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「綾音さん、大変だったわね」
家に帰りついた綾音を、会長夫人の椿は優しく迎え入れてくれた。
恩を仇で返してしまったと何度も謝る綾音の背を彼女はずっとさすってくれた。
「いいのよ。勝手なことをしたのはあの人のほうなんだから。本当はね、あの人綾音さんのことが可愛くて仕方がないのよ。うちは男ばかりで華がないから、綾音さんを目に入れても痛くないくらい大切にしたくていつもうずうずしているんだから」
もったいない言葉だ。
嘘でも嬉しかった。
椿と共に綾音を迎えた社長夫人であり孝仁の母親でもある菫までもが、綾音を責めることなく傍に寄り添ってくれる。
温かい茶が綾音の手に乗せられ、肩にストールがかけられた。
椿の優しい物言いだけでも充分身の内が温まる思いなのに、こうまでしてもらっては涙腺が緩んでしまう。
今まで鈴代の家では泣くことをしなかった綾音は、初めてこの家の中で涙を零した。
「これだけは信じてあげて。菅原の息子さんに貴女を娶わせようとしたのは、本当についでだったのよ。あの人の本心がより強いのは貴女を自分の孫に据えることだった」
背をなでる椿の声がしみ入るように綾音の体に巡って行く。余程自分は乾いていたのだろうかと、綾音は自嘲する思いだった。
「婚姻の約束だけさせて、お嫁に行くぎりぎりまでこの家にいさせようとまで言っていたんだから」
今なら嘘とわかっていても甘い夢に浸れる気がした。
「ほら頑なになってる。だから放っておけばいいって言ったのよ」
綾音の思考を感じ取ったように椿がため息を吐く。その視線の先には閉じた襖しかない。
何があるのだろうかと思って訝しんでいると、すっとその襖が開いた。
立食会で着ていたスーツ姿でなく、部屋着用の羽織を被った会長が気まずそうに顔を覗かせる。
いつも厳めしい顔をしている彼が、綾音の泣き顔を見て、気まずそうな顔を更に歪めた。
あぁ、これは泣きやまねばならないのだと、綾音は慌てて目をこすった。
「喜ぶと思ったんだ」
吐き捨てるように言われた言葉に、初め綾音は頭に疑問符を浮かべた。会長の言いたいことの意味が理解できなかったためだ。
「お前は菅原の息子と仲が良かっただろう。だからつがい合わせたら喜ぶと思ったんだ」
会長が堰を切ったように言い訳を並べ立てる。
曰く、綾音が斉冶と交流があることを知った会長は、正式な孫として迎え入れるついでに祝いの手向けとして斉冶との縁談を菅原に打診したのだという。
初めからそう画策していたわけではなかったと、会長の言い訳という情報の中から拾い上げる。
その中には綾音を置いていった孝仁への恨みごとも含まれていた。
「男が何よりも優先すべきはつがいの女だ」
孝仁の除籍は本当に何の画策もなく、綾音を置いていったこと、ただその一点に於いて成されたことだったのだ。
仕事ばかりで家族のことは二の次だと考えているのだろうとばかり思っていた会長の言葉に、綾音は更に驚かされた。
菅原の力を得ずとも鈴代は長くこの国の経済の一角を担ってきた。今更他家との縁続きを強くすることの利はないと言い切った彼は、傲慢で自信溢れる会長の顔をしていた。
ただ綾音のためを思ってしたことだったと告げた部分だけは情けない老爺の顔つきになっていたのが、少しだけ可笑しかった。
「結局いらない世話を焼いてお前を困らせた」
すまなかったと会長が頭を下げる。
扶養されている身で鈴代の柱にこのようなことをされて、綾音は怒るどころか逆に胃酸が逆流する思いだった。
「いいえ。私こそ厚意を踏みにじるような真似をしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
姿勢を正し畳に指をつく。
深く頭を下げて、綾音は会長の言葉を待った。
あれだけ派手に会場を騒がせて抜け出したのだ。連れ出される形をとったとはいえ、斉冶の手を望んだのは綾音だ。
