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「ホントにガキ臭っ」
その声に、手に安堵を覚えるのは何故なのか――。
「あんたも大学に入って何年にもなろうってのに、よくこんなガキに欲情できるな」
確かに綾音は女子の平均としては小さいほうだ。だがそれはわずか。顔だって斉冶が言うほど幼い容姿はしていないと思っている。
「なっ……誰がガキですか」
むっとして斉冶の顔を見上げると、「そうやってすぐにムキになるところがだよ」と額を小突かれた。
「きみはいったい何者だ。彼女を放せ。汚らわしい」
さっきまで遠慮なしに綾音に触れてきておいて何を言っているのか。自分のことを棚に上げて元村が斉冶に噛み付く。
だが綾音を取り戻そうとした元村の手を、斉冶は加減なくバシッと叩いた。
「俺は菅原斉冶だよ。す・が・は・ら。あんたの足りない頭でも分かるだろ? 県議ごときが口を出していい家柄かどうかくらいは」
斉冶の名乗りを聞いて元村が身を竦める。
政界において敵に回していい人物を見極めることは最低限の能力だ。
鈍い鼻でも利くような菅原の名にたじろいで、元村は悔し紛れに拳を握って赤い顔で会場に消えていった。
「よかったんですか?」
寄りかかっていた斉冶から体を離して振り向く。
何がだ、そう言わんばかりに方眉を上げる斉冶に綾音は「家の名を出して」と尋ねた。
「あまりそういうことは好きじゃないでしょう?」
斉冶は暴力的だが公正な男だ。拳には拳で、力には力で対等に渡り合おうとするところがある。
そんな斉冶が綾音のために――そう言えるのかは別として――家の名まで使うだなんて、と綾音はそう聞きたかった。
綾音の視線を受けて斉冶ががしがしと頭をかく。せっかくセットした髪が台無しだったが、それは斉冶の風貌を損なうものではなかった。
ダークグレーのスーツは背の高い斉冶によく似合っていた。着崩した制服もそうだが、ある程度均整の取れた身体だと何を着ても様になるらしい。
斉冶のことを知らないだろう女性が通り過ぎる中で秋波を送る。
それには気にも留めていないようで、斉治はうーんと考え混む様子を見せた。
「ん……まあ、そうだな。ああいうのはネームバリューに弱いだろ。家名を出すのが一番面倒がないんだよ。それに俺だってこういう場くらいわきまえる」
斉冶の言葉に一瞬目を丸くして、次に綾音は噴出しそうになった。
この男も時と場所、場合を考えるらしい。学校ではどれだけ生活指導の教師に注意されても、その乱れた制服や態度を改めないくせに。
口の悪さは変わらないが、この男はこれで本当に最近は丸くなったのだ。
以前、まだその訪れがそう頻繁でなかった頃、一年の最後の学期が終わりを告げる頃だったか。
綾音は同級生の男子生徒に教室に呼び出されて告白を受けた。
夕暮れの放課後のことだ。
綾音の家のことも綾音自身の問題のこともよく知らない者から、こうして告白されることはたまにあることだった。
大人しい性質ではあったが、綾音は年齢にしては物腰が柔らかく大人びていて同年の異性から憧れの対象として見られることが多かったのだ。――綾音自身はそのことをあまりよく理解はしていなかったが。
夕暮れと同じくらい顔を赤くして告白してきた相手に、綾音が丁寧に断りを入れようとしたときだった。
教室の前扉がガタンと大きな音を立てて開けられたかと思ったら、酷く不機嫌な顔をした斉冶が乗り込んできたのだ。
不機嫌というのはまだ控えめな言い方か。そのときの斉冶は相手の男どころか綾音のことまで射殺さんばかりの目つきをしていたのだから。
「何やってんだよ、お前ら」
低い声に空気が凍りつく。
この男の場合、次の行動はいつも読みきれない。
怒っているのはわかる。だがそれからどう動く?
