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――いいですか。一週間だけ待ってあげます。


 そう綾音に言ったのは奏だった。

 あの立食会から三日が経っていた。

 綾音は今日も歩きで学校を行き来している。

 体は不調の一途を辿っている。頭は常に霞がかったようにふらつき、ただ歩いているだけだというのに心臓はどくどくと不整な音を立てた。


 あれから三日――、この三日の間、綾音は一度も精の受け渡しをしていなかった。

 精を取ろうとする奏を綾音が拒んだからだ。

 手を取るまではいい。だが、いざ唇が付けられようとすると手を引いてしまうのだ。

 意識ではなく無意識が奏の唇を拒絶する。

「……ごめんなさい」

 うつむいて消え入るように謝る綾音に奏は「仕方ありませんね」と優しいため息を吐いた。


「ひとつ賭けをしましょう」

「賭けを?」

「いいですか。一週間だけ待ってあげます。その時間だけ貴女に猶予を与えます。斉冶さんが自分の意志で貴方の前に現れたら、貴女の勝ち。現れなかったら、私の勝ち」


 賭けの対価は綾音が勝った場合は「奏が己のすべてで綾音の今後の自由を保障すること」、負けた場合は「大人しく奏のものになること」だった。


「私にも我慢の限度というものがあるんですよ」


 奏の声音には色というものが含まれていなかった。

 綾音の身体はこのまま放置していれば衰弱し、やがて死に向かっていくことだろう。

 精を吸われないまま生活すること。それがどれだけ酷なことか、長年鈴代に仕えまた自身もつがいを得られる身として奏は理解していた。その期限として一週間という時間を設定したのだ。


「貴女の頑固は知っていますけどね。幼い頃から見守ってきた貴女がこのまま死に向かうことは、私だって耐えられることではありませんから」


 本当は無理にでもくちづけてしまえと、会長や社長からせっつかれているのだと奏は白状した。斉冶が無理ならばそのまま奏とつがい合わせても、とまで言い出しているのだとか。

