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出会い。

 私立風ヶ丘高等学校には有名な一組の男女がいる。

 一人は人の目を惹きつける美しい令嬢然とした少女。もう一人は見る者を震え上がらせるほどの威圧感を持った獣のような男。


 視線で人を圧し恐怖を与える男はいつも他の生徒たちから畏怖の対象として倦厭されていた。

 授業は真面目に出席しない、来たと思えば同じ穴のむじなの生徒を相手にウサ晴らし、教師の注意もろくに聞かず同じことを繰り返す。

 その品行は地に落ちきっているとまで言われている男。菅原斉冶(さいじ)

 しかし、そんな彼も、唯一その牙をおさめることがあった。

 彼が牙をおさめるのはただ一人、鈴代(すずしろ)綾音、彼女の前だけ。

 到底獣を押さえ込めるような風体にはない物静かな少女。普段人を見下ろす彼が上目使いに見上げるのはその彼女に対してだけだった。

 元は丹精な顔が狂気を潜めて騎士然として振る舞う瞬間、そのときだけは見る人に感嘆の息を吐かせた。


「見て。またやってる」

「菅原斉冶もいつもああして大人しくしていればいいのにね」


 今日もまた、人目をはばからず恭しく少女の手を取りその甲にくちづける彼を見て女子生徒たちが囁き合う。

 彼女らの視線の先では、一人の男子生徒が小柄な少女の手を取り唇を寄せていた。

 本来なら首にきちんと絞められているべき指定ネクタイはだらしなく揺れ、シャツのボタンが外されて中の黒いインナーが見えている。

 風紀の厳しい風ヶ丘においてその姿は異端そのものである。教師陣が彼に恐れをなして注意できないことをいいことにやりたい放題をしている、というのは当たり前すぎる噂だった。


 対する少女は彼相手に怯える様子もなく、無表情でくちづけられる手を見つめている。

 背に届くまでの真っ直ぐな黒髪がわずかに風になびく。透き通る肌はその行為に紅潮するでもなく白さを保っていた。


「鈴代さんもよくあんなのと付き合ってるわね。恐くないのかな」

「あたしはゴメンだわ。いくら顔と家柄がよくても、あの問題児とは付き合えない」

「なんか家の取り決めだって聞いたけど。大変だよね、お金持ちってのも」


 それは違う。そう綾音は思った。――こうして私は生かされているのよ。


 自分の中から流れていく空気を感じる。その気配に綾音は目を細めた。

 流れる気配は手を通してくちづける斉冶の唇に吸い込まれていく。

 彼女たちも傍でじっと見つめていれば、手と唇の間に揺らめく陽炎を確認することができたであろう。 誘われたとして、誰も近くで見たいとは思わないだろうが。


 体内に留まっていた澱みが消えていくのを感じて綾音はふうっと息を吐いた。

 それを見て斉冶が口元をわずかに持ち上げる。

 学内では問題児として通っている彼だが、綾音の前では騎士だ、いや用心棒だ心酔者だと言われていることを綾音は知っている。

 どこがそう見えるというのか。

 こんなものが敬愛の目であるはずがない。これは捕食者の目だ。か弱い獲物を前にした虎や狼と同じ、目の前の獲物を喰らい尽くす目――。

 この男が綾音にこびへつらったことなど一度もない。

 斉冶の鋭い視線はいつも綾音の隙を伺っている。隙を見せれば、斉冶は簡単に綾音をねじ伏せにくることだろう。

 絡み合う視線は常に攻防だ。綾音にとってはほとんど防御状態でしかないが――。


 この男を前にするとどこまでも脆弱な自分を思い知らされる。弱く、拙く、脆く――綾音がこのくちづけなしでは生きられないことを知っているから、いつだって斉冶はこちらにこびへつらってくることはない。


