は、たまにだから良いのですよ」

 僕の言葉に先生は、惜しそうに籠から視線を外した。


「うむ。これ以上ねばっても、おかわりはダメそうだな」

「これはまた今度です」


 僕は籠を持ち直すと、先生を玄関フロアまで見送った。先生は「では明日」そう言うと洒落た、彼には余り似合わぬツイードの中折れ帽子をかむり帰って行った。


 冷えびえとした初冬の夜気が、先生を送り出した扉の隙間からはいりこんでくる。

 僕は籠を持ったまま外へ出た。

 玄関から門柱まで緩やかなカーブを描くアプローチ沿いには、赤しろ斑模様まだらもようの椿がざっくりと咲き乱れている。早々と首を落としてしまったものも有り、石畳に点々と萎びた花殻が落ちている。

 腕のなかの籠からかぐわしいハーブの匂いが、闇のなかでつよくたちのぼる。

 チコリとオレガノ。それにワイルドストロベリー。

 これらのハーブは、ついさっきさばいた貴美子さんの好物だ。

 先生もハーブの香りで「絢子さん」だと分かったはずだ。もっとも先生の愛情という表現は、あながち的外れではない。

 僕と先生以上に、彼女たちに愛情をそそいでいる者などいやしない。

 例えそれが、多少世間の愛情から逸脱したものであったとしても。



  『 小貫正太郎博士談 』


 H大学。多島圏研究たとうけんけんきゅうセンターの長であった槙野教授の調査チームに、私が加わったのは一九七六年。私は駆け出しの研究者で、植物分類学の助手であった。


 初めて彼女らを目にし、口にした時。

 私は罪悪感と不味さで、情けなくも吐いてしまった。理由は明白めいはくだ。

 あの現地の料理法のせいだ。あれは酷い。真の食物マナに対する冒涜だ。奴らときたら珍妙な食い物としてしか、彼女たちを扱ってはいなかった。なんともはや情けない話しではないか。


 貴重なる彼女たちを、このままにしておいてはいけない。


 若かった私は、教授の叫びに賛同した。

 なかには及び腰になる者もいた。しかしセンター長である槙野教授に逆らえる者など、その場にいやしなかった。

 私は率先して彼女らの保護を決意した。

 今よりも国外からの「動植物」の持ち込み規制が、緩かった時代であったのも幸いした。それでも決して簡単ではなかった。

 税関に見つかったら、我らの手は後ろにまわっていたであろう。大学からも放り出されていたかもしれぬ。それでも我らが行動をおこしたのは、槙野教授の権威への畏怖だけではない。

 ひとえに彼女らを目にした瞬間の、感動こそが我らに決断を促した。


 辺境の山ふかく。

 ひっそりと樹々の根元に並ぶ美しき群生こそが彼女らであった。

 最も自然状態の彼女たちは野性味こそ溢れていたが、工藤くんの温室栽培と比べると、格段と田舎くさかったことはいなめない。

 それであっても目を奪われた。


 Cream色の肌。ぷりぷりとした唇。おおきな黒い瞳。

 髪こそながくもつれ乱れてはいたが、かきわけた時に現れた、あの素晴らしき耳。そして澄んだ声。

 槙野教授は彼女たちの小鳥のさえずりにも似た、未知なる言語を研究するのだと熱く拳を握った。そうして我らは新発見とされる彼女たちを、秘密裏に国内へと持ち帰ったのだ。


 最も初回は、トランクに詰めた五体のうち、実に四体を輸送中に萎びて死なせてしまった。

 あの時の教授の嘆きと、私を見るさげすみの目は一生忘れられるものではない。

 しかし弁明させてもらえれば、まだ駆け出しの私にとって、彼女らの採集保存は一種の賭けであり挑戦であった。十五年に渡る秘密裏のプロジェクトで、我らは経験を積みついには彼女らの温室栽培に成功した! 