ぴりぴりとした空気の中で、綾音は斉冶が次に取った行動に唖然とした。
綾音の横まで来て乱暴に手を取ったと思ったら、「ちっ」と舌打ちをして、斉冶はそのまま綾音の指を――噛んだのだ。
告白してきた彼はその行動に驚きすぎて固まっていた。
綾音自身も彼同様に驚きで斉冶を見上げていた。――何をそんなに怒っているの。つがい相手でもあるまいし、と綾音は思った。
だが事実斉冶の目は面白くないと語っていて、あぁきっと自分だけで遊ぼうと思っていた玩具に手を出されそうになって癇癪を起こしているのだろうと、綾音は少し斜めの方向にその斉冶の行動に納得を付けた。
そうでなければ、その行動の意味がわからない。理由のないのは何となく気持ちが悪い気がしたのだ。ただ指の痛さに反して吸い取られていく精が心地よかったのが奇妙な感覚がした。
その後の斉冶の行動はまさに荒れた獣のようだった。
机も椅子も関係なしに蹴り倒すし、飛ばされた中身は踏みつけるしで、一瞬の間に教室内はすごい有様になってしまった。告白してきた彼はその中でついでのように殴り飛ばされた。
嵐が過ぎ去った教室の中で無事にあったものは綾音と、斉冶の凶行に驚いて身を引いた綾音が手を置いた机の二つのみだった。
まるで台風の目のように、綾音とその机だけは被害を免れていた。
散々暴れきって肩で息をする斉冶を見て綾音は「はあっ」と息を吐いた。
ため息に斉冶が肩をぴくりと動かした気配がしたが、ほんの刹那のことだったので綾音には本当にそうだったのかと断定することはできない。
「どうするんですか、これ」
呆れ返った声で文句のような言葉を出す。それに返ってくる斉冶の言葉はなかった。
起きたことは仕方がない。
惨状を回復すべく黙々と机を起こし始める綾音に、斉冶はまた「ちっ」と舌打ちをして同じように作業を始めた。
斉冶も作業に加わったため、意外と早く教室の回復はなされた。
未だ気絶したままだった彼は斉冶に責任を取らせて保健室まで運ばせた。
「明日私のほうからも改めてお詫びと告白の断りを入れますから」
別れ際にそう言ったときには斉冶の機嫌は直っていたように思う。
「悪かったな」
その言葉に苦笑したのを覚えている。あれだけやっておいてという呆れの中にわりと素直なのだなという感心の混じった感想を抱いた気がする。
斉冶に見せ付けられる暴力に感覚が麻痺を起こしていたのかもしれない。
まあ、とにかくあの頃に比べれば大人しく頭を使って相手を撃退した分、この男に関しては本当に丸くなったと言えるのだ。
「俺のことは放っとけ」
綾音の緩む口元に斉冶がむすっとした顔をする。
「それより、あんな変態男に泣かされてんじゃねぇよ。情けねぇ」
再び額を小突いてくる斉冶に、綾音は反射で「な、泣かされてなんかっ」と反論した。
「じゃあ、その目に浮かんでんのは何だって言うんだよ」
いつものように袖口で乱暴に綾音の目元を拭こうとして、斉冶は「ちっ」と舌打ちをして動きを止めた。
「……?」
おかしな様子に首を傾げる綾音の頬を、斉冶が両手で掴んでくる。
斉冶の大きな手は綾音の頭を包めるほどで、綾音はその大きさに改めて驚いて目を見開いた。
両の親指が丁寧に綾音の目元を拭う。
感じる水滴に綾音は顔を赤くした。斉冶が指摘したことの再確認をさせられたことへの羞恥心だったと思いたい。けして斉冶の指が優しげだったからではないと――。
「化粧してんなよ。面倒くせぇ」
今日はドレスに合わせて薄くではあるが頬に粉をはたいて、目にはピンクのアイシャドウを入れている。
それを崩さないようにという斉冶なりの配慮だったらしい。
今日の斉冶は本当に珍しいことばかりしてくれる。袖で拭かれて化粧が多少落ちたところで、綾音はこの男がすることだからと怒りはしなかっただろうに。
「このドレス……あまり馬鹿にしないでください」
斉冶の見慣れない姿を見てしまったからだろう。
頬の熱さを感じて、綾音は無理やりに話題を変えた。
「会長が選んでくれたものなんですから。その発言は鈴代を馬鹿にしているように受け取られかねませんよ」