 喰らうだけ喰らって斉冶が唇を離して去っていく。

 言葉なく去っていく背中を見送って、綾音は窓の外を見た。

 春の穏やかな日差しが校庭に光を落としている。体育の授業に向かっているのだろう運動着に着替えた生徒たちが歩いていく。

 先ほど斉冶が唇を寄せていた箇所に触れる。

 斉冶のくちづけは数秒どころか十秒は優に超えていただろう。その分彼の吐息を受けて、肌は湿り気を帯びていた。

 綾音はスカートのポケットから薄いハンカチを取り出して、そっと手の甲を拭き取った。

 外からは、授業開始前から張りきる体育教師がのろのろと歩く生徒たちをせかす声が聞こえてきていた。


 ※ ※ ※


 あれはふた月は前のことだろうか。

 高校一年の終わり間際のことだった。

 綾音は家までの道をゆっくりと歩いていた。陽は西に傾き、空は紅く染まっていた。

 ふらつく頭を振ってめまいを抑える。

 体の中に溜まりに溜まった澱みが肉体を侵しているのだ。思うもそれを取り除く術を綾音は持たない。

 綾音は同時に始まる動悸の予感を鎮めようと、足を止めて空きビルのシャッターに手を置いた。

 綾音は元来体が弱い。

 それには理由があるのだが、家の者に車を出してもらうことが嫌で、頑として通学は徒歩で通していた。

 できるだけ一人でいたかった。

 帰れば憐憫の目を向けられ、過度なほどに世話を焼かれるからだ。

 それすらも理由あってのことだったが、必要以上の世話を素直に受けるには綾音の本質は頑固にできすぎていた。


 足を止めた場所は丁度シャッター街で、市の会議で数年にかけて新しい街作りをと提案はされているが遅々として再開発の進んでいない場所だった。

 陽があるうちはまだいいが、暗くなればどこからか悪い噂を持つ少年たちが集まってくる場となっている。

 閉じられたシャッターは隙間なくスプレーで落書きがされていた。

 足を止めるにはあまり良い場所とは言えないだろう。落ち着き始めた動悸に息を整えて、綾音は再び歩き出そうとした。

 そのときだった。

 派手な音がして、狭い路地から何かが飛んできた。

 幾つかの黄色いビール瓶ケースと黒い影。綾音の至近距離にそれらは飛んできた。

 横殴りの風を受けたように飛んできたそれらは地面に落ちて数度回転して動きを止める。

 ここで「大丈夫!?」と声をかけるほど綾音は人間が純粋にできていない。

 逃げ場は背後のみ。だが閑散としていても空間だけは広いこの場所では、逃げたところで意味はないだろう。


「お前……鈴代のとこの」


 打ち付けた頭を押さえながらこちらを向いた影が声を出す。

 見覚えのある顔だった。

 風ヶ丘でも屈指の問題児。徒党を組んでいるわけではないが、その名が持つ影響力は強く、背後にある家が強すぎて教師もろくに口を出せないほどの悪い男――菅原斉冶。

 咄嗟に逃げ出すこともできず、警戒して肩を揺らすだけに留まる綾音に、斉冶はにいと口元を歪めた。


「いいところに来た。ちょっと顔貸せよ」


 この場合、斉冶のいう「顔」が本当に顔だったということを綾音は続く行為で知ることになる。

 斉冶は返答を待たず、一瞬の合間に距離を詰めてその長い腕を綾音の腰に回してきた。

 捕えられたと思った瞬間には逃げ場はなく、寄ってくる顔をただ受け止めるだけしかできなかった。

 生暖かい風を受け、続く肉の感触に目を見開く。