 ハレルヤ。ハレルヤ。

 主のお恵みに感謝を捧げます。

 見た目だけならば、地面からにゅうと生えた、ひとの女そのものの生首の群れ。しかしそれらは生きて話す、新種の「花」であったのだ。


 そう、花だ。

 槙野教授は彼女らを「聖なる花」と呼び、愛した。

 学名「Hostia」

 発見から四十年がたった今でも、彼女らの存在は公には明かれてはいない。

 教授没後。彼の意志を受け継いだ時子嬢の申し出で、我らは教授が所有していた古い屋敷を改築し、レストランと温室を設立した。

 研究センターの資料は全て焼き払い、「Hostia」は奇跡の食材として一部上客の口に運ばれる事となった。この売り上げが、彼女たちの養育費用となっている。

 レストランと聞いた時にはたまげたが、時子嬢も上手い事を考えついたもんだ。


 それだけ時子嬢も必死だったのであろう。彼女の事情を思うと、さもありなん。

 失った愛情を、ああいう形でしか取り戻せなかったのは悲劇でもある。

 しかし彼も年をとった。既に「雄株」としての機能は失っている。彼女たちと雄株の関係は今だ謎に包まれている。だが雄株の有る無しで明らかに彼女たちの美しさ、美味さは違ってくるのだ。

 そろそろ次なる雄株を得る時期だ。

 工藤くんが全て良いように処置してくれるだろう。


 私は夜の路上に佇み、工藤くんの秘密の温室を眼裏まなうらへと思い浮かべた。

 陶器テラコッタの大壷から生えている、すんなりとした首とかんばせ。一体ずつに愛情こめてつけられる呼び名。

 長い髪の毛は丁寧に櫛をいれられ、複雑な模様を描き頭上に編み上げられている。

 まろい頬の横からのびる、両の耳とみられる部位。しかもきちんと管理し、衛生的に削除さえすれば、あの至宝の耳は何度でも再生してくるのだ。

 それを地元の野蛮人どもは、生えている首からうえごと引っこ抜き、鍋にいれるとごった煮にして喰らっていた。いやはや呆れる蛮行ばんこう。神への冒涜だ。


 工藤くんは器用に彼女らの耳殻じかくを摘み、したへと切り裂いていく。ここで力加減を間違えると、厚みのある耳たぶなどを残してしまうヘマとなる。

 あくまで、そっと。デリケートに行なわれる作業である。

 彼女らは決して痛がらない。

 暢気におしゃべりをしたり、チコリを強請ったりする。

 或は自分の耳が引き剥がされているのに、気がついてさえないのかもしれない。

 我らは耳以外の部位を、決して食したりしない。


 ああ。あの濃厚な緑の楽園を、私は鮮やかに思い起こせる。

 地面に生える彼女ら。群生のなかに捧げられる雄株。名誉ある犠牲者。女神たちのスープを飲み干す現地の男共……。野蛮だ。許しがたい行為だ。だが、私は憧れる。許されぬと知っていながら、こがれる。だからこそ私は……


 

