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 翌日、校門までまで行くと、なにやら生徒たちがざわついているのが見えた。

 いつもは何事もなく通り過ぎていく正門をみんな一度足を止めて通り過ぎている。何かあったのだろうか。

 ざわめきの中心を見て、綾音は遠回りをして裏門から入ろうと進む足の方向を変えた。


「待てよ」


 私は何も聞いていない。こちらに向かってくる足の音も、凶悪な声も。

「おい、鈴代」

 無視して裏門へと歩みを進める綾音に生徒たちの視線が動く。おそらく二人共に注目を集めているのだろう。

 朝一で学校に来ることのない問題児と虚弱ではあるが成績優秀な模範的な女子生徒。この組み合わせの悪さが関心を呼んでしまうのだ。


「おい、綾音!」


「その呼び方はやめてっ」


 ばっと振り向いて斉冶を睨みつける。

 そんなことをしてただではすまいだろうとばかりに周囲の生徒たちの息を呑む音が聞こえた。

 知ったことか。その呼び方をしていいのはわずかな人数だ。年若い男になどなおさら呼んでほしくない。たとえ殴られたとしても許せる行為ではないと、綾音はきつく斉冶を見つめた。

 斉冶が手を伸ばしてくる。

 どんな暴力をこの身に受けてしまうのだろう。思ったが、昨日のように身がすくむことはなかった。

 そのただならぬ気配が抑えられていたためかもしれない。それともあのときのような人を射殺す視線が緩められていたからだろうか。

 だが先も読めず大人しくしているうちに、斉冶は綾音の手を取ってその甲にくちづけてきた。

 わざとらしい恭しさに腹が立つ。

 背の高いのは斉冶のほうなのに、上目加減にこちらを見てくるのに目を細める。

 斉冶の唇が静かに甲を這い、手首にまで到達して離れていく。

 綾音は斉冶の手が離れるのを待つ間に、さっと自分の手を引いた。


「何の気まぐれですか」


 甲をさすりながら斉冶を見やる。

 同学年であるにも関わらず丁寧な言葉づかいに変えたのは、斉冶の背後にあるものの大きさに配慮してのことではなく、元来綾音が人に対して丁寧な言葉づかいをすることを心掛けているからだ。

 さきほどは動揺して思わず素が出てしまった。動揺は相手に隙を与えることになる。この男を相手に気安さなど、腹を空かせた獣の前で無防備な首筋をさらすことと同義だ。


 斉冶は面白そうに笑みを浮かべて「べつに」と答えた。

 よく知りはしないが、この男のことだから、つがいを失くした綾音に同情したわけではないのだろう。

 ただ何かしらの興味は抱かれているらしい。

「いわゆるドーピング、ってやつ?」

 準備運動のように肩をまわして斉冶がついでのように言う。


「ただお前の精が思った以上に体に馴染むんで、しばらくは世話になろうかと思って。アレが居なくなってから、どうも体が重い。昨日のは助かった。いつもの調子でやっていたら動きが悪いんで飛ばされたんだ」


 その分、思い切りやり返せたからよかったと斉冶は人の悪い笑みを浮かべた。

 正門のほうから生活指導の教師がやってくるのが見える。斉冶の背後にあるものを知っていてもなお斉冶の行動を注意できる貴重な存在だ。

 誰かが綾音を心配して報告しに行ったらしい。薄い頭の生え際まで怒りで赤く染まっている。

「唇にするのは嫌なんだろ」

 言って走り出す斉冶の背が遠ざかっていく。その姿は速く、あっという間に角に消えて見えなくなってしまった。かなり遅れて教師が綾音の横を過ぎていく。

 昨日は無理やり唇を奪ってきたというのに、妙な気遣いをすることだ。

 あのときの感触を思い出して、綾音は乱暴に唇を擦った。




 その後も宣言どおり斉冶はちょくちょく綾音の前に姿を現した。

 斉冶は気まぐれな猫のようだった。

 現れる時間帯は様々で、朝一番のときもあれば昼食時のときもあり、ときには放課後の帰り際のときもあった。また、三日ほど顔を合わせなかったなと思えば、一日の間に二度、三度と訪れることもあった。


 心配した担任教師には「家の都合です」とだけ告げた。家に報告でもされればすぐに鈴代と菅原の家が乗り出してくるだろう。家が揺れることを綾音は望まない。

 勝手に勘違いした教師は二人のことを「鈴代綾音は家の取り決めで菅原斉冶と付き合うことになったようだ」と他の教師にもここだけの話として流布させていった。

 醜聞を語るつもりではなく、背後の家が怖いから容易に干渉するなという意味合いが込められていたのだろう。

 だが人の口に戸は立てられぬもので、その不確かな情報はにわかに真実味を帯びて学校中に流れていった。

 初めはその姿に逐一驚きの表情を出していた生徒たちは、日が経つにつれて斉冶と綾音が共にいることを日常のこととして捉えていった。

 