作ってむっとした口調で話す。
本当はドレスを馬鹿にされたことはあまり気にしていなかった。
会長の用意してくれたドレスはピンク。多少色合いは抑えてあったが、付いているフリルも腰を飾る大振りのリボンも子供っぽいなと綾音も自分で思っていたからだ。
会長も夫人もあの奏でさえも似合うと褒めてくれていたが、こうして馬鹿にしてくる斉冶のほうに同意してしまうのだから、そう思う自分こそ不敬だと綾音は思った。
「知るか。ジジイの考える趣味なんか」
悪態を吐く斉冶の横で綾音は小さく笑みをこぼした。
元村に触れられた肩の嫌悪感のことはすっかり頭から消え去っていた。
「鈴代の者の前でその発言はいただけませんね」
荷物が消えて軽くなった手で奏が眼鏡のフレームを上げる。相手を軽く威圧するときの奏の癖だった。
流れる動作で奏が綾音を自分の後ろに下がらせる。
斉冶と綾音の組み合わせもまあまあ人目を引いていたように思うが、背の高い二人が睨み合う様子は物見高い観客を呼び寄せるには十分な効果があった。
先に視線を外したのは奏のほうだった。
「綾音様、少し化粧が落ちてしまいましたね。待っていますからパウダールームで直していらっしゃい」
まるで斉冶のことなど目に入っていないかのような態度に、綾音はちらりと斉冶のほうを見た。
「俺は待たねぇ」
斉冶はそう言ってがしがしと頭をかいて会場の中へと消えていった。
人ごみへ消えていく斉冶を目で追う綾音の頬を奏が包んで逸らさせる。
「ひとりにさせて申し訳ありません。いらない虫まで付けてしまうくらいなら、込み合っていても一緒に連れて歩くべきでした」
優しく綾音のドレスの肩部分を撫でつける奏。
虫と表現したのは元村のことだろう。奏は能力の伴わないまま高い地位でふんぞり返っているような者を嫌う。
自分の失態で綾音がいらないちょっかいを受けてしまったと、奏が眉間にしわを寄せる。抑えてはいるが怒りを感じていることは明らかな調子だった。
「大丈夫。助けてもらえましたから」
肩に置かれる手に触れてその怒気を宥める。
「助ける相手が私でなかったことも問題なのですけどね」
綾音の言葉に、奏は眉間のしわを和らげて困ったように笑った。
その後の奏はかいがいしく綾音の世話を焼いた。
綾音好みの料理を取り、飲み物をウェイターに注文し、いらぬ詮索をしてくる他家の娘の壁となってくれた。
会場の中で綾音は不測なく時を過ごしていた。
綾音も主催として表立った立場にあるわけではなくとも鈴代の人間だ。声をかけられるままに色々と移動したはずだが、どこに消えたのか斉冶の姿はちらりとも見ることはできなかった。
「やっ、綾音さん」
手を上げてやって来たのは風ヶ丘の生徒会長であり、斉冶の幼馴染――最近知ったことだが――高下幸久だった。
ブルーのピンストライプのスーツにシルク製のネクタイの色が映えている。明るい幸久の髪色によく似合う色だった。
奏が弁えたように数歩後ろに下がる。壁になるべき時と場合を瞬時に判断できるのが奏の良いところだった。
綾音のほうも幸久に挨拶を返して笑う。
つがいの桐子はどこかと尋ねると、友人と歓談中だと教えてくれた。
「女子のあの独特の空気はときに入っていけないものがあるよね」
そう眉を上げる幸久の右頬には大きく真っ白な湿布が張られていた。
先日会ったときに桐子が平手で打ったものがまだ残っているのだろうか。それにしても女性の手だ。翌日以降に持ち越すほどの威力はないだろう。
「ああ、これ?」
綾音の視線を受けて幸久が湿布に手を当てる。
「あのあと斉冶にやられてさ。有言実行ってタイプじゃないくせに、こういうときだけは律義なんで困っちゃうよ本当」
――お前じゃなかったらここで張り倒してるぞ。
綾音の脳裏に浮かんだのはあの日の斉冶の言葉だった。
あれは自分の玩具を取られそうになった苛立ちまぎれの言葉ではなかったのか。
斉冶が手を出したのなら幸久の頬が今日に至るまで脹れているのも理解できる。――でも何故?