 長いくちづけだった。いや、もしくはほんの短い時間だったのかもしれない。だが綾音にはとても長い時間に感じられた。

 共に開いたままの目が合う。

――捕食者。

 その言葉が脳内をよぎった。

 斉冶の目が笑う。愛情の欠片すらない行為に綾音は背筋を震わせた。

 これはただ捕食者が餌を食べる行為だ。

 だが唇を通して流れていく気配に、どこかで懐かしさを覚えたのも確か。

 この行為の意味を綾音は正しく理解している。

 そうは言っても心は追いつかない。――これをしていいのはただ一人、あの人だけなのに……。

 思い浮かんだ顔に唇を離そうと身をよじったが、斉冶が空いた手で頭を掴んできたため逃げることは叶わなかった。

 長いくちづけのうちに体内に澱んでいた気配が一気に消えていく。感じていためまいすらスッキリと晴れていくのを綾音は感じた。


「なんだテメェ。ケンカの最中に女とイチャついてんじゃねぇぞ」


 路地から出てきた数人の青年たちが怒気をあらわにこちらに駆けてくる。

「バーカ。形成逆転だっつーの」

 斉冶は綾音の腰を抱いたまま先頭を走ってきた青年に向かって足を振り上げた。そのまま横に流して腹を蹴りあげる。

 ぐはっ、と斉冶に蹴られた青年が飛んでいく。それは普通に人が蹴り上げただけではありえないものだった。

 地面に落ちる青年の口の端からは血が滲んでいる。恐らく内臓を傷つけでもしたのだろう。

 一瞬身構えはしたが、後に続いて残る青年たちが鉄の棒を振り上げて襲ってくる。数人がかりで襲えば平気だと思っているのだろう。


――無駄よ。精を得た獣に人は勝てない。


 振りほどかれるままに崩れ落ちる綾音は、震える身体を抱き込みながら思った。

 目の前では斉冶が目を爛々と輝かせて一人、また一人と青年たちを地面に沈めていっている。

 戦況は完全に斉冶に軍配があがっていた。

 青年たちはただその嵐に翻弄されるままに一方的になった暴力をその身に受けていた。

 暴れる獣を抑えることもできず、綾音はぼんやりとその血と暴力にまみれた光景を目に入れていた。




 どれだけの時間が過ぎただろう。

「――おい。おい、鈴代」

 誰かが自分の姓を呼んでいる。それをただの音として流す耳にその声は届いた。

「綾音っ!」

 はっとして顔をあげる。

 日はいつの間に暮れていたのだろうか。

 薄闇の中にこちらを覗きこむ顔に綾音は泣きそうになった。


――違うのに。声も呼び方も全然違うのに……。


 求めてしまう姿に、胸がさっきとは別の意味で軋みをあげる。

 胸元を抑える綾音の肩を斉冶が掴んで持ち上げた。

 重さなど感じてもいないようなしぐさで持ち上げられた体はふらりと傾ぐ。斉冶は綾音の腰を抱いて顔を寄せてきた。


「だいぶ溜まってるみたいだな。なんならもう一発いっとくか?」


 綾音はその言葉に目を見開いた。

 言葉の卑猥さにではない。綾音の持ちえない――失ったとさえ思っていた――(すべ)を提示されたことに対して驚愕を受けたためだ。

「……ちっ」

 綾音の顔を見て斉冶が舌打ちをして笑みを消す。

 斉冶は土などが付着して汚れたシャツの袖を綾音の頬に強引にこすり付けてきた。

 痛みを感じた次の瞬間には離れていく袖には、透明な液体で濡らされたような跡が付いていた。


「これだから女は嫌なんだ」


 綾音の耳には、斉冶の言う「女は」という言葉が「つがいを失くした女は」というように聞こえていた。


 ※ ※ ※


“つがい”