 反する奥方たちは、「まったく女心の何も分かっていないのだから」と自分たちの主人に呆れ顔でつがいの女が何たるものかを改めて諭しているらしい。


 賭けるも何も、綾音から去ったのは斉冶のほうだというのに……。


「大丈夫。私はこの賭けに負ける自信がありますから」

 負ける自信とはこれいかに。

 奏は本当に自信たっぷりに綾音の耳元に囁きかけた。

「これで来ないような不甲斐無い男なら、いっそ捨ててしまえばいいんです。そのときは私の元にお嫁にいらっしゃい」

 もし奏が賭けに勝つようなときは、きっと彼はハンカチを咥えて悔しがることでしょうね。そう奏は加えた。

 斉冶がハンカチを咥える様子は浮かばないが、あの男が悔しさを感じたときは拳で壁に穴でも穿ちかねないなと綾音は思った。


 それにしても、この賭けはどちらに転んでも奏側に不利に働くような気がする。

 綾音に対する責任を一生涯抱え込むと言っているようなものだ。こんな他人の荷物になるしかない小娘を。

 そう問いかけた綾音に、奏は「確かにそうですね」と考えるそぶりを見せた。

「でも、抱える荷物を重いと感じるかどうかは人によるのですよ」

 私にとって綾音様ひとり抱え込むことなど軽いこと、むしろ願ったり叶ったりなことですよと奏は優しげな手つきで綾音の髪を梳いた。




 そして三日が経ち、未だに斉冶は綾音の前に現れてはいない。

 噂に聞いたところ、家のほうでしばらく謹慎処分を受けているらしい。

「明日にはきっと来るよ。そのときは斉冶に花束でも持たせようか」

 冗談めいて斉冶の様子を知らせてくれた幸久には悪いが、花束どうこうは置いておいて斉冶が自ら綾音の前に姿を現すとはどうしても思えない。

 どうしてみんなして斉冶が来ると確信しているように言うのだろう。

 いなくなってしまったとはいえ、斉冶のつがいは明香里だし、綾音のつがいは孝仁だというのに。それ以外ないというのに――。


 綾音はあの日から孝仁の顔を何度も思い浮かべようとしている。

 ずっと一緒に生活してきた人だというのに、記憶にあるはずの面影は揺れて定かではなかった。

 代わりに別の顔は、鮮やかにまぶたの裏に浮かんでくるのだ。怒った顔も、つんと逸らした顔も、笑った顔も。そのすべてが色鮮やかに浮かんでくる。


 荒れた息を整えようとして足を止める。

 それは丁度、初めて斉冶と出くわした場所だった。

 シャッターの下りた閉じた店の入り口に手を置く。今にも狭い通路から黒い影が出てくるのではないだろうかと期待してしまう。

 そう、期待だ。

 綾音は斉冶が来てくれることを願っていた。

 それがかつて綾音がしたことへの蔑みの視線でもいい。一目でいい。斉冶の姿を目にしたかった。

 その一目で綾音は斉冶の姿を脳裏に焼き付け、一層鮮やかになった彼の姿を抱えて生きていけるというのに――。


 だが数分そうしていたところで斉冶が目の前に現れるわけでもなく、ふらつく頭を振って綾音は歩き出そうとした。


 そのとき――、目の前が真っ暗になったのは、綾音の不調だけが原因だったわけではない。

 誰かが、故意に、綾音に薬を嗅がせて暗闇をもたらした。

「――綾音さん。さあ、僕たちの家に帰ろう」

 ねっとりとした呼び声が綾音の意識の底に墨を落とした。


 ※ ※ ※


 慣れないふかふかとした感触に綾音は目を覚ました。

 いったい自分はどうしたのだろう。道端で倒れてどこかの病院に運び込まれたのだろうか――。

 薄ぼんやりとした意識の中で綾音は辺りを見回した。

 病院、にしては壁が塗られておらず、灰色のコンクリートがむき出しになっている。

 寒々しい空間だ。

 だが、反面綾音が寝かされているこのベッドはふかふかと柔らかく、肌触りだけはやけに良かった。おそらく殆ど使用されていないか、新品のものをそのままここに持ち運んできたのではないだろうか。

 汚れのない真っ白な羽根布団を気味悪く感じて、綾音は立ち上がろうとした。


「えっ……?」


 左足に付けられた違和感に慌てて羽根布団を剥ぐ。

「鎖が……」

 そこには深紅の光沢を放つベルベットの生地でできた輪が巻き付いていた。肌に当たる部分だけは傷を付けないような造りになっているが、延びる鎖は繊細だが確かな太さがあり、人の手では簡単に外せないようにできていた。

 鎖はベッドの脚まで伸びて、そこにがっちりと繋がれていた。


 部屋は高い位置に明り取りの窓がひとつ。

 扉は綾音から見て右端にあったが、ぴたりと閉じられている。近づこうとしたが、足の鎖はそこに届くまでには長さが足りず、ぴんと張って綾音の体を引きとめた。

 つんのめって綾音は床に呆然と膝をついた。


「っ……。いつの間に着替えを」


 落ちた膝を見て、ようやく綾音は自分の今の様子に気づいた。

 着ていた筈の風ヶ丘の制服が真っ白なドレスに変わっている。シフォン生地の柔らかな手触り。ラメが入っているのだろう、膝下までの生地の波が美しく光を放っていたが、綾音は自分に何の言づけもなく行われた行為に肌を粟立たせた。

 誰がこのようなことをしたかは分からないが、こんなものは善意でもなんでもない。

 言いようのない吐気に綾音は口元を押さえた。


「やあ、起きたかい」


 言って扉を開けて入ってきたのは、何度も綾音の前に現れては嫌な印象を残していた男、元村公彦だった。

 手に持った盆に水差しとコップ、そして果物の入った皿を乗せている。

「なかなか起きないから心配したよ」

 ベッドの傍にある小テーブルに盆を置いて元村が跪く。

 伸ばされた手が頬に触れそうになって、綾音は身を引いた。

 気分を害したわけでもなく、綾音の行動を真に不思議に思ったように元村が首を傾げる。

 ややあって、本村は得心がいったように頷いた。

「ひとりで目を覚まして不安になって怒っているのかな。ごめんね、僕も色々とやらなければならないことが多くてね」

「どうしてこんなこと」

「あぁ、制服なら捨ててしまったよ。だってもう必要のないものだからね。先日のドレスも素敵だったけど、そのドレスも似合っているよ。きみは何を着ても綺麗だ」

 元村は綾音の姿に何度も頷いて微笑みを浮かべた。

 まったく会話が成立しない。成り立たせるつもりがないのか、本当に病んでいるのか。そのどちらにしても、綾音にとっては身の危険しか感じられないものだった。


「元村さんっ」


 語気を荒げて綾音は目の前の男と対峙した。

 けれど綾音の精一杯のきつい視線も、元村には何の効果もないようだった。

「この間の立食会は本当に驚いたよ。鈴代の会長がきみと菅原の息子との婚姻関係を結ばせようとするだなんて。鈴代もなかなかに野心家だ。でも良かった。正式な発表の前にぶち壊しになって」

