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綾音がいなくなった。それも何者かに攫われたらしい。
その情報は、拳と共に斉冶を抉った。
「いつまで腑抜けた顔をしているつもりです」
殴られた腹を押さえる斉冶を鈴代の秘書が見下ろす。
来訪の連絡なしに菅原の家に襲撃に来た男の背後で、幸久が形ばかりに「ごめんねぇ」と両手を合わせていた。
「ったく、思いっきりいきやがって」
いつもの斉冶ならやられた分はきっちりお返ししたことだろう。
だが、奏の口から出ていた事前の情報に、苛立ちは違う方向に向いていた。綾音を攫った人物と、綾音から目を離した自分に。
奏が綾音が攫われたことに気付けたのは偶然のたまものだった。
綾音の携帯からの位置情報が消えたことにいち早く気付いた奏が警察に問い合わせ、そこにたまたま商店街を通りかかった近所に住む老人が通報したことで判明したという。
「えっ。位置情報とか、逐一チェックしてるんですか」
「綾音様はいつ倒れられてもおかしくない状況にあります。常に位置を確認しておくことは必然かと」
思春期の女の子が常に見張られていると知ったら憤慨ものだろう。幸久のしらけた目にも、奏は冷静に返した。
「それもこれも全部、そちらの方が原因なのですけどね」
奏の冷たい視線に、斉冶は「ちっ」と舌打ちを打った。
残念ながら綾音を攫った人物の特定まではできていない。かろうじて若い男らしいというくらいだ。
老人も遠目だったのでよくは見えなかったという。彼はその場で成されることを見ることしかできなかったのだ。
場所がシャッター街ということもあっただろう。買い物客がめっきり姿を消してしまった場所は、夕刻からは不良の溜まり場となっているのだから。
老人にとっては自分が介入していらぬ被害を受けることは避けたいことだったのだろう。むしろ警察に駆け込んだだけよしと言えよう。
「さぁ、立ってください。腑抜けでもその顔に出てもらわないとうちも動けないんですから」
「俺が行ってどうなる」
「うちは優良企業なんですよ。どこぞのお偉方と違い、警察方面に顔は利かないんです」
綾音の位置情報を伝える携帯が失われた位置は分かっている。
だが目撃者は未だ出てきていない状況。奏はその付近にある監視カメラをチェックしたいと述べた。
けれどいくら鈴代が富豪と言っても、所詮は一商家。苦手な分野はあるのだ。多少の政界の知り合いはいても、否やなく簡単に情報を引き出せるほどのつてはない。
数台くらいならばともかく、付近一帯の監視カメラを一度にとなると様々な方面への調整が必要となる。
ならばと考えて出てきたのが菅原の名前だった。
菅原なら警察の官僚にまで顔が利く。無駄な時間を省くのに一番手っ取り早い方法だった。
「こういう事態は時間が要なんですよ」
名目は菅原斉冶の婚約者の捜索だ。
ただの商家の娘を捜すより余程影響は大きいだろう。
なにせ政界のトップに君臨する男の養娘――仮称としてだが――となる者だ。万一対応が遅れて何かが起これば、自分たちの首が飛ぶ。相手方は必ずそう思ってくれるはずだ。
だから斉冶の顔がいる。奏はそう言っているのだ。
すでに菅原光次郎には先触れを出して了承を取り付けているというのだから、鈴代の筆頭秘書の名は伊達ではない。
「それに綾音様が待っているのですよ。貴方を。非常に不本意なことですが」
非常にという部分に力を込めて奏が吐く。
できれば綾音にそう思ってほしくはないという願いがそれには込められていた。
斉冶はそんな馬鹿なと思った。
綾音はいつも斉冶を見て不服といった顔をしていた。斉冶の行動に目を細めて、少しばかり近づいたと思ってもすぐに閉ざしてしまう。
孝仁のことを想っているのだ。
斉冶は綾音のそんなところを気に入って近づいていたのだから。綾音が自分のことを待っているなどと言われる意味が理解できない。
斉冶は綾音を開放したのだ。喜ばれこそすれ、期待されて待たれるなどということがあるわけがない。
頭に、あの日の別れ際の涙が浮かんだ。あれは何を思って流した涙だったのか――。