あれは鈴代の家に泥を塗る行為だったと綾音はその姿勢で述べた。
そしてまた綾音は自分の罪を告白した。
孝仁がああもすんなりと家を出てしまったことは自分のせいだ。自分が孝仁を止めなかった。止めようと思えばいくらでもできたのに。
だからこのまま鈴代の家を放逐されても文句は言わない。会長の好きなように罰してくれと、綾音は深く、畳に額をこすり付けるほどに深く頭を下げた。
「男を深く愛しすぎることはつがい女の業よ。あなた、怒らないであげてちょうだい」
椿が綾音を庇うように言ってくれたが、綾音は首を振って会長の沙汰を待った。
「罰をと言うのなら、公の場でみなに言ったんだ。もう取り返しはつかんぞ。うちの孫として正式に入ることは決定事項だからな」
「それはでもっ」
「ふんっ。この厳めしいジジイを相手におじい様と呼ばなくてはいけなくなるんだ。充分な罰だろ」
そう言って、鈴代の会長はぴしゃりと襖を閉めて部屋を出て行ってしまった。
あとに残された綾音は呆然と閉じられた襖を見つめることしかできないでいた。
綾音の横に座っていた椿がぷっと吹き出す。
こみあげてくる笑いを抑えることができなくなったのだろう。終いにあははと大きな声で笑い始めた。 菫までそれに合わせて「お義父様ったらもう」と笑い声をあげる。
「あぁ、やだやだ。なんて可笑しいのかしら。出ていくときの顔を見た? あの人ったら柄にもなく赤面していたわよ。ほらね、これでわかったでしょ。あの人にとって貴女は立派にうちの家族なのよ」
これは夢に違いない。
あの会長があれほど言葉を尽くして自分を慰めようとしたなんて、寛大な心で許してくれただなんて――それも家族と宣言までしてくれたなんて。
綾音はこれが夢ならいつまでも続けばいいのにと、抱かれるままに椿の胸に顔を寄せた。
※ ※ ※
「随分と派手にぶち壊したね」
制服姿の幸久が笑みを浮かべながら近づいてくる。
「はい、今日の分のプリント」
そう言って学校の鞄を開けたのは、ここに来るための言い訳だったのだろう。受け取ろうとしない斉冶に苦笑しつつも、幸久はそれらを机の上に置いた。
ソファに座ってくつろぐ姿勢を取る斉冶は、それでも剣呑な目を抑えようとはしない。――やだなぁ、相当荒れてるし。こっわぁ。
壁には幾つもの亀裂が入っていた。
斉冶が花瓶やら何やらを投げつけたことは明らかだった。それと拳も。亀裂の中には打ち付けたように丸く穴の開いた箇所もあった。
昨日帰り際に見かけたときはまだ落ち着いた顔をしていたのだ。いっそ悟りを開いたのではないかというくらい、穏やかな顔をしていたというのに……。
――まあ、原因は親父さんなんだろうけどね。
斉冶の口元には青紫色の跡が付いていた。
深夜にドタバタと暴れていたと、菅原の使用人から聞いている。
菅原の親子喧嘩は本当に騒々しいものがある。この家の男共は元々――本来の意味で――武闘派揃いなのだ。
長男は空手、次男は剣道でそれなりに活躍してきた実績を持っている。
それなりというのは、つがいという力があるために能力が上乗せされていることを彼らが理解しているからだ。
つがいなしでも十分な素質があることはわかっているが、そこそこに嗜む程度と抑えているのは公正性を持つ彼ららしい思考だった。
確か光次郎も昔は柔道をやっていたはずだ。
斉冶は何か習い事をしているということはないが、喧嘩という実践の経験は誰よりもある。
そんな二人が衝突したのだ。
口元の青あざくらいで済んでいるほうが不思議なくらいだ。
「あの親父さんなら、自分の女くらいしっかり捕まえとけ、くらいは言いそうだよね」
斉冶が綾音との婚約をなかったことにしてほしいと願い出たことは、すでに耳に入れていたことだった。
どのようなやり取りがあったかはわからない。
だが、大人しく身を引くことを光次郎がよしとするはずもないのだ。
彼は欲しいものは手に入れる人だ。
愛人を何人も抱え込んでいるらしいが、そのどれもに彼は愛情を持っていることを、幸久は彼のつがいから呆れ混じりに何度も聞かされてきた。