  『 槙野家T嬢と、そのお友達について 』


 おともだちの健康が、どうにも優れないらしいのです。

 そう言って叔母から電話がありました。叔母は閉じこもりきりで、電話もめったにかけてきません。

 その叔母の、電話口で今にも泣きだしそうな声。

 わたしは大学の講義を休み、慌てて叔母の屋敷へと向かいました。


 なるほど。

 訪れた屋敷の居間で、おともだちはぐったりとしていました。天鵞絨(ビロード)の敷物のうえに横たわる姿は力なく、顔も土気色つちけいろをしています。

 素人目にも、これはいけない。そう思える状態でした。


「叔母さま。一体いつからこうなんですか?」


 わたしの問いかけに、叔母は力なく手を揉みながら、「十日程まえからです。徐じょにものを食べなくなって。昨夜からは水さえ口にしないのです」


 わたしはぽかりと開いた男の口元を、凝視しました。色の悪い唇はひび割れ、堅くなっています。

「脱脂綿を水で濡らしてきて下さい」

 叔母に強い口調で指示をすれば、

「だっしめん? あったかしら……」


 叔母は突っ立ったまま、ぽかんとした顔で聞き返します。

 叔母のペースに付き合っていましたら、おともだちは末期まつごの水さえもらえないでしょう。

 わたしは自分のハンケチを取り出すと、台所で水道水に浸しました。


 そっと。あくまでそっとおともだちの、うすく開いた唇へとハンケチを押し付けます。

 そうして少しずつ。ハンケチに含んだ水を、おともだちの口中へとおとしていきます。


「まあ、そうするものなんですね」

 叔母が喜色に滲んだ声をあげます。どうやらこのひとは、長年おともだちと過ごしてきたというのに、全くこういう状態のお世話には向いていないのです。まるで子どもです。

 元気なうちは散々甘やかし、構い倒し、いざ病気や怪我になった途端手に余してしまうのでしょう。弱ったペットに、途方にくれる子どもそのものです。


 おともだちは、脱水症状をおこしているのかもしれません。

 何度もなんども。わたしは根気よく水を流し込みます。

 閉じていた瞼を、おともだちがわずかに開けました。わたしをじっと見つめる一重のまなこには、つよい光りがあります。

 異端の躯をしながら、その光りは理知的なものでした。彼の唇が戦慄わななきます。


 わたしはおともだちを抱き上げると、唇へと耳をあてました。

 はっはっはという速く、浅い息の合間におともだちが口を開きます。

 彼はわたしへ告げました。

 彼が口にした言葉。

 それはひとの名でした。虫の息でおともだちが告げたのは、長年側にいた叔母の名前ではありませんでした。彼が告げたのは全く聞き覚えのない、男性の名でありました。

 わたしはその名を、鸚鵡返おうむがえしで確認しました。

 おともだちの瞼がゆっくりと閉じられ、また開きます。きっとそうだという意味なのでしょう。


「これ以上おしゃべりをするのは、体に毒になります」

 わたしはそう言って、彼を深紅のとこへと横たえました。

 こうやって見てみますと、ごてごてと刺繍がほどかされた天鵞絨は、彼にちっとも似合っていません。

 いっそ悪趣味であると言って良い程です。真鍮のアンティークの鳥籠も、少女趣味の寝具も、全くもって場違いなのです。

 わたしはここで初めて彼に、同情を覚えました。

 彼はきっと駄目でしょう。

 病院へ連れて行くことさえ、彼には叶わないのです。

 彼が危ない状態らしいと、わたしは叔母へと告げました。


「やすともさんっ!」

 叔母が悲鳴のような高い声をあげました。横たえたばかりの彼を、がばりと勢いよく抱きかかえます。

 叔母に乱暴にいだかれ、彼の顔が歪みました。叔母の無頓着な行動に、わたしは苛立を覚えました。


 やすともとは、叔母のかつての家庭教師の名です。祖父の研究チームに在籍していた、前途有望な青年であったそうです。彼と叔母は恋仲で、結婚の約束もしておりました。けれど祖父のプロジェクトに参加後。彼は誰にも何も告げずに、突然姿を消したのです。

 その彼を叔母がもう一度取り戻した時。


 彼は「首」だけの異端の姿になっておりました。


 叔母は真鍮の鳥籠で、特別なおともだちとして彼を飼いだしたのです。



 わたしが叔母の秘密を知ったのは偶然でした。 

 夜半。この屋敷から外へむかって飛んで行く黒い影を、大学生になったばかりのわたしは目にしたのです。新歓コンパの帰りで、わたしは叔母宅へ泊めてもらうつもりでした。

 影は夜に飛ぶ鳥には見えませんでした。外灯の弱い光に照らされたものは、おぼろながらも生首に見えました。

 わたしのあげた悲鳴に叔母が。あのおっとりとした叔母が屋敷から素っ飛んで来ました。そこでわたしは、おともだちの存在を知りました。


 秘密を聞き出すのに、時間はあまりかかりませんでした。

 叔母は躊躇しながらも、話したくてしょうがない。そんな調子で若かりし頃の悲恋から始まり、彼を取り戻した経緯いきさつまでを熱に浮かされたように話してくれました。きっと自分のロマンスを、誰かと共有したくてたまらなかったのでしょう。