もし、奏の言うようなことが本当にあるのだとしたら……。
「綾音様はもう精を誰にも受け渡してはいません。これまでは私のくちづけを手に受けて精を出していたというのに、あの日以来それすら拒んでいるのです。孝仁様がいなくなられても拒むことなどなかったそれをです」
「あいつがそんなことを……」
「いくら阿呆でもこれくらいの意味はお分かりになるでしょう。というか分かっていただかないと、綾音様が不憫すぎます」
かっと身体の芯のほうに火が灯ったような感覚がした。
床に座り込んだままだった体を起こす。
「おや、ようやく頭が冴えてきましたか。担いで運ばなければならないかと思っていたので助かります」
「ちっ。言ってろ」
斉冶は先頭を切って早足で歩き出した。
「秘書さん男前ぇ。ねえねえ、僕とお友達になってくださいよ」
「男の相手は兄弟たちだけで十分です。他を当たってください」
背後で和やかなやり取りが始まる。それでも早い斉冶の動きに合わせて動くのだから、彼ら二人もなかなかに身体能力に優れた人々である。
奏の運転する車で向かった先は、綾音の携帯の信号が途切れた一帯。
斉冶の顔があれば早いと言っていたようだが、捜索は既に鈴代と警察の者とで合同になって行われていた。
しらみつぶしの監視カメラのチェックは、老人がワゴンが走り去っただいたいの方角を覚えていたこと、そして消えた時間帯が分かっていたことから割りと早くに片が付いた。
風ヶ丘から数キロ離れた位置、コンビニの店先に掲げられた監視カメラがそれを捉えていたのだ。
黒塗りのワゴンは中が窓ガラスが加工されていたため中身が見えなかったが、出てきた運転手の顔は見えた。
出てきた男が二つに割れた携帯を無造作にコンビニのゴミ箱に捨てる。
向きを変えた男の顔はばっちりと監視カメラに映りこんでいた。
その顔は――、
「あんのロリコン変態野郎がっ」
狭い店裏の中で監視カメラを見た斉冶がうなり声を上げ、同時に握った拳で壁を殴る。
コンビニの店長はそれを見て、奏の後ろに回って怯え縮こまった。
壁には綺麗な穴がぽっかりと開いてしまっている。店長は穴が開いたことよりも、簡単に壁に穴を開けてしまう斉冶に早く出ていってくれないかという視線を向けていた。
斉冶のかわりに幸久が「すみません」と謝っている。修理費の請求先にと指定したのが鈴代の名にしているあたり、要領がいいというかちゃっかりしている。
それを横目で見つつ、奏は部下たちに次の指示をするため懐から携帯を取り出した。
綾音が消えてすでに三時間以上が経過していた。
犯人がまだ何も事をなしていないことを祈る。万が一にも綾音の身に何かあれば、嬲り殺すだけでは足りないだろう。鈴代も、奏自身も、そして斉冶も――。
一族郎党――、そうならないためにも、奏は犯人のためにそう祈ってやった。
※ ※ ※
どれだけ時間が経っただろう。
元村はまだ戻ってきていない。どこにも時計が置かれていないので時間がわからない。
でもできるだけ遅く戻ってくればいい。
戻ってきたら、あの男はまたあのわけの分からない持論を展開させてくるのだろう。綾音がもういい、わかったからと彼に屈するまで。
肉体は溜まりゆく精で機能が脆弱化してしまっている。起き上がっている状態では頭がふらつくため、綾音は体をベッドに横たえたままで時間を過ごした。
あのたった一回で随分と疲弊している。
肉体以上に精神的な疲れが綾音を蝕んでいた。
もう何回かあの不毛なやり取りを繰り返したら、疲労困憊で永遠の眠りについてしまうのではないだろうか。ベッドに倒れこんだまま思う。
床には散乱した水差しとコップの欠片がある。
元村が綾音のためにと持ち込んできていたものだ。綾音の拒みに動揺したのもあって、下げ忘れていたらしい。
綾音がそれをぶちまけたのだ。粉々になって原型が何だったかもわからなくなっている。
いつか見た教室での惨事のようで、綾音は口元を緩めた。
あの男との記憶はけしていいものばかりではないはずなのに、今はこうして懐かしく思い出す。すべての記憶を愛おしいと感じてさえいるのだ。
もう綾音に斉冶を否定する気持ちは微塵もなかった。