これではまるで斉冶が綾音のために幸久に手を出したようではないか。
「綾音さん、なんか嬉しそう」
幸久がにやにやと笑う。気づかないうちに頬が緩んでいたというのか。確かめるために手をやったときには、頬は動揺でひきつっていた。
そして内心で反論する。斉冶は斉冶なりに幸久に思うところがあって手を出したのだろう。けして綾音のために動いたわけではないのだ。
斉冶がそんなことをするはずがない。あの男は気まぐれな男だ。綾音を意図して助けることも、目で追うこともしない。そう……しないはず――。
「綾音さん、斉冶はああ見えてつがいというものに幻想を抱いているんだよ」
幸久がウェイターから飲み物を取って一口あおる。
その口元の笑みが崩れないのはきっと、今の綾音を面白がっているからなのだろうと綾音は思った。
「つがいの女は自分のつがいを愛するものだし、男のほうも何を置いてもその存在を大切に扱うべきだと思っている。明香里ちゃん――近藤明香里はそんな斉冶の幻想とはちょっとだけズレた女の子だったんだよ」
綾音は感じた動揺のままに、少しだけ長い幸久の言葉に耳を傾けた。
※ ※ ※
明香里が菅原の家に来たのは普通よりも少し遅い十三歳のときだったという。
本来なら五、六歳の頃に引き取るものだが、明香里の両親がなかなか彼女を手放そうとしなかったのだという。
せめて小学生のうちはと、多少の体調の不良よりも家族との時間を取ったのだ。
明香里がつがいの中では比較的丈夫なほうだったということも、その選択肢を浮かび出させた理由だったかもしれない。
彼女は体育の授業などの激しい運動をしなければ、多少くちづけの間隔が空いても普通に生活することが可能だった。
近藤の家もなかなかの資産家で菅原とは懇意にしている家柄だったので、その願いは簡単に聞き届けられたそうだ。菅原のほうも斉冶が三男ということで特に焦りを感じていなかったこともある。
斉冶は明香里のために週に何度かは近藤の家に通わされた。
「それでも斉冶はそれがつがいの役割ならと特に反発はしていなかったよ」
反発したのはむしろ明香里のほうだった。
生きるためとはいえ、よく知らない男の子のくちづけを受けるのは抵抗があったらしい。それは思春期を迎える女の子としては当然湧き上がる感情だった。
明香里が見出されたのは八歳の頃、これもまたつがいとしては少し遅いほうだった。
「斉冶もなかなかに口下手なほうでしょ? しかもすぐに手が出るし。明香里ちゃん恐がっちゃってさ。仲の良さなら僕のほうが仲が良かったかもしれないな」
少しずつ慣らすために菅原の家を訪問するようになった明香里はすっかり萎縮してしまっていたという。
菅原の家は近藤と違って厳重な警備体制の中でまるで牢獄のようだったし、斉冶はいつも怒ったような顔をしているしで、明香里はいつも逃げ帰るように自分の家に帰っていたと幸久は語った。
とうとう中学に上がるとき、明香里は菅原の家に迎え入れられた。
緊張と不慣れな家にいつも明香里はがちがちに固まっていたという。
そんな彼女が、斉冶の幼馴染ということもあり、ちょくちょく菅原の家を訪れていた人当たりの良い幸久と自然と会話が増えていったということは仕方のないことだったかもしれない。
「彼女の我慢の加減は本当に平均的なものだったよ」
ある日、明香里がうっかりこうこぼしてしまったのだ。
『幸久くんが私のつがいだったら良かったのに』
幸久と二人でいたときに漏らしてしまった言葉だ。慌てて訂正したものの、それは運悪く斉冶の耳に入ってしまった。
「それからだよ。斉冶が荒れに荒れたのは」
それまではまだ明香里との距離感を掴めずに戸惑うような素振りすら見せていた斉冶が、乱暴に彼女とくちづけを交わすようになった。
時には胸倉を掴むように顔を自分に近づけさせてくちづけてくる斉冶に、明香里の怯えはもっと酷くなり、次第に恐怖に変わっていった。
暴力事件も何度も起こした。
警察まで持ち込まれなかったのは、ひとえに菅原の力があってこそだ。