 わたしは彼が飛ぶ事についても聞き出しました。だって可笑しいではないですか。籠に閉じ込めている小鳥を、好き好んで放しているのですから。


「彼は自分の躯へ、戻りに行っているんです」

「躯があるのですか?」


 わたしは驚いてしまいました。首だけというのも十分珍妙ですが、更に首なしの躯が存在していると言うのです。

 叔母はわたしの目は見ずに、「ええ、そう。遠くに」そう言いました。


「彼は日に一度は躯に戻らねば、やがて死んでしまうのです」

 あんなにも簡単に語るくせに、叔母は「首なしの躯」については、知らぬ存ぜぬを貫きました。どうやらおともだちの秘密に関しているのは、叔母以外にもいるようです。無理強いしても、叔母は頑なになるだけでしょう。わたしは一旦引き下がる事にしました。


 その彼が虫の息です。

 叔母があると言った「首なしの躯」はどうなっているのでしょう。首と共に滅びるのでしょうか。

 わたしは静かに涙を流している叔母を残し、そっと廊下へと出ました。


「ともあき」


 おともだちが告げた男の名を忘れぬように、わたしは手帳に記載しました。

 彼は言いました。

 ニゲロ。トモアキ。



  『 故 吉村安伴が息子の話し 』


 父が死んだ。

 とうとう死んだ。

 いや、本来父は死んでいた。

 書類上吉村安伴という男は、この世に既に存在していない。

 俺を訪ねて来た、首なし男が父だという確証はどこにもない。


 首なし男は、あれから毎夜アパートの俺の部屋をノックした。

 目深に帽子を被り、衿をたてたコートを着込んでやって来る。

 首がないので口もない。話しができぬ。何の為に、判で押したようにやって来るのか分からない。追い返したくも、会話もできない。黙って男がノックをし、俺がドアの隙間を細く開ける。ただそれだけだった。


 俺は「親爺!」と叫んで男を殴ったり、抱きついたりしない。

 男は俺が扉をしめるまで突っ立っている。そんな何の生産性もない来訪は、一月程続いた。

 

 クリスマス週間にはいり、職場は大忙しだ。

 毎日バスの最終時間までの残業が続く。少しでもミスをすると怒鳴られる。シェフを始め、皆がぴりぴりしている。

 遅くなるから来るな。もし来てもノックはするな。すぐ帰れ。

 そう言っておいたはずなのに、深夜に戻ると男が居る。毎夜いる。イライラして、すげなくする。


 その夜もそうだった。

 部屋のドアにもたれかかる様にして、地べたにぺたりと座り込んでいる。コートの衿が夜風にひらひらとなびいていた。

 俺は立ったまま、うずくまる男を見下ろした。

 俺が男の被る帽子を今持ち上げたら、そこにはナニもないのだ。

 随分シュールな絵づらである。

 かるく酔っぱらっていた俺は、顔なし男の想像に思わずひとり笑ってしまった。

 俺は帰り際に一杯やっていた。


「遅くまでいつも悪いね」

 そう言ってオーナーは、残りものの白ワインをグラスについで持ってきた。残りものでも普段なら、下っ端コックの俺の口にはゼッタイ入らぬ高価なワインだ。俺はワインを飲んだ。皆には内緒だよ。そう言って一緒に差し出された、まかないも喰った。やけに美味いパンだった。