光次郎のつがいが愛人の存在を了承しているのは、彼の懐の大きさを知っているからにほかならなかった。彼女もまたつがいの例に漏れず情に厚い人で、遊びの愛など決して許さない人なのだから。
「うるさい」
ぎろりと睨まれて「はいはい黙りますよ」と降参の姿勢を取る。
今の斉冶をつついてもあまり良いことはないだろう。
――欲しければ素直に取りに行けばいいのに。
つがいに関しては驚くほど弱気になる斉冶に、幸久は内心で苦言を呈した。
いつもそうだ。
壁際まで追い詰めておいて、いつも斉冶はつがいの気持ちを考えて拳を収めてしまうのだ。
明香里が出て行くときも、知っていて斉冶は止めなかった。その当時斉冶を振り返らない明香里への反発で荒れ狂い、絡んできた他校の生徒を幾度も半殺しの目に合わせてきたというのにだ。
昨夜もきっと、綾音の手を離して逃がしてしまったのだろう。――今回ばかりはそれがいいことだとは思えないけどね。
彼女も悪い意味でつがいに幻想を抱いている人間だ。
たったひとりだけ、与えられたものだけがすべてなんてことはないのに、頑なに斉冶に向かおうとする心を抑えつけているように幸久には見える。
二人は共々自分に関することに鈍い。
周りから見ていて、その感情など明らかすぎてやきもきするくらいだというのに、なかなか気付く気配を見せないのだ。いっそ、それはわざとかと頭を叩きたくなる。
――我慢できなくなるのはどっちだろうね。
手を離したほうか。手を離されたほうか……。
できればその日が早く来てほしい。
でなければ、また斉冶が尋常ではない暴れ方を始めかねない。それを止めようとする意志を持つのはきっと、幸久しかいないのだから。
※ ※ ※
目を閉じれば泣き顔ばかりが浮かんでくる。
そういえば初めて会ったときも泣かれたな、と思い出す。
あのときはいなくなったつがいを思って流した涙なのだと、瞬時に理解できた。
いなくなったつがいの代わりに精を取っても、何気なく体に触れても、綾音は常に孝仁ことを頭に浮かべているようだった。
それに安心する。
つがいの情は確かにここに存在している。ただ自分がそれを得られなかっただけなのだと思うと、ほっとした。
斉冶にとって綾音は理想とするつがいの姿だった。
どうあってもこちらに情を示そうとしなかった明香里。つがいは相手を想うものだと叩き込まれて生きてきた斉冶の常識を壊した女――。
綾音が孝仁に向ける情は、ほどよく己の中の凶暴性を抑えていくようだった。
正しくこうあるべきというつがいの姿を綾音はいつも斉冶に見せつけてくれた。
だからけしてこちらを向いてくれるなと願う。振り返られないことに安堵するのは綾音に対してだけだった。
その姿を目で追うようになったのはいつのことからだろう。
たしか学期が新しく始まったときだ。
倒れる綾音に、これは誰かがいなければ生きられない女なのだと感じたときが始まり――。
誰かが――俺が……? 馬鹿馬鹿しい。あれは斉冶を拒む女だ。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ触れる手を柔らかいと感じ、くちづけに甘さを感じるようになったのは、もう始まりすら覚えていない。
鈴代の立食会に参加したのは、どうしてもと幸久が言ったからだ。
幸久は優男の顔をしてなかなかにしつこい男だ。こちらがもういい加減にしろと音を上げるまで下がらないところがある。でなければ面倒だからと参加を断っていただろう。
まさかあの場で綾音との婚約話が出てくるとは思ってもいなかったが――。
斉冶は幸久がそれを知っていて自分を参加させたのではないかと思っている。――あれは自分が困らなければ、あらゆる状況を面白がって笑う奴だから。
だが幸久もあそこまで手際よく斉冶が婚約の発表をぶち壊しにするとは思ってもいなかっただろう。
それを可能にしたのは、ある男の提案だった。
綾音が下種な男に絡まれたのを助けた後、化粧直しをする綾音を待つと言っておきながら、あの男は斉冶のあとを追ってきたのだ。
