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「顔色が悪いな。お前ちゃんと寝てるのか」
今日も今日とて綾音の手にくちづけていた斉冶は、唇を離した途端そう言葉にしてきた。
人の体調を気にかけるとは。いつも自分のことばかり考えているような男が珍しい。
「睡眠はきちんととっています」
なかなか手を離そうとしない斉冶に綾音はそっけなくそう応えて手を離そうとする。
だが、斉冶は綾音の力などアリの子程度にしか思っていないのか、遠慮なしに再び手に唇を落とした。
「足りないならもっと吸われとけ」
斉冶は勝手気ままな男のくせに、時々過保護な親のように綾音に接してくる。
週明けなどは特にそうだ。いつも以上に頻繁に綾音の元を訪れて手を取りにくる。休日に会っていなかった分を取り戻すかのように。
斉冶は明らかに綾音に対して気を遣っている。
それに気付いてはいても知らぬ顔をしていたのだが、今回はそうはいかないようだった。
「本当に体調が悪いわけじゃ……ただ」
斉冶は押し黙って綾音の言葉を待つ。
本当に稀有なことだが、誰の言葉もろくに聞こうとしないこの男は綾音の言葉だけは常に待ちの体勢を取った。言葉を聞いてもらえなかったのは最初の数回だけだ。
精を勝手に取っていくことへの礼代わりと思っているのだろうか。
斉冶は綾音の言葉を聞いて馬鹿にしてくることはあっても、必ず耳を傾けて思考してくれるようだった。
だが素直に言葉を出すには綾音の性根はやはり頑固で、口は「ただ」と言い掛けて噤んでしまう。
気にかかっていることは鈴代主催の立食会に自分が参加することだ。
孝仁がいなくなってから、長くそのような場には参加していない。
好奇の目に晒されること、何かを言われること、それに耐えることはしよう。だがその後に重い気持ちを抱えることになることは明らかで、綾音はそれが気鬱だったのだ。
「そういやぁ、今度鈴代のジジイが何かの会を開くって招待が来ていたな」
斉冶は人の気持ちは考えてくれないくせに、こういうときばかりは察しが良くて困る。
綾音は曖昧に笑って、握られていた手を下ろした。
「つがいに逃げられたっていうのに、そんな場に出るのは気が引けるってか」
斉冶の言葉には遠慮がない。
ただその遠慮のなさは鈴代の家にはないものだったので、綾音はすんなりと斉冶の言葉に頷くことができた。
「どうせうじうじとつまらねぇことでも考えていたんだろ。ばかばかしい。参加すればいいじゃねぇか」
綾音は顔をあげてまじまじと斉冶の顔を見た。
もしかしたら、「んな面倒くせーの、行かなくてもいいだろ」と言ってほしかったのかもしれない。
素行の悪い斉冶に唆されたのだと自分に言い訳すれば、体調不良を装って会をサボっても罪悪感がわかずに済むと思ったのだ。
卑怯な自分を恥じると共に、綾音は斉冶の言葉を寂しくも感じた。
同類の彼ならばこの気持ちを理解してくれるとでも思ったのか。内心で問いかける自分に黙れと念じた。
「お前が何か悪いことでもしたわけじゃあるまいし、文句を言ってくる奴は拳で黙らせればいいだろ」
似たようなことは先日奏に言われたばかりだ。だがその言葉を言う者が違うだけで、こうも受け取る気持ちが変わるものだろうか。
「拳だなんて、私は斉冶さんじゃないですよ」
この見た目どおり私はか弱いんですよ、と綾音はくすくすと笑い声をあげて斉冶を見た。
一瞬珍しいものを見たような顔になった斉冶はその頭をがしがしとかいてそっぽを向いてしまった。
かいた髪はそのまま無造作に崩れていた。いつもはきつい視線が遠くを見つめている。以外と鼻筋が高く整っているのだな、と綾音は斉冶がこちらを向いていないことをいいことに不躾にその横顔を観察した。
斉冶の乱れた髪をなでつけようと手を伸ばしかけて、綾音ははっとして引いた。――何を考えているんだか。
斉冶は綾音のつがいではない。そして綾音も――。
綾音のつがいは孝仁で、斉冶のつがいは孝仁が連れて行った彼女なのだ。少しだけ和やかになったと思われた空気はただの気の迷いだ。
綾音は先ほどまで斉冶がくちづけていたほうの手を無意識に握りこんでいた。
※ ※ ※
風ヶ丘の図書館の閲覧室には光がふんだんに取り入れられるように大きな窓がしつらえてある。