 そこだけはあの馬鹿息子の登場に感謝しないとねと、元村は綾音の目を見て笑った。

 笑んだ瞳にもう正常な光はなく、気持ちが悪いほどに澄み切っている。


「私を……どうするつもりですか」


 あぁ、声が震えてしまう。


「どうする、だなんて物騒な言い方はしないでよ。僕はきみを守るだけだよ」

 守るだと? 今最も綾音に危機感を抱かせている張本人だというのに、元村は自身こそが綾音の一番の騎士であり理解者だと、心底愛おしい者を見る目で綾音を見つめた。


「僕がきみを守ってあげる。永遠に。もう大丈夫なんだよ。ここにいれば安全だ。気の乗らない相手と無理に結婚なんてしなくていいし、きみを閉じ込めるあの嫌味な秘書のいる陰気な家にも帰らなくていい。もう何も心配することなんてないんだよ」


 こんなことは許されることではない。しかし今は怒りよりも理解不能な持論を展開させる元村の澄んだ瞳が恐ろしい。

 綾音は止められない寒気に唯一自由な腕で自分の体を抱きこんだ。


「綾音さん、きみは美しい。どこまでも真っ白で、穢れなんてどこにもない僕だけの人。もう誰にも触れさせない。きみから逃げた腑抜けの孝仁にも、あの礼儀のなっていない世間知らずのクソ餓鬼にもだっ」


 最後には興奮で声を大きくする元村の視線から逃げるように、綾音はベッドに乗り上げて壁の端まで身を寄せた。

 頭を抱え込んで元村を拒絶する。

 それなのに元村は「まだ混乱しているんだね」と身勝手な価値観を綾音に押し付けてきた。まるでそれが絶対的に正しいことだと言わんばかりに。


「少しずつ慣れていけばいい。だってここがきみのお城になるんだから。もうここしかきみがいられる場所はないんだから」


 低姿勢のようでいて綾音を屈しようとする手を振り払う。

 いやいやと頭を横に振り続ける綾音にも、元村は「大丈夫、こっちを向いてごらん」と優しく語り掛けてくる。

 これ以上の逃げ場はないというのに、綾音は曲げた足をもっと自分のほうに寄せて元村から距離を置いた。

 不毛なやり取りに痺れを切らしたのは元村のほうだった。


「あー、もうっ。こっちを向けって言ってるだろ!」


 優しい皮を被ったところで所詮はそれが本音。

 取られた手に、綾音はこのまま腕が握りつぶされるのではないかと思った。

 血走った目が綾音を捉える。

 だが、さきほどまでの理解不能な持論の展開よりも余程マシな気がする。

『あんな変態男に泣かされてんじゃねぇよ。情けねぇ』

 ふっ、と元村に対する恐さが薄れた。

 脳裏にあるのは、綾音を威圧するような獣の目だった。

 あの目は綾音を獲物として捉えつつも、同時に存在を肯定していた。同じ大地に立つ対等の生き物として――。

 ならば綾音は立たない。目の前の男が立っている場所まで降りてやりはしない。どれだけ体を傷つけられたとしても、それは負けたことにはならないのだ。

 単にか弱い生き物を傷付けようとするだけの低俗な視線になど負けはしない。


 綾音の目を見て、一瞬元村が鼻白む。

 次の行動に移ろうとして、元村は動きを止めた。

 携帯の着信が鳴ったのだ。相手先の名前を確認してから音を切る。ここで電話に出るような真似はできなかったのだろう。綾音に叫ばれては元村も言い訳はできまい。

 一度気持ちを落ち着かせるように呼吸をして、元村は携帯を仕舞いこんだ。


「きみが強情なのを忘れていたよ。まあ、いい。時間はたっぷりあるんだから」


 ちょっと出かけなければいけない用事があってね。元村は残念そうに肩をすくめた。議員の息子も色々と大変なんだよ。そう綾音にとってはどうでもいい情報まで加えてくる。

 元村の言葉によると、用事は議員である父親の講演会への同行だった。

 今のうちから方々に顔を売っておかなくてはならないのだ。鬱陶しそうに言いながらも、それを鼻にかけている様子はいつもの彼のようだった。

 二、三時間ほどで戻ってくると言う。その間だけでもこの常軌を逸した男の相手をしないで済むと思えば、綾音はほっとする思いがした。

「大人しくしているんだよ? 下手に動いて傷が付いてしまったらいけないから」

 そう言って、綾音の頬に手を沿わせて元村は部屋を出て行った。

 綾音は元村が出て行ったのを確認してから、ごしごしと触れられた頬を手で擦った。


 どっとした疲労感を覚え身体をベッドに横たえる。

 息が苦しかった。肉体的にと精神的にと両方の疲れが綾音を包んでいた。

「――斉冶さん……」

 来るはずのない男に向かって、綾音は吐く息の中で名前を呼んだ。




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