 街には雪がうっすらと積もっている。店はクリスマスディナー目当ての客で、連日大入り満員だ。


 俺が声を押さえることもせず、げらげらと腹を抱えて笑っていると、男がふいに上を向いた。帽子の隙間からは、想像した通り顔がない。よれたコートの布地が見えるばかりだ。


「おい」

 俺は笑いながら、靴先で男の膝の辺りを突っついた。


「なんで居るんだ。居ろなんて言ってねえぞ」

 そう言って、二度三度。男を突く。男は微動だにしない。黙って俺を見上げたままだ。

 俺は何故なのか、カッとした。男が話せるわけがない。それなのにカッとした。


「無視してんじゃあねえ」


 クリスマスの色とりどりのイルミネーション。店の中央に設置された大きなツリー。豪華ディナーにやって来る、着飾ったカップルと幸福そうな家族連れ。頼もしい父親たち。


 寂しく。寒く。

 街中を母と歩きまわった頃の記憶が、胸のなかでわき上がる。

 俺は思いっきり男を蹴った。がしがしと何度も蹴った。息があがるまで、無抵抗の男を蹴り続けた。やがて。男の躯がゆっくりと地面に倒れた。


「うるせえぞっ」

 右隣の部屋から、太い怒号が響いた。

 隣の住人だ。通報などされたら、たまったもんじゃあない。なにせこいつは首なしなのだ。

 倒れた男を、俺は自分の部屋へと担ぎ込んだ。男を部屋へあげたのは、初めてであった。


 その夜。

 俺の部屋の窓が鳴った。

 かつん。かつんと幾度もなった。

 誰かが軽いノックを繰り返しているような。そんな音であった。

 俺は布団をかぶって寝入っていた。寝ていたはずなのに、夢のなかで音を聞いていた。そして時々目が醒めた。

 照明を落とした部屋のなかで、床に転がした男はぴくりとも動かぬ。

 帽子がとれ、俺は男の首の断面を目にした。スプラッター映画にでてくるような禍々しさはどこにもなく、首の断面はつるりと奇麗なもんだった。


 翌日は定休日で、俺は仕事が休みなのを良い事に昼ちかくまで寝ていた。

 起きると男が床で伸びたままだった。まるで精巧なマネキンみたいに動かない。

 試しに軽く蹴ってみたが動かない。恐るおそる手首の脈を探ってみた。微かだが、脈はある。

 男は眠っているのか。具合が悪いのか。

 なにせ顔がないのだから判断もつかぬ。

 男のズボンの裾をめくってみると、俺の暴行の跡が、くっきりと赤紫に変色して残っている。痣はあちこちにあった。申し訳ない気持ちと恐ろしさがにわかにわきあがってくる。俺は財布をつかむと玄関へと向かった。

 扉を開けて振り返ると、男の躯はごろりとこちらを向いている。

 その首にも赤紫の痣がある。そんなところを蹴った覚えも無いのに、ある。

 まるで首を切り落とした跡のように、禍々しい色だった。



 男はあの日からずっと部屋にいる。

 動かない。脈はどんどん弱くなる。


 夜に窓が鳴る。

 男は動かない。躯はどんどん萎びてくる。


 夜に窓が鳴る。五月蝿くて眠れない。店を無断欠勤した。

 男の躯が半分程の大きさに縮んでくる。


 夜に窓が鳴る。頭が痛む。オーナーから電話があった。窓が鳴る。


 俺はとうとうカーテンを開けた。開けるとそこに男がいた。いたって別に可笑しくない。俺の部屋は一階だ。だがそこで窓を鳴らしているのは、首だった。疲れた表情の生首がぶつかるようにして、窓を鳴らしている。俺は慌ててカーテンを閉めた。


 床に転がる男の躯は、まるで干した椎茸みたいになっていく。萎びた首の断面から伸びてくるものがある。植物のつるのような、細く紅い糸状のものだ。

 

 夜。窓は鳴らなかった。

 男はすっかりかるく、ちいさくなっていた。もう脈はない。



 吉村安伴という男は既に存在していない。

 だからこれは犯罪じゃあない。


 男の躯だったものは、もう輪郭さえ定かではない。ぼろぼろと、灰のように散っていく。着古した服と帽子だけが男の居た名残として、部屋の隅に転がっている。

 俺はゴミ袋に男の服を詰め込んだ。コートのポケットを漁ってみると、畳んだ紙片がでてきた。開けてみるとそこには絵が描かれている。やたら奇麗な女の顔だ。隅にはちいさく、字が書かれている。