つがいでもないのに。
何度も思ったそれはただの言い訳にしかすぎなくなっていた。
綾音は斉冶のことを、斉冶だからこそ愛おしいと思っている。もう否定はできない。
きっと斉冶を失ってしまえば、肉体的にではなく心が死んでしまうだろう。孝仁のときは死んでしまったように感じていたが、それでも生きていた。
斉冶が綾音の生を動かした。
今度の場合は完全に綾音の生は止まってしまうだろう。
あの晩の出来事は綾音の心を沈ませたが、今この状況に置かれてみて初めて分かる。あのときの斉冶は確かに綾音を想っていた。
斉冶と元村の綾音を見る目はそれを感じさせるほどに異なっていた。
どうかうぬぼれでないのなら、もう一度会って確かめたい。斉冶に綾音の想いを告げたい。
だとしたら、綾音は必ず元村の下から生きてここを出なければならない。屈することなどできない。弱っている場合ではないのだ。
自分を奮い立たせる斉冶の姿を思い浮かべながら、今はまだ体力を温存させておくべきときだとまぶたを閉じた。
元村が戻ってきたのはそれから二十分程のことだった。
「ダメじゃないか、こんなことしちゃ」
床に落ちた惨状を見て元村が息を吐く。
「踏んでしまったら危ないよ」
言いつつも、片付けを始める男はとても楽しそうだった。綾音の世話を焼いている自分というものに酔っているのだろう。
すべてを片付け終わった彼がベッドの上で寝転がったままでいた綾音に覆いかぶさってくる。
「気分はどう?」
気分? 気分などとうの昔に最悪だ。唾を吐き掛けたい気持ちを抑えて、綾音は努めて冷静な声を出そうとした。
「あなたは――……せん」
声は出したつもりだったが震えてちゃんとした音としては届かなかった。
「ん? 何?」
優しげな手つきで頬をすべる指先が髪に触れ、また頬に戻って唇に触れた。綾音の背筋にぞわりと怖気が走る。
負けるものか。怯えは隙になる。隙は綾音の負けに繋がるのだ。
綾音はもう一度声を出すべく息を吸い込んだ。
「あなたは私のつがいにはなれません」
これくらいの否定は元村の中でも想定済みだったのだろう。まだその目は笑っている。「大丈夫だよ。ここの暮らしにもすぐに慣れる。きみには僕がいるんだから」
おかしなことを言うものだと、元村は優しく綾音を説き伏せるように言った。
この男は何も知らないらしい。
元村の口から出てきた言葉に綾音はそう確信を抱いた。
「きみたちは異性のくちづけで生かされているんだろ? 孝仁がいなくなったから、代わりはあのクソ餓鬼がしていたのかな」
腹立たしいことだけどね。元村は綾音の代わりに横にあった枕を殴りつけた。
「僕はべつにもたらされる栄光なんてものに興味はないんだ。でもきみを生かすためならいくらでも、何だってするよ」
善人めいた口調。
確かに元村は栄光そのものに興味はないのだろう。
だが別の欲望だけははっきりとしている。彼は綾音の庇護者という立場に自分を置いて綾音を支配したいのだ。
「あなたのくちづけでは意味がないんですよ」
綾音はその願望の無意味さにふっと笑みを出した。
虚しい願いだ。その願いはけして叶えられることはないというのに、この男は叶えられると心の底から信じている――。
綾音は懇切丁寧に説明してやった。
つがいという因習を。つがいの女がどのように選ばれ、どのように生きていくかを。つがいを得られる男が限られた存在であることを。
つがいを神託の巫女か何かと勘違いして攫い、自分の物にした男が悲惨な末路を送った話もしてやった。
過去にこういったことがなかったわけではないのだ。
因習の外にある者は誤解をしやすい。つがいたる女さえ奪えば栄光は得られると。
連れ去られたつがいは自害し、連れ去った男は一族郎党血祭りにあげられその血脈を経たれた。つがいを喪った家は一度は傾きかけたが、子が新しくつがいを得たため再び繁栄を取り戻したということだ。
鈴村の先祖の話だ。これは現在まで語り継がれてきたことであり、鈴村の男がつがいの女に劣らず情が深いことの所以でもあったりする。
「そんな馬鹿な……」
それを知る頃には、元村はすっかり顔を蒼褪めさせていた。
