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麗らかな…

冬のカフェ・オ・レ

 細口の琺瑯のポットから紡がれる一筋の透明な流れがくるりくるりと螺旋を描く。窓から差し込む朝日に照らされ、控え目ではあるが美しい煌めきを放ちながら…。

 湯を含んで大きく膨らんだ中挽きの豆。その芳ばしい香りで満たされたリビング。大きく息を吸い込めば、ぼんやりした寝起きの思考をクリアにしてくれる。


 テーブルの上には、クロワッサンの生地にカスタードクリームとラムレーズンを巻いて焼き上げ、さらにアプリコットジャムとあられ糖をトッピングしたパン・オ・レザン。それからグリーンサラダにフルーツが少し。


 真剣な表情でコーヒーを抽出する彼女が贔屓にしているベーカリーで買ってきた、これでもかという程甘いパン。初めこそ苦手であったが、いつの間にか病みつきになってしまい、この時期には特に週に一度は食べたいとリクエストする程に気に入っている。


 そのままでも美味ではあるが、彼女の淹れるコーヒーとの相性が抜群に良く、特にフレンチローストの豆で淹れたカフェ・オ・レと一緒ならば文句の付けようがない。


「お待たせ。」


 両手にマグカップを持って現れた彼女がヘニャリと笑う。その笑顔に、やはりここが自分の居場所なのだと実感する。


 軽い歯触りのパン・オ・レザンと熱々のカフェオレ。寒い朝の幸せなひととき。2人でのんびりと朝食をとり、一緒に家を出る。駅までの道のりと、そこから電車を待ち、同じ電車に乗りこんでからの2駅の間。俺と彼女はたわいのない話をする。


「じゃあ、行ってきます。」

「また家で。」


 いつもと同じ言葉を交わし、それぞれの職場へと向かう。

 同じ車両に乗り合わせた通勤途中のサラリーマンから羨望の眼差しを向けられるのにも、もう慣れた。


 客観的に見ても、彼女は美人なのだから仕方がない。

 パッチリした目に形の良い鼻、ぷるんとした唇がバランス良く整っている、いわゆる正統派の美人。肌も白くて綺麗だし、髪だって艶やか。思わず触れたくなってしまうのは俺だけでは無いはず。


 少し抜けている所もあるが、温厚な性格で人望も厚い。友人達からは慕われ、目上の人からは可愛がられている。


 家事も難なくこなすし、料理はすこぶる旨い。

 俺の両親からは勿論気に入られ、母親に至っては、自分の息子()よりも彼女の方が可愛いらしい。




 本人同士の意思と言うよりも、双方の親の策略にハマり、なし崩し的に始まった同棲だった。


 父親の退職を機に、彼女の両親は田舎暮らしを始めた。

 それまで両親と彼女、かつては彼女の姉も一緒に住んでいた家に彼女が1人残ることになったのだが、「住み慣れたマンションとはいえ末娘の一人暮らしは何かと心配だ」という彼女の父親の意向で俺が一緒に住むことになった。

 同時期、実家暮らしだった俺が「生活時間が合わないから家を出ろ」と毎日のように言われていたのは偶然などである筈はない。


 付き合って6年目、俺と彼女は26歳。友人が立て続けに結婚をしたにもかかわらず、俺と彼女に全くその気が無かった事に双方の親が痺れを切らしたらしい。

 親公認の同棲はつまり、そういうことだった。


 俺と彼女は、3年を目処に籍を入れ、式を挙げる事を双方の両親と約束した。

 いずれは…そう思ってはいても、なかなか行動に移せなかった俺たちにとって、良いキッカケになった事は間違いない。




 同棲を始めても、常にベッタリというわけでなく、程よい距離感であった。

 仕事の付き合いで帰りが遅くなってもとやかく言われることは無かったし、お互い干渉や詮索する事もしない。それぞれの友人との付き合いや、ひとりの時間も大切にしている。

 彼女とは、高校時代のクラスメイトで、共通の友人も多い。短くない付き合いで、信頼関係も築けている。


 陽当たりも居心地も良い家で、彼女と過ごす毎日は楽しくて、とにかく快適だった。

 俺にとって居心地の良い家は、友人達にとっても居心地が良いらしく、俺か彼女の休みには、大抵誰かが遊びにやって来るほどだった。


 とにかく良く出来た彼女で、結婚相手としては申し分無い、理想的な彼女だった。


 以前は嫌で仕方のなかった、帰宅時の満員電車も、彼女と暮らし始めてからは不思議と苦では無くなった。あの家で彼女が待っているのなら、疲れた身体で窮屈な電車に揺られるのも案外悪くない。


