ファイルNo.1 パンドラボックス 59
「理由もなく自殺するほど強くも、生きることを面倒臭く思うほど弱くもないの。だから当然のこととして、東大寺さんは目を覚ましたのよ」
愛美は、いつかと同じような台詞を言った。
人は弱いが、強い生き物だと。
全てが終わったことを、誰かが東大寺に告げるだけでよかったのだ。
死ぬ理由さえなければ、人間はどこまでも生に執着する生き物だ。人間の生命力はとても強い。浅ましいほどに。
普段でさえ超人的な東大寺なら、なおさら生に対する執着も強い筈だ。それは間違いなかったようだった。
東大寺は目覚めて数日で、ぐんぐん回復している。医者も呆れているほど逞しいと、綾瀬から聞かされていたのを、この目で確かめることができて、愛美はよかったと思っている。
「千尋に遥か。いい名前ですよね」
病院の自動ドアを出た巴が、空を見上げながら言った。
他人から見ても、その名前には深い感慨を感じるのだから、本人はひとしおだろう。
だが、有り難迷惑だと思っている確率の方が高い。ハルカなんて可愛らしい言葉の響きに、本人がそぐわないのは仕方ないだろう。
「そうね。でも巴君は名字が珍しいわよね。巴御前を思い出すな」
巴は、静かな微笑を浮かべた。ぐっと大人びた表情になり、愛美は眩しそうに目を細めた。
巴は、さりげなく話を元に戻す。その時には、いつもの無表情に戻っている。
まるでそれが、自分の本来の姿であるかのように。
「ゲームのことは、覚えてるんでしょうか?」
見舞いの時の短い会話の中で、愛美はそのことには何ら触れなかった。東大寺も何も言わなかった。
「さあ、どうかしら。都合の悪い記憶は、塗り替えられるというし、東大寺さんは心配かけまいとして、黙ってるかも知れないしね。分からないわ。どっちにしても、東大寺さんならもう大丈夫」
愛美は夏の訪れを感じさせる眩しい光を、手の平で遮りながら空を見上げた。
今まで太陽を隠していた雲が、流れていく。
このところ全天を被っていた灰色の雲は、幾つか群れになって羊のように空を食んでいるだけだ。
「珍しくいい天気ね。こういうのを、梅雨の晴れ間って言うのよね。早く家に帰って洗濯しようっと」
愛美はスキップを数歩、繰り返した。細かいプリーツの黒スカートが、軽やかに揺れる。
地面は乾いていた。雨が降りそうな気配はないが、
「柄にないことをすると、雨が降りますよ」
巴は、そう言ってしれっとした顔をしていた。
愛美が足を止めてくるりと振り返った。片方の眉を下げて、しかめっ面をしている。
「それはそうなんだけど。巴君、年上の人間を少しは、敬うものよ」
巴は、これは失礼というように首を竦める。愛美は、大体ねえと、巴に対する文句を言い始めた。巴はもちろん、聞いていない。
雨の季節はもう暫く続くだろう。それが終われば、夏がくる。
巴にとって、年月や季節はただ通り過ぎていくだけのものだ。
同じように夏はきて、そして去っていく。
その年の夏が違ったものになるとなど、巴は予感すらしなかった。
いつだって、思いもよらぬことから、物事は起こる。人生とはそういうものだ。
非日常はある日突然やって来る。他のものも。
巴にとって、何年たっても忘れられない、特別な夏がこようとしていた。