 綾音は斉冶のくだらない戯れに乗ることにしたのだ。

 どうせ死んだような生活だ。わずかに揺れた心を暇つぶしに当てても構いはしないだろうとこの頃の綾音は思ったのだった。

 わずかに揺れたのは好奇心。

 同じくつがいに去られた男が何を考えているのか、綾音はそれに興味を引かれたのだ。

 それに奏に加えて斉冶に精を取ってもらえると身体が軽い。

 斉冶の戯れに乗ってやるのだ。利を受けるくらいでないと、遊ばれるだけで面白みがない。


 すぐに飽きると思われた斉冶との交流は、高校二年になったこの春まで続いている。


 毎度同じように斉冶は綾音の隙を観察するように伺い、綾音はそれに内心で冷や汗をかきつつも無表情に対応した。

 斉冶は恐い男だが大切なものを失った綾音にとって、唯一心を震わせるただ一人となっている。

 それが良いことなのか悪いことなのか綾音には判別できなかった。




 鈴代の家は古い木造建築で、中の構造もほとんどの部屋が畳敷き、家具も重厚な和のもので統一されている。

 綾音の部屋とて例外ではなく、畳敷きの床に座卓、濃い茶色の本棚と色合いは普通の高校生の女子とは思えないような造りをしていた。

 一度会長が気をきかせて部屋を作り変えようかと提案してきたが、慣れた部屋なのでこのままがよいのだと綾音のほうから断りを入れたのだ。

 脱いだ服を洗い物と分けていく。

 制服のスカートから取り出したハンカチに綾音は手を止める。今日斉冶にくちづけられた手の甲を拭き取ったハンカチだった。


「綾音お嬢様?」


 ノックの音と共に部屋に入ってきた使用人の女が、部屋の奥で立ち尽くす綾音に困惑げに首を傾げる。

「ハンカチがどうかされましたか」

 開けられた戸に通りがかった奏までが声をかけてくる。

「いいえ、なんでも。このハンカチ――捨てて……いえ、よく洗っておいてください」

 承りましたと洗濯物を手に使用人が出ていく。

 未だ部屋に残っていた奏が綾音の手を取り甲に唇を落とす。

 すっと抜けていく気配。やはり斉冶とは違うなと、肌を伝う唇の感触を感じながら綾音は目を閉じた。


「最近は本当に体調がよろしいようでなによりです」


 人を見透かす瞳が綾音に注がれる。綾音はどこまでも奥を見通すような瞳に、握られた指先を震わせてしまった。――この人は全部知っているのかもしれない。斉冶のことも。綾音には計り知れない自分自身の心の行く末までも。


 最近は、奏に加えて斉冶が精を取ってくれるので平日はとても体調が良い。むしろ精を取るのが奏だけになる休日のほうが具合が悪いくらいだ。

 それを知りつつ奏は決定的なことには何も触れず、こうして回りくどく綾音の心を刺してくる。

「綾音様、今夜は会長夫妻との食事会です。お早めに仕度を」

「奏さん、私いつまで……」

 いつまでこの家の世話になっていればいいのか。

 孝仁を引き留められなかった綾音はこの家にとってはもう用済みではないのか。

 出しかける声を留めさせたのは奏の指先だった。綾音の唇に触れるか触れないかの位置で留められた指先が黙るようにと告げる。


「たとえ孝仁様がいなくなられても、綾音様は鈴代の大切な家族です。それに変わりはありませんよ」


 こういうときばかりは奏も笑顔らしい笑顔を見せる。

 だが綾音にはその優しさが心苦しかった。


「つがいは愛されるべきものです。それを成しえなかった孝仁様のほうにこそ罪はある。みな貴女が得られなかったものを貴女に与えたいのですよ。だから素直に甘えてください。そのことはけして罪ではない」