「このままの状態が続けば、遠からず私は死にますよ」
理解したなら解放しろと言いたかったが、正常な判断の振り切れている元村には意味はなかったようだ。
「馬鹿なことを……そう馬鹿だよ。僕の家がこれまでつがいを得ていなかっただけだ。そうだよ。僕なら上手くいくかもしれない。いや、きっと上手くいく」
つがいを得る能力があれば、つがいの女なしに子はできない。元村の家系だってそれなりにここまで血を繋いできたというのなら、元村に能力があるかもしれないということは絶対にありえないことなのだ。
綾音の言葉で情報は頭に入ったはずなのに、元村は己の希望的観測を綾音にぶつけてきた。
元村が綾音に唇を寄せる。だが綾音は唇をんっと結んでそれを拒絶した。
「口を開けるんだ! そうすれば僕が正しかったってわかる」
元村が綾音を揺する。それでもけして綾音は元村のくちづけを受けようとはしなかった。
「開けろっ!」
元村の意識がただひたすらに綾音の唇に集中したとき――、綾音は行動した。
手に握りこんでいた破片で本村の頬に切りつけたのだ。
それは元村が置いていったガラスの水差しの破片だった。できるだけ粉々に砕いて床に撒いたので、元村は欠片が足りないことに気付かなかったのだ。
鋭い破片が元村の頬を裂いて血が浮かぶ。
「あや、ね……さん?」
まさか自分よりもか弱い生物に反撃を受けるとは予測していなかったようで、元村は驚愕に目を見開いた。
すかさず綾音は元村の喉下にその破片を突きつけた。
「私は貴方には何も許さない! ここに私の居場所はない。私はここを出て帰るのっ」
元村の顔がさっと赤くなる。
もう目の前の獲物を虐げることしか頭に浮かんでいないのだろう。
どこまでも下劣な男だ。
つがいの伴侶となるべき男はけして女を虐げない。そんなことすら身に染み付いていない男が、綾音のつがいと名乗りを上げようとしたこと事態、すべてのつがいを愚弄している行為なのだ。
「きみはここにいて、大人しく僕のくちづけを受け取ればいいんだっ」
右手を綾音の頬を打ちつけるために振り上げたところで、元村が何かに阻まれて床に落ちた。
「馬鹿が。こいつがそんな大人しい女なわけないだろ」
落ちた元村の腹を斉冶が蹴り上げる。蹴られた拍子に元村が「がはっ」とうめき声をあげた。
元村に向けられていた目がこちらに向く。口元には余裕の笑みを浮かべていた。
その顔が恨めしく、そして愛おしい。
「こんな奴に泣かされてんなよ」
首を横に振る。この涙は元村のためのものじゃない。斉冶が来てくれたことに対する涙だ。
会えて嬉しい。
そう言葉に出したかったのに、口からは何も出てこない。出てくるのは目から溢れる涙ばかりだった。
綾音の足元を見て斉冶が舌打ちをしてもう一度元村の腹を蹴った。
再度の蹴りで完全に意識のなくなった元村の懐をごそごそとあさって斉冶が鍵を取り出す。
カチャリと鍵が鳴り、拘束が解かれた。
何度も引っ張って赤く擦れた跡を斉冶の指先がかすめた。痛ましいものを見る目。触れる指先は、「すまない」そう言いたげな仕草だった。
綾音の足元をしばらく見つめ続けていた斉冶が顔をあげる。斉冶は何かを言いかけた後、口を閉ざしてしまった。
斉冶の動きでベッドが軋む。離れてしまうのだと思った。
「行かないで」
綾音は反射的に言葉を出した。――このまま置いていかれるくらいなら、もうこのまま息耐えてしまったほうがいい……。
両の腕を伸ばす。
いつもとは違う絡み合う視線。綾音はひたすらに真っ直ぐ斉冶を見つめ続け、斉冶はそれを戸惑いがちに見返した。
そして打たれる舌打ち。
「せっかく解放してやったのに」
斉冶は言ってするりと綾音の腕の中に入ってくれた。
首筋に腕を回す。そこは汗をかいているのかしっとりと湿っていた。余裕そうに見せていたのは顔だけだったらしい。
綾音を抱きしめてふうと深い息を吐いた斉冶は、そこでようやく体の力を抜いた。
抱きしめ返してくれる腕が嬉しい。
名前を呼びたい。だが頭がくらくらとしてそれができなかった。くらくらするのは疲労のためか。それよりは幸福のほうが強い気がした。