「ただいま。」

「おかえり。」


 夕食を作る彼女の首筋にチュッとキスをすれば頬を紅潮させる、そんな彼女が愛おしい。


 彼女との晩酌は、1日の中で1番の愉しみだ。

 彼女が休みの日に、手間暇かけて作ってくれた料理は勿論旨いが、仕事から帰って、僅かな時間でサッと出て来る料理だって同じくらい旨い。

 グラスまでしっかり冷やしたビールで乾杯をして、出来立ての料理をつまむ至福の時間。


 食事が終われば、彼女が片付けをして、俺が風呂の用意をする。

 手さえ出さなければ一緒に入らせてもらえるのだろうが、生憎愛しい彼女の裸を目の前にして我慢出来るほどの精神力は持ち合わせていない。


 平穏な毎日は心地良すぎて、刺激を求めてしまう事もある。

 それは、時々無性にジャンクフードが食べたくなるような感覚にも似ている。

 刺激を求めて手を出したところで、ジャンクフードは所詮ジャンクフードでしかない。

 その度に、彼女が俺にとっていかに大切な存在なのかを認識させられている。


 先程まで俺の腕の中に居た彼女は、いつの間にか深い眠りに落ちていた。その無防備な寝顔を、彼女の吐息がかかるくらいの距離で眺める。

 一糸纏わぬ彼女の滑らかな肌に触れ、柔らかな唇にキスを落としてから目を閉じる。


 5年先も、10年先も、これが日常であって、俺はこの穏やかな寝顔を眺めてから眠りにつくのだろう…。






 だが、俺は気付いてしまった。

 これは現実ではなく、夢だ。

 今思えば、夢の様だった…過去の記憶。夢の中で俺は26歳――つまり5年前。今思えば、あの頃が一番良かった。






 ***


 酷い頭痛で目が覚めた。

 リビングのソファで寝てしまうなんて、昔に比べて、随分酒が弱くなった気がする。


 今朝はいつも以上に冷え込んでいるらしい。カーテンを開ければ、窓から伝わる冷気に身震いしてしまう。


 床に転がったビールの空き缶と、つまみにしていたスナックの袋を片付けてからシャワーを浴びた。

 二日酔いのせいで食欲は無い。それでも、出勤前に何か腹に入れなければと思い、マグカップに牛乳を注ぐ。電子レンジで温めた後、インスタントコーヒーを1匙。

 フレンチローストの豆で淹れたコーヒーで作ったカフェ・オ・レには遠く及ばないが、これはこれで悪くない。

 マグカップが半分になる頃には、頭痛が少し和らいでいた。

 寝室からは、愚図る息子の泣き声と、息子をあやす妻の声が聞こえる。






 俺は今、数日前に目の当たりにした現実に打ちひしがれている。受け入れなければいけないのは分かっていても、受け入れ難い。


 5年前の俺にこんな未来は想像出来ただろうか?

 幸せ呆けしているお前には無理な話…かも知れないな。


 どんな未来が待っているかって?