 もういらないと放り出された綾音を鈴代の家はあたたかく迎え入れてくれている。

 気遣われていることはわかる。大切に扱われていることもわかる。帰る家があって、温められた食事があって、それがどれだけ得がたいものか綾音にはわかる。

 けれど孝仁という絶対的な存在を失った綾音にとっては、それらはただ自分を刺す棘でしかなかった。いっそ厄介者扱いされたほうが心が楽だった。


――優しさが痛いだなんて、なんて贅沢なこと……。


 綾音はかつての孝仁の言葉を思い出していた。

『綾音は僕が幸せにするよ』

 幾度も言われた言葉だ。綾音の境遇を知って、孝仁はこれまで以上の幸せを綾音に与えると言ってくれたのだ。

 人の優しさを怖がる綾音を大丈夫だと何度も、何度もそう言って諭してくれた。


――嘘ばっかり。


 孝仁は残してくれた。綾音のことを気遣ってくれる人を。優しい家を。

 だが本当に欲しかったものはそれではないのだ。綾音が欲しかったものはただひとつだけだったのに……。


 ふと、ここのところ毎日のように見ている獣の目が頭に浮かんだ。

 あの目に剥かれそうになる感情を何度押さえ込もうとしたことだろう。

 浮かんでくるのはいつも恨みや憎しみ、失望といった負の感情。そしてわずかに紛れ込む、いなくなってしまった人への寂寥感。

 それを放出してしまった日には、きっとあの獣は綾音を喰らい尽くしたと満足して去っていってしまうだろう。

 同情や哀れみからくる優しさは綾音を困惑させるだけ。この戦い続ける心こそ、今の綾音を立たせ続けるために必要なものだった。


『――ごめんね、綾音。本当に……ごめん』


 孝仁でさえ綾音の本当を見ていなかった。彼が消えてしまうあの日、言いたかった言葉は届かず霧散した。

 斉冶だけが綾音を見続ける。醜い感情も未だ癒えきらない傷跡も、全部あの男は綾音の細部までを透かして見ているようだった。

 それでも綾音はその虚勢を崩すことはできない。それが崩れるときは、鈴代綾音という人間のすべてが粉々になってしまうときなのだ――。


 内心で葛藤を続ける綾音を、奏は静かに見下ろしていた。


 ※ ※ ※


 会長との食事会は、胃の弱い会長夫人の椿に合わせて日本料亭の個室で行われた。

 顔を合わせたのは会長夫妻と綾音だけ。

 奏は社長の仕事に付いてこの場には顔を出してはいなかった。色々と綾音の面倒を見てくれる奏だが、本職はあくまで社長付きの秘書なので、そういったことは珍しいことではなかった。


 ごくごく個人的な集まりとして催された食事会ではあったが、綾音は緊張に箸を進めるのが遅くなってしまった。

 社長職を降りたとはいえ、会長はまだまだ現役でも通るくらいに若々しい威厳を残している。その目はいつも綾音を厳しく見下ろしてくる。だから毎度、元々小さな綾音の意は更に小さくなってしまうのだ。

 会長は夫婦で並んで綾音の前に坐っていた。

 部屋は女給の配膳の音以外は静かなもので、対面する綾音は否応なく会長の視線を受けることへのプレッシャーを感じていた。


「綾音」

 深く身に染み入るような声に「はい」と応える。

「最近の調子はどうだ。倒れることが減っていると聞いているが」

 会長の目は奏とはまた違った厳しさがある。幼い頃は地獄の閻魔のように感じていて、嘘を付いたら舌を抜きにかかってくるのではないだろうかと、綾音は本気で怖がっていたものだ。

「はい。奏さんにはよくしてもらっています」

 今はもうそんな幼稚なことは考えていないが、嘘はつけないとは思っている。

 だから斉冶の名前を出さないのは黙っているだけで嘘ではない、と自分に言い聞かせながら綾音はそう口に出した。

「そうか。学校はどうだ。楽しくやっているか」

 綾音の緊張には触れず、会長が質問を続ける。

 繰り出される質問は学校のことや勉強のことなど他愛のないものだったが、抑揚のない低い声はまるで綾音を詰問しているようだった。


「あなた、それくらいにしないと。綾音さんの息が詰まってしまいますよ」


 息苦しさを開放したのは、それまで黙って二人の会話を聞いていた夫人の椿だった。

 白髪を丁寧に結わえ、若芽色の着物に季節の花をあしらった繊細な模様が色を差しているのが美しい。

 極寒の北の大地を思わせる会長に反し、その妻の椿は名前の通り朗らかな春のような人だった。


「綾音さんはちゃんと元気にやってます。そんなに心配しなくても大丈夫なのよ。ねえ、綾音さん」


 椿の微笑みに綾音も緊張を解いて笑みを浮かべる。

 この二人はいつもこの調子だ。

 威厳に溢れ誰の反論も受け付けないような会長を、宥めるようにたしなめるのが夫人のやり方だった。

 言うことを聞いてしまうのは、会長がこの春のような人のことをとても大切にしているからだ。厳つい目も彼女が微笑めば和らぐことを、長年の経験から綾音は知っていた。


 綾音は二人を尊敬し、続く孝仁との未来がこのように仲睦まじい夫婦のようであればと願って生きてきた。――結局は続くも何もあったものではなかったのだが。


 空に浮いた状態の綾音を一番気にかけてくれるのが二人だった。

 鈴代の家に置き続けてくれるだけでなく、こうして気晴らしとして食事に連れ出してまでくれる。

 彼らには感謝してもしきれない。

 二人を前にすると、綾音はいつも申し訳なさでいっぱいになる。

 下げる頭がないのは、最初の一回で会長に怒られたからだ。でなければ何度でも、顔を合わせる度に頭を下げたことだろう。


「綾音、つがいの幸せは相手あってのこと。いつまでも消えた男の影ばかり追っていては身のためにならんぞ」


 こちらを射すくめるような声に綾音は箸を置いてうつむく。

 向かいで椿が「まあ、またあなたったらそんなことを」と会長をたしなめていた。

 その声を聞きながら、綾音は行き場のない感情に手を握りこんだ。ぎゅっと握った手の甲は、部屋が乾燥しているためか、ひどく乾いていた。





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