「どうか綾音様を連れ出してください」
会の途中で鈴代の会長から発表がある。そのときに照明を落とすから、混乱に乗じて綾音を連れ出せということだった。
何故鈴代に雇われている人間が。問うと次のような言葉が返ってきた。
「会長の意に反することをするのです。当然処罰はあるでしょう。ですが個人の感情として、あの方の悲しむ顔を見たくないのです」
「ならお前が連れ出せばいい」
「私は無粋な真似をして綾音様に嫌われたくはないので、それは勘弁願いたいところですね。公になれば綾音様は頷いてしまわれるでしょう。それが本意であれどうであれ、あの方はそうする方です。でも陰で泣くのですよ。ひとりきりで」
読みづらい男だ。
表情に緩急がなさすぎて真実そう思っているのか判断しづらい。
だが、ふと顔を逸らして綾音の消えた方を見つめる瞳は、彼の言葉を真実だと告げていた。
「知るか。俺は俺の好きなようにする」
容易に人の思惑に乗るのは面白くなくて、そう切り捨てる。
背に「よろしくお願いします」と声がかかる。
否定は受け付けないとばかりの態度に、喰えない男だという感想を抱いた。
結局はあの男の言葉通りに動くことになってしまった。
綾音がひどく辛そうな顔をしていたからだ。
鈴代の正式な孫として受け入れられるという本来なら喜ばしい発表に、まるで頬を打ち付けられたかのような顔をして、今にも倒れそうな顔をするから――。
先に伸ばされたのは綾音の手だった。
絡め取った手があまりに震えていたものだから、ここから連れ出すことは絶対にやり遂げなければならないことなのだと思った。
寄せられる肢体。甘やかな指先。体に馴染む精。
これがこの瞬間だけは自分のものになった。そう錯覚さえした。
『彼女が貴方と添い遂げる未来を私が台無しにした』
ホテルの庭で、綾音は自分の罪を告白した。
自分を捨てた孝仁への恨みでなく、つがいを奪った明香里への怒りでなく、綾音は間接的であれ自分が斉冶にしてしまったことを悔いて泣いた。
許されることではなかったと嘆くこの小さな存在を見て斉冶は思った。――なんて可哀想で、可愛い女なのだと。
誰も泣いたりしなかった。
自分のつがいでさえ斉冶のために泣いたりなどしなかった。他人のつがいである綾音だけが斉冶を想ってこうして泣くのだ。そう思わないわけがなかった。
だから逃がすことにした。
このまま斉冶が潰してしまうより、今後の世界を自由に飛ばせてやろうと思った。
精の受け渡しのないごく普通のくちづけは、胸に甘い痛みを残して消え去ってしまった。
逃がすと言ったのに、未だ目に浮かび続けるしずくの意味は理解できなかった。
――もういい。これであいつは自由だ。
思ったのに、父親からは「欲しいものを簡単に諦めるな、この大馬鹿者がっ」と叱責と共に殴り飛ばされるし、母親からは「情けないこと」とため息を吐かれてしまった。
怒るところはそこなのか。
誰もが会を滅茶苦茶にしたことよりも、鈴代の娘を連れ出したことよりも、斉冶が綾音を手離したことを悪いと指摘する。
「何が悪いってんだよ。これでいいだろうが」
舌打ちと共に傍にあったコップを投げつける。
コップが壁に当たって砕け落ちる音に、いつかの綾音のため息が聞こえた気がした。――どうするんですか、これ。
由香里のように斉冶の暴力に怯えるでもなく、起きた惨状に呆れたような声を出した綾音。
最近では斉冶の暴言にも苦笑ではあるが笑みまで加わるようになった。彼女も変わり者といえばその部類に入るのだろう。
「どうもしねぇよ」
言いつつも斉冶は立ち上がり、砕けたコップを拾い上げた。
※以下ちょっと息継ぎ。作品のイメージ壊れるのが嫌という人は読まないように。
因みに、最後の斉冶の行動を見て幸久がぷっと吹き出し、斉冶に殴られるという事件が発生。
「どうしたの。何の気まぐれ!? 斉冶が自分がやったことの後始末するなんて。ぷはっ。それって誰かさんの影響だったりする?」
「うるせぇ!」
ドガッ
「ぐはっ」
……こんな感じ。