ならばせめて顔が見たい。そう思って体を離そうと身をよじる。
斉冶は少しだけ抱きしめる力を緩めてくれたが、そこで離すつもりはないようで、抱き込まれたまま綾音は斉冶の顔を見上げた。
あぁ、この顔だ。少し眉間に皺が寄ってむすっとしたような顔。
笑った顔も好きだったが、綾音はこのむすっとした、人によっては怯えをもたらすような顔が一番好きだった。
綾音が笑うと、斉冶が顔を寄せてくる。
いつかのように右のまぶたに一度、もう一方のまぶたに一度くちづけが落とされた。
あの日のような悲しみはない。
でもなんだか泣きたいような気持ちがした。
胸の奥が熱でうずく。
堪えきれずに綾音のほうから斉冶にくちづけた。それは軽く、鳥が餌を啄ばむようなものだった。
本当に数え切れないくらいのくちづけを孝仁と交わしてきたが、これが綾音にとっては初めての、自分から誰かにするくちづけだった。
斉冶は一瞬驚いたような顔をしたものの、次には笑みを浮かべて綾音にくちづけてきた。それは綾音がしたような軽いものではなく、深いものだった。
口の中すべてを蹂躙するようなくちづけだったが、綾音の中に不快感はなく、言いようのない心地よさが胸を満たしていくくちづけだった。
「はい、お二人さん。そこまでにしておいて」
「事後処理をしないといけませんからね。続きはまた次回に」
友人にはなれないと幸久を拒絶していた奏が絶妙なコンビネーションで彼の言葉を継ぐ。
斉冶が「ちっ」と舌打ちをして綾音から顔を離す。
それを寂しいと思う間もなく、綾音の体はふわりとベッドから浮いた。斉冶が綾音を横抱きに抱えて床に下りたのだ。
突然の浮遊感に斉冶の首に抱きつく。
今までなら素っ気ない対応をしていた斉冶は、その綾音の行動に満足げに口の端を持ち上げた。
「変なことはされてないだろうな」
一応の確認とばかりに斉冶が尋ねてくる。
直前の綾音の行動は見ていたのだから、行為が未遂だということは分かりきったことだっただろうが、それでも聞いてくるのは斉冶の優しさの表れだった。
が、そこで正直に何もなかったとは綾音は言えなかった。
想いを通わせた男には正直にあるべきだろう。
散々嘘で自分を塗り固めてきた綾音は、今度こそ正直でありたいと願ったのだ。それが誰かの不幸の元になるとまでは考えることができなかった。
「服の替えを……。たぶん、気を失っている間に。あっ、でもくちづけは未遂です。ちゃんと拒みましたから」
ほらこうやってと、んっと唇を閉じて主張してみたが、斉冶はそれで納得するほど心が広くはできていなかった。
静かにベッドに綾音を下ろすと、一度長いくちづけをして唇を離す。
精を取られていく間隔に綾音は体の楽を感じた。
「よし、殺そう」
地の底から這い出たような声だった。
斉冶が、床に崩れたままでいた元村の体を軽々と拾い上げ、ベッドとは反対側の壁に投げ飛ばす。
元村の体はまるで中身のないダンボール箱のように飛び、壁に打ち付けられて下に落ちた。
かなり重たい鈍い音がしたので、あばらの数本はいっているかもしれない。
「ちょっ、斉冶。人殺しはいくらなんでも。菅原でもまずいから」
もみ消しの方法をどうこうと気にしている辺り、幸久も人の倫理観からは多少ズレがある。
「そうですよ。一瞬で殺してしまうだなんてもったいない。この男には生きていることのほうが辛い、ということを身を以って知ってもらわなくては」
奏もまた幸久と同じだった。
なんだかとても場違いな空気になってしまっている。
ようやく危機から脱することができたために綾音の身体は気が抜けてしまったのだろう。
気付けばそんな彼らの声を聞きながら、ふっと意識が夢の中に手繰り寄せられていくのを感じた。
もう気を張っている必要はない。
斉冶が助けに来てくれた。幸久も。あとのことは奏に任せるのが一番だ。彼がいるならもう自分にできることはないだろう。
そういえば奏との賭けはどうなるのだろう。
約束の一週間はまだ来ていないはずだ。目が覚めたら聞いてみよう。
――あぁ、そういえばまだきちんと斉冶さんに言っていない。
そんなことを思いながら、綾音は深く眠りの底に落ちていった。