降り注ぐ光は柔らかく、照明なしでも本を読むことができる。
本を好む綾音はしばしばここを訪れて一人の時間を楽しんだ。
数冊の本を積み上げて視線を落とす綾音の耳に、窓の外から誰かがコンコンと人を呼ぶ音が鳴った。
なかなか立ちあがる気配のない他の生徒に、綾音は顔をあげて窓のほうを見た。
「幸久さん」
窓の外の見知った顔に、綾音は本を残して外に出た。
「やっ、綾音さん」
一学年上の高下幸久はこの学校の生徒会長を勤める男だ。
彼もまたつがいを得る能力のある家柄の者で、つがいの彼女も同じ学年の生徒としてこの風ヶ丘に通っていた。
薄い茶色の髪が柔らかそうに風に揺れる。色素が薄いのは家系らしく、彼の父親も同じような色をしているのを綾音は知っていた。
高下は代々大病院の医長を務めている家系で、幸久も同様の道を進むと聞いている。
幸久とは小さい頃から見知った仲だ。
幼馴染までとはいかないが、色々な会で出くわすので会えば話をするという間柄であった。
「今度の鈴代の立食界はけっこう大規模にするみたいだね。どんな人が来るのか楽しみだな」
幸久は誰に対しても明るく接する人だ。人が多い場も萎縮することなく、華のひとつになれるのは一種の特技と言えよう。
そうだ。その数の多さも綾音が会への出席を気兼ねするひとつの要素だった。近くある立食会のことを思い出して綾音はうんざりとした。
大勢が集まるほど、綾音の実情を知る者も多く集まる。その分、綾音に向けられる視線の数は増えるのだ。
綾音は自分が目立つタイプだとは思っていないが、けれど最新の醜聞の種になっていることは自覚しているのでできれば表に出ることは控えたかった。
幸久には「そうですね」と答えつつも、綾音は出てくるため息を抑えることはできなかった。
「ここだけの話だけどさ」
幸久が綾音の耳に手を当てて声を小さくする。
見かけのわりに時々こういった幼い行動を取るところは彼の人懐こさを現している。
綾音は苦笑して幸久の言葉に耳を傾けた。
「めったに来ないような人がこの会に来るんだってさ。あ、誰かは秘密ね。聞いたら面白くないでしょ」
そんなことを言われたら気になってしかたなくなるではないか。
恨めしそうな顔をする綾音に幸久は笑って顔を離した。
「綾音さん、斉冶は面白い男でしょ」
えっ、と固まる綾音に幸久は続ける。
「あいつとは幼馴染なんだ。うちは菅原の専属医でもあるんでね。あいつは小さい頃からやんちゃでさ、手がかかるってみんな困ってたんだよね」
あれをやんちゃと評することができる幸久は案外大物なのかもしれない。あの大型の獣にそんな可愛らしい表現は似つかわしくないだろう。
「最近はあんまり暴れることもなくなってるみたいで助かってる。ありがとね」
まるで斉冶を大人しくさせたのは自分だと言われているようで、綾音は困惑した。
斉冶は綾音を翻弄して遊んでいるだけだ。
あの男が大人しくしているというのなら、いつ綾音が白旗を振るのかを楽しみに待っているからだと綾音は答えるだろう。
「綾音さん、つがいは一人きりじゃないんだよ」
まるで世間話でもするように、幸久は空を見上げてまぶしそうに手で顔に影を作る。
「僕たちは決まった相手を与えられるけど、それは絶対じゃないんだ。選ばれたつがいが運命じゃなかったなんてことは、珍しいことだけどありえないわけじゃない」
自分のつがいを思いやらなければならないという因習に絡めた約束事は、必要だから生まれた解決策。
操りきれない感情だってありうるのだと幸久は語る。
それはつがいに去られた自分への当て付けかと、以前の綾音だったら思っただろう。
だが今はそう思えない自分がいて、綾音は理解しづらい感情に胸を抑えた。
「精を取り出すのは何も決まった相手でなければいけないわけじゃない。僕だってこうすれば吸えるんだよ」
気付けば幸久の顔が間近にあって、綾音は驚きで身を固めた。
近づいてくる唇から生暖かい風が流れてくる。
それは以前にも感じたもので、あの暴力的なまでの干渉に綾音は違うと内心で叫んだことを思い出した。
――違う。この人はあの人じゃない。あの人じゃ……。
思い浮かんだ顔に、今度こそ綾音は泣きそうになった。
「何ふざけてんだ、馬鹿が」
低い声が降ってくる。
思うと肩を引かれて体が後ろに下がった。当たる体に振り向かなくても誰かがわかる。