 ホスチア。


 意味が分からない。



  『 巡 』


 あの人の写真を片付けていると、電話が鳴った。

 でた途端切れてしまった。

 伴明ともあきだろうか。

 今日の昼にやって来る約束だったが、もう午後の一時をまわっている。先日の電話では、なにやら切羽詰まった声であった。勤め先のお店も休んでいると言う。せっかく憧れのレストランに就職できたというのに、どうしたのだろう。伴明は電話で「親爺のことを教えて欲しい」

 いつになく険しい口調で、そう言った。

 伴明はあの人の秘密を知らない。教えていない。


 あの人は既にこの世にいない。

 運命に弄ばれ。人ならざる者になり。それまで歩んできた人生を捨て、わたしの村へと流れ着いた人だった。

 わたしはあの人の秘密を知って尚、側にいた。

 

 あの人の首は躯を離れ、ふわふわと夜空を彷徨っていた。そういう時。あの人の首には、くっきりと赤い模様が浮かぶのだ。まるで呪いだと、あの人は嘆いていた。

 わたしはなるたけあの人の首が飛んでいかない様に、一年中蚊帳をつったりしたものだ。

 母はあの人を嫌っていた。バケモノと。裏でこっそりと呟いていた。


 あの人と添いとげるのが、大変だとは思わなかった。最初からどこか諦めている感じがあった。

 来月までいられたら。

 来年までいられたら。

 家族になれたら。

 子どもを持てたら。

 子どもを産むまで。

 そうやって。過ぎて行く日常を積み重ね、もう大丈夫かもしれぬ。そう思った矢先に、あの人は消えてしまった。やられたと思うと同時に、ついにかと思う自分が不憫ふびんであった。


 息子が産まれた時。あの人は喜びよりも恐がった。

 何度も。なんども。赤子のあの子の首をなぞり、でるな。でるなと呟いていた。

 ホスチアを食し、発病する体質が果たして遺伝をするのか。あの人にも分からなかった。なにせ調査ではいった現地では、「雄株」になった者は皆、その後の対応で死に至る。子をなした事例はないらしい。

 息子はつるりと奇麗な首をしている。

 余分なものも。不足なものもなく産まれてきた。


「母さん。父さんの……躯に変なところはなかったか?」

 昨日の伴明の突然の質問を思いだす。


 どこにいるのか。随分賑やかな場所らしかった。

 受話器を通して、小鳥のさえずりにも似た音が、さかんに聞こえていた。


 もう二時になる。

 約束は守る子なのに珍しい。なにかマズイ事でもおこっているのだろうか。

 息子の携帯電話の番号を押す。発信音が鳴るばかりだ。


 息子はまだ来ない。



                                  完


<文中注解>


 Glenn Gould グレン・グールド/ピアニスト。バッハといえばこの人。

 Bach Partita バッハのパルティータ/バッハ作曲6つのパルティータ。


 Ginori ジノリ/リチャード・ジノリ。イタリアを代表する陶器会社。

 Mu Geo Classico ミュー・ジオ・クラシコ/ジノリの食器。白地に蒼の繊細な模様。



 錫 蒔隆さん。なろう一周年おめでとうございます。

「三十と一夜の短篇」主催に対しての感謝と敬意をこめて、拙作を贈らせていただきます。


「一夜限定スズナリの会」 お題『生首』

 原稿用紙換算枚数約52枚

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― 新着の感想 ―
[一言] すごい。もう本当にこの一言に尽きます。 バラバラに綴られる様々な語り手の言葉。これがひとつに合わさった時の、このぞくりとする感じはさすがカラスウリ様だと思います。 先の感想で、「カラスウリ構…
[一言] 意味深なスタックをいくつも組み合わせて物語を進行させるのを「カラスウリ構成」と密かに呼んでいます。今作も見事なカラスウリ構成でした。美しくてシュールで仄暗い……(›´ω`‹) でもそれが良い…
[一言] これは沼ですわ。カラスウリさんの世界を堪能させていただきました! 首無し男のさいごが悲しいです。何を思って会いに来続けていたのかを考えると悲しい。 パンを食べるとか、鳥籠に入れて飼うとか、不…
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