斉冶はその暴力性を明香里の前でも抑えることはなかった。
さすがに明香里相手に手を出すことはなかったが、気まぐれに物を投げつけて壊すということは何度もあったらしい。
「斉冶はそれでもつがいを大切に扱いたかったんだよ。明香里ちゃんが受け入れさえすればそうするつもりだったんだ。頑固だし不器用馬鹿だから、関係の修復どころかお互いの仲はどんどん悪化していっちゃったけどね」
最後まで幸久は斉冶のことも明香里のことも悪く言わなかった。
彼の語り口調はどこか滑稽で、物悲しいものがあった。
※ ※ ※
「今のは……私が聞いて良かった話なんですか」
かなりプライベートな事情まで出てきてしまったように思う。
「えっ、僕は自分の昔の話をしただけだよ? その中に斉冶や明香里ちゃんの名前が出てきたっただけでしょ。斉冶の癇癪にどれだけ僕が苦労してきたかって話だよ」
そらとぼけて幸久が「ほら、こんなふうに」と頬の真っ白な湿布を指す。
「どう言ったらいいのかな……。斉冶はね、たぶん綾音さんを見て安心しているんだと思うよ」
「安心……?」
「どんなに心を揺すろうとしても、綾音さんはどこまでもつがいに一途にあろうとするでしょ。それを見ていると安心するんだよ。かつて自分が得ようとしていたものはこれだったって」
何と返すべきだろうか。
斉冶の幼馴染だけあって、幸久も相当に腹の内が読めない男だ。
弁の立つ幸久の前ではどんな言葉も強がりにしか映らないのではないか。言葉を出す前から綾音は負けたような気持ちになった。
「まあ、最近はそれもちょっと変わってきたと思うけどね」
言いよどむ綾音の前に立ち、幸久が頬に指を滑らせる。
まるで恋人にするような仕草に戸惑う。だって幸久の目はちっともそんな色をしておらず、面白そうに笑んでいたからだ。
近距離に幸久の胸が迫る。
おそらく周囲から見れば軽く抱き込んでいるようにすら見えただろう。
「幸久さん?」
「しっ。あとちょっとだけ」
幸久の指示が飛ぶ。
優しげだが相手にしっかりと言葉を聞き届けさせる力は、やはりつがいを持つ者特有のものがあった。
次いで感じた視線に、綾音はびくりと身体を緊張させた。
覚えのある視線。でもいつもよりずっと強い視線を感じた。
前を塞ぐ幸久の体から顔を出して会場を見回す。
綾音がいるちょうど反対側の壁際、そこに寄りかかって斉冶がきつい視線を二人に注いでいた。
絡んだ視線に綾音は顔を逸らすことができないでいた。
かつてつがいに去られた男。暴れたくなる気持ちはわかる。綾音だって自分が男だったら、振り向いてくれない相手にどうしようもない感情をもてあまして暴れただろうから。
斉冶がわずかに視線をずらして幸久を見る。
顎を動かして「離れろ」と言っているのがわかった。
――まただ……。
今日の綾音はおかしい。頬が熱くなるのを感じて、綾音は斉冶の視線がずれたことをいいことに顔を下に向けた。
「はいはい、離れますってば。もう、あんな恐い顔しなくてもいいのにね」
幸久が両手をあげて降参のポーズを取る。
これ以上からかわれては困ると、綾音は後ろに下がっていた奏の傍に寄った。
「あまり遊ばれては困ります」
奏が寄ってきた綾音をかばうように前に立つ。
見えなくなった幸久の姿と斉冶の視線に、綾音はほっと息を吐いた。
「はいはい。どこもかしこも僕には冷たい人間ばかりなんだから」
たいして気にも留めていないだろうに幸久が困り声でそう呟く。その中に笑みが混じっていることを綾音の耳は聞き逃さなかった。
どこが歴代の中でも公平で優しい生徒会長様だ。
学内で囁かれている幸久の評価に口を挟みたい気分だ。
この生徒会長様は人をからかって試すようなことばかりするような人間なのだと、この場にいない生徒たちに教えてあげたいと思った。
「さあ、綾音さん。そろそろ今日一番の余興が始まるよ」
幸久がそう言った途端、会場の照明が落とされ、周囲より一段高いステージ上にスポットライトが当てられた。