「お前じゃなかったらここで張り倒してるぞ」
その声は怒気を含んでいた。
斉冶はときにこうして綾音を自分のもののように扱う。気に入りの玩具を他の者に分け与えるつもりはないのだ。
綾音がこうして他の人間と話をしている場を見かけて、その場の空気など関係なく乱入してくることはよくあることだった。
いつもは呆れてしまう行動だが、今はほっとしてしまう自分がいた。
無理やり振り向かされて、初めて出会ったときのように袖で目元を乱暴に拭かれる。綾音はその乱暴さを痛いと思いつつも嫌だとは感じなかった。
同時に「ちっ」と鳴る舌打ちも今の綾音には苦ではなかった。
斉冶が綾音の手を取りくちづけてくる。
「足りなきゃ吸うって言っただろ」
吸い取られていく気配に、綾音は斉冶の胸に額を付けた。――これは溜まった精を取ってもらえて安心したから、だから体から力が抜けたのよ。
これは言い訳じゃないと自分に言い聞かせつつ、綾音は付ける額をぐっと押し込んだ。押し付けた額から斉冶の体温が伝わってくる。――熱い。吸い込んだ空気に斉冶の香りがした。
「遅いよ斉冶。もう少しでやっちゃうところだったじゃん」
後ろで幸久が文句をつける。
本気ではなかったらしいが、肝が冷えたのは事実だ。こんなおふざけは二度とごめんだとばかりに振り向こうとすると、軽く何かが爆ぜるような音がして、幸久が「いったぁ」と叫び声をあげた。
「何が遅いよ、よ。この私がいるってのに他の女に手を出そうとしてんじゃないわよ」
幸久の頬が赤く腫れている。
腰に手を当てて仁王立ちしているのは、幸久のつがいの桐子だった。
綾音も彼女とは何度か話をしたことがある。
高校三年生とは思えないほど大人びた迫力美人が怒りを露わにする姿はとても恐ろしいものがあった。 怒気で彼女を包む空気が歪んで見えたくらいだ。
「桐子ちゃんってばちょっとしたイタズラじゃん。お茶目じゃん。桐子ちゃん一筋の僕が本気でするわけないじゃん」
言いつつも恐れをなした幸久が逃亡をはかる。
「ごめんね、綾音ちゃん。うちの馬鹿が」
短い謝罪を入れて桐子が幸久を追いかけて走っていく。
台風のような彼らを見送って、綾音はようやく息をついた。
「まったくあいつは」
斉冶がため息混じりに呟く。
「お前も遊ばれてんじゃねぇよ」
額を小突く手に、「一番遊んでいるのは貴方じゃない」と綾音が声にならないような音で漏らす。
「そうかもな」
行儀悪くズボンのポケットに入れられる斉冶の手に、綾音は安堵を感じていた。
その手は狂気だ。いつも綾音の心をさざめかせる。
でも……。
斉冶が綾音を悪いと言わないのであれば、誰に文句を付けられても平気なような気がする。
来たる立食会に向けて少しだけ前向きになった気持ちを悟られないように、綾音は髪を整えるふりをして顔を覆い隠した。
※ ※ ※
やって来た立食会の当日、綾音はやや緊張した面持ちで鈴代邸の玄関前に立った。
綾音の緊張を嗅ぎ取った奏が手を取り、その緊張を解くようにくちづけてくる。
「大丈夫ですよ。何も緊張することなく、普段どおりにしていなさい」
吸い取られていく気配に緊張も少しだが解けていく。
銀フレームの奥の瞳が綾音を守るように見下ろしていた。
「万一体調が悪くなれば私が貴女を抱えて会場から連れ出しますから」
奏の冗談はしばしば冗談と捉えづらい。彼なら涼しい顔をして綾音を抱きかかえて会場を闊歩しそうだ。
小さな子供でもあるまいし、人前でそのようなことは勘弁願いたいと綾音は肩をすくめて、大丈夫という意味を込めて笑みを浮かべた。
緊張はしている。
だが、斉冶が「お前は悪いことをしていない」と言ったのだ。あの他人の感情などおかまいなしとばかりに自由に動く悪い男が。
斉冶は人の気持ちを考えた発言はしないが、出す言葉に嘘はない。
きっと会場では大勢の好奇の目を向けられることだろう。それでも自分は平気な顔を崩すことはないだろうと綾音は思った。
いつの間にか斉冶のことを信用しきっている自分がいることに、綾音はこれっぽっちも気付いてはいなかった。
立食会の会場は、鈴代と懇意にしている会社系列の高層ホテルだった。
綾音はホテルのクロークにコートを預けにいく奏を待って、人の邪魔にならないように会場入り口の脇に立った。