 二つのものが組み合わさって一組みになること。また、そのもの。対。動物の雄と雌の一組み。また、夫婦。


 国内における政界、財界、医療業界、様々な分野において先陣を切る者たちの中で密やかにそれは存在している。

 良きつがいを得られた者は力を得、富を得、長きに渡る繁栄を得られるとされている。

 つがいを得る能力を持ちうる家は現に古くから続いているものが多い。

 それらの血脈を辿っていくと太古の鬼やら吸血民族やらという伝承が出てくるが、真実は確かではない。

 ただ、事実つがいという因習は濃く残っており、それらを施行する家々は固くその因習を守ってきた。


 つがいを選ぶのは常に男だった。

 つがいに選ばれるのは常人より精を強く持つ女。強すぎる精ゆえに体に支障をきたすほどの者が選ばれる。

 つがいに選ばれるのはなるべく幼いうちが良い。でなければ精が澱みとなって蓄積し、その体を蝕んでしまうからだ。

 選別されなかった者は成人を待たずしてその強すぎる精ゆえに死んでしまう。


 選別されたつがいの女が受けるのは男のくちづけ。


 その行為によって女は身に溜まる精を男に受け渡すのだ。

 精を受けた男が得るのは、斉冶が先ほど発揮したような尋常でない力もあるが、それ以外にも目に見えない力がある。

 むしろ必要とされるのは腕力ではなくその目に見えない力のほうであった。

 覇気とも呼べるだろうか。精を得る者は他を総べる身の内の光を得ることができるのだ。

 他者を屈し平伏させ、同時に魅了する。

 願ってそれを手に入れることができる家系はその能力のために静かにその存在を国に根付かせてきた。


 精を明け渡さなければ死んでしまう弱い女に対して、つがいの伴侶となる男は精のために死んでしまうということはなかった。

 恋をするのも愛を注ぐのも相手に制限はない。

 ただし、つがいたる者が相手でなければ子は成せなかった。

 これはどれだけ現代医学が発達した昨今であっても例外はなかった。先進の不妊治療を施したとしても生まれるものの数はゼロ。

 不思議とつがい相手であればすんなりと子が生まれるため、血を存続させるために家々は子ができると早いうちからつがい探しを行うのが常だった。


 こう言ってしまえばつがいとなる女のほうがいくらでも不利と言えよう。

 つがいの女は男がいなければ数年のうちに死んでしまうのだ。

 いっそ不条理ともいえる世界は、因習の中で刻まれた「家々の男はつがいの女をけして裏切ってはならない」という約束事で守られてきた。

 裏切ってはならない。それは惜しみない愛を与えるということ。

 それは、かつてつがいをただの道具として扱ってきた者がことごとく家の衰退を招いたために生まれた約束事だった。

 それは呪いというような曖昧なものではなく、つがいの女が心を病んで男のくちづけを拒んだり自死したりする事例が頻発したためという、直接的な理由のためだった。

 つがいの女は情に厚い者が多い。愛を得られなかった女がことごとく死を選ぶというただそれだけの理由だった。


 綾音も幼い頃につがいとして選ばれた口だ。

 産まれた頃より体が弱く、医者に通っても異常が発見できず衰弱を続ける我が子を両親は早々に見限った。

 父親は愛人を作って家を出たと聞く。

 母親は仕事ばかりで家に帰れば酒をあおり、綾音を放りっぱなしにしていた。

 深酒が祟って倒れた母の葬儀に現れた遠縁の家に綾音は養女として引き取られた。


 綾音が引き取られた鈴代の家は、古くから骨董を海外へ輸出する商いをしてきた豪商だ。

 扱う品は和食器から日本家具、絵画と多岐に渡る。

 そんな鈴代の家の次男、鈴代孝仁のつがいとして綾音はやって来たのだ。


 孝仁は、寡黙な性質で視線で人を動かすような父親や先代社長現会長の祖父とは違い、温厚で優しい人柄であった。

 大きな家に来たばかりで戸惑う綾音の手を笑みと共に引いたのはいつも孝仁だった。

 綾音より年上の孝仁は、いつも彼女の前を歩き、様々なことを教えてくれた。

 勉強もそうだが、人に優しくすること、人を大切に思うこと、両親が教えてくれなかった多くのことを綾音は孝仁から教わった。

 綾音には孝仁がすべてだった。

