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過去の男と今の男。
孝仁がいなくなる前の半年くらいの間、その間が一番苦しい時期だった。
つがいの女が健常に生活するためには、最低でも日に一度は相手からのくちづけを必要とする。
以前は毎日のように落とされていたくちづけが、日を開けるようになっていったあの半年間、それは綾音の精神を徐々に削り取っていく日々の連なりだった――。
『――さん。孝仁さん』
ぼんやりとここではないどこかを見つめる孝仁に、綾音は何度も名を呼んでこちらを振り返らせた。そうでないと孝仁はこちらを向いてくれなかった。
『……孝仁さん』
自分以外の誰かに恋をしているのだと知ったのは、ほぼ直感のようなものだった。
綾音は孝仁の中で忘れられていく自分に焦りつつも、何もできないまま名前を呼び続けた。
くちづけの感覚が開いていくほどに綾音の体調は悪くなっていった。だが綾音はそのことに対する恨み言を口にすることはなかった。
綾音はただ孝仁にこちらを向いて名を呼び返してもらいたかった。それだけを待って、いつ孝仁が振り返ってもいいように笑みを絶やさないように努めていた。
綾音にくちづけるとき、孝仁が何も考えないよう気を張っていたことを綾音は気づいて黙っていた。そうされる自分はまだ孝仁に気遣われていると感じられたからだ。
それでも必要だからと受けるくちづけは、いつしかとても苦い薬のようになっていった。
『……』
呼び声は最後には消え入ってしまって、孝仁の名を呼ぼうとすると空の息ばかりが外に漏れていった。
綾音はいつも泣きたかったが、振り返った孝仁を困らせたくなくて無理やりに笑みを顔に張り付けていた。
綾音は待った。もう一度孝仁がこちらを振り返ってくれることを願って。だが孝仁は再び綾音を振り返ることのないまま、別れを告げて綾音の前からいなくなってしまった――。
※ ※ ※
――まただ。
特別教室のある二階を歩きながら綾音は肌に刺さる視線に外を見た。
向かいの校舎の影で斉冶が友人とおぼしき男子生徒と会話を交わしていた。
徒党は組まないが、斉冶はこの高校に幾人かは親しい友人がいるらしい。
そばにいる友人たちが気付かないようなほんの一瞬、斉冶が視線をあげて綾音の姿を捉える。
にいと上がる口角にどのような顔で返せばいいのかわからず、綾音はふいと視線を逸らせた。
動揺しつつも足は先へと進める。
斉冶の姿が見えなくなるであろう場所で、再び綾音はその方向を向いた。斉冶はもう綾音のほうは見ておらず、続く会話を楽しんでいるようだった。
ふとした瞬間に斉冶の視線を感じるようになったのはいつからのことだろう。
そう。視線を感じるようになったのは高校二年になった頃。きっかけは短い春休みが終わり、新しい教室に入って最初の日のことだ。
春休み最終の二日間、奏は社長に付いて出張に出ていたため、いつも以上に精が澱みとなって溜まっていた。
出張前に何度も奏が吸い出してくれていたが、それでも溜まっていくものは止められない。
それは奏も理解しているようで、仕事の合間を見つければ綾音の状態を確認するために電話を寄越してきた。
奏は綾音の不調は自分に責任があると思っている。会話の終わりには必ず「気をつけてくださいね」と加えてくるほどだ。
神経質な奏らしい言葉に苦笑する。電話先の声はいつもより優しげに聞こえた。
「大丈夫です。明日は行って帰ってくるだけですから」
新学期初日など講堂で椅子に座って校長の長い訓示を聞いて、教室で簡単なオリエンテーションを受けるくらいだ。
それくらいなら特に問題はないだろう。
「それでも気をつけてください。午前中には帰ります。不調を感じたらすぐに電話してください。すぐにかけつけますから」
目の前にあればきつい視線のない声だけの今は素直にありがたいと思うことが出来た。
「本当に大丈夫ですから」
笑う綾音に、返す奏も笑っているように感じた。
ただ学校に行って帰ってくるということが、澱みを溜め込んだ綾音にとってはきつい苦行であったことは、登校してようやく実感することとなった。
「こうして新しい学年が始まったわけですが――」
やたらと長い校長の前置きに、早々にあくびをかみ殺す生徒たち。周囲ではひそひそと女子たちが放課後にどこかに行こうかと相談を始めていた。
綾音の耳はそれらのすべてを騒音と捉えていた。椅子のきしむ小さな音すら頭の奥をガンガンと揺すってくる。
「ちょっと鈴代さん、大丈夫?」
綾音の青白い顔に気付いたクラスメイトが声をかけてくる。
その声が言い終わるのを耳に入れる前に、綾音の体は傾いでいた。
意識が途切れる間際、声をかけてくれた彼女の悲鳴の合間に「綾音っ」と誰かが自分を呼ぶ声を聞いた気がした。
――揺れている。……誰? 奏さん? ……それとも、孝仁さん?
自分を包み込む体温にひどく安心する。まぶたを押し上げてその顔を確認したかったが、優しい揺れにそれができないでいた。
こんなに誰かに大切に扱われたことがあっただろうか。
奏が綾音にこれだけ近しい態度を取ったことはない。孝仁でさえ、こうして綾音を抱き上げたことはなかった。
優しく手を引かれたことは何度もあった。頭を撫でられたことも。
でも抱きしめてくれたことは一度もなかったように思う。
綾音が孝仁に出会ったのは六歳のとき。そのとき孝仁は十歳。年頃の少年だ。親のように抱きしめるという発想もなかっただろう。
一度でいい。孝仁にこうして抱きしめてほしかったと、綾音はぼんやりと夢の向こう側で思った。
額に感じる柔らかな感触に、ふうっと体が楽になるのを感じた。
目が覚めると保健室で横になっていた。
手は布団の上にあった。目覚める瞬間まで誰かがそばにいて手を握っていたように思ったが、気のせいだったのだろうか。
後に綾音は、倒れた自分を保健室まで運んだのは斉冶だったということをクラスメイトから聞かされる。
運んでくれた礼を言いたかったが、斉冶のほうが何事もなかったかのような顔をするので、言えずじまいで事実はうやむやになっていった。
その日から斉冶は気まぐれな猫どころか忠実な犬のように綾音の前に姿を現すようになった。
そして感じる視線もその日から始まった。
噂話に興じる女子のものを除けば、綾音を刺す視線はいつも斉冶のものだった。
斉冶の考えていることがわからない。
綾音が倒れたあの日から、斉冶の中で何かが変化したとしか思えなかった。
だがその変化を察するには綾音は斉冶のことを何も知らなかった。知ろうともせず日々を過ごしている。
――たぶん、私はそれを知るのが恐い。
いつかそれを知ることになったとき、綾音の中にある絶対的な価値観さえ崩されてしまうのではないか。そんな予感がしてならなかった。
その日、綾音は翌週の鈴代主催の立食会に参加すべしという会長の伝言を奏から聞かされることとなる。
少しずつ変化していく感情。