開かれた扉の奥では楽団の生演奏による軽快な音楽が流れていて、豪勢なシャンデリアが着飾った人々に金色の光を振りまいていた。
会場はすでに賑わっていて、中では主催者である社長と会長夫妻が続々と現れる出席者たちと挨拶を交わしていた。
綾音はそれに参加はしない。
鈴代の名は付いていても、正確には綾音は会長や社長と同じ籍には入っていないためだ。
綾音が入っている籍は、鈴代と名がついてはいても会長の甥にあたる分岐した鈴代の家だった。
籍だけを別に置いて家は共にしている。
綾音の立場はとても複雑で足元の危ういものだ。鈴代当主の温情で置いてもらっていると裏で噂が立っていることも、否定はできないことだった。
以前であれば孝仁と共に彼らの後ろで並んで微笑んでいた。いずれ鈴代の本家に籍を入れることは決定事項だったから。
今は綾音の立場を明確に表していた孝仁もいない。
孝仁の兄、孝尚も海外留学のために今はそこにはいなかった。
以前の立場が惜しいわけではない。ただそこに足りないパズルのピースの欠片が残念に感じられた。
社長たちのそばには第二、第三秘書の面々が並んでいる。
社長秘書の奏が付いていないのは、綾音の護衛兼世話係を仰せつかっているからだ。奏は少々口うるさいが、不慣れな者を付けられるより余程いい。
何より奏がそばにいて目を光らせていれば、口うるさい者たちも怯えて寄ってこない。
時折見知った顔が綾音に近づいてきて挨拶をしていく。
その中には単に招待の礼を言っていく者もあれば、遠慮なく綾音の一人でいることを指摘してくる者もあった。
指摘してくる者は大抵がつがいと同伴で、視線は同情という皮を被った優越感が明らかで、躊躇なく綾音の肌を突き刺した。
――奏さんが早く戻ってきてくれればいいのに。
会が始まったばかりということもあり、クロークには人がたかっていた。
見える奏の後ろ姿に綾音はふうとため息を漏らした。
「やあ、綾音さん」
肩に乗せられた手に綾音はぶるっと身を震わせた。
「元村さん……こんばんは」
「こんばんは」
男のねちっこい目つきが綾音の頭から足の先までを通っていく。
まるで視線で綾音のドレスの下までを覗き見ようとしているようで、綾音は再び悪寒に身を震わせた。
「今日は会えてよかったよ。というかきみが出席することを聞いていたからね。僕が出ないわけにはいかないだろう?」
その言葉に同意しろとでも言いたいのだろうか。
元村公彦、県議の一人息子。
たしか年齢は孝仁よりひとつ上だったと思う。大学へはストレート合格ではなく一年浪人して入ったため、今は三回生となっているはずだ。留年していなければ、の話だが。
大した実力もないくせに自信家で、父親の権力を笠に着て我がままを通す馬鹿息子と影ではみなそう口にしている。
以前から綾音にちょっかいをかけてきては、嫌な印象ばかりを植え付けてきた男だ。
孝仁がいなくなる前から、綾音が鈴代の息子の婚約者という立場にあることを知りながら横槍を入れてきていたので、奏から何度も厳重注意を受けていたはずだ。
奏の姿がないからと、ここぞとばかりに綾音に声をかけてきたらしい。しかも親しげに肩まで掴んできて。
伝わってくる手のべとついた感触に綾音は今にも叫び出したい気持ちになった。
肩に乗ったまま動かない手に身を引く。だが男の手は離れることなく綾音を追ってきた。
「あのきみを囲っていた男がいなくなったことに、僕がどれだけ嬉しく思ったかわかる? これで堂々ときみに近づける」
顔を近づけてきた元村が綾音の匂いを嗅ぐようにすんと鼻を鳴らした。
「今日のきみは一段と綺麗だ。可愛らしいドレスだね。とても似合っている」
「っ、いや。離してください」
綾音は嫌悪感に生理的な涙を浮かべた。
もうこれ以上は我慢ならない。衆目を集めたとしても後悔はしないだろう。この男に触れられるよりは肌を刺す視線に耐えたほうがましだ。
「小さなガキじゃあるまいし、よくそんなピンクのフリルを着られるな。しかも後ろに大きなリボン付き」
ピンと腰の辺りを引く感触がしたかと思えば、長い腕が巻きついてきた。
雑な物言いは奏のものではない。もちろん元村のものでも。
後ろに大きく引かれてバランスを崩しそうになり、綾音は巻きついた腕に手を置いた。
重なる手が熱い。浮かびそうになる涙に、綾音は唇をぐっと噛んだ。