 いずれ孝仁と籍を入れて子を成すのだと綾音は自然に思っていた。孝仁も同じように思っているのだと、それが当たり前のことなのだと思っていた。


 それが当たり前のことではないと知ったのは、綾音が高校一年生のとき、夏の終わりのことだった。孝仁は大学の二回生だった。

 孝仁が綾音ではない別のつがいを見つけて家を出て行ってしまったのだ。

 俗に言う駆け落ち。

 鈴代の家は怒り、孝仁の捜索を行った。

 だがどういう伝を辿ったのかは知らないが、孝仁の行方は今に至るも分からずじまいのまま。

 特に怒りを露わにしたのは鈴代の会長で、彼は「孝仁はもう死んだ」と一言告げて家の名簿から孝仁の名を消してしまった。


 残されたのは何の後ろ盾もない綾音一人。

 だが会長も孝仁の父親も綾音のことを気遣って家に置いてくれている。

 孝仁が本来のつがいに注げなかった愛情を注ぐように心を向けてくれる。綾音に不備のないように使用人たちに言いつけてまでくれるほどだ。


 孝仁が選んだ新しいつがいは、綾音と同じ高校に通う十六の娘だった。

 伴侶を持たないつがいは、生まれて十六にもなろうという頃にはその弱さゆえ病院に缶詰状態になるはずだ。普通ならば。

 それが高校に普通に通えていたというのは、つまり――決まった相手がいたのだ。

 その相手こそが菅原斉冶。

 教師も恐れさせる問題ばかりの男。

 孝仁が選んだのはよりにもよって政界の大物、かつて首相まで出した家柄、親戚すじにも多くの官僚のある菅原の三番目の息子、斉冶のつがいだった。


 ※ ※ ※


 表の分厚い木戸を抜けて、玄関まで続く長い敷石を踏みつつ歩く。

 丁度出かける前だったのだろう。社長付きの筆頭秘書・冴嶋(かなで)が扉を開けて外に出てきた。


「奏さん……」

「おや、おかえりなさい。綾音お嬢様」


 銀フレームの眼鏡の奥からこちらを向く視線に「ただいま帰りました」と返事をする。

 一応笑ってはいるのだろう。口元を笑みの形には作っているが、真実笑いかけられている気になれない。

 奏はいつも観察するように人を見る。

 普段ならあまり気にしないが、今日はあまり見てほしくない。

 嫌な相手に会ってしまったからだ。孝仁が選んだつがいの伴侶となるはずだった男に――それにあんなことまで。


 さっきはあまりのことに思い切り斉冶の頬を平手打ちして逃げてしまった。

 走って逃げることができたのは、きっと溜まりきった澱みを斉冶が吸い出したからだ。

 結果として酷い暴力を目の前で見せ付けられてしまったのだから、それでおあいこと思ってほしい。


 奏が綾音の髪に手を伸ばしてさっと指をすべらせる。

「どうしました。今日はいつになく顔色がいいですね」

 奏もつがいを得る能力のある家の人間だ。冴嶋は長年鈴代に仕えてきた家系。つがいを若い頃に事故で亡くしたという過去があるが、それ以降つがいを得るための動きはしていないという。

 他に兄弟もいるから家業は彼らの子供に受け継がせると言っているようだが、綾音には奏の真意は図れない。


「何かありましたか?」


 綾音は動揺を悟られないように肩が動きそうになるのを抑えるしかできなかった。

 一応手鏡で泣いた跡がないことを確認はしていたが、斉冶に強く頬を擦られたため綾音でも気付かないくらい薄っすらと赤い跡が残っていたのかもしれない。

 奏は綾音のささいな変化まで敏感に察知する。

 体調の良し悪しも、機嫌の良し悪しもいつも孝仁以上に察知してきたのは奏だ。

 孝仁を失ってからは奏が綾音の澱みを吸い取ってくれている。

 ただ綾音が唇へのくちづけだけは頑なに拒んだので、手へのくちづけでそれの代わりとしている。けれど手へのそれは唇へのくちづけの代わりとしては到底及ばない。

 かろうじて高校に通う体力を残すばかりで、綾音が倒れることもままあることだった。


 顔色がいい……か。

 思って、綾音は自嘲ぎみに笑った。

 望む相手とは違ったはずなのに、唇へのくちづけひとつで体調の不備を改善するこの体を綾音は憎らしく思った。




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