 俺は親と約束した時期に籍を入れ、その半年後に式を挙げた。息子が産まれたのは挙式の2ヶ月半後だった。

 陽当たりの良い部屋を借り、親子3人暮らしている。

 息子は1歳になり、可愛い盛りだ。今の俺にとって、息子が全てだと言っても過言ではない。




 信じられないかもしれないが、俺の妻は彼女ではない。

 その前に付き合っていた元カノだ。


 3年前、辞令が出て異動となった俺は、彼女と離れて暮らさざるを得なくなった。離れていても、俺の気持ちは彼女のもので、週末毎に彼女の元へ帰る、そんな生活を送っていた。


 そんな折、離れて暮らす街で元カノと再会した。

 浮気なんて大層なものではない筈だった。気持ちが揺らいだことも無ければ、彼女を思わない日も無かった。

 元カノとは、お互い同意の上での割り切った関係のつもりでいたが、最後までそう思っていたのは俺だけだったらしい。

 例え気持ちは常に彼女の元にあっても、不貞行為は不貞行為でしかなかった。

 その結果、元カノが妊娠。本来ならば、彼女と籍を入れる約束をしていた時期に元カノと籍を入れた。


 勿論、それが原因で彼女との約束は全てが白紙に戻された訳だ。

 彼女と会うことも、連絡を取ることも許されず、共通の友人達は皆、俺から離れていった。あまりにも身勝手過ぎた俺に、皆が愛想を尽かしたのだった。

 今も彼女を愛している…。

 信じたくないかもしれないが、これが3年後、お前に訪れる現実、つまり、2年前の俺に起こった悲劇だ。




 なぁ、お前はあいつを覚えているか?

 高校時代、クラスの中心で皆を笑わせ、時々度が過ぎて「残念」なんて揶揄されることも多かったあいつを。

 数日前、あいつは10数年ぶりに現れた。突然彼女を連れて現れたかと思えば、籍を入れたという。

 彼女は元気で、30を過ぎても相変わらず…いや、今の方がずっとずっと綺麗だった。お前が見た事ないくらい幸せそうに笑って、愛おしそうに旦那になったあいつを見つめて…。

 今のあいつは、当時の比じゃないくらい良い男になっていて、俺やお前なんかよりも、遥かに彼女の隣に相応しい。とてもじゃないが、今のあいつに俺は敵わない。


 俺は、彼女には相応しくない。彼女が必要としているのはあいつだということを思い知らされ、俺が幸せにしなくてはいけないのは妻と子どもなのだと彼女に告げらえた。俺は息子を愛しているし、幸せにしたいと思う。だが、妻は…幸せにする自信どころか、正面から向き合う勇気すらない。


 彼女を今も愛している…と言っても、俺には何も出来ないし、彼女は俺を必要としていない。そんな当たり前のことを、俺は2年も気づかぬふりをして、1人で感傷に浸っていた。

 自業自得であるのにもかかわらず、1人で不幸を背負った気になって、咎める友人達に暴言を吐き、被害者面して。責められたくないがために友人達から逃げた。


 ただひたすらに、自分が恥ずかしい。


 あいつは、そんな俺に友人達と和解する機会を与えてくれた。友人達も、あんな酷い事をした俺を気にかけてくれていて、彼女自身も和解する事を望んでいるという。

 何故、俺の悪行を知った上で、あいつは俺と皆の仲介役を買って出てくれたのだろう。あんな酷い事をした俺が、彼らに許してもらう資格などあるのだろうか。

 なぁ、お前はどう思う?彼女を裏切った俺が、彼らとの和解を望んでも良いのだろうか。

 幸い、考える時間は十分にある。お前も一緒に考えてくれないか?あいにく俺にはこの件に関して相談出来る相手が居ないのだから…。




 手元には、冷め切った飲みかけのカフェ・オ・レ。それを一気に飲み干し、今の俺にとっての日常へと足を踏み入れた。

この作品は、麗らかな…シリーズの「手放した秋、手にした春」「祝福される春」「はるのひだまり」で春太郎・麗が博之と会って話した数日後の博之視点の話です。


俺…博之

お前…過去の博之

彼女…麗

あいつ…春太郎


当初は「はるのひだまり」92話として書き始めた話でしたが、この連載作品の中に組み込むのに少し違和感がありましたので、短編として投稿いたしました。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。このシリーズが大好きで、シリーズや他の作品も読ませていただいてますが、感想は初めて送らせていただきます。博之サイドを読めたこと、とても良かったです。もちろん、私は春ちゃんがいい…
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